近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
京都帝国大学医科大学精神病学教室:『京都における精神医学的散歩 2』 その5 <新シリーズ・小林靖彦資料 121>

今回の記事は京大精神科の歴史である。
が、小林靖彦の記述は少ない。
精神医療史をかざるエピソードの豊かさという点で、東大精神科に比べて、京大精神科はかなり見劣りし、面白みに欠ける(ように見える)からではないか。

思いつくままに、京大の「劣勢」の理由を考えてみると;

そもそも、京大の創立が、東大よりもかなり遅かったこと。

さらに、東大が中央の政治や行政とかかわりを持つ、広義の「社会精神医学」的な調査・研究も行っており、それにまつわる精神医療史ネタを数多く持っていること。一方、京大は良くも悪くも「(とくに生物学的あるいは精神病理学的な分野での)研究中心主義」(これは、東大を除く他の後発の帝国大学の精神科にもある程度共通かもしれない)だったこともあるだろう。

そして、最も重要なことは、東大精神科の歴史を語る人は多かったが、京大精神科の歴史を語る人がいなかったこと。

しかしながら、『精神医学京都学派の100年』(ナカニシヤ出版、2003年)を見ると、以上の見解の正当性も揺らいでくる。
この本には、京大らしい「個性派」の精神科医と彼らのエピソードが、ぞろぞろ出てくる。

本題に戻って、以下は小林の記述と写真。

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京都帝国大学医科大学精神病学教室

明治30年(1897) 京都帝国大学創立。明治32年(1899) 医科大学設置。

明治35年(1902) 精神病学講座開講。

明治36年(1903)12月、今村新吉教授着任。

大正2年(1913) 病舎新築落成す。


[精神病学講座初代教授・今村新吉]




[旧精神科の建物か]


[上の写真が旧の建物だとすれば、これが1970年代あたりの新しい建物か]


(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:26 | comments(0) | - | pookmark |
木瓜原癲狂院および船岡癲狂院:『京都における精神医学的散歩 2』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 120>

今回は、すでに戦前(太平洋戦争のことだが)に廃院していた二つの精神病院(木瓜原癲狂院と船岡癲狂院)である。
ともに、呉秀三「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)で短く紹介されている(木瓜原については pp.116-117、船岡については p.109 に記述あり)。

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木瓜原癲狂院


 明治15年(1882)、京都癲狂院の医員たりし三上天民が、京都市木瓜原町に、木瓜原癲狂院を開設したが、明治22年(1889)廃止された。








船岡癲狂院


 明治24年(1891)、医師旭恭斉、池田正之助が、京都府愛宕郡大宮村に、船岡癲狂院(60床)を開設した。明治26年(1893)船岡精神病院と改称、明治35年(1902)失火し焼死者17名を出したるも再建され、大正9年(1920)都合により廃院された。


             
              旭 恭斉



[注: この図は上記の1912年の呉秀三論文に掲載されているものである。]





(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 12:04 | comments(0) | - | pookmark |
京都癲狂院:『京都における精神医学的散歩 2』 その3 <新シリーズ・小林靖彦資料 119>

今回は京都癲狂院の記事である。
わが国最初の公立精神病院として、精神医療史に不朽の名をとどめている。
だが、「わが国最初の公立精神病院」以上を記載した文献は極めて少ない。
開院して間もなく閉鎖されたためか、不明な点がとても多いからだろう。
とくに京都・岩倉の茶屋/保養所の盛衰と深い関係にあるようだが、「謎」が残されている。

この「謎解き」に挑んだ好書として、中村治氏の 『洛北岩倉と精神医療』 (世界思想社、2013年)が挙げられよう(とくに「第9章 京都癲狂院設立をめぐる不自然さ」)。

なお、以下の小林靖彦のテキストで、「京都府療病院」、「京都府癲狂院」とあったものは、「京都療病院」、「京都癲狂院」と訂正した。

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京都癲狂院


[注:東山天華は癲狂院創設に功績があった。]

 京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山にして、瑞竜山大平興国南禅禅寺と正称する。正応4年(1291)、亀山天皇、その離宮をあらためて寺となし、竜安山禅林寺と称せるも、のち南禅寺と改称さる。その山門は、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名なり。

 明治8年(1875)、京都療病院の附属として京都癲狂院が、南禅寺の一塔頭(京都府愛宕郡第一区南禅寺村南禅寺方丈1636番地)[注:この地名表記とは異なる文献もある]に蒼創さる。これ我邦における公立精神病院の嚆矢なり。独人[注:オーストリア人が正しいようである]ユンケル・フォン・ランゲック、神戸文哉治療に当れり。

 明治9年(1876)、神戸文哉、英人モーヅレーの小冊を訳し、精神病約説3巻を京都癲狂院蔵書として刊行せり。これ本邦における近代精神医学の専門書の嚆矢なり。

 明治15年(1882)、京都癲狂院、廃止さる。


[注:南禅寺山門]


[注:神戸文哉(かんべ・ぶんさい)。「こうべ」「ぶんや」などと誤読されることも多い。]


[注:精神病約説]




[注:Maudsley の"Insanity"]



 京都市左京区永観堂は、浄土宗西山禅林寺派の総本山にして、聖衆来迎山禅林寺の別称あり。貞観5年(863)、空海の法孫、真紹僧都を開基とし1200年の歴史を有する京都有数の古刹なり。

 明治15年(1882)、京都癲狂院、諸般の事情にて廃止されるや、時の京都府知事北垣国道氏その廃止を甚だ遺憾とし、医師李家隆彦ら協同し民間施設として継承することとなり、永観堂境内に移され、私立京都癲狂院誕生せり。




[注:上の二つの写真は、永観堂か?]

 私立京都癲狂院は、明治28年(1895)協同経営者のひとり川越新四郎個人の経営に移り、明治39年(1906)京都市上京区南禅寺町の新築に移転す。

 大正2年(1913)、京都市左京区浄土寺馬場町の現在地に新築移転し、川越病院と改称、今日に至る。


[注:川越病院の入口]

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 17:27 | comments(0) | - | pookmark |
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