近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (8) 杉並・世田谷あたりの作業所

はじめに杉並の話から。

訪問調査時点の1986年7月には、区内の精神障害者の作業所は「あおば作業所」(東京都の書類には「すぎなみあおば作業所」という記載もあり)のみだった。

区内の精神障害者家族会が設立母体である。

作業所の会報『GL まんすりぃ』(創刊号、1986年6月)によれば、この作業所が「杉並共同作業の会」の名前で発足したのは1982年8月、高円寺の「心身障害者集会所」を拠点にしてはじめられた。

1984年9月あたりからは、柳窪の「障害者福祉会館」でも作業所活動を開始。

1985年8月には、高円寺と柳窪の2つの作業所を一本化すべく、いったんは家族会の会長宅に集約し、1986年4月からは本天沼に移転した(下の写真)。

1984年には杉並区から、1985年には東京都から助成金を受けている。

 

(杉並区本天沼の あおば作業所 が入っていた建物。学習塾と同居していたようだ。1986年7月30日撮影。)

 

ちなみに、杉並区内の2番目の作業所は1988年1月に永福に設立された「すぎなみ151」である。

調査した時点では、まだ存在していなかった。

 

以下は世田谷の作業所の話。

訪問調査時点に存在していた作業所は、「ちぐさ作業所」「さくら美術工房」「ウッドペッカーの森」の3ヵ所だった。

 

ちぐさ作業所は、昭和大学付属烏山病院の社会復帰後援会、通称「ちぐさ会」が、設立した。

この ちぐさ会 とは、烏山病院のスタッフと あかね会(烏山病院患者家族会)の会員らの賛助会員で構成される組織である。

1985年5月に ちぐさ作業所 の開所式が行われ、実際に作業所がはじまったのは同年7月から。

作業所の土地は烏山病院に隣接しているが、かつてはそこには都営住宅が建っていたという。

その土地が、東京都から昭和大学に返還される交渉のなかで、社会復帰関連の施設を作ることが構想されたようである。

他方、1978年11月に烏山病院にデイケアセンターが設置されており、治療やリハビリの延長に位置づけられるものとして作業所設置の必要性が議論されていたという(以上の記述は、ちぐさ会 が1985年8月に発行した『ちぐさ会会報』の第5号を参照している)。

 

(手前のプレハブの建物が ちぐさ作業所。総予算1,200万円で建設したという。後方の建物は、烏山病院と思われる。1986年6月5日撮影。)

 

なお、開設当時の作業所の様子は以下の写真のとおり。

 

(昭和大学付属烏山病院社会復帰後援会(ちぐさ会)発行『ちぐさ会会報』第5号、1985年より)

 

次は さくら美術工房 である。

この作業所は、世田谷区の精神障害者家族会(さくら会)が1985年9月に開設した。

さくら会が1988年に発行した自身の家族会の『二十年のあゆみ』によれば、家族会活動は1967年にまでさかのぼる。

1969年7月には「さくら会役員紛争」があり、「家族会運動論と診療論で役員分裂」の状態に陥ったものの、同年11月には「さくら会の再建」があり、「第一回家族会」が開催されたと書かれている。

『二十年のあゆみ』に祝辞を寄せている加藤伸勝(当時は東京都立松沢病院・院長)は、「(さくら会の)再建に向けて立ちあがった中村会長や多くの同志の皆さんの例会を通じての勉強会や積極的な行政への働きかけが本会を発展させたものでした」と述べ、「なによりもすばらしいのは、「さくら美術工房」という共同作業所の運営だと思います」と続ける。

 

(さくら美術工房は、このマンションの3階の1室に。1986年6月4日撮影。)

 

加藤が言及している中村会長とは、さくら会のごく初期から会長職にあった中村友保である。

中村は作業所の構想段階で、「部品の組立ても、付録の袋づめも、お金にはなりますが、(中略)欠けているものは創造性ではないですか」、「何か夢のあるものを作ることで、その創造性が少しでも生まれませんか」、「牛乳パックで和紙を作るというのはどうですか」、「あちこち、見学に行っているんです、教えてもらってもいます」と語っていたようだ(『二十年のあゆみ』に寄稿している吉川武彦の「手漉き和紙のはがきと私」より)。

「○○作業所」ではなく、「美術工房」と命名したところに、中村のこだわりが感じられる。

 

さくら会の会報『さくら会だより』(No.197、1986年6月)には、次のような記事がある。

 

牛乳パック廃品利用の、手すきはがきが、テレビで放送されてから各地で制作しておりますが、当工房も昨年9月開設以来、毎日10人位の方が楽しく作業に励んでおります。出来上がった「手すきハガキ」は、ご自分で描かれる方には、「白」を、額装にしてお部屋に掲げられる方には、工房専属の「はがき絵」描きのグループが美しい季節絵を、描いた作品が出来ております。(白・1枚50円、絵・1枚100円)

 

確かに当時は、牛乳パックからの和紙作りが流行っていたと思う。

訪問調査で さくら美術工房 を訪れた際に、わたしも葉書を購入した(以下の写真)。

2枚がセットになっている絵付きの葉書で、200円也。

 

(さくら美術工房で購入した手すき和紙のはがき)

 

最後は、ウッドペッカーの森。

1985年10月、世田谷区の梅丘保健所デイケア利用者の家族宅に開設された。

訪れてみると確かにそこは個人宅で、そのなかの1部屋が作業所のスペースだった。

まだ、はじまったばかり、という雰囲気。

作業所の人に話を聞くと、なにぶん住宅街なので作業所を開くのに適当な場所がみつからないが、いずれ引っ越したい、ということだった。

 

(ウッドペッカーの森は、個人宅の中の1室にあった。写真は、そのお宅の近所の光景。1986年6月19日撮影。)

 

ということで、その後が気になったのでネットで調べたところ、当然ながら個人宅からは引越し、現在は NPO法人ウッドペッカーの森 として継続しているようだ。

| フリートーク | 14:43 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (7) 新宿区の作業所

1986、87年あたりの東京都立精神衛生センターの資料を見ると、新宿区で最初に発足した精神の作業所は「ムツミ作業所」である。

1985年6月に高田馬場の青果店の2階で開所したようだ。

次は、1986年6月に上落合の「火葬場の隣りの古ぼけたアパートの2階、裸電球の4畳半の一室」」(『新宿西番外地―新宿西共同作業所発起人会 通信誌―』No.3, 1986年11月20日発行 より)ではじまった「新宿西共同作業所」である。

さらに、上記のムツミ作業所の利用者が増加したため、1986年11月に「ムツミ第二作業所」が開所している。

これにともない、最初の「ムツミ作業所」は「ムツミ第一作業所」と名称変更されている。

 

わたしが作業所を訪問調査した時点で存在していたのは、ムツミ作業所 と 新宿西共同作業所 のみだった。

これらについて紹介したいが、どういうわけか ムツミ作業所 の資料がまったく残されていないので、新宿西共同作業所の話をしたい。

 

上でも述べられているが、「火葬場の隣り」という、たぶん自虐的な意味を込めた説明は、下に示すように作業所会報の別の箇所でも登場している。

 

(『新宿西番外地―新宿西共同作業所発起人会 通信誌―』第0号, 1986年6月25日発行 より。)

 

訪れてみれば、普通の住宅街にある、確かにあまり新しいとはいえないが、普通のアパートである。

 

(作業所のある一室へと通じるアパートの入口。1986年7月3日撮影。)

 

2階にあがると4畳半の部屋があり、そこが作業所だった。

とても狭い。

これが作業所?

訪問したのは午後3時過ぎで、掃除がはじまっていた。

メンバー(利用者)2人と職員2人がいた。

まだ開所して1ヶ月もたっていなかったので、とりあえず「作業所」の看板をあげて、これから、という模索状態だっただろう。

 

(作業所はアパートの4畳半の部屋。ピンク電話がなつかしい。)

 

作業所の先行きが心配になったので、2,000円を払って「賛同者会」に入れてもらった。

そのためか、作業所会報の『新宿西番外地』をしばらく送ってもらったのだと思う。

第8号までは保存しているのだが、そのあとはどうなったのか自分でもわからない(どうでもいいが、この会報の号数表記は、「第○号」というものと、「No. ○」というものとが混在している)。

 

(「入会のしおり」は、作業所への通所を希望する人に対するものだが、同時に「賛同者会」へのお誘いでもある。)

 

それにしても、新宿区の作業所は、その後どうなったのか気になった。

これまでこのブログで記事にしてきた東京都内の作業所のその後も、ネット検索でだいたい見当をつけることはできる。

多くは法人格を取得して、経営的には安定しているようだが、やはり各作業所の黎明期に活躍した職員の痕跡を探すことは(その世界の「カリスマ」的存在になっている一部の人を除いて)難しい。

 

新宿西共同作業所の後継組織は、「NPO法人新宿西共同作業所ラバンス」ではないかと思われる。

一方、ムツミ作業所については、第二作業所をオリジンとする「社会福祉法人東京ムツミ会 ファロ」が事業を継承しているようである。

| フリートーク | 15:45 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (6) 足立区の3作業所

今回は足立区の話。

1986年の訪問調査時点で、区内には3つの作業所があった。

 

最初に開設されたのが協立作業所である。

足立保健所で行われていた生活相談教室(精神障害者デイケア)の修了生の受け皿として、作業所の要望が高まっていたのである。

保健所や精神障害者家族会が中心となって、作業所の開設準備がすすめられた。

区内の梅田7丁目の民家を借りて、1979年2月に開所。

通所者4名ではじめられた。

1982年4月からは、東京都および足立区から運営費補助を受けることになった。

この時点で、職員は1名、通所者12名であり、作業所は「あしなみ会(足立区精神障害者の家族会)」の運営となる。

同年10月に梅島2丁目に移転し、3階建ての1階部分が作業場となった(下の写真)。

 

(梅島2丁目の あしなみ会 協立作業所、1986年7月9日撮影。)

 

ところで、「あしなみ会」は、協立作業所開設の数年後に、もうひとつの作業所をつくる。

だが、その前に、区内2番目の作業所として、1980年4月に足立区がスタートさせた足立作業訓練所を紹介しておきたい。

足立作業訓練所の最大の特徴は、当時都内で唯一の公立の精神障害者作業所だったということである。

区内には民間の協立作業所が存在したものの、「区立の作業所がほしい」という強い要望が保健所や家族会からあったようだ。

 

訪問時、作業所は保健所分室(下の写真)のなかにあり、和気あいあいと洗濯ばさみ作りの作業などが行われていた。

当時のメモによると;

 

作業をみていると、50代後半くらいと思われる人が話しかけてくる。何年くらい通っているのかと聞いてみると、「4年になります。なかなか就職はむずかしくてね。だいたい毎日通っています」という。

 

そんな会話もあったようだ。

 

(足立区足立保健所分室。このなかに足立作業訓練所があった。1986年7月2日撮影。)

 

ついでに、保健所でもらったパンフレットが下の写真。

 

(足立保健所でもらったパンフレット)

 

では最後は区内で3番目の精神の作業所として、1985年4月にオープンした江北作業所(下の写真)について。

上述したように、この作業所は「あしなみ会」が開設した。

訪問時のメモには、次のように書かれている。

金額のあたりの記述は、作業所で扱っている製品の作業単価のことである。

 

本当に荒川土手のすぐ下。そしてすぐ上では高速道路を建設中。1階は作業場、2階は休憩所兼物置き。(中略)member のお茶当番の人がお茶を入れてくれる。歌謡曲のカセットを聞きながら、みんな作業を黙々とやっている。スプレー 35銭(だっけ?)、造花 大65銭、小55銭、ふくろ5円。円にならない単位をサラリと言われるとなんだか変な気分。帰りは土手を登って帰る。土手の頂上に達して下を見下ろすと、member の誰かが手を振っている。こっちも手を振る。

 

荒川の土手とは…なんとなく哀愁がただようが、その余韻を残しながら足立区の話はおわり。

 

(あしなみ会 江北作業所、1986年7月3日撮影。)

 

(荒川土手から江北作業所の周辺を見下ろす、1986年7月3日撮影。)

| フリートーク | 15:24 | comments(0) | - | pookmark |
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE