今回の台北訪問の主要な目的は、日本統治下台湾の精神病者監護の痕跡をたどることだった。
その核心は、日本本土と同じように施行された、精神病者監護法下の私宅監置の実状だ。
戦前の台湾における精神病者監護は、以下のふたりの医学者による記述からある程度はわかる。
「本島には未だ精神病者監護法の制定がない、従って監置を要する精神病者は財団法人台北仁済院(収容人員四十五名)及私立養浩堂医院(収容人員約三十名)に入院加療の者を除いては孰れも私宅監置に附せられ。家人より獣畜の如くに取扱はれ、永久に救はれる途がない。」(下條久馬一「精神病者監護施設に就て」『社会事業の友』第20号、1930年)
「台湾における私宅監置の方法は、患者を綱で縛り、鉄鎖を以て繋ぐのは、極めて普通のことで、(…)監置室は不潔で、光線の射入無く、空気の流通も乏しいのみならず、其取扱も過酷で医療を加えられない者も甚だ多い。」(竹内八和太「狂人を語る」『社会事業の友』第20号、1930年)
上記は、台湾で精神病者監護法が施行された1936年より前の記述だから、「私宅監置」といってもまだ法的な手続が存在しないころの処置(不法監禁というか無法状態というか)ということになる。
いずれにしても、私宅での監置は一般的だったことが推察される。
それならば、私宅監置の詳しい資料はないのか?
とりわけ法が施行された後であれば、私宅監置をふくむ精神病者監護の許可手続などが、患者家族と行政との間で交わされたはずである。
公文書は?関係資料は残っていないのか?
だが、やはり、日本本土での資料調査と同様に、簡単には見つけられない。
ひとつだけ、参照できそうな資料があった。
旧・台北州の精神病者監護に関わるもので、1940年代前半の文書である。
ある家族が、恐らく自らの家族の一員である精神病者の監護を「愛々寮」に委託したい、という内容。
この精神病者が、それまで私宅に監置されていたかどうかは不明であるが、何らかの理由で自宅では面倒を見られなくなったのだろう。
「愛々寮」というのは台北市内の救貧施設であるが、多くの精神病者も受け入れていた。
ちなみに、菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者竝ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻、1937年)では、「精神病者収容所」というカテゴリーのなかに「台北愛々寮」として登場し、定員は50名、住所は「台北市緑町5丁目16番地」とある。
この施設は後ほど説明する。
上記の旧・台北州の資料には、愛々寮に監護を委託した家族の住所が記されている。
現地を訪ねれば、当時の状況を話してくれる人がいるかもしれない。
しかし事前の調査では、日本統治時代の住所と現在の住所との対応関係を正確に割り出すことは、きわめてむずかしいことがわかった。
ただ、少なくとも、現在の新北市樹林區内のある一角であることは確からしい。
とても心もとない情報をたずさえて、ともかく現地に向かうことにした。
(タクシーを一日貸切にして、台北市内から隣接する新北市へ向かう。)
まずは、新北市樹林區のある里長の辦率公室(事務所)をたずねた。
地域の事情なら里長に聞くのが一番いいらしい。
日本の町内の世話役などと性格は似ているようにみえるが、台湾の里長は選挙で選ばれるのだという。
(里長を訪ねたが留守だったので、電話で連絡して辦率公室まで来てもらうことにした。)
里長に旧・台湾州の文書を見せたが、そこに記載されている家のことは知らないという。
文書に書かれた戦前の住所はこのあたりだが、正確な場所はわからない。
このあたりは人の入れ替わりが激しく、昔から住んでいる人はほとんどいないのではないか。
近くに高齢者のデイケアがあるので、そこに通ってくる人に話を聞くのもいいのでは、と里長。
それで、デイケアにも行ってみた。
カラオケで日本語の歌を熱唱している高齢者が何人がいたので、戦前の事情を聞けるかと思ったが、収穫はなし。
また、里長の辦率公室のまえで、あーだこーだ話していると、通りすがりの高齢者が日本語で話しかけてくる。
その人によれば、この旧・台湾州の文書にある戦前の住所は、もっと遠くだと言うので、それに振り回されて、タクシーで移動しながら右往左往。
やっぱり、旧・台湾州の文書にある戦前の住所が現在のどこになるのか、正確な情報をまず確認する必要があるのではないかということになり、樹林區の戸政事務所をたずねた。
だが、日本からネットで得られた事前の調査結果以上の情報は得られず。
結局、最初に訪れた里長の辦率公室付近で間違いないようだ。
(新北市樹林區戸政事務所をたずねたものの…)
つまり、何の収穫もない。
戦前の住所が特定できない、当時のことを知っている人がいない…
次第にイライラが募ってきたが、どうしようもない。
この日の探索は終わり。
日を改めて、再び朝から新北市樹林區へ。
今度は台北市内から鉄道で樹林へ。
(樹林の駅で。)
先日歩き回った場所付近で聞き込みを開始。
ターゲットは高齢者、しかも日本語の教育を受けた世代。
(樹林の駅周辺の路地。)
高齢者を求めて歩いていると、長壽親子公園というところに到達。
確かに高齢者が集まっている。
高齢者のなかでもより高齢と思われる人たちに次々に声をかけた。
公園だけではなく、通りを歩く高齢者にも話を聞いてみた。
「知らなくて、すみません」という日本語は聞けても、昔からこの付近に住んでいる人に出会うことはできなかった。
(公園でストレッチをしている高齢者に話を聞いてみると、かつて香港から移住してきたという。だから、日本語は知らないと。)
旧・台北州の精神病者監護に関わる書類もとに行ったフィールドワークの一部始終である。
なんとも煮え切らないが、この件はそのままになっている。
さて、次は精神病者を受け入れていた愛々寮(下の写真参照)の話である。
上述したように、菅修の論文では「台北愛々寮」として「精神病者収容所」のひとつに分類されている(「収容所」とは、「病院」ではないという意味)。
ちなみに日本本土については、(甲府市立の)伊勢療養所や(長崎市立の)長崎救護所などが「精神病者収容所」として挙げられている。
(「愛々寮全景」、出典は『昭和四年六月一日現在 愛愛寮概況』。)
愛々寮は、台湾人エリートとして期待されていた施乾(1899-1944)が、台湾総督府の職を辞し、私財を投じて1922年に創立/1923年から事業開始した窮民救護施設である。
施乾は1933年に最初の妻・謝惜を亡くし、1934年に日本人・清水照子と結婚。
前妻との間には長女、次女(施美代、以下で触れる)、照子との間には三女、四女、五女、長男(施武靖、以下で触れる)が生まれた。
施乾が1944年に亡くなったあと、照子が二代目として施設の運営を引き継いだ。
現在は、財団法人台北市私立愛愛院として継続し、長男・施武靖が三代目となっている。
(以上の記述は、栃本千鶴『社会事業家施乾の「乞食」救済事業の展開と継承』愛知淑徳大学・博士論文、2010年を参照している。)
樹林調査ではほぼ空振りだったが、現在の愛愛院を訪問し、次女の施美代さんに戦前の精神病者に関するお話を伺うことができた。
美代さんはご高齢(1929年生まれ)だが、記憶はとても確かで、日本語での会話もまったく支障がなかった。
(現在の財団法人台北市私立愛愛院。)
美代さんは、小学生の頃、父(施乾)のあとをついて病棟をまわったという。
昔の精神病棟は今はないが、同じ場所にある建物の1Fの構造はよく似ている。
今より少し広い通路があって、両側は病室。
おとなしい患者は相部屋、あばれる患者は一人部屋。
病棟の廊下を歩いていると、糞を投げつけられるような場面もあったらしい。
ところで、愛々院の近くには台北仁済院があった(以前のブログでも紹介したことがある)。
台北仁済院は、1899年に台湾総督府により窮民救護の施設として設立され、台湾における最初の精神病者収容施設でもあるとされ、1923年には財団法人へと転換した。
総督府は内地人(日本人)の救護を優先させたため、本省人(台湾人)にまで手が回らない。
本省人(台湾人)については愛々寮が引き受けていたようである。
したがって入所者数は、仁済院では「内地人>本省人」、愛々寮では「内地人<本省人」という構成だった(これらの記述は、上記の栃本千鶴論文などによる)。
美代さんのお話によれば、愛々寮に入所していた日本人は日当たりのいい部屋をあてがわれていた。
日本人は(台湾人よりも)一段上に見られていたという。
(愛愛院の1Fロビーにある歴史展示。施乾と清水照子。)
(かつての愛々寮。愛愛院の1Fロビーにある歴史展示より。)
(中庭から撮影した現在の愛愛院。かつてこのあたりに精神病棟があったという。)
(愛愛院の中庭に立つ「施乾先生紀念碑」。)
研究上からは愛々寮の資料の所在が気になったが、戦前の資料は1950年の洪水被害でほとんど残っていない、という。
愛愛院を調査で訪れるのは日本人ばかりで、台湾人はいないと。
会議室での美代さんへのインタビューのあと、かつて精神病棟があった場所にある建物の中を案内してもらう。
現在は高齢者のデイサービスを行う部屋が並んでいる。
そのあと、中庭に立つ「施乾先生紀念碑」のまえでみんなで記念撮影(この写真はアップしていない)をしてから、ホテルへの帰路につく。