おととい(3月3日)、呉秀三・樫田五郎による私宅監置論文が刊行されてからちょうど100年が経つのを記念して、東京の有楽町マリオン(11Fの朝日ホールおよび朝日スクエアA)で記念行事が行われた。
そもそもこの行事の主催者である公益財団法人日本精神衛生会の源流は、呉秀三の主唱により1902年に設立された精神病者慈善救治会にある。
したがって、日本精神衛生会がこの記念行事を行うのは自然の流れだったというべきかもしれない。
呉秀三の孫にあたる、ふたりの呉さんも参加された。
驚くほど気さくな方々だった。
さて、わたしに与えられたミッションはふたつ。
ひとつは、午前中に朝日ホールで行われた岡田靖雄先生との対談「日本の精神科医療における呉秀三先生の業績」である。
お互い、相手の手の内はだいたいわかっているつもりであり(わたしの勝手な思い込みかもしれないが)、事前に内容と時間の調整もしたのだが、いざ話をはじめてみるとなかなかシナリオどおりにはいかない。
対談の内容は、いずれ日本精神衛生会の機関誌『心と社会』にまとめられるだろうから、ここでは省略したい。
さて、もうひとつのミッションが、朝日スクエアAでの展示会「精神病者私宅監置と日本の精神医療史」である。
わたしのなかの位置づけでは、2014年のソウルからはじめた移動展示「私宅監置展」の続きで、これが10回目にあたる。
2015年に開催したワセダ・ギャラリーでの展示会に来られた日本精神衛生会の役員の方の提案で、今回の展示会につながった。
以下が展示会場の写真である。
会場に入ると、いきなり拘束衣をまとったマネキンが出迎えてくれる。
前後から見られるように、部屋の真ん中に配置した。
部屋の壁沿にあるパネルは、リバティおおさか(大阪人権博物館)での展示会で使用したものを再利用している。
(朝日スクエアAでの展示会の様子。中央に拘束衣をまとったマネキン。)
今回の展示会のために、東京都立松沢病院が所蔵している昔の物品を借りることができた。
これまでは、いわば「門外不出」だっただろうから、画期的なことといわねばならない。
上の写真にある拘束衣も松沢物品のひとつである(ただし、いつごろ使われていたものかは、はっきりしない)。
下の写真にある拘束具も同様に松沢物品である。
呉秀三が、松沢病院の前身である東京府巣鴨病院で手枷・足枷などの拘束具の使用を撤廃したことはよく知られている。
呉は著書『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)のなかで、さまざまな種類の拘束具を写真で紹介している。
これらはみな「諸方面より蒐集したるもの」(p.145、原文は漢字カナ文)と述べているから、すべてが巣鴨病院に由来するものではないようだ。
そこで紹介されている拘束具の一部は下の写真とよく似ている。
おそらく当時集められたものが、松沢病院で受け継がれてきたということだろう。
(東京都立松沢病院所蔵の拘束具)
さらに、今回の展示では岡田靖雄先生および小峰研究所の所蔵品も出品された。
呉秀三に関わるものだけではなく、明治期より前の「お宝」資料も展示された。
(手前から陶山尚迪『人狐辨惑談』[1818年]、土田獻『癲癇狂経験編』[1819年]、いずれも岡田靖雄氏蔵)
ところで、松沢病院から借り受けた拘束衣をマネキンにどう着せるかで、すこし紆余曲折があった。
最初は、下の写真のように、ごく普通に着せてみた。
だが、拘束衣らしい着せ方のほうがいいのでは、ということで試行錯誤がつづく。
やはり、手がすっぽり入る長い袖を後ろで縛るのではないかと、下の写真のように着せてみた。
だが、ネットで調べてみると、襟(えり)を合わせるのは前ではなくて、後ろ、つまり背中のほうで合わせるのが普通らしい。
また、両腕は後ろではなくて、前、つまりお腹のほうで縛るようだった。
そこで、襟を背中で合わせて、両腕を前で拘束したのが下の写真である。
たぶん、こういう形だっただろうということで、この記事の最初に示した写真のようなポーズをとって、来訪者を迎えることになった。
あとから調べてみたところ、呉の『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)にも拘束衣の着せ方の記述があった。
それによると「縛衣と称して厚き布を以て製し、袖を長くしたる短衣あり。之を患者をして穿たしめ腰辺りに縫付たる双紐を以て腹部を締め、猶両長袖手より先へ一尺二尺も延びたるを其侭體軀幹に纏ひ結びたる」(p.137、原文は漢字カナ文、句読点を加えた)とある。
なかなか読みづらいが、「腹部を締め」とあるので、両腕を前にする形で固定するように読めるのだが、どうだろうか。