近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
台湾精神医療史紀行

台北に来た。

学会に参加するためだが、資料収集という目的もある。

 

近代日本の精神医療史を調べてきて、日本統治下の台湾の存在を無視できなくなってきた。

日本の旧植民地のなかでも、台湾ほど精神医療の「日本化」が進められたところはない。

なにしろ台湾では、日本本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年に同時に施行されたのである。

ということは、本土並みに、病院監置/私宅監置の手続きが行われ、公立精神病院/代用精神病院の設置や認可に関わる諸々の事務作業が生じたということである。

これは面白い。

ちなみに、樺太では早くも1917年に精神病者監護法のみが施行され、朝鮮(および南洋群島と関東州)では両法律は施行されなかった。

 

1895年に台湾の日本統治が始まり、1899年に創設された「台北仁済院」が台湾における精神病者収容に関わる最初の施設だという。

この施設は、日本統治以前に存在した救恤(きゅうじゅつ)施設の養済院などの財産を引き継いで発足した。

当初は、いわば救貧施設のなかに、精神病者も混在する形で収容されていたのだろうが、1922年に正式に精神病者収容施設を設置したとみられる(菅 修「本邦ニ於ケル精神病者並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」『精神神経学雑誌』第41巻、1937年などによれば)

 

ただ、この程度のことは、日本にいても簡単に調べられる。

 

ところで、台北仁済院の建物が残っているらしいことをあるブログで偶然知り、せっかくなので行ってみることにした。

MRTの龍山寺駅から、大通りに沿って南西方向にしばらく歩くと、少し木の生い茂った公園があった。

周囲を探しても、それらしい看板はないが、園内の歴史的な建物(下の写真)がかつての仁済院に違いない。

 

(台北仁済院の旧建物)

 

恐る恐る、開いたドアから中に入ったが、天井の照明の一部しか点灯していないので、かなり暗い。

椅子と机があるくらいで、何もないように見えた。

 

(建物の内部。デジカメ画像では明るく見えるが、実際にはかなり暗い。)

 

建物の中をよく見渡すと、わずかだが台北仁済院に関する展示スペースがあった。

ただ、夕刻なのに照明がないので、よく見えない。

年表(下の写真)、書類、建物のミニチュア模型などがあったが、暗くて、やはりよく見えない。

 

(年表の1936年に、精神病者監護法と精神病院法が「施行於台湾」と書かれている。)

 

はなはだ不十分な現地調査だが、ともかく、台北仁済院の旧建物を確認したことで、一応満足。

 

さて、話は脱線。

台北は初めてではないが、いまごろになって檳榔(びんろう)の看板が街のあちこちにあることに気がついた。

そもそも、檳榔って?

ヤシ科の植物で、種子は嗜好品、噛みタバコのように使われるという。

一種の薬理効果があるらしい。

そういえば、路上で時々みかける茶色っぽい筋のような塊は、噛みつぶした檳榔の繊維質を吐き出したものなのか。

 

Wikipedia には次のような記述もあった。

 

「台湾では、露出度の高い服装をした若い女性(檳榔西施)が檳榔子を販売している光景が見られる。風紀上の問題から2002年に規制法が制定され、台北市内から規制が始まり、桃園県もこれに追従した。以降、台中市、台南市、高雄市など大都市では姿を消した。依然として高速道路のインターチェンジ付近や、地方では道端に立つ檳榔西施が見られるが、過激な服装は影を潜めるようになった。」

 

そういえば、「檳榔西施」こそ見かけなかったが、一部の檳榔の店は派手な感じで、ガラス張りになっていて、真昼間から妙な雰囲気が漂っていた。

 

(台北市に隣接する新北市内の「山本檳榔」店。チェーン店らしいが、「山本」の由来は?)

 

宿泊先のホテルは、この檳榔の店からしばらく歩いたところにある。

とりあえず歩道はあるものの(下の写真)、歩くような道ではない。

地元の人は絶対に歩かないだろう(実際、自分以外に歩いている人間を見なかった)。

車が猛スピードですぐ脇を通りすぎる。

怖い怖い道を肩をすぼませてホテルまで歩くのである。

 

(ホテルまでの狭い歩道)

 

日付がかわって、きょうは資料集めの「本丸」をめざす。

またもや上述の怖い歩道を歩いて、中央研究院へ向かう。

台風が接近しているらしく、雨が降ったり、急に晴れたり、めまぐるしく変わる天候。

 

(中央研究院に向かう途中、南港展覧館方面をのぞむ。)

 

ホテルから30分以上歩いて、中央研究院に着いた。

台湾政府の学術予算を、相当注ぎ込んだような一大研究拠点…なんだろう、これはどう見ても。

理系・文系のりっぱな研究施設がキャンパス内のあちこちに。

 

めざすは人文社会科学館の中にある台湾史研究所である。

ここに台湾総督府関係の公文書があるらしい。

 

(人文社会科学館大楼北棟の正面)

 

あらかじめ日本で検索しておいた精神医療関係の資料を次々に閲覧・印刷。

大量の紙束になった。

受付の人からもらった、派手なピンク色のショッピングバッグに資料を詰め込む。

研究院を出るときには、雨も強くなってきた。

 

また、日付が変わる。

朝から激しい雨と風。

台風が台湾を直撃するらしい。

それでも、もう一度、中央研究院に行くことにした。

まだ、すべての資料を見たわけではない。

 

ホテルを出る少し前、同じ学会で発表する日本の友人からメールが来た。

彼は中央研究院のなかの宿泊施設にいるというので、訪ねることにした。

ホテルを出るときに、すでに暴風雨。

タクシーで乗り付けた中央研究院のキャンパスを、少し歩いただけでずぶ濡れになった。

 

あちこち見て回りたい性分の友人も、きょうばかりは動けず、部屋でこもっているほかないという。

一時間くらいだべったあと、同じ敷地内の台湾史研究所に二人で行ってみることにした。

が、なんと台風で臨時休業。

というか、地元の人の話では、きょうは学校は休校、交通機関はストップ、ということらしい。

そもそもこんな日に、のこのこと外出した自分がアホである。

帰りが心配になり、急いでタクシーを呼んで、ホテルに戻ったのがまだお昼前。

 

(ホテルの部屋から。どんどん雨と風が強くなる。)

 

なんか気が抜けた。

ホテルでやることがない。

時間だけはたっぷりあるので、きのう集めた資料に目を通すことにした。

今回の台北訪問の主たる目的である、学会発表の内容に関わるものなので、読む必要もあった。

やはり、日本で集めた資料だけで組み立てた研究内容には限界があると感じた。

とはいえ、台湾史研究所で集めた資料の内容を、すぐに学会での発表内容に反映もできない。

日本で用意してきたものを、そのまま発表することになるだろう。

まあ仕方がない。

 

こんなことを書いているいまも、暴風雨はおさまる気配がない。

あすは晴れるのだろうか。

| フリートーク | 21:57 | comments(2) | - | pookmark |
(続々報)第6回「私宅監置と日本の精神医療史」展 in 東京

2016年9月9日および10日に、東京都立松沢病院での展示会の第2ピリオドが開催され、今回の「私宅監置と日本の精神医療史」展の日程はすべて終了した。

展示日程は4日間と短かったが、記帳ノートの名前を数えると、少なくとも300人以上の来訪があったようだ。

とくに最終日の9月10日は土曜日で、来訪者数はピークだった。

かなり遠方からの来訪者がいて驚いた。

懐かしい人たちとの再会もあった。

これはわたし個人のことだけではなくて、会場の様子から察するに、この展示会がそれぞれの人の出会い・再会の場を提供していたのではないか。

また、多くの人が、展示会場のあるリハビリテーション棟の隣にある松沢病院の資料館にも足を運んだはずで、精神医療史を満喫できたのではないかと思う。

 

(2016年9月10日午前10時30分スタートのギャラリートーク)

 

ところで、隣にある松沢病院の資料館に入会する際に、名前や住所を記入する見学申込用紙がある。

そこに資料館見学後の感想を書いて、退館時に提出することになっている。

ところが、「私宅監置」展の感想だと勘違いして資料館に提出されたものがいくつかあって、あとから資料館側からそのコピーをもらった。

これは結構おもしろかった。

それを読むと、わたしがギャラリートークで意図した内容が、来訪者にうまく理解されているようでホッとした(逆に、ギャラリートークには参加していない人の感想は、人権論のみを強調するステレオタイプの「私宅監置」観のように読めた)。

 

(リハビリテーション棟の中庭が見える「パソコン室」[といってもパソコンは撤去されている]を会場の休憩室にしていた。)

 

(最終日の午後4時すぎから、レンタルしたパーテーションと照明の撤去作業を開始。)

 

(業者の人がパーテーションを解体して、外に運ぶ。会場を設営するときは半日くらいかかったが、撤収はあっという間に終わった。)

 

最後になったが、松沢病院での展示会を訪れたすべての方々に感謝することはもちろん、ボランティアで展示会のお手伝い(準備・受付・片付け・広報宣伝など)をしていただいた私の友人・知人とそのまた友人・知人の方々には格段のお礼を申し上げたい。

| - | 23:06 | comments(0) | - | pookmark |
(続報)第6回「私宅監置と日本の精神医療史」展 in 東京

東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展の第一ピリオド(2016年9月2日・3日)が無事終了した。

実に多種多様な人たちの来訪があった。

 

「私宅監置なんて、一般的な言葉ではないですよね?」という見学者の人がいた。

専門家の間では、ある意味で一般化しすぎた言葉で、そんな感覚を忘れていた。

しかし、確かに「一般的ではないよな、ふつう」と思い直した次第である。

ともかく、わざわざ展示会に足をはこんでいただいた方々に、あらためてお礼申しあげたい。

 

展示会の第二ピリオドは、来週(9月9日・10日、ともに午前10時から午後4時まで、ギャラリートーク:スタートは、午前10時30分と午後2時30分)である。

 

以下は展示会場の写真である。

参考までに。

 

[リハビリテーション棟の玄関。病院職員の方が看板を用意してくれた。「私宅監置展」とは、なかなか迫力があるタイトル。]

 

[リハビリテーション棟の木工室内に展示スペースを作った。]

 

以下の写真は展示会とは直接的な関係はない。

展示会の暇な時間に、病院構内を散歩してモニュメントをさがしに行った。

 

[呉秀三(くれ・しゅうぞう)の胸像。]

 

リハビリテーション棟の入口近くにあるのが、第5代院長だった呉秀三(東京帝国大学教授との兼任)の胸像である。

胸像の説明によると、この像は昭和24(1949)年に作られたが、リハビリテーション棟が新設された際に、現在の位置の移設されたという。

 

[榊俶(さかき・はじめ)の胸像]

 

リハビリテーション棟の横にまわると、榊俶の胸像もあった。

榊は第3代院長であり、東大精神科の初代教授である。

呉秀三の「師匠」にあたる。

 

[石橋ハヤの記念碑]

 

石橋は、呉秀三に見込まれて本院に奉職した看護婦である。

昭和30(1955)年、国際赤十字委員会よりフローレンス・ナイチンゲール記章受賞者に選ばれた。

その翌年にこの記念碑が建立されたという。

現在は、上記の呉秀三の胸像の向かい側くらいに立っている。

 

碑には、巣鴨病院(松沢病院の前身)の医員だったこともある齋藤茂吉の短歌

「うつつなる 狂女の慈母の額より ひかり放たむことき尊さ」

が刻まれている(本来は「…ごとき尊さ」だが、「ご」の濁点を除いた形で刻印)。

ただ、この記念碑にあまり気をとめる人もいないのか、草におおわれつつあった。

それはそれで趣があるのだが。

 

[将軍池]

 

松沢病院といえば、「作業療法」の一環として作られたという「加藤山」と「将軍池」が有名であろう。

その由来は他所でも検索できるだろうから、ここでは省略したい。

 

私にとって新しかったのは、将軍池に隣接して「世田谷区立将軍池公園」が設置されていたことである。

ただし、病院と公園との間には柵があって、自由に行き来はできないようになっていた。

| - | 23:09 | comments(0) | - | pookmark |
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