2016.05.22 Sunday
広島県・精神医療史探訪
広島で気になる場所があった。
その名を瘋癲病治療所といい、1808(文化5)年に設立された。
1900(明治33)年には武田精神病院となったが、1942(昭和17)年に廃院。
すでにこのブログでも紹介したので、詳細はこちら。
この病院は、1912(大正元)年の呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」に、現存する二番目に古い私立精神病院として紹介されている。
また、1918(大正7)年の呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」では、「徳川時代に至りては寛政以降、永井・武田・石丸・本多・奈良林等の諸医家は病院又は其に類似の設備をなし以て患者の治療収容に努めたりき」(原文は漢字カタカナ文)とあり、武田家の病院に言及している。
その後、小林靖彦『日本精神医学小史』(1963)、小俣和一郎『精神病院の起源』(1998)、岡田靖雄『日本精神科医療史』(2002)などに、武田精神病院の記述が見られる。
小林によれば、癲狂人の治療を始めた初代の武田一逕の孫、つまり三代目の武田敏惠のあと武田家に医師はなく、朝鮮より武井守一医師を迎えたという。
厚生省の『精神病者収容施設調(昭和十五年一月一日現在)』に「武井精神病医院(佐伯郡宮内村)」とあるのが、武田精神病院を継承したものだろう。
小林が現地を訪れたときには「現在病院跡は中国電力株式会社の宿舎」だったという。
少なくとも、1963年以前の話だろう。
岡田の本には「武田精神病院旧病棟」の写真が掲載され、「1965年には病棟の跡が青年団の物置きとしてつかわれていた」という。
一方、小俣の本の写真は、1996年に撮影されたという病院跡のさら地。
すでにかつての病棟は取り壊されていたのである。
では、病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地 と変遷して、現在はどうなっているのか?
それを探るのが今回の目的である。
武田精神病院は、病院を開いた寺院に隣接していたらしい。
とりあえず、その寺院、南光山 専念寺 を目指すことにした。
JR広島駅から岩国行きの各駅停車に乗る。
通勤・通学時間帯にあたり、高校生の群れに囲まれながらおよそ20分。
宮内串度駅で下車。
(JR宮内串度駅の広島方面ホーム)
御手洗川に沿って歩く。
途中、山陽新幹線の高架橋の下をくぐり、なおも川沿いに進むと、専念寺の正面に出た。
犬に激しく執拗に吠えられ、門に近づくことさえ断念。
事前に目にしたあるブログでも、犬に「思いっきり鳴かれて」「境内を早々に出ていきました」と書かれていたので、これか…と思った。
(南光山 専念寺 広島県廿日市市)
ただ、「病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地」と変遷した現在の場所が、なかなか特定できない。
唯一の手がかりは、小俣の本だった。
病院跡のさら地を写した写真をよく見ると、かなたに、かすかに歩道橋が写っている(小俣和一郎『精神病院の起源』p.119、図32)。
この歩道橋の撮影角度と、背景の山および鉄塔の位置関係からすると、小俣が訪れたときにはさら地だった場所に、現在はマンションが建っている。
その周囲もすいぶん建て込んでおり、かつてはさら地から歩道橋を見通せたのが、現在は視界がさえぎられてしまっている。
それでなかなか場所がわからなかったのである。
(手前が御手洗川。中央に専念寺の本堂。写真右側の電柱の右奥方向に、かつての病棟があったと思われる。)
そんなわけで、場所をだいたい特定したところで満足し、JRで広島駅にもどった。
そもそも、広島に来たのは学会(日本医史学会)があったからである。
これから発表だから、どっちみち早々に戻らざるをえないのである。
会場は広島県医師会館。
入口近くに呉秀三の胸像があった。
呉家と広島とのつながりは深い。
日本医史学会の初代理事長が呉秀三だから、まさに学会会場としてはふさわしいだろう。
(呉秀三の胸像。真新しい広島県医師会館の1階ロビーに置かれている。)
その名を瘋癲病治療所といい、1808(文化5)年に設立された。
1900(明治33)年には武田精神病院となったが、1942(昭和17)年に廃院。
すでにこのブログでも紹介したので、詳細はこちら。
この病院は、1912(大正元)年の呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」に、現存する二番目に古い私立精神病院として紹介されている。
また、1918(大正7)年の呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」では、「徳川時代に至りては寛政以降、永井・武田・石丸・本多・奈良林等の諸医家は病院又は其に類似の設備をなし以て患者の治療収容に努めたりき」(原文は漢字カタカナ文)とあり、武田家の病院に言及している。
その後、小林靖彦『日本精神医学小史』(1963)、小俣和一郎『精神病院の起源』(1998)、岡田靖雄『日本精神科医療史』(2002)などに、武田精神病院の記述が見られる。
小林によれば、癲狂人の治療を始めた初代の武田一逕の孫、つまり三代目の武田敏惠のあと武田家に医師はなく、朝鮮より武井守一医師を迎えたという。
厚生省の『精神病者収容施設調(昭和十五年一月一日現在)』に「武井精神病医院(佐伯郡宮内村)」とあるのが、武田精神病院を継承したものだろう。
小林が現地を訪れたときには「現在病院跡は中国電力株式会社の宿舎」だったという。
少なくとも、1963年以前の話だろう。
岡田の本には「武田精神病院旧病棟」の写真が掲載され、「1965年には病棟の跡が青年団の物置きとしてつかわれていた」という。
一方、小俣の本の写真は、1996年に撮影されたという病院跡のさら地。
すでにかつての病棟は取り壊されていたのである。
では、病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地 と変遷して、現在はどうなっているのか?
それを探るのが今回の目的である。
武田精神病院は、病院を開いた寺院に隣接していたらしい。
とりあえず、その寺院、南光山 専念寺 を目指すことにした。
JR広島駅から岩国行きの各駅停車に乗る。
通勤・通学時間帯にあたり、高校生の群れに囲まれながらおよそ20分。
宮内串度駅で下車。
(JR宮内串度駅の広島方面ホーム)
御手洗川に沿って歩く。
途中、山陽新幹線の高架橋の下をくぐり、なおも川沿いに進むと、専念寺の正面に出た。
犬に激しく執拗に吠えられ、門に近づくことさえ断念。
事前に目にしたあるブログでも、犬に「思いっきり鳴かれて」「境内を早々に出ていきました」と書かれていたので、これか…と思った。
(南光山 専念寺 広島県廿日市市)
ただ、「病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地」と変遷した現在の場所が、なかなか特定できない。
唯一の手がかりは、小俣の本だった。
病院跡のさら地を写した写真をよく見ると、かなたに、かすかに歩道橋が写っている(小俣和一郎『精神病院の起源』p.119、図32)。
この歩道橋の撮影角度と、背景の山および鉄塔の位置関係からすると、小俣が訪れたときにはさら地だった場所に、現在はマンションが建っている。
その周囲もすいぶん建て込んでおり、かつてはさら地から歩道橋を見通せたのが、現在は視界がさえぎられてしまっている。
それでなかなか場所がわからなかったのである。
(手前が御手洗川。中央に専念寺の本堂。写真右側の電柱の右奥方向に、かつての病棟があったと思われる。)
そんなわけで、場所をだいたい特定したところで満足し、JRで広島駅にもどった。
そもそも、広島に来たのは学会(日本医史学会)があったからである。
これから発表だから、どっちみち早々に戻らざるをえないのである。
会場は広島県医師会館。
入口近くに呉秀三の胸像があった。
呉家と広島とのつながりは深い。
日本医史学会の初代理事長が呉秀三だから、まさに学会会場としてはふさわしいだろう。
(呉秀三の胸像。真新しい広島県医師会館の1階ロビーに置かれている。)