近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
インドネシア「爪哇バイテンツオルグ癲狂院」への旅

1897年8月8日、東京帝国大学の呉秀三は精神病学を学ぶべく、欧州留学にむけて横浜から出航した。

上海、香港、サイゴン(ホーチミン)、シンガポールを経て、同年8月27日に爪哇(ジャワ)島のバタヴィア(ジャカルタ)に到着。

そして、同29日、バタヴィア近郊の“バイテンツオルグ癲狂院”を訪れている。

 

バイテンツオルグ癲狂院とは、オランダが1882年に設立した Krankzinnigengesticht Buitenzorg のことである。

この精神病院の設立を含めたオランダ支配下のインドネシアの精神医療史は、Nathan Porath: The naturalization of psychiatry in Indonesia and its interaction with indigenous therapeutics. Bijdragen tot de Taal, Land- en Volkenkunde (BKI) 164-4 (2008): 500-528 などに詳しく書かれている。

 

航海途上、呉秀三はこの時の病院見学を伝える手紙を日本に送った。
送り先は、いわば呉の留守を守る形で、東大精神病学講座の教授を兼ねていた法医学教授・片山國嘉である。

その手紙には、開放的で広大な敷地をもつ病院の様子や、患者が実施しているさまざまな作業(療法)などが紹介され、「此の如き病院は、まだ見ぬ事ながら西洋にも少なかるへしと存しられ候」とある(呉秀三「爪哇バイテンツオルグ癲狂院概況」『国家医学会雑誌』第127号、524頁、1897年)。

彼自身、西洋の病院はいまだ見たことがないものの、これほどのものはないだろうと絶賛しているわけである。

 

Buitenzorg はオランダ語の旧称で、いまは Bogor(ボゴール)。

ボゴールの病院は、その後どうなったのか?

 

言及すべきは、ドイツの精神医学の泰斗クレペリン(Emil Kraepelin)が、比較精神医学(Vergleichende Psychiatrie)研究のために、20世紀初頭にこの病院を訪れ、1904年にその研究成果を論文として発表したことだろう。

クレペリン論文によれば、「これまでの比較精神医学的な研究のほとんどすべてが、同一民族内での集団に限られていた(…)それゆえ、私はジャワのバイテンツオルグ癲狂院(Irrenanstalt Buitenzorg)でみずからそのような [比較精神医学的な] 研究を行うことにした」(*) のだという。

 

 (*)原文 [Bisher haben sich fast alle vergleichend psychiatrischen Untersuchungen auf die Gruppenbildung innerhalb desselben Volkes beschränkt. (...) Ich habe mich daher entschlossen, selbt eine derartige Untersuchung in der Irrenanstalt Buitenzorg auf Java durchzuführen (...)] aus Emil Kraepelin: Vergleichende Psychiatrie. Centralblatt für Nervenheilkunde und Psychiatrie, 27 (1904): 433-437.

 

精神科医の中井久夫もこの病院を訪れたようで、そのときの様子を以下に引用したい。

なお、訪問の時期は1980年前後と思われ、「国立ボゴール精神病院(R.S.J.= Rumah Sakit Jiwa Bogor)」として紹介している。

 

500床余の病院で、1880年代にオランダが創立したままを正確に修復しつづけて、19世紀後半の西欧パヴィヨン式病院のあとをとどめている。京大精神科病棟も同じであるが、敷地ははるかに広大であり、8割は開放であった。1日3回水浴する清潔好きの民族のけば立つほど洗ったシーツはくたびれていても白く、患者は七輪のようなものでトリ料理を煮ていた。(…)院長は日本の精神病院医のあるタイプに近く、シャツにサンダルばきで、遠くから患者が「おーい先生」と呼ぶと手を挙げて「やーあ、何とかかんとか」と答えている。この情景は欧米から遠い治療文化だ。(…)患者は門を出たり入ったりしていて(この市は山中でなく、ジャカルタから来るこの国唯一の国電(日本製)の終点である)、私に「何人(なにじん)」と聞き「日本人(オラン・ジュパング)」と答えると大きく納得の身ぶりをした。

(出典:中井久夫「概説―文化精神医学と治療文化論―」『精神の科学 8 治療と文化』岩波書店、1983年)

 

だいぶ前置きが長くなってしまった。

このようにボゴールの「名所」にまつわる文献はいくつかあるのだが、ここを訪れる機会など、あろうはずもない…と思っていた。

ところが、ジャカルタで某学会が開かれるという情報があった。

学会のついでに、ボゴールまで足をのばせるかもしれない。

 

(ジャカルタ市内をバジャイで移動中。)

 

その学会とは、2018年6月27〜30日の日程でインドネシア国立図書館を会場として開かれた第9回アジア医学史学会(東南アジア医学史学会との合同学会)である。

知り合いの日本人研究者2人に声をかけて、“Medicine and Diversity in Modern Japan”というパネルを組んだ。

6月28日の午後に発表があり、翌29日にその2人を誘ってボゴールに行くことになった。

だが、準備不足は否めないどころか、無謀な小旅行である。

前日までボゴール行きを迷っていたので、病院の正式名称や場所があいまいなままだったし、そもそも、まったくのアポなしで現地に突撃しようというのだから。

 

朝8時半過ぎ、ジャカルタ中心部のゴンダンディア(Gondangdia)駅からボゴール行きの電車に乗った。

上記の中井久夫が訪問した時期から30数年以上は経過しているが、当時と同じようにこの路線では日本製の電車が使用されていた(下の写真参照)。

つり革、ドア、窓、座席を見ながら、東京近郊あたりを走る車内にいるかのような錯覚におちいった。

(ちなみに、呉秀三は「バタヴィアを午後四時発汽車にて出発し一時間許にして当地に着」と記載している。当時から鉄道はあったようだ。もちろん、列車は日本製ではなかっただろうが。)

 

(ジャカルタ中心部から近郊のボゴールへ向かう車内で日本を感じる。)

 

終点のボゴール駅から、頼りない地図を頼りに、かつてのバイテンツオルグ癲狂院をめざして歩き出す。

さすがに日差しが強く、帽子とサングラスで防御。

途中、地元の市場の近くを通る。

大量のバナナをトラックから下ろす作業をしている。

面白い光景なのでカメラを向けたら、それに反応してくれた(下の写真)。

 

(バナナの荷おろし作業)

 

洪水のように迫ってくる車やバイクの隙間をぬい、ほとんど命がけで道を横断すること何度か。

なんとか、病院までたどり着くことができた。

現在の病院名称は、Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のようだ。

"rumah sakit" はインドネシア語で病院の意味。

上記の中井久夫の記述にある Rumah Sakit Jiwa Bogor の "jiwa" は、「魂」とか「精神」の意味らしいので、かつては「ボゴール精神病院」と称していたのだろう。

 

(Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のゲート)

 

病院構内への出入りは自由だったので、ともかく病棟らしき建物を外側からでも見学することにした。

敷地をうろついているわれわれを不審に思ったのか、病院の職員と思われる人から声をかけられた。

とっさに、上記の Nathan Porath の論文に掲載されている、1885年ころに撮影された2枚の病棟写真を見せて、「この建物はどこにありますか?」と聞いた。

少し考えてから、1つは残っているということで、その建物まで案内してくれた。

 

(各病棟はこのような廊下でつながっている。病棟は平屋建てが基本。)

 

案内された建物(下の写真)は、創立当初から使われているもので、Nathan Porath の論文の写真では「おとなしい現地人患者のための病棟(ward for peaceful indigenous patients [inlanders])」と説明されている(ちなみに、論文のもうひとつの写真は、「ヨーロッパ人患者のための病棟」で、いまは当時の形では残っていない)。

 

(創設時から残る建物。かつては現地人患者の病棟として使われたようだ。)

 

この建物は、現在は男性患者用の40人定員の病棟である。

急性期の病棟は別にあるので、ここは退院に向けての準備をする病棟という位置づけだろう。

ナースステーションに通されて、われわれの病院見学の意図などについて質問されたが、英語でのコミュニケーションがかなり難しい。

すれ違いの会話がしばらく続いた。

やがて、英語ができる看護スタッフが来て、各病棟を案内してくれることになった。

 

すると、患者たちが病棟に集団で入ってきた。

別の建物で行われていた治療プログラムが終ったようで、病室にもどってきたのである。

患者の病室はナースステーションに隣接し、病室の入口は鉄格子の扉で、通常は鍵が掛けられている。

天井が高く、窓(格子窓)も大きく、部屋全体が明るく、風通しもいいせいか、圧迫感や閉鎖的な雰囲気はない。

そこにベッドが整然と並んでいる。

ほかに余計なものは置かれていない。

病室に戻った患者たちは鉄格子越しに、あれこれこちらに親しげに話しかけてくる。

看護スタッフの話では、患者の入院期間は平均すれば1ヶ月くらいだという。

 

下の写真は、病室ではなく、リハビリ活動をするための部屋である。

病室の構造と基本的には同じといえる。

 

(リハビリ活動をするための部屋)

 

患者による絵画や粘土細工が置かれた工房のような建物や、急性期の女性病棟、そこに設置された保護室なども見学した。

最後に、もっと歴史的なことについて知りたければ病院の管理部門に案内すると言われたが、もうお昼になっていたので断った。

もし本格的に病院の歴史を調べるとすれば、下調べを徹底してから、日を改めて来訪しなければならないだろう。

それにしても、突然やってきた日本からの珍客に、十分すぎるくらいの対応をしてくれた病院スタッフに感謝である。

 

昼ごはんは病院内の食堂(下の写真)で食べた。

 

(いくつか店舗が並ぶ病院内の食堂。各店舗で提供するメニューはいろいろ。)

 

インドネシアの定番だが、無難と思われるナシゴレン(下の写真)にした。

結局、この食堂で午後2時半くらいまでねばる。

われわれが延々と話し込む様子を見てか、店の人がお茶をサービスしてくれたのはうれしい。

 

(病院内の食堂でナシゴレンを注文。美味だった。)

 

来た道をもどり、ジャカルタのゴンダンディア駅に着いたのは夕方。

その後、ショッピングモール(Grand Indonesia Mall)へ。

この中で夕飯を食べることになり、ご飯ものもあるコーヒー店に入る。

メニューの最初に出てくる Kopi Luwak がどうしても気になった。

ジャコウネコの糞から採取したコーヒー豆を焙煎したという「高級品」である。

1杯 89,000ルピア(ただし日本円では800円弱か)と、ほかの料理と比べてもかなり高値だが、せっかくなので注文することにした。

 

(店のメニューの最初に出てくる Kopi Luwak)

 

やがて、店の人がうやうやしくコーヒーカップなど一式を運んできた。

本体のコーヒーは金色の袋に入った粉末だった。

店の人が目の前でその袋をはさみでカットし、粉をカップに入れ、最後にお湯を注いでくれた。

そして「2分後に飲め」と。

コーヒーの粉末は沈殿し、その上澄みを飲むという感じになる。

これが「高級品」なのかどうか、にわかには判断できなかった。

 

(コーヒーのできあがりを待つ。)

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学会ふたつ 鹿児島と藤沢

去る6月にふたつの学会に行った。

学会開催からはだいぶ時間がたってしまったが、精神医療史にかかわること(かかわらないこと)などをダラダラ書き連ねたい。

 

(徒歩で城山を登り、展望エリアから桜島をのぞむ。)

 

ひとつめは、鹿児島で行われた日本医史学会である。

学会自体は土・日の2日間だが、金曜日に役員の集まりがあり、日曜日が私の演題発表だったから、必然的に2泊3日の旅となった。

その演題は「明治初期の宗教政策と精神病者収容施設」というもの。

だが、近年この学会では「精神」関係の演者がほとんどおらず、発表中はどうも場違い感が漂っていた(という気もした)。

 

ま、それはともかく、戦前の精神病者収容施設については、これまでややこだわりをもって調査してきた。

「精神病者収容施設」は、広義には精神病院から私宅監置室まで、すべての施設(設備)を含むだろう。

が、ここでは精神病院でも私宅監置室でもない、公立または民間による精神病者を収容する施設としておく。

 

鹿児島の精神病者収容施設といえば、「下御領精神病者収容所」である。

菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻第10号、1937年)の附録では、「精神病者収容所」としてリストアップされている。

設立は大正12(1923)年3月、住所は鹿児島市草牟田町4220番地(上記論文には誤植があり、「草年田」になっている)、代表者は下御領義威とある。

鹿児島大学医学部の精神科教授だった佐藤幹正は、この収容所について「市内草牟田の城山に通じる歩道の傍には、私宅に監置の余地のない家庭の患者のために、数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所が建っていた」と回想している(鹿児島県立鹿児島保養院『創立五十周年記念誌』1982年)。

 

実は2006年2月に、この収容所の跡地を訪ねたことがある。

また、鹿児島県立図書館で収容所を含む当地の精神医療史の文献調査もした。

その時のことは、鹿児島県の精神医療史に関する他の文献から引用したこの収容所の記述もふくめて、拙著『精神病者と私宅監置』(六花出版、2011年、pp.113-116あたり)で紹介している。

 

ただ、まだ調べ足りないこともあった。

それは、下御領精神病者収容所を経営していた、下御領義威および下御領家のことである。

前回の調査では、代表者・下御領義威の弟・下御領義盛は地元では名の知れた歌人で、「兄が経営していた精神病院を引き継ぎ、戦後は山を売って暮らした」(『郷土人系 下』南日本新聞社、1970年)ということまではわかった。

彼が引き継いだ収容所は、地元では「精神病院」と認識されていたらしい。

ただ、兄・義威のことは不明。

 

 竹柄杓つくりて病養へる人の言い値にて山の竹売る

 

これは、弟・義盛が病人との一場面を歌いこんだもののようである。

 

(もうすぐ午前9時、鹿児島県立図書館で開館を待つ。)

 

今回、学会の合間に再び鹿児島県立図書館を訪れ、『下御領義盛歌集』(日本文芸社、1964年)を閲覧した。

下御領義盛の甥にあたる桃北好澄という人物が書いた巻末の説明によると、

 

下御領義盛(1901−1963)は、鹿児島県日置郡伊集院町に生まれ、のちに鹿児島市草牟田町に転住、ここで生を終った。(…)体躯が堂々としていた割に、病気勝ちであったので、しばらく小学校の代用教員などを勤めたほかは、社会の表面にあって立ち働らくということができなかった。もっとも、昭和のはじめ家業の精神病院をついだので、生活的には何の不自由もなかったわけであり(…)

 

というように、ここでも「精神病院」と記述されている。

が、戦後まもなくこの家業を廃し(おそらく、精神病院などの施設以外への患者収容を禁じた、1950年の精神衛生法の影響が大きかっただろう)、「もっぱら作歌と囲碁を楽しんで過ごした」という。

上記の佐藤幹正が書く「数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所」と、桃北が書く「生活的には何の不自由もなかった」「家業の精神病院」とでは、両者のイメージがだいぶ違う。

おもに貧困精神病者を預かっていたと思われる下御領家の「家業の精神病院」が、そんなに儲かっていたとは思えないが…

いずれにせよ、兄・義威のことはわからないままである。

 

ところで、鹿児島県立図書館あたりをぶらぶらしていたら、「向田邦子居住跡地」という観光案内があったので見に行くことにした。

鹿児島市による案内板の説明は次のとおり。

 

向田邦子は1929(昭和4)年、東京に生まれました。29歳で初めてテレビ台本を執筆。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などホームドラマの傑作を次々と生み出し、人気シナリオライターとなりました。その後、46歳のとき、エッセイ『父の詫び状』を執筆したのをきっかけに小説も手がけ、1980(昭和55)年、連作短編小説『思い出トランプ』の中の「かわうそ」など3編により直木賞を受賞しました。しかし、翌年、台湾を旅行中の飛行機事故により、51歳で突然この世を去りました。

向田は父の転勤により、10歳のときに一家でこの地に移り住み、思い出深い2年余りを過ごしました。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」(「鹿児島感傷旅行」『眠る盃』)とエッセイに書き残しています。

 

なるほど。

居住とはいえ、2年余りか…

とは思ったが、明治維新に関わる志士らゆかりの史跡なら山ほどあるなかで、異彩を放つスポットと評価するべきか。

 

(居住跡地というより、墓標に見えるが。)

 

話変わって、ふたつめの藤沢の学会。

「精神医療とは、そもそも何なのか」というシンポジウムが、日本社会臨床学会で行われるという。

この学会の会員ではないが、事前に関係者から今回の学会の冊子をもらっていた。

その一節には、あるシンポジストの「…私はフロイトやクレペリン、日本では呉秀三等、社会病理を個人病理にする精神医学の無力さ、犯罪性を知ったのである。だからといって私は反精神医学派ではない」という文言があった。

呉秀三の「犯罪性」を語る人は、あまりいないんじゃないのか。

これは面白そうだ。

しかも、会場はお寺の中らしい。

行くしかないだろう。

 

上記シンポジウムは午後からで、午前中は鎌倉へ。

ちょうど、あじさいの季節で、気がついたら明月院をめざしていた。

だが、北鎌倉駅で下車した直後から、いやな予感がした。

というのは、すでに駅のホームから人の渋滞がはじまっており、明月院まで延々と人の列がつづいた(自分もその構成員のひとりなのだが)。

やっと入口付近まで到達。

拝観料を払う手前で、中に入るのをあっさりとあきらめた。

あじさい鑑賞どころではない。

あじさいの数よりも、人の頭の数のほうが多そうだった。

 

(北鎌倉の明月院の入口付近。人の流れに逆らって、もどる。)

 

北鎌倉でもうひとつ確かめたい場所があった。

明月院の入口手前から、左手の道を365歩進めばたどり着くという喫茶店がある。

北鎌倉駅から明月院までの喧騒が、まったくうそのような静かな場所にある。

 

(明月院から365歩の喫茶店)

 

たしか大学院生の頃、1980年代の後半に来たのが最後。

その店がいまはどうなっているのかを確かめたかった。

あいにくこの日は閉まっていたが、店主はご健在のようだ。

 

こうして、北鎌倉に用はなくなったので、藤沢に向かった。

来る前は、この街の印象はとても薄かったが、実際に駅を下りればいろいろ発見がある。

とくに、「旧東海道・藤沢宿」という視点からは、イメージが広がる。

広重の東海道五十三次「藤澤」には、手前に鳥居、その後ろに橋、さらに奥に大きな寺が描かれている(興味のある方は、検索して「藤澤」をご覧あれ)。

鳥居は江の島弁財天への入口で、江の島道への分かれ道(下の写真は江の島への道標に関する案内である)。

橋は大鋸橋(だいぎりばし)。

そして、この「藤澤」に描かれた寺こそ、学会の会場である遊行寺(ゆぎょうじ)だったのである。

 

(「江の島道・江の島弁財天道標」に関する案内板)

 

上の写真の案内を通り過ぎて、さらに進むと橋があり、その先に時宗総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)の総門があった。

ここが、通称・遊行寺である。

 

(時宗総本山の清浄光寺の総門、通称は遊行寺。)

 

総門をくぐりぬけて、ゆるい坂を登って行くと本堂があり、一遍上人の像も建っている。

だんだん雨も激しくなってきた。

学会の会場は、本堂に向かって左手奥の大書院。

 

(遊行寺内の会場案内に従って、大書院へと進む。)

 

会場の大書院は、当然ながら畳敷き。

机と椅子も少しはあったが、多くの人は座布団席である。

登壇者席と客席とは一体化し、「村の寄り合い」のような状況でシンポジウム「精神医療とは、そもそも何なのか」が始まった。

ごく大雑把にまとめてしまうと、近現代の精神医学/精神医療が内包している諸問題が提起され、それに対する批判的な検討が行われたということだろう。

精神医療批判「原理主義」的な話になるのかもしれないと、やや身構えていた(期待していた)のだが、シンポジウムの内容はむしろ正統な精神医療批判ではなかったかと思う。

後半の、フロアも交えた討論には出られなかったのは、残念であった。

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