近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
浅山不動尊岩瀧寺(兵庫):『水治療法史』 その10 <新シリーズ・小林靖彦資料 107>

いつか行こう、行こうと思っているのだが、いまだ岩瀧寺(兵庫県)を訪れたことがない。

そうこうする間に、三浦藍さんが岩瀧寺と精神病治療に関する研究をされていることがわかり、「近現代精神医療史ワークショップ3」で話をしていただくことになった。

岩瀧寺については;

吉田貴子・岩尾俊一郎・生村吾郎「近代における「民間」精神病者収容施設の実像」(『精神医療』1997年、第4次、10号、34-56頁)

でも詳細に報告されている。
なので、いまさら私の出る幕ではないかもしれない。

なお、香良病院のホームページでは;

当院は、山懐に包まれた、緑豊かな山紫水明の地で香良脳病院として、昭和12年6月(64床)産声をあげた。
地元古老の語りによると、大正の頃より当地の名刹 岩瀧寺の管理の下、各地から精神障害者が治療のため訪れ、近くの独鈷の滝(通称香良の滝)の水で療養する、いわゆる水治療が行われていた。
時代の変遷とともに、医学も進み、科学的な治療法が行われるようになり、初代開設者 石井鹿蔵は病院開設を決意し、翌昭和13年より運営した。

とある。

小林靖彦の記述は1970年代のはじめだから、上記の研究よりだいぶ古い。
最近の研究と小林の研究との付きあわせが必要だろうが、いまの段階では十分にはできていない。
以下は小林の記述。

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浅山不動尊岩瀧寺(真言宗)。


 福知山線石生(イソウ)駅下車、兵庫県氷上郡氷上町香良107に、精神病院「香良病院」(石井敏秋院長、181床)あり。

 病院を出て、山道を一歩入れば、涼し。里より3度は低いと云う。大正天皇の即位を記念して建てられし「大正門」なる鐘楼を潜れば、左手に碑あり、大正3年(1914)第十世浅山英雅の建てしもの「真言宗の浅山不動尊岩瀧寺は、大同年間(806〜809)、弘法大師により創設され、嵯峨天皇の勅願所たりし名刹なり」とある。

 境内に桜の古木あり、観音堂を廻りて庭に入れば、谷川の清水を引き魚泳ぎ蓮の浮べる美しき池あり、もみじに映えて静かなり。

 寺の裏に登れば、お不動あり、「香良の滝」を鳥瞰し得る廻廊を回らす清涼院(俗に、お籠り堂と称す)あり、内に壇あり、護摩をたく所なり、前に本尊あり。洞穴の奥に片眼の不動を見る。

 出でて、片眼の鰻の住むと云う谷川に沿って降りれば、立て札あり。その昔、剣豪、浅山内蔵助、滝に打たれ、洞に籠りて修業し、浅山一伝流をあみだしたとある。

 香良独鈷の滝は、幽谷の奇岩を縫いて、20m余の絶壁を落ちる滝にして、その昔、弘法大師が独鈷を投げて、蛇身を成仏せしめたと云う。絶壁の途中に石仏あり、滝より流れ落ちる清水は岩を巡りて広き所に至る。四角な岩2個あり、1個は流されて傾く。昔、癲狂の人、里より来たる強力に導かれて、これに坐し、合羽より出したる頭に、巨岩の上に竹にて造られし「仮懸泉」を受け、上の道端では、親、観音経を唱え、子の病の平癒を祈りしと云う。

 両側の亭々たる杉木立の奥に岩肌を見て山道を下る。右側の石垣を積みし平坦なる所、4個点在す。これ参籠の跡なり。ここに数名から十数名づつ寝起きし、日に2度、滝に打たれに出たと云う。

 昔、蛇出て村人を襲いし山道は、狂人が手製の弓矢で村人を狙う所となり、時に、狂人逃げ出し、村人半鐘を打ちて、消防の水にて追い返せしと云う。

 全盛期には、30名以上もの患者を収容せしも、事故続発するに及び、昭和12年(1937)村長たりし開業医・石井鹿蔵(石井院長の厳父)、香良病院を創立し、以後、岩瀧寺にて精神病者を治療することを禁止し、廃止されたり。

 氷上郡幸世村香良にありし岩瀧寺の参籠は、江戸時代、浅山八世の時代に始められしものならんと。

 因みに、浅山英雅の後は、小林慈海が継ぎ、現在は和田賢龍(尼僧)住職たり。

 今は、谷川の四角な石、道端の平らな敷地跡に昔を偲ぶのみ。

        (昭和47年4月29日)






















(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:32 | comments(0) | - | pookmark |
秀厳山大福寺(群馬):『水治療法史』 その9 <新シリーズ・小林靖彦資料 106>

今回は秀厳山大福寺(群馬県)の滝治療である。
地元では、室田不動と呼ばれている

小林靖彦がこの滝場を知ったのは、おそらく呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)からだろう。

室田不動を記述した比較的最近の研究論文として、香内信一「日本精神医学風土記 群馬県」(『臨床精神医学』, 18(3): 427-432, 1989)があげられる。

たぶん一番最近の記述は、拙編著『治療の場所と精神医療史』(日本評論社、2010年)の第3章「滝場の精神病者―群馬県の室田不動と瀧澤不動」である。
この論文では、小林アルバムにも言及している。

以下は小林の記述から。
文中にある「滝水院」は滝治療に来る人たちの宿泊施設だが、既に取り壊されていて今は存在しない。
この建物の写真はほとんど残されていないようで、小林の「滝水院」の写真は貴重である。

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秀厳山大福寺。(天台宗)。


 寺は、群馬県群馬郡榛名町大字下室田にあり、天台宗山内派に属し、里見の光明寺の末寺にして、開創の年代不明なり。その本尊を祭る滝水院は、上室田にあり、この創立も不明なるも、貞和年間(1345〜1350)の如し。

 東京・上野から高崎線にて高崎下車、バスにて室田に至る。滝不動までのタクシーの運転手の曰く「昭和30年頃まで、精神病の人が治療を受けていたが、今はない。滝は頭ではなく項を打たせるのだ。今の住職さんは学校の先生だ」と。10分で着く。

 立札あり、「滝不動」と。少し降れば、左手、木立の間に遠く雲に煙る山並を望む。石段40段余り降りれば、広き所あり。大木あり、山迫り、昼なお暗し。右手、山肌に石の不動尊たち、その左、二本の大木にしめなわを渡し、奥に細長き滝落つ、滝壺浅く、水清く、魚の泳ぐを見る。左、一段高き所に、滝不動明王(大聖不動尊)を祭る堂あり、享和2年(1805)建立とあり、その左に、滝のありし跡あるも、水枯れ果てぬ。

 堂の前の石段を降りれば滝水院あり。昔かかる小屋4棟ありしと云う。

 慶応年間(1865〜1868)に建てられしものもあったと云う。昭和10年(1935)当地方を襲いし大水害により大半流失せり。その時、住職藤平徳沖、病者3、4名と共に死す。

 徳沖の子、藤平徳孝住職に刺を通じ、寺の縁起、下宿人名簿、診断書を拝見す。

 滝治療の創始の年代も不明なるも、明治以前なること確実なり。

 明治28年(1895)第35世、鈴木智田が命を受けて提出せる調査書によれば、「此飛泉は能く脳患を医して妙なり。脳を患う者泉下に坐して水をして頭上を撲たしむれば脳熱忽に消して快を覚ゆ。既に隣国の知る所となり。信州、武州、野州より脳病癲狂の者来り療す。殊に夏日は避暑の客遠近より来り遊び日々来るあり去るあり。沐する事三旬にして癒えて帰らざる者なし。実に霊泉と謂うべし」とある。

 滝は、高さ2丈4尺(約7m)ありとされ、「室田滝」とも呼ばれ、また田野から不動尊が流れ来たれりとの伝説あり、ために「田野の滝」とも呼ばれる。

 室田村の医師、佐藤新太郎、正木辰雄の発行せる診断書あり。病名と滝治療の方法を規定しあり。1日3回、1回5乃至30分とするもの多し。

 外来の者あり。1月乃至3月下宿する者あり。長きは3年居りし者ありと。

 精進料理を食せしむる他には特別なことなし。ある時代、断食を併用せしことありと。

 手枷、足枷を装し、木で造りし椅子(小学校の机椅子のごとし)に縛りつけ、滝の下に置く。打たせる場所は項部とする。

 治療進めば、出す汗臭く、滝にうたれるを嫌う程の眠気を催し、眠りつづけて醒めて快癒すと云う。

 全盛時は、可成り大規模なりしも、水害により縮小し、昭和30年(1955)廃止せられ、今は収容者は勿論、滝治療を受ける人もなし。

 昭和47年5月5日


(注:出典不明)


















(注:滝水院)


(注:滝水院)

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:47 | comments(0) | - | pookmark |
立岩真也著『造反有理』を読んで

立岩真也氏の『造反有理』(青土社、2013年)について少し語ってみたいと思う。

「精神医療 現代史へ」という副題につられた形で購入。
ただ、それもあるが、ある人から「近代日本精神医療史研究会」のブログに触れていると言われ、それがダメ押しだったかもしれない。
そのブログ記事とは、"宇都宮病院の旧「入院案内」"を掲載したもの。
比較的アクセスが多い記事だと思ったら、こういう背景もあったのか。

さて、この『造反有理』に、なにか精神医療史的な論述を期待すると、やや肩透かし、という感じがするかもしれない。
私なりに、この本のスタンスをごく簡単に咀嚼して説明すれば;

大学闘争の時代に精神医学界(大学、学会、アカデミズム)を批判した「造反派」の言ったことも聞いてみようよ。
それなりに一理あるし、誤解されていることもあるし、みんなが知らないことも多い。
だから、証言や資料を忘れないで記録して、整理しておくのも、意味があるんじゃないの?
でも、その内容の分析は他の人に任せるよ、私はその専門家じゃないし。

ということらしい(かなり乱暴なまとめかたなので、著者には本当に申し訳ない)。
証言や資料を記録・保存していかなくては、という点については全く同感である。

他方、内容については、「この偏った本」「誤りや欠落も指摘してもらえばいい」「私自身が知らない」「精神医療に関して、知識の蓄積もなにもない」…と、テキストのあちこちで披歴された無知の知という"逃げ"を打たれてしまっては、精神医療史研究の立場から何を言っても虚しく響くだけだろう。

ただ、そうだとすれば、これが「精神医療 現代史へ」という副題をもつ一冊の本として存在する意義をどう理解すればいいのか、と生真面目な購入者としては思うのである(『現代思想』誌での連載記事を集めて本一冊分になったから、とりあえず出してみた、だけではなかろうし、それだけでは購入者が救われないではないか)。
やはり、内容の検討をしないわけにはいかない。

とは言ったものの、それは結構難しい。
本書の意図が、精神医療の現代史を議論するための素材を提供するということにあるせいか、他の資料からの引用が多く、むしろ引用に語らせる部分が目立つ。
とても長い引用は、耐えきれずに、ついつい読み飛ばしてしまう。
要するにポイントは何なのかと、引用をどんどん読み飛ばしたら、一つの章が終わってしまった、という感じもなくはない。

また、「現代史」の弱点も露呈しているように見える。
たとえば、「生活療法」に関する精神医療関係者の批判・反批判が、さまざまな引用をもとに記述されている。
だが、これらの記述だけから読者は「生活療法」をどう理解するのだろうか。
「造反派」の批判の対象くらいにしか読まないかもしれない。
国内外の100年くらいの精神医療の流れをみなければ、「生活療法」という現象(があたかも戦後日本特有のもののごとく理解されていること)の表面をなぞっただけのように思えるのだが。

それでも、(多くの読者の目にはまず触れることもないだろう論文からの)引用をすることに啓蒙的な意義はあるかもしれない。
だが、こうした引用記述は、研究者にはあまりありがたみがない。
著者の見立てで切り取られ、配列された引用は、著者にしか使えない。
まともに研究をするなら、まずオリジナルにあたるだろう。
素材を提供するなら、論文タイトルと簡単な解説で十分ではないかと思うのである。
まあ、すべては、精神医療の現代史の記述に期待をよせる、精神医療史研究者のないものねだりなんだろうが。

| フリートーク | 15:46 | comments(0) | - | pookmark |
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