近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
服部正・藤原貞朗 『山下清と昭和の美術―「裸の大将」の神話を超えて』 を読んで

このブログでは、精神医学博物館への関心から、アウトサイダー・アートに関する記事をいくつか書いてきた。
まあ、どれも見聞記のたぐいで、この種のアートに寄せる深い考えがあってのことではない。
ただ、この領域に関わる話題が気になりだしたことは事実である。
そんな事情もあって、アウトサイダー・アートに関わるいくつかの文献も読んできた。

『山下清と昭和の美術』について

つい最近、ある本が出た。
とても気になったので、アマゾンで即座に購入してしまった。
服部正・藤原貞朗著 『山下清と昭和の美術―「裸の大将」の神話を超えて』(名古屋大学出版会、2014年2月)である。
前回のブログで紹介したように、名古屋―尾道を往復したが、この列車のなかでかなり読み進めることができ、読了した。
「あとがき」で述べられているように、「同じ問題が複数の箇所で現れたり、逆に複数の問題が同時進行的に検討されたりしているので、ひとつのテーマについて考えるにはややわかりにくい」部分もあるが、全体として読者を引きこむ展開の面白さを強く感じた。

本書は、山下清の誕生からはじまって、「特異児童」、「日本のゴッホ」、「放浪の特異画家」、「裸の大将」、そして「平成の山下清」へとさまざまに変わる山下清理解の背景を、芸術と福祉の視点を軸にして、山下清を世に出したキーパーソン(戸川行男、式場隆三郎など)や美術家・評論家などの膨大な言説を分析しながら、とても丁寧かつ実証的に検討している。

そもそも山下清が何者なのかを知らない人でも、ステレオタイプの山下清ストーリーがどのようなものであり、それらがどう形成・捏造され、かつ山下自身もどう変化していったのかを、面白くたどることができるだろう。

ここでは、本書の具体的な内容を繰り返すことはしない。
私が下手な解説をするよりは、テキストをなまで読んでもらったほうがいい。
ただし、職業柄、精神医学史に関わるコメントをしておきたい。

精神医学史に関わるコメント

本書の第1章の54〜55頁あたりに、1930年ころの「精神医学の状況に関連して、山下の評価にも少なからぬ影響を与えることになるエピソード」として、ドイツ・ハンブルク大学の精神科教授 W. Weygandt の来日(1930年5月〜6月)が挙げられている。

彼が東大で行った「精神病と芸術」という講演に関連して、本書では;

「ワイガントは「精神病者の絵」を退廃的傾向を持つものとみなして批判的に論じ、それと当時のヨーロッパの前衛芸術を関連づけていたことがわかる。このような思想が、当時の日本で圧倒的勢力を誇っていた東京大学精神病学教室の学派に歓迎されたのである。これで当時の日本の精神医学会の大勢は決したとみてよいだろう。」

と述べている。
Weygandt は早くからナチスにシンパシーを強く感じるドイツ愛国主義者であったから、「退廃芸術」への嫌悪感を持っていたのは理解できる。
だが、Weygandt がドイツ精神医学界全体を代表していたとも思えない。
また、そもそもこのような講演一つで、「日本の精神医学会の大勢」が決することなどあるのだろうか、と素朴に思う。
このときの講演の模様を伝える『神経学雑誌』(第31巻)によれば、「聴講者は助手学生三百人ばかり」だった。
東大医学部で外国人がドイツ語で教育をしていたのは大昔のこと。
この時代に、果たしてどれくらいの聴衆(しかも多くは学生だろう)が、リアルタイムでドイツ語講演の内容を理解できたのかも疑わしい。

瑣末なことだが、もうひとつ。
第3章の142頁あたりに、精神科医の式場隆三郎が批判した、早稲田大学心理学教室の戸川行男らが行った「山下清の調査」について述べる部分がある。
当時の式場は、山下清が複雑な作品を描けることを重視して、臨床心理学者が彼に下している「精神薄弱」という診断に疑問を感じていたのだという。
本書では;

「「異常児」診断の専門家(注:式場のこと)というばかりでなく、同時に精神病理学を専門とする医師という立場からの、臨床心理学者への批判という側面もあったかもしれない。」

として、この文の最後に注(21)が付されている。
その注は、精神医学者による心理学者への批判が一般的であったことを示す目的があると思われ、東大精神科教授の内村祐之が述べた、性格診断の「内田―クレペリン法」で知られる心理学者・内田勇三郎への批判を引用している。

その内村の批判とは、畏れ多くもドイツの大精神医学者クレペリン(と、ドイツ留学時にクレペリンを遠くから見ていただけの内村は思っていたはずである)の心理テストに、「あれしきの変法」を加えただけで、「内田―クレペリン法」と名付ける内田は、実に怪しからん奴だというものである。

実に内村らしい反応である。
内村の数々の言説(から類推される性格的特徴)を知る人なら、この批判は文字通りに理解すればよいと考えるだろう。
内村は内田個人のことを述べているまでで、心理学者全体を批判しているとは思えない(精神医学界からすれば、集団としての心理学者など眼中になかったのではないか)。

さらに注(21)の続きは;

「当時、精神医学界のピラミッド構造の頂点とも言える東大教授廉松沢病院長であった内村がこう考えていたのだとすれば、精神科医の多くがそれに同調する考えを持っていたことだろう。」

とある。
言うまでもないが、これは当時の「精神医学界」をステレオタイプ化している、悲しいまでに。
"内村帝国"が成立するほど、日本の精神医学界はピュアではなかったはずである。

第9章の335〜336頁は、メディアにおける蘆原将軍と山下清との扱い方の類似性を述べる。
「世間の人」が語れない「タブー」を、精神病者・知的障がい者に語らせることで、その時代の社会批判になっている、とはその通りだろう。

精神医学史に関わるコメントは以上である。
当然ながら、これらのコメントは本書の本筋にはまったく関係ないことをご了解いただきたい。

アウトサイダー・アートと山下清

さて最後に、冒頭で言及したアウトサイダー・アートと山下清とのかかわりについては、本書はどのように扱っているのだろうか。

終章の404頁では次のように述べられている;

「私たちは本書で、山下清を位置づけるための場所を探してきたわけではない。昭和の日本美術史にも、障がい者アートの文脈にもぴたりとフィットしないこの居心地の悪さの理由について、あれこれと考えてきたのだ。」

こうした山下清の立ち位置の難しさは、終章の随所に書かれている;

「式場隆三郎が何とか通常の美術として認めさせようと躍起になっていた山下清は、通常の美術とは別の価値を標榜する障がい者アートとも相性が悪いのも当然の成り行きだ。」

「山下清がアウトサイダー・アートかどうかという問いの大部分は、アウトサイダー・アートを作品論としてとらえるのではなく、障がい者のアートと入れ替え可能な概念であると理解したことに由来している。」

「しかし、先述のように、アウトサイダー・アートは収集者の審美眼に依拠した作品の様式に関わる概念である。少なくとも原理的には、障がいの有無はアウトサイダー・アートかどうかには関係がない。」

これらを、本書全体の内容を考慮して、私なりにまとめると次のようになる。

式場は山下をあくまで「通常の美術」界で成功させたかったが、美術界からは拒絶された。
では、山下がアウトサイダー・アートかどうかといえば、そのような問い自体が"アウトサイダー・アート=障害者アート"という図式から生まれたものである。
しかし、アウトサイダー・アートは、(障害者アートが依拠するような)作家論ではなく、作品論の点から評価するものである。
したがって、作品論に依拠する収集家の目からは、「通常の美術」をめざす山下はアウトサイダー・アートではない。

つまり、「通常の美術」になりきれず、「障がい者アート」でもない、「アウトサイダー・アート」としても評価されない、宙ぶらりんの「居心地の悪」い状態を、"山下清"と理解すればいいのか。
本書はその状態を、「山下清の深い深い孤独」という。
そして、それが「日本の美術評論の偏向そのもの」であると、わが国の現状を批判している。

ただ、山下清以上に偏向し、政治的な要素を抱え込んでいるのが、アウトサイダー・アートというジャンルではないかと、私は思う。
最大のアポリアは、何がアウトサイダー・アート/アール・ブリュットかという"審美的な基準"、あるいは、アウトサイダー・アート/アール・ブリュットという"制度"の主導権が、われわれの外部にあることである。
「われわれ」とは、おおかた「日本」と言い換えてもいいだろう。

いま私の手元に"Outsider Art Sourcebook"(Raw Vision, 2009)という本がある。
世界の Art Brut / Folk Art / Ousider Art に関わる130人あまりのアーティストが、アルファベット順に顔写真とともに紹介されている。
当たり前だが、それぞれのアーティストの出身国・出身地域、経歴、作風はさまざまで、とても面白い。
すでに何十年も前に亡くなった人もいれば、現在活躍中の人もいる。
この本の中では、日本人が一人だけ紹介されている。
大阪のアトリエ インカーブに所属する Katsuhiro Terao (1960-、寺尾勝広)である。
近年のアール・ブリュット・ジャポネ・ブームを考えると、もしこの本の出版が数年あとにずれ込んでいたら、日本人の登場はもっと多かったに違いない。

それにしても、これらアーティストが選ばれ、掲載された理由は何だろう?
どこにその発信源があるとも知れぬ(少なくとも「われわれ」には)、アウトサイダー・アートに関わる例の気まぐれな"審美的な基準"がなせるわざだろうか。
近い将来、欧米(とは限るまいが)の貪欲なコレクター、バイヤーが、市場拡大の波に乗って日本のアートを買いまくり、何かの間違いで、山下清を「発見」しないとも限らない。
山下清がアウトサイダー・アーティストの一人として、こうした本に掲載される"リスク"が100%ないと、誰が断言できようか。
掲載されたあかつきに、「やっぱり、山下清ってアウトサイダー・アートでした」なんて落ちだけは聞きたくない。

| フリートーク | 22:36 | comments(0) | - | pookmark |
尾道の古寺めぐりと精神医療史

このところ世間では、「何とか細胞」の存在の有無をめぐって騒がしい。
その手の実験には、何億円(何十億円、何百億円?)も研究費が投入されているらしい。
それに比べたら、当方の研究費など、電子顕微鏡でも確認があやしい塵のようなものである。
その、なけなしの2万円余りの今年度執行残をすべて(!)投入し、尾道へプチ調査に出かけた。

名古屋から「のぞみ」で福山、福山から山陽本線で尾道まで。
尾道は初めてだ。
瀬戸内海に面した坂の多いレトロな街、というイメージくらいしかなかった。

私の精神医療史の情報源は、だいたいいつも同じである。
今回も、以前の木野山神社調査と同じく、内務省の『精神病者収容施設調』(昭和4年7月末日現在)である。
その「精神病者ヲ主トシテ収容スル神社・寺院・瀑布・温泉其他保養所」の広島県の欄に、「尾道市十四日町」(現在は住居表示が変更されている)の「妙宣寺」が出ている。
精神病者の「収容定員」は、「五」とある。
日蓮宗のお寺である。

プリントしてきた地図をたよりに、尾道駅から山陽本線沿いに福山方面にむかって歩く。
観光名所の類には目もくれず、一気に妙宣寺をめざす。


(JR山陽本線沿いに歩く。)

「千光寺山ロープウェイ」の山麓駅あたりで地図を確認すると、妙宣寺は近い。
「古寺めぐり」の石造りの道標にも妙宣寺がでてきたと思うと、すぐに寺の入り口があった。


(妙宣寺)

境内に入ったが、さてどうするか…
なんとなく「格式の高さ」を感じて、いきなりインターフォンを押すのがためらわれた。
しばらく、庭をうろうろし、写真を撮りながら「戦略」を考える。
すると、離れのお堂を掃除している婦人が二人。
そのうちの一人が「今日はお祭りで」と話しかけてきた。
これ幸いと、「寺の昔のことを知っている人はいませんか」と切り出す。
結局、その人からはじまって、二、三人を経由して、この寺の直接の関係者に話を伺うことになった。

かつては、精神病者が(おそらく家族を伴って)治療のために寺に「お籠り」していたということである。
精神病者の滞在は戦後もしばらく続いており、戦後の一時期は、戦争引揚者にも部屋を提供していたという。
患者の多くは、日蓮宗信者の人づてで広島県下から集まってきたらしい。
家族は患者を精神病院に入れるよりも、寺に預けることを望んだようである。

(ちなみに、妙宣寺とはまったく無関係だが、広島精神衛生協会編『広島県精神衛生鑑定報告』昭和26年7月には、興味のある鑑定例として、「発病当時家族は気が変な様だと思ったが精神病院へ入れるのは可愛相だと近所の寺に預けた処…」という記述がある。当時の精神病院と寺との関係が伝わってくる。)

この寺の開基は14世紀の半ばと言われるが、患者を盛んに預かりはじめたのは恐らく近代以降ではないかと推察する。
確たる根拠はないが、日蓮宗寺院における精神病治療については、明治20年頃から精神病者の参籠が増えだしたという千葉県の原木山妙行寺、明治33年から精神病者の収容を始めたという東京・芝の長久寺、明治39年に山梨県・身延の大善坊に設立された身延山功徳会、などを思い浮かべるからである。

尾道の「古寺めぐり」は多くの寺院(神社もある)で構成されているが、日蓮宗は妙宣寺くらいのようである。
しかも、それ以外の寺院における精神病治療の形跡は(少なくとも文献上は)ない。
以前このブログで、精神病の二大治療法(つまり滝か、修法・加持祈祷か)に宗派の違いはあまり関係がないのでは、と書いた。

しかし、病気治療に対する「意気込み」は、宗派によって異なりそうだ。
こと日蓮宗については、病気治療に積極的に関わろうというポリシーが見える。
そのポリシーに沿って、各地の日蓮宗寺院は精神病者の治療を少なからず引き受けていたと言えるかもしれない。
その背景として信者獲得という戦略も考えられるが、今後の研究課題として提起するにとどめたい。

さて、調査の話はこれまで。
妙宣寺を後にして、せっかく尾道に来たのだから「古寺めぐり」をすることにした。
下の地図にあるように、「古寺めぐり」のルートはよく整備されている。


(「古寺めぐり」地図の一部)


(天寧寺附近から向島を望む。尾道は猫の撮影スポットらしい。)

| プチ調査 | 15:42 | comments(0) | - | pookmark |
仙滝山竜福寺(千葉):『水治療法史』 その8 <新シリーズ・小林靖彦資料 105>

今回の仙滝山竜福寺は、房総半島を横断し、九十九里海岸に至る途中にある。
東京湾に面した前回までの正中山法華経寺および原木山妙行寺とは異なり、このあたりには低い山もある。
山があれば、滝もある。
仙滝山竜福寺の「岩井の滝」といえば、この地方では精神病治療で有名だったらしい。

佐藤壱三は論文「"岩井の滝"見聞記」(『千葉県精神衛生』5: 1-5, 1962)で、当地での治療の実際を詳細に報告している。
以下の小林靖彦の記述でも、この佐藤論文を引用している。

小林がここを訪れたのは、昭和47(1972)年10月31日。
佐藤の「見聞記」の時代とは、だいぶ様子が変わっていたようだ。
だが、21世紀になってからこの寺を訪れたわれわれにとってみれば、小林はまだ恵まれていたと言える。
小林が撮影した写真の中には、現在は失われている建物の貴重なショットがあるからだ。
佐藤論文のなかでも言及されている「チョコレート色の洋館と屋根落ち、戸のこわれた建物」がそれである。

前者の「チョコレート色の洋館」は、かつての寺の庫裏であり、浅井利勇の論文「日本精神医学風土記 千葉県」(『臨床精神医学』14(11): 1727-1735, 1985)に、そのモノクロの写真が掲載されている(ただし、浅井論文ではこの建物を「旧病棟」と間違って認識しているようだ)。
したがって、「チョコレート色」は確認できない。

一方、後者の「屋根落ち、戸のこわれた建物」は、患者を収容していた「病棟」である。
その画像は一切残っていないものと思われた。

ところが、小林は二つの建物をカラーで撮影しているのである。
ただ、この小林アルバムには、「チョコレート色の洋館」のみが貼られ、なぜか「病棟」の写真がない。
「病棟」の写真は、以前このブログで紹介したここをご参照。

さらに、「岩井の滝」の写真も貴重かもしれない。
今日では水量が減り、ほとんど「滝」ではなくなっているからである。

以下は小林の記述。

-----------------------------------------------------------

仙滝山竜福寺。


 仙滝山竜福寺は、弘治6年(815)弘法大師によって開かれた真言宗の寺院で、千葉県海上郡海上町に在る。

 凡そ160年前の火災で、それまでの古文書が焼失し、滝治療が何時ごろから始められたか不明なるも、大体160年前の文化年間(1804〜1817)と推定される。

 患者を組織的にあずかるようになったのは、大正の初め頃で、東京方面からも患者が集り、一時は50名を越える盛況であったが、昭和25年(1950)7月、廃止された。

 昭和24年(1949)5月と、昭和35年(1960)2月と再度訪問された佐藤壱三氏によれば、昭和24年頃の様子は、次のようであった。(岩井の滝見聞記、千葉県精神衛生、第5号、昭和37年)。

 総武線飯岡駅の北方4kmのところにあり、寺内に大小十数ヶ所の滝あり、また弘法大師みずから刻んだ不動尊を安置してあるところから、滝不動、岩井の滝と呼ばれる。
 滝治療には、2つの滝が使われており、何れも高さ4、5mのきり立った岩壁の上から落下しており、滝の直径は10cm位で、滝壺には石と板で出来た足台があり、患者は全裸で台の上にひとり岩壁に向って直立し、頭頂部から後頭へかけ滝をうけ、亢奮の激しい時は、立棺のような箱を用いて浴びせると云う。
 山門をくぐると、左手に二階建のチョコレート色の洋館と屋根落ち、戸のこわれた建物があり、それが庫裡と病棟で、その時、12人収容されていた。しかも、足くびを鎖でつながれていた。入所時[注:「入浴時」の誤記と思われる]や亢奮時は、手錠をかけられると云う。
 滝には、1日2回、午前と午後。初めは5分、次第に時間を延ばし、25分位にまですると云う。

 昭和35年の訪問のときは、昔の病棟は講の宿泊所となり、寺院には新しく児童福祉施設が設けられ、滝の大部分は地域の水道に利用され、僅かの水が昔の面影を偲ばせて、したたり落ちているだけであったと云う。

 昭和47年(1972)10月31日、寺は修理され、精神病者の姿も見当らず、滝の跡に昔を偲ぶのみであった。


仙滝山竜福寺(真言宗)。千葉県海上郡海上町岩井120。

昭和47年10月31日








































(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 17:00 | comments(0) | - | pookmark |
原木山妙行寺(千葉):『水治療法史』 その7 <新シリーズ・小林靖彦資料 104>

千葉県の水治療の第2弾、原木山妙行寺である。
「原木」は「ばらき」と読む。
東京周辺の人には、地下鉄東西線の原木中山駅でお馴染みかもしれない。
「妙行寺」は「みょうぎょうじ」である。

そういえば、小林靖彦のアルバムでは『水治療法史』となっているが、この寺は「水」とは無関係である。
前回の正中山法華経寺も、水治療の寺とは言い難い。
小林の記述にもあったように、境内の井戸水を浴びるのがやっとだった。

わが国の水治療法のメインは滝に浴びることだろうが、東京湾岸にあるこれら千葉の寺周辺には滝がないのである。
したがって、修法、加持祈祷が、主たる治療法になる。

もちろん、真言宗などの密教系は滝、日蓮宗は修法、というシンプルな区分けも説得力がないわけではない。
だが、われわれのフィールドワークの経験によれば、治療法の選択は地理的な環境にかなり依存しているように思う。
山があり、滝があれば、宗派にかかわらず、滝行が行われていたと考えるのが自然である。
加えて、そもそも寺の宗派自体も、時を経て変わるケースも少なくない。

以下は小林の記述。

--------------------------------------------------------------

原木山妙行寺。

 
 下総中山駅より、正中山法華経寺と反対方向、原木インターチェンジに近く、市原市[注:市川市の誤りだろう]原木に存す。

 単立日蓮宗に属し、天文7年(1538)円増院日進上人の開創にかかる。降りて本顕院日淳上人、24、5才の頃、肺結核に侵され、医師にも見放され、只死を待つのみとなりしとき、法華経の祈祷法を修行し、自ら身をもって法華経に示されてある教主釈尊の御言葉を体験せんと、明治6年(1873)11月1日から翌年2月10日までの極寒にかけて、市川市中山智泉院の鬼子母尊神に籠り、水行と火の行をなし、法華経を読誦し、終に大声を発し得、その声2km離れし当山に聞こえたりと云う。この日淳上人の教えと加持祈祷を慕って全国より療養者の参籠の絶えしことなく、木剣加持なる祈祷にて知らるる荒行を、修行僧に混りて受けると云う。

 重き精神障害者は、中山病院に行くも、軽症の者は家族と共に参籠するものあらんと云う。










原木山妙行寺。


[注:以下は、1918年の呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」にある原木山妙行寺の記述を要約したものだろう。]

 明治20年(1887)頃より精神病者の参籠するもの多しと。

 「参籠所」は、男女のニ棟あり、50〜60名滞在し、精神病者は平均1日3〜4名にして、病者1名に1〜2名の家族附添う。

 午前4時起床。6時半まで題目を唱え、7時朝食。7時半境内の掃除。10〜12時、修法所に集り、経文の講義、忠孝の講話を聞く。この時にも修法を行う。昼食後も、午前中と同じく題目を唱え、2〜4時、再び修法、講話。4時半、境内の夕掃除、6時夕食。

 「修法」として、修法せらるべき病者10名二列となりて修法者の直前に合掌して坐り、修法を受ける者に、修法者は発病等に関する詰問よりはじめ、二、三の問答の後、治癒を宣言、耳朶をさく鋭響、静寂の室内に冴え、病者身震す。

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:56 | comments(0) | - | pookmark |
ウィーン近郊グギング(Gugging)のアウト・サイダーズ

オーストリア・ウィーンの地下鉄線U4の終点駅ハイリゲンシュタットからバスに乗る。
途中までドナウ川を右手に見ながら約30分くらいで、"Art / Brut Center Gugging" に到着。
いわゆるアウトサイダー・アートのギャラリーとして、この分野の関係者にはよく知られている。


(ここまで来れば、Art / Brut Center Gugging はもうすぐ。)

もともとこの土地は、19世紀に立てられた精神病院の一角だった。
19世紀後半から20世紀のはじめにかけて、精神病患者の入院受容が急激に高まり、ニーダーエスタライヒ州のドナウ川沿いに、相次いで州立精神病院が建てられた。
グギングもその一つである。

ところが、ドイツに併合されていたナチス時代には、ドイツのT4計画(精神障害者虐殺)がオーストリアでも実施された。
その結果、グギングの患者も虐殺されたのである。

実はグギングを2007年に訪れた。
その時はまだ精神病院も機能していたと思うのだが、現在は様子がすっかり変わっている。
病院ではなくて、"IST Austria" なる研究施設を整備しているようだ。
IST とは Institute of Science and Technology の略称。
もはや、巨大な精神病院は20世紀型の「斜陽産業」なのだろう。

だた、ひとつ気になったことがある。
最初の来たときには確かにあった、虐殺された患者を追悼する記念碑が見当たらない。
と、妙なオブジェがある。
コンテナを斜めにしたやつだ。
あたりは IST Austria を建設中なので、それの工事現場かと見過ごしていた。
近づいてみると、これが患者追悼の記念碑だった。
かつての、石造りのオーソドックスなものに代る新しい追悼碑だ。


(コンテナを45度傾けた患者追悼碑。後ろの建物は旧・精神病院と思われる。)

中を覗いてみると、丸いガラス玉のようなものがいくつかみえる。
"LEBEN"(生きる、いのち)と書かれている。
文字がつながっている玉と、床に落ちて文字がバラバラになった玉とがある。
追悼碑の説明によれば、これらの玉は患者の生命を表現しているらしい。
空に向かって、ドアが開かれて、光が差し込んでいる。
これは、希望の象徴だろうか。


(コンテナの内部)

さて、"Art / Brut Center Gugging" に行くまでに、だいぶ寄り道をしてしまった。
ここから坂道を登りきればあるはずだ。

まず、ギャラリーよりも気になっていたのは、そこからもう少し歩いたところにある"Haus der Künstler"(「芸術家の家」)である。
ここにアウトサイダー・アーティストが住んで、作品を制作している。

グギングのアウトサイダー・アートの最大の貢献者は、この病院に長らく勤務していた精神科医の Leo Navratil (1921-2006) である。
彼は1950年代から患者の画才に注目し、展覧会なども企画していたが、1981年に「芸術家の家」を設立するに至った。

以前来た時には事情がわからず、「芸術家の家」のひたすら派手な外壁が珍しく、反射的に写真を撮っただけだった。
今回は、アーティストの名前や制作の背景に関する知識も少しはあるので、じっくり見たいと思った。


(Haus der Künstler)

上の外壁は同じようなトーンに思われ、一人のアーティストが描いたものと見えるかもしれないが、何人かの合作である。
一番手前の窓に線だけで書かれた人物は Oswald Tschirtner (1920-2007) のものだろうし、もう少し先の何本かの木は Johann Korec (1937-2008)、さらに向こうの少し奥に引っ込んだ壁あたりは August Walla (1936-2001) だろう。


(正面入口)

家の中も気になるが、アーティストの居住空間でもあるわけだから、そこまでは公開していない(と思う)。
周囲をあれこれ観察したあと、ギャラリーに向かう。
入場券を買おうとしたら、「芸術家の家」の方からやって来た、元・患者と思われる人に握手を求められる。
この人には、その後も何度か、挨拶され、握手を求められ、「ウィーンからですか」と聞かれ(「日本からです」と私)・・・
日本のどこかでも出合った同じような人々に、異国で再会したような安堵感があった。



(Art / Brut Center Gugging の入口)

| - | 00:55 | comments(0) | - | pookmark |
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE