近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
戦後日本とアルコール依存症(3) 紅露みつ、酔っぱらい規制法、久里浜病院

まずは引用から。

 

「今後わが国がいわゆる酔っぱらい天国なる汚名を返上して真の文明国として国際社会に伍していこうとするためには、現行法の規定ではすでに種々の点で不十分であると思われますし、とりわけ、わが国において開催予定の次回オリンピック大会を目前に控えているといった事情などを考慮しますと、その点を特に痛感するものであります。」

 

ここでいう「次回オリンピック」とは、1964年の東京オリンピックである。

オリンピックの開催が、社会の大小さまざまなしくみを変えることへのある種のエクスキューズとされるのは、2020年の東京大会でも同じかもしれない。

それはともかく、上記の引用は「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」の提案理由として説明されたものの一部である。

 

この法律の制定に尽力したのが、日本初の女性国会議員の紅露みつ(1893-1980)だった。

上記の「今後わが国がいわゆる酔っぱらい天国なる汚名を返上して・・・」は当時参議院議員だった彼女が、1961年4月18日の参議院地方行政委員会で発言したものだ。

さらに紅露は同委員会で、「年末年始や花見どきはいうに及ばず、盛り場、街頭、汽車、電車などの公共の場所や乗物において目にあまるめいてい者を日本ほど多く見かける国はない」と指摘する一方、女性議員らしいと言ったら語弊があるだろうが「酒乱に基づく家庭悲劇も一向に跡を絶たないのが実情であ」るとも述べている。

 

「家庭悲劇」に関して、衆参両院の女性議員に「酩酊者の行為を規制するための立法についての検討の決意を促したものは(・・・)東京都足立区に起こった、未成年の姉妹による酒乱の父親殺し事件」だったという(外勤警察研究会、1961年)。

1958年に起きたこの事件を、当時の新聞記事(朝日新聞、1958年6月16日)は「酒と貧しさ・父の日の悲劇 姉妹二人で絞殺す “父さえおらねば幸せ”と」という見出しで、次のように報じている(なお、テキストの一部は伏字等にしている)。

 

十五日の午後、酒のみで働く気のない父親を娘二人が絞め殺すという事件が東京足立区であった。「酒と貧しさが生んだ悲劇だ」と取調べた警官はいっている。父に感謝しようという十五日の“父の日”―その日に起った悲しい父親殺しだった。

 

同日午後二時半ごろ〇〇署に「父ちゃんを殺しました」と弟の手を引いた姉妹が泣きながら入ってきた。足立区〇〇バタ屋Aさん(四四)の長女、女店員(一六)次女(一三)で、事情をきいた署員がAさん宅にかけつけると、Aさんは首にヘコ帯をまきつけたまま死んでいた。姉妹の話では、Aさんは大酒飲みで一日家にゴロゴロしており、酒をきらすことがなかった。飲むと妻のBさん(四五)を殴りつけた。“エントツ長屋”といわれる間口一間、奥行二間のバラックに父を置いたまま、母娘三人が働きに出ていた。このほか男の子三人がいるが、ほとんど家によりつかなかったという。母親は日雇い人夫になって毎日三百七十円をかせぎ、長女は〇〇のソウザイ屋に住み込んで、給料三千五百円をそっくり家に差出していた。中学二年の次女まで女中になって働いた。この付近に多い長欠児童の一人で“モグリ就職”が見つかるたびに勤め先を変えていた。こうしたなけなしの生活費まで父親は飲んでしまったという。

 

と、記事はまだ続くのだが、ある朝妻のBさんは「父ちゃんには愛想がつきた」と、「労務手帳に三百円をはさんで家に置いたまま」夜になってももどらない。

Aさんは「この金までショウチュウ代にかえてしまった」だけでなく、長女をつかまえて「お前たちもグルになって母ちゃんを隠しているんだろう」とどなりつけ、酒を飲んで寝てしまう。

翌朝、Aさんと娘たちはBさんを探しに山谷(さんや)に行くのだが、Aさんは酔って「歩けない」と言い出す。

子供たちがAさんをかつぐようにして家にもどるのだが、この時に次女が姉に「父ちゃんを殺そう。みんな幸せになれる」と話したという。

 

以上の事件を背景に、紅露みつをはじめとする超党派の婦人議員懇談会は、1960年5月には「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」をつくり、第35回通常国会で提案すべく準備を進めていた。

日米安保条約改定をめぐって国会が紛糾し、この年には法案の提出には至らなかったものの、翌1961年の第38回国会に発議され、同年5月19日に「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」として成立、同年6月1日に公布された。

「酩酊者規制法」あるいは「酔っぱらい規制法」などと略称される現行法である。

 

条文のなかで、以下の第6条の警察官が酩酊者の住居に立ち入ることを可能にする、立入権の規定については議論があった(下線部を参照)。

 

第六条 警察官は、酩酊者がその者の住居内で同居の親族等に暴行をしようとする等当該親族等の生命、身体又は財産に危害を加えようとしている場合において、諸般の状況から判断して必要があると認めるときは、警察官職務執行法(昭和二十三年法律第百三十六号)第六条第一項の規定に基づき、当該住居内に立ち入ることができる

 

ここで示されている警察官の立入権は、警察官職務執行法第6条の規定によるとされている。

もちろん警察官職務執行法は立ち入り全般を規定したもので、酩酊者の家庭にターゲットを絞っているわけではない。

「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」の審議の過程では、現行法である警察官職務執行法第6条の規定によって警察官の住居内への立入りも可能であるのだから、わざわざ酩酊者の法案のなかに重ねてこのような規定を設ける必要はないのではないかといった意見もあったが、「家庭悲劇の発生を防止したい」という婦人議員懇談会の「切なる希望」があってこの規定が入ることになった(小堀旭、1961年)。

 

紅露は1961年5月18日の衆議院地方行政委員会で、酩酊者規制法の第6条について次のように述べている。

 

「六条の立ち入りにつきましては、いろいろ立案の途上に意見が出まして(・・・)立案を思いつきました動機が、家庭の婦人や子供を、悪い癖のある酩酊者、飲酒者から守ろうという意図で出発したものでございますから、この点は特に深い関心を持って立案に当たったのでございます(・・・)」

 

と、第6条の意義を強調しているが、

 

「家庭の方までそのようにきびしくここに打ち出すということになりますと、何か必要以上に飲酒家に刺激を与えるのではないかということをおそれたわけでございまして(・・・)」

 

というそれに続く発言は、「飲酒家」への「配慮」なのだろうか。

 

ところで、1961年6月に公布された「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」には、附帯決議が付されている。

まず参議院からは、「酩酊者の保護施設及びアルコール慢性中毒者の治療、収容施設に対する諸措置は不十分と認められるので、政府はできうる限り速やかにこれが予算措置を講じ、本法の実効を期すること。」(第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第19号、1961年4月27日)という付帯決議が、そして衆議院からは、ほぼ同じ内容の「酩酊者の保護、収容、治療等の施設を拡充、完備するため、できうる限りすみやかに予算措置を講ずること。」という附帯決議が出された(第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第32号、1961年5月19日)。[細かいことだが、参議院のほうは「地方行政委員会会議録」、衆議院のほうは「地方行政委員会議録」となっていて、「会」をめぐる表記が異なっている。単なる誤植ではないようで、これは衆参で異なる慣習なのか?]

 

(国立療養所久里浜病院の全景 [撮影年代不詳] 出典: 国立療養所史研究会編『国立療養所史(精神編)』財団法人厚生問題研究会、1976年)

 

上記の附帯決議にもとづいて、1963年にわが国最初のアルコール専門病棟が国立療養所久里浜病院に開設された(上の写真)。[これも細かいことだが、1963年に開設されたことは確実と思われるものの、開設月の記述が文献でバラバラである。「1963年8月」(田中孝雄、1977年)、「1963年10月15日」(『社会保険旬報』、1963年)、「1963年11月」(国立療養所史研究会、1976年)など。また開設時のベッド数の記述もまちまちで、設立時の正確なところが不明のままである。そんなに大昔の話ではないと思われるが、歴史は軽視されているということか。]

この病院は、現在は独立行政法人国立病院機構 久里浜医療センターとなっているが、出発点は1941年に設立された横須賀海軍病院野比分院である。

戦後は国立療養所となり、結核療養所として機能していた時代があった。

しかし、結核患者の減少にともなって、病棟を転換することが求められていたようだ。

1963年4月、まだ完成していないアルコール専門病棟に、慶応義塾大学の精神科医局から河野裕明と なだいなだ のペンネームで知られる堀内秀が着任した。

 

なだ によれば、「博士論文も提出し、そろそろ人生の方向を決めねばならぬと思い始め」ていたところ、「ある日教授に呼び出され、突然久里浜病院に行け」といわれた。

絵に描いたような医学部人事の一幕であるが、教授からは「アルコールを専門にやるなら、外国留学もさせてくれるそうだ。フランスにまた行きたいだろう。だからお前、久里浜に行け」とも。

留学が「抱き合わせ」になった「おいしい話」に、なだ は「ちょっぴり食指が動いた」が、「あのみんなが嫌がるアルコール中毒の患者を、以後ずっと世話をしなければなら」ない「アルコール中毒の専門家になるという考えがブレーキをかけた」という。

なだ は、自分のアルコール依存に関する不勉強を理由に久里浜行きを断ろうとしていたが、教授からは「おまえで、かまわん。アルコール中毒は治らんよ。誰がやっても、同じだ。不勉強のおまえがやろうと、勉強した別の誰がやろうと、結果は同じだ。不勉強など心配せんでいい。堂々と専門医の看板を掲げろ」といわれ、「さすがの私も参った。答えようがなかった」と述べている。

“アルコール中毒 物語風”というタイトルの本に収められた文章であるので、教授とのやりとりのくだりには、多少の脚色はあるかもしれない。

いずれにせよ、アルコール依存を専門的に学ぶためにヨーロッパに留学した なだ であるが、久里浜病院で応用できそうな、「これだ」と思える治療モデルには出会えず、「すべて白紙から出発しなければならない」という思いで帰国した。

 

河野と なだ がはじめた、その「白紙から出発」したという治療スタイルは、「久里浜方式」として知られることになる。

それはどんなものなのか、男性患者専用の「東六病棟」―通称・東六(とうろく)―の『入院される皆様へ』というパンフレット(下の写真)から一部の記述を拾ってみたい(私が1980年代に久里浜でもらったものなので、当初のプログラムとは異なる部分もあるかもしれない)。

 

(国立療養所久里浜病院(アルコール科)東六病棟『入院される皆様へ』の最初のページから)

 

■東六病棟について■

・アルコール依存症の、第一期治療(内科的)と、第二期治療(リハビリテーション)を併用した男性だけの病棟です。

ヽ放病棟で自由入院という形をとっています。

⊇乎沈鎖昔屠,基盤となり、そのうえに個人精神療法あるいは生活療法、その他が行なわれています。

集団生活を行なう上で治療の効果をあげるために、全入院患者により患者自治会というものが組織されています。

て院期間は3ヶ月です(但し、西下及び他病棟からの転入に関しては、この限りではありません)。

 

などと説明され、「日課表」、「週間予定表」、さらに「月間予定表」(下の写真)が、掲げられている。

このうち、「久里浜方式」の特徴的なものとしてしばしば言及されてきた、「月間予定表」のなかの「行軍」に注目したい。

行軍について『入院される皆様へ』では、次のように説明されている。

・心身の鍛錬を目的とし、参加することに意義があります。

・苦しい事もつらい事も、皆と一緒にやれば案外できるものです。(お互い助けあいながら)

・何キロかの行程を歩きながら、何かをつかみとって下さい。

・間近に詳しい説明を行います。(参加の有無は、医師の指示に従って下さい。)

 

(国立療養所久里浜病院(アルコール科)東六病棟『入院される皆様へ』のなかに記載されている「月間予定表」。毎月第3水曜日に「全員参加」の行軍が入っている。)

 

この行軍をプログラムに入れたのは、なだ のアディアだったという。

なだ によれば、「折角ヨーロッパまで行かせてもらったというのに、その成果らしいものをぜんぜん示さないのでは、一年間何をしていたのだ、いわれかねない。ただ遊んできたわけではないことを、なんとか示さねばならな」かったので、「まずイギリスやチェコで行われていた、集団精神療法のまね事を、週一回行うことにした」のである。

さらに、「チェコのスカラ博士のまねをして、患者を歩かせることにした」のだと。

「スカラ博士」とは、チェコの精神科医でアルコール依存症治療の専門家 Jaroslav Skála (1916-2007) と思われる。

ネットで検索する限りでは、この精神科医に関する記事はチェコ語のものがほとんどのようである(Wikipedia の英語版で彼のおおまかな年譜はわかるが)。

このスカラ博士は、プラハ郊外の病院周辺の野山で「患者を、毎日十五キロから二十五キロ歩かせ」た。

「自然や空気や森の緑には、強い治癒力があると、自然愛好家スカラ先生は、信じ」ていたためらしい。

ただ、なだ 自身は「体力の点でとうていまねができそうにないから、月一回に減らさせてもらった」のであった。

行軍と呼んだのは、「まだ軍隊経験者も多い時代だった」ためであり、「行軍がどうして治療につながるのかと質問されたら、きっと答えるのに往生した」だろうが、「少々の雨の中でも行軍なら我慢して出かける」こともできるという事情もあったようだ。

なだ によれば、行軍はとても評判がよく、「患者たちは、この行軍を素直に喜び、まるで遠足に興奮した少年時代にかえったかのように、前日から弁当を準備してはしゃいだ」と回想している。

 

なだ の著書のなかで、彼が(前回のブログで紹介した)松村春繁にはじめて会うくだりも面白い。

なだ がまだ断酒会についてよく知らなかったころ、松村が断酒会を広める全国行脚の一環で久里浜病院を訪れた。

松村は なだ に入院患者の前で話をさせてくれと頼む。

「土佐なまりのこの痩せこけた小男の正体をつかみかねて」いた なだ は、「変な話をされて、病棟をかき回されても困るな」というためらいもあったが、「ともかく彼に話をさせ、どんな話をするか、聞いてみよう」ということになった。

松村はひたすら自分がひどい酒飲みで、ダメな人間であったかをさらけ出した。

すると「出席していた患者の間に、稲妻のようなものが走」り、なだ は「彼のど迫力に圧倒され、しばらく黙っていた」。

その後、松村は、ごく自然に、久里浜を定期的に訪れる客人になったという。

 

なだ は久里浜での数々のエピソードを、あえて諧謔的な言葉を選んで表現しているようにみえる。

ともすればアルコール依存症の入院患者たちの病気や回復にまつわる物語を、暗く、深刻で、悲愴で、ときにはお涙頂戴的なトーンで覆いつくしてしまいがちな社会や人々の反応に対して、静かに抵抗を試みているということか。

他方、ルポルタージュというジャンルは、われわれの気持ちを煽ることで存在感を示す、という面があるだろう。

2006年にある雑誌に掲載された「只いま入院患者36名!国立久里浜病院「東六号病棟」の”悔悟”と”希望”」という記事は、「”異常飲酒”の果てに、この病棟へ”辿りついた”患者達の、苦汁に満ちた「過去」と、明日のためにその清算を目指す彼らが、ここで送る生活の「実状」をルポ―。」というリードではじまり、「規律を重視する”軍隊式”日課」をこなす久里浜病院での3ヶ月の入院生活を追っている。

記事によれば、東六での入院生活の苦しさを紛らわせるためか、全部で9番まである「東六エレジー」なるものが歌い継がれてきたという。

たとえば、

 

お酒の為といいながら

人も嫌がる久里浜で

三月(みつき)をおくる離れ部屋

可愛いカアちゃん淋しかろう

 

夢に出てきた下の子が

父ちゃん頑張れお願いと

目覚めて聞こえる波の音

思わずほろりと一しずく

 

やっと退院の声聞いて

やるぞ見ていろこの俺も

酒とこの世はさようなら

可愛いカアちゃんの瞳が浮かぶ

 

といったものだが、アル中の夫・支える妻・親思いの子ども、という、ある時代のステレオタイプが表現されているようだ。

東六という男子病棟固有の状況を反映していることは確かではあるものの、こうした家族のありようが、黎明期の断酒会組織を維持・発展させてきた構造と深く関わっていたともいえるし、また、アルコール依存症は「家族の病」であるという言説にリアリティをあたえる土台がここらへんにあるのではないかと思わせるのだが、これらの話題は別の機会に述べることにしたい。

 

<参考文献など>

・第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第15号、1961年4月18日.

・第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第19号、1961年4月27日.

・第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第31号、1961年5月18日.

・第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第32号、1961年5月19日.

・外勤警察研究会編『酔っぱらい規制法:酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律』(日刊労働通信社, 1961).

・小堀旭「酩酊者規制法に規定された警察官の職務権限について」『警察学論集』14(7): 77-96 (1961).

・「国立久里浜病院にアル中専門病棟」『社会保険旬報』773: 20 (1963).

・国立療養所史研究会編『国立療養所史(精神編)』財団法人厚生問題研究会 (1976).

・なだいなだ『新装版 アルコール中毒 物語風』五月書房 (1996).

・諏訪勝「只いま入院患者36名!国立久里浜病院「東六号病棟」の”悔悟”と”希望”」『財界展望』臨時増刊 26(9): 194-200 (2006).

・田中孝雄「久里浜病院アルコール症病棟―その治療と限界―」『月刊福祉』60(7): 40-43 (1977).

 

(つづく)

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戦後日本とアルコール依存症(2) 松村春繁と下司孝麿

やっと「戦後日本とアルコール依存症(1)」の続編を書ける状況になった。 

わが国におけるアルコール依存症の薬物治療のパイオニア的存在であった下司孝麿は、松村春繁と出会うことで断酒会と深くかかわることになる。

この松村とはどんな人物なのだろうか。

小林哲夫の記述を参考にして、その経歴をたどってみたい。

 

松村は1905(明治38)年、高知県の寒村に4人兄弟の次男として生まれた。

もともと頭脳明晰で行動力があった松村少年は、やがて地域の青年たちのリーダーへと成長する。

「二十歳すぎから無産運動に入り」、「貧しい農民の代表として地主たちと対決するようにな」り、1928(昭和3)年には安部磯雄らが結成した社会民衆党に入党、1930(昭和5)年には同党の高知県連書記長になる。

その後、戦時体制になると労働運動は非合法化され、1939(昭和14)年、松村はやむなく朝鮮半島に渡り、釜山の海運会社で働くことになった。

「若いころから酒豪で有名」だったが、釜山では「ひまにまかせて昼酒を飲むようにな」り、「終戦時にはすでにアルコール依存症になっていた」という。

 

1947(昭和22)年、第1回参議院選挙に立候補したが、落選。

3万票の得票があり、惜敗ではあった。

1948(昭和23)年、社会党高知県連会長に就任。

だが、このころから松村の飲酒問題が顕著になってきたようである。

友人からも、党からも見捨てられた松村が頼るのは、戦前の社会民衆党入党時代からの親友である氏原一郎だけ。

高知市長だった氏原は、「かつての革新の旗手だった」松村が、「あちこちと酒代をせびってまわる惨めさ」に心を痛め、市長室の机の引き出しに100円札を毎朝1枚入れておいた。

松村は自宅があった南国市から、毎日オンボロ自転車で高知市役所に通う。

市長室の机の引き出しにある100円のためである。

当時、100円あれば焼酎で4、5杯は飲めたという。

氏原は、「おれのやる百円以上は、絶対飲むな」という約束を、松村とのあいだで交わしていた。

親友とはいえ、市長の公務に追われる氏原が松村にできることは、これくらいだったのかもしれない。

 

だが、「ついに幻覚が出るまでに」松村の病状は悪くなっていく。

そこで松村の妻は、内科医の紹介で知った下司孝麿に相談すべく、高知市へ出向いた。

下司は自宅まで往診に来て、治療を勧めるのだが、松村は聞く耳をもたない。

やがて、「自衛隊と機動隊が合同して自分を攻めてくる」という妄想から、「押し入れに入って必死に防戦する」という状態になり、重度の意識混濁の症状も出て、入院せざるを得なくなった。

入院先は、高知市内の総合病院の町田病院である。

当時、下司はこの病院の精神科外来に勤務していた。

精神科は外来のみで、松村の入院は内科病棟を借りていたようだ。

下司は同時に精神科の病院である精華園の院長でもあったが、アルコール依存症患者の治療は町田病院で行い、それらの患者を精華園に送り込もうとはしなかったという。

 

ちなみに、精華園(現・海辺の杜ホスピタル)は、1929(昭和4)年に吾川郡長浜町袙(あこめ、現・高知市長浜)に、あこめ保養院として設立された。

しかし、半年で経営難に陥り、翌年に医師・町田旦龍に譲渡され、1932(昭和7)年に高知県知事から、名称を改めた土佐精神病保養院の設置および使用許可が出ている。

町田は眼科が専門だったが、上述の町田病院を創設しただけではなく、精神科の病院経営にも乗り出したことになる。

 

ところで、精華園は安岡章太郎の小説『海辺の光景』(1959年)の舞台といわれている。

1週間の滞在を許された安岡は、閉鎖病棟の自由往来と保護室への入室も許可された。

病院側としては「安岡先生に私たち自慢の精華園を小説の中で書いていただきたくて、特別優遇した」のだが、結果的に「閉鎖病棟の悪い面を、遠慮なく描写され」、当時の病院オーナーの機嫌はすこぶる悪かったと伝えられている。

他方、(現在の対岸の埋め立て前の)海辺の立地はすばらしく、精神科医の式場龍三郎は「精華園からの浦戸湾風景は、病院の風景としては日本一と称賛」した。

 

 

(精華園 写真出典: 社団法人日本精神病院協会編『日本の精神病院 第一集』四季社, 1958年)

 

松村の話にもどりたい。

1950(昭和25)年10月に町田病院に入院した松村だったが、彼に施された吐剤を使うエメチン療法(前回の記事を参照)は効果がなかったようである。

結局、入退院を5回繰り返すことになる。

主治医の下司は自分の無力を思い知らされたという。

だが、その後の入院で下司の診察室を訪れた際に、松村は「下司の目に憐みと蔑みの色」を見る。

その途端、松村は「本気で酒をやめる気にな」り、1957(昭和32)年3月に断酒に踏み切る。

「教員である妻のヒモのような暮らし」を変えるべく、数カ月の断酒を経たのち、釜山での経験を活かして高知の海運会社の仕事を手伝うことになった。

 

松村の飲酒と断酒の個人的な経験が社会的な活動と結びつくきっかけは、1958年11月に高知市で開かれた日本禁酒同盟の小塩完治の講演会だった。

小塩は下記の中澤寅吉の招きで高知に来ることになっており、それを知った下司の希望で講演会は開催されることになった。

小塩の日本禁酒同盟は「長い歴史を持ち、熱心な活動を続けていたが、この世から酒をなくすという廃酒思想を持っていた」ため、「広く社会に受け入れられていなかった」。

が、アルコール依存症患者のためのアメリカ発のセルフヘルプグループ AA(Alcoholics Anonymous)に詳しい小塩から、「禁酒同盟の運動とは異質の断酒運動の話を引き出」すことに、下司のねらいがあったようだ。

 

下司が AA や断酒会を知ったのは、日本禁酒同盟の機関紙『禁酒新聞』からだった。

エメチン療法に使うエメチンを高知市の中澤薬業をから購入していたのだが、社長の中澤寅吉は敬虔なクリスチャンで、熱心な禁酒論者であった。

その中澤が1955年ころから、下司に『禁酒新聞』を毎月送っていた。

そして1958年ころから、下司はしばしば東京に出張し、断酒会(東京断酒新生会)の例会見学をはじめる。

それより前の1953年に、日本禁酒同盟のなかにわが国最初の断酒会である「断酒友の会」が発足したが、数年で頓挫した。

これ以外にも、類似の組織がつくられたが、いずれも消滅したという。

その後、1957年に禁酒同盟は AA を参考にして、東京断酒新生会を結成。

断酒会組織の会長にアルコール依存症の当事者が就任したのは、新生会が最初だった。

他方、下司は1957年(1956年としている文献もある)に、日本精神病院協会が主催した3週間のアメリカ精神病院視察旅行に参加し、アルコール依存症治療をはじめとする当地の精神医療事情から大いに刺激を受けたようだ。

 

小塩の講演会に先立つ1958年1月に下司は松村に手紙を送り、「血のにじむ様な御体験は誠に尊いと思いますが、それを御自分だけに秘めておくのはもったいない。多くのアル中の方々に公開し、お酒にとらわれている方々の救世主となってはいかがでしょう。アメリカにはそういう無名の人々による治療(alcoholics anonymous)が盛んです」と書いている。

下司は AA に言及しながら、松村に日本版の同類組織の設立を勧めていたのである。

だが、松村が実際にアクションをおこすのは、1958年11月9日の講演会のあとになる。

講演会に参加したアルコール依存症の当事者は、松村を入れてたった2名だったものの、「講演が終わった瞬間、小塩の話に感動し、下司の真意に敏感に反応した松村」は、その場で断酒会の結成を決めた。

こうして1958年11月25日に正式に発足した高知県断酒新生会は、会員2名からスタートした。

 

その後、下司の尽力もあって高知県断酒新生会は会員数を増やしていく。

だが、会員が断酒に結びつかずにほとんどが脱落するなど、松村の挫折感は大きかったようだ。

それ以降の展開を詳述はしないが、高知と東京の断酒新生会が連合し、1963年11月10日に高知市で全日本断酒連盟(全断連)が結成され、初代会長に松村が就任したことは述べておかねばならない。

 

<今回参照した文献>

・下司孝麿「断酒会発祥からの足跡」『日本アルコール精神医学雑誌』11(1): 63-70 (2004).

・下司孝之『断酒会に寄り添って―下司孝麿伝―』リーブル出版 (2018).

・医療法人精華園『精華園五十年史』(1979).

・小林哲夫「回生への道標―断酒会創始者・松村春繁略伝」、斎藤学編『現代のエスプリ 255 アルコホリクスの物語』至文堂 (1988).

・小林哲夫『松村春繁 断酒会初代会長』、アルコール問題全国市民協会 (1990). 

・茂末諭理子・須藤康彦「日本精神医学新風土記(20) 高知県」『臨床精神医学』37(10): 1379-1384 (2008).

・須藤浩一郎「日本精神医学風土記 第2部 第11回 高知県」『臨床精神医学』17(8): 1239-1246 (1988).

 

(つづく)

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戦後日本とアルコール依存症(1) 下司孝麿と断酒会

もう1ヶ月くらいまえのことだが、実習の巡回指導で依存症治療を専門にしている某精神科クリニックを訪れた。

そこで伺ったお話から、時代とともに物質使用や嗜癖行動に関わる問題は多様化しているという印象をもった。

だた、アルコール依存はこれらの問題のなかでは、依然として大きな部分を占めていると思う。

わたしは依存症治療の専門家でもなんでもないが、かなりまえにアルコール依存症患者とその家族の支援に少しだけ関わったことがあって、この分野への関心は潜在的にはもちつづけてきた。

 

(これまで集めてきた「アルコール依存関係文献」のごく一部。1980年代から最近のものまで。会報、入院案内、単行本などなど。)

 

以前このブログで、2017年夏に開かれた「オックスフォードの研究会 “Alcohol, Psychiatry and Society”」という記事を掲載したが、その会合に参加したのもアルコール問題への関心からである。

その研究会で発表された paper をまとめて、本にするということになっていた。

最終的に完成させた原稿を編者に送ったのが、2018年秋。

それから1年が経過した2019年秋から、最終完成原稿の内容について、編者との具体的なやりとりがはじまった。

それまでのあいだに、編者は版元との交渉など水面下で作業をすすめていたに違いない。

また、さまざまな国の執筆者たち(英語が母語ではない、わたしのような人間もいるし)を相手にしなければならない編集作業には、とても手間がかかるだろう。

だから、研究会から2年あまりでよくここまで来られたと思う。

 

わたしに割り当てられた、戦後日本のアルコール依存症治療の歴史に関する chapter の記述に対して、さまざまなコメントが付されており、その対応に随分時間がかかってしまった。

既存の資料を読み返し、新しい資料も入手し、自分の原稿を再検討し、加筆・修正・削除を繰りかえしていたからである。

こうした作業をしながら、アルコール依存症治療の歴史をこのブログで語っておく必要もあるのではないかと思えてきた。

というのも、わたしにそれを語る資格があるかどうかという問題はさておき、この分野に関する、少なくとも日本の、とりわけ戦後の歴史はあまり注目されてこなかったと考えるからである。

そこで今回は、上記の原稿で扱ったネタのなかから、精神科医の下司孝麿(げし・たかまろ)とアルコール依存症の当事者と家族の自助組織である断酒会にまつわるエピソードを紹介したい。

 

下司孝麿(1914-2011年)は高知県に生まれ、岡山医科大学(現・岡山大学医学部)を卒業後、同大学助手、高知県立女子医学専門学校教授、精神科の精華園園長などを経て、1959年に高知市内に下司病院を開設し院長となった。

下司はわが国におけるアルコール依存症の薬物療法のパイオニアといってよかろう。

1952年に発表された彼の論文(「慢性酒精中毒症の治療」『新薬と臨床』1(7): 397-401)によれば、

 

「第二次世界大戦後の混乱時代は慢性酒精中毒症の患者を激増せしめた。筆者の住む高知県は戦前においても慢性酒精中毒症による精神障害者の多いことで有名であったが、今やこの傾向は日本全国に拡大した模様である。」

 

としたうえで、

 

「昭和二十五年十月八日、高知県医師会医学集談会に於て本症に対するエメチン療法及びアンタビューズ療法を発表したところ、N・H・K及び共同通信のニュースによって各地に伝わり多数の問い合わせを受けた。(…)従来、日本に於て慢性酒精中毒症の治療と云えば一般には説得、精神病院への監置、電撃療法等を行うのみであまり効果がなかった。エメチン及びアンタビューズ療法は今までの治療とは全然その行き方が違っていて、内服を続けていると酒は嫌になって飲めなくなる。まことに手軽な方法である。」

 

という。

論文のなかにあるエメチンおよびアンタビューズとは何だろうか。

まずエメチン(Emetine)だが、これは吐剤である。

「エメチンは吐剤で酒に入れて服用すると嘔吐する。これを繰り返していると、酒が嫌いになってくる」(下司, 2004)という条件反射を利用して行われたのがエメチン療法である。

下司は、アメリカのシアトルの療養所で「エメチン療法を大々的に研究していた」Voegtlin と Broz の1935年から1945年までの治療実績(Voegtlin WL & Broz WR, 1949)などを参照して、1950年にわが国で最初にこの療法を追試した。

当時の日本でエメチンを入手することは困難だったが、「運よく高知市中沢薬業に進駐軍放出の薬があった」(下司, 2004)という(ただし、下司自身の言によれば、その後、日本でエメチン療法を追試した者はいないようである)。

 

1952年の下司の論文によれば、1950年6月12日から1951年11月9日までのあいだに343人の患者にエメチン療法を施した。

その方法は、,佞世鶲んでいる三勺枡にエメチンを0.04グラム入れて飲む、1日1回、10日間連用、というシンプルなものである。

それにしても、エメチンをどのようにして患者に飲ませるのだろうか。

この論文から、エメチン療法を行ったケースを拾ってみよう。

 

「男性(75歳、無職) 毎日、飲み歩いて自宅に帰っては乱暴するので、家族は同居できず、近くに下宿している。娘が飲屋に先廻りしてエメチンを酒に混入、服薬させたところ、四回の治療で酒が嫌になった。胃が悪くなったと思い、周囲の者も胃が悪いから養生せねばならないと勧めたので一年間断酒し家庭円満となった。」

 

同論文には「酒に入れて患者に知らさずこっそり治療できる利点」という記述があり、上記のケースのようにエメチンを密かに混入して飲ませることもあったようだ。

他方、「こっそり治療する場合は本人が気づいて他処で飲みだしたり、毎日治療できなかったりして不成功に終ることが多い」とも述べているので、患者に同意してもらったうえでエメチンを酒に入れることもあっただろう。

 

治療の効果であるが、エメチン入の酒を飲んで何回で酒嫌いになるかといえば、平均は4.8回であり、「酒の話をしただけでも気分が悪くなったり、一升瓶なら醤油瓶を見ても吐気を生じる」といったケースもあったという。

また、エメチン療法直後の治療成績(261名中、治療成績が不明の102名を除いた159名)については、有効(酒を絶対に飲む気がしない)が53.5%、やや有効(酒嫌いになったが飲めば飲めないこともない)が13.3%とされ、おおむねポジティブな評価に傾いている。

 

さて、アンタビューズ(Antabuse)は商品名で、一般名はジスルフィラム(Disulfiram)という。

こちらは、アルコール代謝の過程でつくられるアセトアルデヒドの酸化を阻害する薬である。

アセトアルデヒドの代謝が阻害され体内に蓄積すると、顔面紅潮、心悸亢進、悪心・嘔吐などの中毒症状が起って、服薬しているあいだは飲酒ができなくなる。

いわゆる抗酒剤である。

このジスルフィラムは、1948年にデンマークの Erik Jacobsen らによって開発された。

抗酒剤による治療も、酒を嫌悪する条件反射を利用するという点では、エメチン療法と似ているといえる。

 

(エメチンとジスルフィラム[商品名 アンタビューズ]の化学構造)

 

下司はアンタビューズにも機敏に反応し、「昭和二十五年七月、日新化学(現住友化学)から試作品の提供を受けて同年九月二十五日から治療を開始し」、翌年(1951年)11月9日までに154名の患者にアンタビューズ療法を行ったという。

治療成績がわかる75例中、有効が63例、やや有効が7例だったことから考えると、治療効果は上々だったといえよう。

下司のもとにはアンタビューズを求める手紙や訪問者が跡をたたなかった。

が、当時はアンタビューズの入手は困難で、「アメリカでは既に発売されていることでもあるから、日本でも早く市販の許可を与えられるよう厚生省にお願いしたい」と述べている。

なお、ジスルフィラム(アンタビューズ)と同様の作用をもつ薬として、わが国の向笠寛らが1950年代おわりから開発をすすめていたのが、シアナマイド(Cyanamide)である。

 

これまでの記述からは、下司はバリバリの薬物療法推進者としか見えないかもしれない。

だが、やがて転機が訪れる。

下司のご子息である下司孝之氏による下司孝麿の評伝(下司, 2018)によれば、下司(父)は海外で行われていた先進的な精神科療法(各種ショック療法やロボトミー、エメチン療法も)を積極的に取り入れようしていたが、やがて思うように治療効果が上がらないことから「八方塞がり」に陥り、それが「自己完結的でない医療を断酒会という患者さんの持てる力を引き出す「代替医療」に傾注」していった要因と分析している。

ここから先は、下司と断酒会との接点を探っていくことになるが、長くなってきたので次回に譲りたい思う。

 

最後に補足的に述べておきたいことがある。

上述したジスルフィラムの開発者であるデンマークの Erik Jacobsen は、1959年4月に東京で開催された第15回日本医学会総会に招待され、「デンマークにおけるアルコール依存症の治療(The Treatment of Alcoholism in Denmark)」というタイトルの講演を行っている。

少し興味深い点を以下に抜き出してみた。

 

「アルコール依存症の合理的な対処法とは、「ほかの人々」と同じように、患者が自らの飲酒をコントロールできるように治療することでしょう。これはすべてのアルコール依存症患者の夢ですが、残念ながらそのような治療法はまだ知られていません。(The rational treatment of alcoholism would be a cure which could bring the patients to control their alcohol consumption that is to make them drink like “other people”. This is the dream of every alcoholic, but unfortunately such a treatment is not yet known.)」

 

「今日アルコール依存症患者の唯一可能な治療法とは、断酒させることであり、その断酒を生涯にわたって継続させることです。そのため、わたしたちはアルコール依存症患者が「治癒」したとは決して言わないのです。(Today the only possible treatment of an alcoholic is to make him abstinent and to keep him abstinent for the rest of his life. For this reason we never say that an alcohol has been “cured”.)」

 

ここでは、アルコール依存から回復するには断酒しかないと主張しているわけだが、抗酒剤の開発者の発言としては謙虚すぎるのではなかろうか。

 

<ここまでの参考文献>

・下司孝麿「慢性酒精中毒症の治療」『新薬と臨床』1(7): 397-401 (1952).

・下司孝麿「断酒会発祥からの足跡」『日本アルコール精神医学雑誌』11(1): 63-70 (2004).

・下司孝之『断酒会に寄り添って‐下司孝麿伝‐』リーブル出版 (2018).

・Jacobsen E: The Treatment of Alcoholism in Denmark. 日本医学会総会学術集会記録. 第15回第5巻: V-1031 - V-1038 (1959).

・風祭元「日本近代向精神薬療法史 (9) 抗てんかん薬・睡眠薬・抗パーキンソン薬・抗酒薬など」『臨床精神医学』35(11): 1583-1589 (2006).

・大原健士郎・渡辺昌祐編『精神科・治療の発見』星和書店 (1988).

・Voegtlin WL, Broz WR: The conditioned reflex treatment of chronic alcoholism. X. An analysis of 3125 admissions over a period of ten and a half years. Annals of Internal Medicine, 30(3): 580-597 (1949). 

 

(つづく)

 

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