近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
岡山県の精神医療史調査(川口保養院など)

岡山県の精神医療史で気になるところがあった。
川口保養院である。

この施設は、昭和の初めに行われた内務省(および厚生省)の「精神病者収容施設調」に何度か登場している。
住所は岡山市花畑六二。

他方、富井通雄「日本精神医学風土記 第4部 第4回 岡山県」(『臨床精神医学』(21(5): 939-949, 1992)によれば、

「1885年ごろに川口組によって岡山の花畑に創設された川口精神病者監置場が県下での最初の精神病者収容施設となっている。しかし、それは保養所でもなく、医療とも無縁の単なる監禁施設であった。にもかかわらず、それが昭和初期まで県下唯一の収容施設として存続し、機能を果たしていたようである。」

と。

なかなか面白そうな施設である。
フットワークも軽く、2006年2月、はじめて岡山を訪れた。
まずは、岡山県立図書館で下調べ。

川口保養院は、岡山市花畑の川口鹿蔵(1849-1926)が明治18(1885)年頃からはじめた癩患者、棄児迷子、行路病者の収容施設にさかのぼる。
後には岡山市の被救護者の委託も受けた。
明治31(1898)年からは、県と市の勧奨により精神病者監置場を設けて、精神病者を監置していた。
鹿蔵の三男・川口魁(1885-?)が、明治41(1908)年[注]川口保養院の院主となる。

[注] 『岡山県人物誌』(1927年)によれば、明治18年生まれの川口魁は「明治三十一年二十五歳にして川口保養院主となり」とある。25歳のほうが正しいとすれば、院主となったのが明治31年というのは誤りで、ただしくは明治41年ではないか

川口魁は後に岡山市会議員、岡山県会議員をつとめた。
大正11(1922)年に市立の岡山救護所が設けられ、行路病者や被救護者はそちらに送り、もっぱら精神病者の監置のみを行うことになった。
昭和3(1928)年の『岡山市社会事業要覧』では、経営者が川口巌となっている。
なお、「花畑」という地名は、1967年の住居表示事業で、網浜の一部を加えて御幸町に変更された。

というくらいのことが、文献的にはわかった。

下の1940年の岡山市街地図によれば、かつての鐘紡岡山工場のやや北側の、御幸堤に沿ったあたりに、川口保養院があったらしい。





昭和初期の鐘紡岡山工場
(出典:蓬郷巌編 『15 ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 岡山』 国書刊行会、1978年)


川口魁。創立者・川口鹿蔵の三男、保養院の後を継いだという。
(梶谷福一編 『岡山県人物誌』 新聲時報社出版部、1927年)


図書館での調査の翌日、いまはどうなっているのかと、保養院があったと思われる場所をうろつく。
たぶん昔のことを知っているに違いないお宅を探り当て、インターホンを押した。
だが、文字通り私は単なる「突然の不審な訪問者」であり、門前払いだった。
これで川口保養院は迷宮入りか・・・そう思って名古屋に帰るほかなかった。

それから6年以上が経過し、ふたたび岡山を訪ねることになった。
その経緯は・・・

今年(2012年)になって、岡山の阪井さんを知ることになった。
彼女は不動産屋さんだが、「NPO法人おかやま入居支援センター」の理事でもある。
不動産屋さんの立場から、精神障害者の住宅問題に関心を持ったという。
近々ベルギーのブリュッセルで開かれるある会合に出席するのだが、ゲールまで足をのばして精神障害者の里親看護の実際を知りたいと。
それで、ネット上などでゲール情報をいろいろと垂れ流している私とつながったのである。
私が阪井さんにゲールの友人の連絡先をお知らせしたところ、実際に阪井さんはゲールでその人に会ってきた。

その後、私は川口保養院のことを思い出し、阪井さんにいろいろ無理を言い、あれこれ調べてもらった。
その過程で、1945年の空襲で川口保養院が焼失、廃院となったこともわかった。
最近になって、保養院のことをある程度記憶している人とアポがとれたということで、今回(2012年12月)の岡山行きとなった。

阪井さんのはからいで、かつて川口保養院の近くに住んでいる2人の古老に話を聞くことができた。
81歳の男性の記憶では、病院(と呼べるようなものではなく、小さなもの)の建物は3つあった。
建物には格子はなかった。
寒いのに薄着の患者を見たという。
そのご老人は、昭和50年代のゼンリンの住宅地図を持ってこられた。
現在の位置関係と比べると、下の写真の保育園とその周辺あたりの敷地に保養院があったようだ。
しかし、昭和20年6月29日の岡山空襲で保養院は焼失し、そのまま廃院となったという。


かつて川口保養院があったと思われるあたり

もう一人のインフォーマント、84歳の女性の記憶は小学生のころにさかのぼる。
とにかく、保養院はこわい存在だった。
神経、頭のおかしい人がいると聞いていた。
こわくて中を見たことはない。
ここから聞こえてくる(患者の)大声を聞いては、逃げた。
建物は平屋で、何人くらいの男女がいたか、わからない。


手前が御幸堤。この土手のすぐ向こうに、かつて川口保養院があったと思われる。

古老から聞けた話はこれくらいであり、これといって物的なものは何も出てこなかった。
だが、当時の保養院が周囲からどのように思われていたかを、ある程度知ることができた。
現場でその場の雰囲気を体感しておけば、いつか歴史を記述する時に必ず役にたつ、と信じている。

さて、岡山と言えば、外せないものがある。
きび団子ではない。
「こらーる岡山」である。

以前、このブログでも紹介した想田和弘監督の映画『精神』の撮影の舞台となった精神科クリニックである。
阪井さんに案内してもらった。
JR岡山駅のすぐ近くなのに、タイムスリップしたようなレトロな雰囲気がある。
休日でひっそりとしていた。


閑静なたたずまいの「こらーる岡山」。

| プチ調査 | 13:16 | comments(0) | - | pookmark |
続・愛媛県におけるプチ・フィールドワーク(神道修成派教務支局の旧跡)
少し前に紹介した「愛媛県におけるプチ・フィールドワーク(神道修成派教務支局の旧跡)」の続編である。
そこにも書いたが、呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)に、「医療上の目的にあらざる精神病者収容所」のひとつとして「神道修成派教務支局(愛媛県新居郡船木村字関ノ峠・・・」なるものが掲載されている。
神道修成派の信者・鴻上宗之助なる人物が責任者である。
だが、ごく短時間の現地調査(新居浜市船木地区)では、有力な情報はなかった。

しかし、何としても知りたい。
そこで、東京・杉並にある神道修成派教庁に、「鴻上宗之助」を知る手掛かりを求めて手紙を出した。
やがて、四代目管長の新田邦夫さんから手紙と資料が送られてきた。
その資料は明治・大正期の愛媛県の信者名簿(の一部)と思われ、何人かの船木村在住の信者がいたことがわかる。
そこには、確かに鴻上宗之助の名前があり、「大正二年十一月死亡届」とある。
ということは、上記の呉秀三の論文が出された翌年に死亡した(安政元年生まれということなので、享年57歳くらいか)ことになる。
また、宗之助は欄外に「権少講義」と書かれたページに出ている。
「権少講義」とは、明治初年に制度化された宗教官吏の教導職の階級名に由来するものだろう。
階級の高い順から、大教正、権大教正、中教正、・・・・などと続き、下から3番目が権少講義である。
つまり、宗之助は宗教家としては、あまり高い地位にはなかったようだ。

ところで、上記の新田さんからの資料によれば、船木村在住の信者のなかで、宗之助とは別の鴻上何某という人物について「北海道へ移住」と記載されている。
これで思い出したのだが、北海道大学北方関係資料総合目録というウェッブサイトに、「札幌近郊農村の「神道修成派」教務支局 / A.ブリガム」(明治20年代)という写真資料がアップされている。
確認はできないが、北海道で神道修成派を開拓したのが船木村出身者だったのかもしれない。



(『神道修成派の教え』と『修成の友』第65巻第1号・通巻595号)

最後になってしまったが、新田さんからは現在の神道修成派の資料もいただいた。
『神道修成派の教え』というパンフレットは、神道修成派の教義や歴史をコンパクトに紹介したものである。
また、「修理固成光華明彩の雑誌」と銘打たれた『修成の友』は、通巻595号とかなり歴史のある機関誌のようである。
| プチ調査 | 11:19 | comments(0) | - | pookmark |
愛媛県におけるプチ・フィールドワーク(神道修成派教務支局の旧跡)

精神医療史の研究者にとって、呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)はいわばバイブルである。
これまでにも、この論文の記述を手がかりに各地を巡ってきた。
というか、巡らせる気持ちを掻き立てる、「罪な」論文なのである。

せっかく愛媛県立図書館に行くのだから、愛媛県ゆかりの「治療の場所」も訪れたい。
上記の呉論文に「神道修成派教務支局(愛媛県新居郡船木村字関ノ峠・・・」なるものが登場する。
それによると、安政元年生まれの鴻上宗之助なる人物が、関ノ峠に精神病者の収容施設を作っていた。
それというのも、宗之助自身が1880(明治13)年に精神病を患ったが、神道修成派に入り信仰によって治癒した経験から、自宅に患者を集めて病気治療を行うことになったという。
それ以来、200人余りの患者を治療した。
だが、施設は狭隘であり、県道に面して通行人も多く、1910(明治43)年に宗之助が患者に頭部を殴打され3週間の休業を余儀なくされることがあったりして、愛媛県から新たに患者を収容することを禁じられた、と。

論文の記述はこれくらいである。
私が調べた限りでは、呉論文以外で「神道修成派」が精神医療史の世界で扱われたことはない。
そもそも神道修成派とは、新田邦光(にった・くにてる)を教祖とし、明治政府が公認したいわゆる教派神道13派の一つである(ウェッブ上のにわか勉強)。
ただ、病気治療への積極的な関わりはないようだ。
教義云々よりも、むしろ鴻上宗之助の個人的な関心が精神病治療につながった可能性が高い。
やはり現地に行ってみよう、と思った。


(JR予讃線・関川駅)

朝8時20分、松山発の各駅停車・観音寺行きに乗る。
2時間半かかって関川駅到着。
当然無人駅とは予想していたが、周囲に商店の類いは一切ない。
予定ではタクシーでも使おうと思ったが、面倒だ、雨も強くなってきたが、荷物を抱えて歩くことにした(いつもこうなる)。

まずは、四国中央市と新居浜市の境界にある関ノ峠に通じる国道11号線をめざす。
適当に歩いて国道に出ると、新居浜方面に向かってひたすら歩く。
大型トラックが頻繁に往来し、そのたびに水しぶきがかかる。



(関ノ峠。右が国道11号線、左が旧道。)

45分くらい歩いて、関ノ峠に到達。
ここらへんには鴻上さんというお宅が多い。
そのうち最も古そうな家を訪ねたが、「峠の気違い病院」は初めて聞いた、「鴻上宗之助」は知らない、というお話だった。
神道修成派も話題にならなかった。
ただ、地元の公民館が発刊した『船木物語』(2003年)という本をいただいた。
そこには、関ノ峠の記述もある。
かつて峠には茶屋や宿屋があって栄えたらしい。
金比羅参りや霊場めぐりの巡礼者など、さまざまな人々が行き交う場所に精神病者収容所があったことになる。
このような土地のホスピタリティが、精神病者収容につながったのかも知れない。
けれども、呉論文にあるように「通行人が多い」という理由で、県から精神病者収容にクレームがついたのは皮肉な話ではある。


(関ノ峠近くの旧道にある「四国のみち」の碑)

そんなわけで学術上の決定的な収穫はないのだが、四国の道を歩けてよかったと言うべきだろう。
なにかご利益があるのだろうか。
お遍路とは程遠いものの。

| プチ調査 | 09:06 | comments(0) | - | pookmark |
続・新潟県における突撃的調査

「鵜の森」に関する記述は多い。
「鵜の森」とは地区の名前だが、“業界(とはいっても、とても狭いが)”の人間にとっては、かつて存在した精神病院の別称でもある。
地元では「ばか病院」と呼ばれていたという。
このプログでも小林靖彦資料のところ(→新潟)で紹介している。

呉秀三の『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)では、「永井医院又永井精神病療院」として紹介されている。
「我邦現存精神病院中最モ旧ク」とあり、明治27(1894)年に「設立許可」となったという。
さらに、現在の院主兼院長は第6代の永井慈現だという。

ただ、精神病院以前の「病院」の設立年代は、文献ごとに異なっている。
少なくとも、江戸時代の後半というところまでは一致しているのだが。
また、代々「永井慈現」を襲名しているためか、これにともなう混乱があるようだ。
つまり、何代目の慈現と書かれていても、「代目」の数え方が文献ごとに異なっているので、どの慈現を指しているのか、よくわからない。
そして、病院が廃院になった年も、はっきりしない。
少なくとも、1918年説、1922年説、1923年説がある。




(永井山順行寺の入り口)

まずは、永井慈現と縁が深い順行寺(じゅんぎょうじ)を見学した。
慈現家は順行寺から分家した家系である。

後に紹介する郷土史家・丸山朝雄氏の詳細な調査によれば、

「順行寺の開基は慶長六年とされているが四代目に浄土真宗に改宗した宗祐を以って元祖とし、二世宗玄と三世宗智は兄弟で、兄宗玄の子が四世閑応、五世閑祐で、それぞれ兄弟で継いだ(注:つまり三世宗智は、この段階で分家した)。三世宗智の嫡男が慈現(注:つまり、「慈現」を名乗った最初)」(丸山朝雄「精神病施療の先駆者 永井慈現について」『加茂郷土誌』32号、2010年より)

である。

ここらへんに、何代目か、で混乱する要因があるようだ。
つまり、慶長時代の開基から数えるか、分家した三世宗智を初代とするのか、「慈現」を名乗った三世宗智の息子を初代とするのか、によって代目の数字が異なってくる。

たとえば、明治27(1894)年に「永井精神病療院」の看板を掲げた時の慈現は、小林靖彦の手書きの資料では12代目(開基から数えたと思われる)、小俣和一郎『精神病院の起源』(1998年)では9代目(どう数えても数字が合わない)、丸山朝雄氏は7代目(「慈現」を名乗った初代から数えて)としている。

さて、小林靖彦の『日本精神医学小史』(1963年)には、「永井山順行寺の境内に、鵜森狂疾院を開設」とある。
しかし、上記のように慈現は順行寺の永井家の分家であり、慈現の敷地は寺の前にあり、その敷地に精神病院が建っていた。
「境内に」というのは誤りである。
この病院の建物は今でも残っているようで、それを見学に行くのが今回の主要な目的である。




(旧・精神病院の建物、ただし増築されている。)

かつての精神病院の病棟を改築し、そこに住んでいる渡辺さんのお宅を訪ねた。
突然の訪問だったが、快く迎えられる。
座敷にあがると、そこがかつての病棟の空間だという。
現在は縁側などが増築されて、全体的に建物が膨らんだ格好になっているが、2階部分をふくめて中核部分はかつての病棟である。
ただし、いまは病棟の面影はない。
少し前に、加茂市役所の人が来て、間取りを調査して行ったという。





(かつて病院が建っていた敷地。現在は梨畑になっている。)


旧病棟は、現在は梨畑になっている場所に建っていた。
が、病院が閉鎖された(閉鎖は、丸山氏の論文などから、大正11年[1922]年頃らしい)あと、昭和の初め頃に「引っ張ってきた」のだという。
さらに、病院にあったお蔵は隣家の知野さん宅に移築され、茶室も別の家に移されたという。




(かつての永井慈現家のお蔵。いまは梨畑になっている場所から移築されたものである。)


いろいろ話しているうちに、永井慈現のことを詳しく調べている人の存在が浮かび上がってきた。
それが、近隣に住む上記の丸山さんである。
渡辺さんの案内で、丸山さんを訪ねることにした。




(迷いつつ丸山さん宅へ向かう。)

さて、丸山さんから伺ったお話は、これまでの記述にかなり反映されているので詳細は省きたい。
永井慈現に関する論文の別刷もいただいて、大いに参考になった。
今後の「鵜の森」研究は、この業績抜きにはありえないだろう。

翌日、新潟から名古屋に帰ったわけだが、岐阜県内の高速道路を通行中、車の前輪がパンクした。
路肩の非常電話で連絡して、JAFに来てもらった。
タイヤの側面が少し切れていた。
これって、いたずら?
そういえば、お寺をめぐりしたものの、お参りもしていないことに気がついた。
罰でもあたったのか・・・

| プチ調査 | 12:22 | comments(0) | - | pookmark |
新潟県における突撃的調査

新潟県の精神医療史といえば、慈光寺「鵜の森」だろう。

慈光寺については、呉秀三の『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)にわずかな記述があるが、そのあとに続く文献がない(はず)。

一方、「鵜の森の狂疾院」は、「わが国最初の精神病院」といった言い回しで、精神医学史関係の文献にわりと頻繁に登場している。
ただし、それらの文献をつきあわせてみると、記述の「ゆれ」がある。
どれが事実なのか、いまひとつ判然としない。

こうなると、現地に行くほかない。
9月の連休中、学生3人を引き連れて、名古屋から車で新潟に行くことにした。
現地での移動を考えると、車以外考えられない。

上越新幹線の燕三条駅近くのビジネスホテルに宿泊。
ここから、まずは慈光寺に行くことにした。
上記の呉秀三論文には、慈光寺の所在地は「新潟県中蒲原郡十全村大字蛭野字瀧谷」とある。
現在の五泉市蛭野である。
カーナビなどないので、車を止めては人に道を訪ねること数回。

山をひとつ越えると五泉市だった。
あとは看板にしたがうのみ。
駐車場に車を止めて、杉並木をしばらく歩くと、慈光寺の建物に到達。




(駐車場から杉並木を歩いて慈光寺へ向かう。)


曹洞宗の修行道場だった慈光寺は、いわゆる七堂伽藍の様式で建てられている。
回廊で結ばれた建物を一周してから、寺の人に話を聞くことにした。
とはいっても、アポもとってないし、そもそも寺の人が見あたらない。
いるのは犬一匹。




(慈光寺の犬と戯る。)


庫裡の奥のほうに向かって、「ごめんください」と言うと、返事があった。
やがて、寺の人が出てきて座敷に案内され、住職からお話を。

呉秀三の記述によれば、寺内の「書寮」に精神病者が収容されていたという。
そして当時の「管理者」は鈴木大圓。
住職から聞いてわかったことは、「書寮」は誤りで、「衆寮(しゅりょう)」が正しい。
ここは、学問の場であるが、修行僧が泊まるところでもあったようだ。
また、精神病者の収容は、おそらく鈴木大圓の時代(明治の終わりから大正のはじめにかけて)に限って行われていただろうということ。



(住職に衆寮を案内していただいた。)



(第47世・鈴木大圓)

また、禅寺で加持祈祷が行われることはないはずなので、どんな「治療」的なアプローチがあった(と推察される)のかを住職に尋ねた。
すると、密教的な要素を取り入れた「治療」もあったかもしれない、といったお話だった。
また、禅宗の思想の根本には、気持ちを鎮めるといったこともあるので、それと精神病治療とは決して相容れないものではない、ということである。

これだけで、慈光寺における精神病治療の全貌がわかったわけでは決してないが、いくつかのキーワードを頭に刻むことができた。
これで研究が少し前に進められる、そんな気になって寺を後にした。

「鵜の森」の話は、また次回に。

| プチ調査 | 09:10 | comments(0) | - | pookmark |
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