近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
愛知県立精神病院・愛知県立城山病院: 『愛知県精神病院史』 その18 <新シリーズ・小林靖彦資料 95>

今回の愛知県立城山病院については、語るべきことが多い。
まず第一に、戦前の精神病院法(1919年)で建てられた、数少ない公立精神病院の一つであること。
第二に、この病院が手狭になって、郊外への移転話が持ち上がった際に、私が勤務する愛知県立大学(附近)が候補になったことがあること。
この2点からである。

第一の点について;

精神病院法の第一条では、「主務大臣ハ北海道又ハ府県ニ対シ精神病院ノ設置ヲ命スルコトヲ得」となっていた。
つまり、公立(道府県立)の精神病院をつくることが、法の第一番目の目的だった。
この背景には、精神科病床の不足があった。

たとえば、呉秀三・樫田五郎「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(1918年)では、次のように説明されている。

精神病者の数は、欧米の統計を平均すると、精神病者が全人口に占める割合は、0.2534%であり、この比率で計算すれば、日本の精神病者の数は、少なくとも14〜15万人と見積もられる。しかるに、公立病院は東京府巣鴨病院(446床)のみ。官公立病院の精神病室は、東京帝国大学、京都府立医科大学など18ヶ所、合わせて、約1000床。私立精神病院はおよそ37ヶ所で計約4000床。公私立合わせて、精神病者の収容可能ベッド数は約5000床。 すなわち全国14〜15万人の精神病者のうちのわずか3.3〜3.6%のみ収容されるに留まっている。

このような統計を上げたうえ、呉らは公立精神病院の設置を訴えたのであり、精神病院法という形でその実現のめどがたった。
国は、患者を収容するために、毎年3、4ヵ所ずつ、10年から15年をかけて全国に公立精神病院を建設する予定だった。
だが、公立精神病院の建設は財政難から(法の施行条件などにも不備があったようだ)ほとんど進まなかった。

1945年までに同法によって公立精神病院を設立していた府県は、以下の通り。

東京: 東京府立松沢病院 1920年認定(発足は1879年)
大阪: 大阪府立中宮病院 1926年設立
神奈川: 神奈川県立芹香院 1929年設立
福岡: 福岡県立筑紫保養院 1931年設立
鹿児島: 鹿児島県立鹿児島保養院 1931年認定(1924年、県立鹿児島病院分院として開院)
愛知: 愛知県立精神病院 1932年設立
兵庫: 兵庫県立光風寮 1937年設立
京都: 京都府立精神病院 1945年設立

第二の点について;

愛知県立城山病院の『創立五十周年記念誌補遺』によれば、

老朽化した病棟も限度に達し、昭和42(1967)年には病院移転の話がもちあがる。「桃源郷に遊ぶ」つもりで、10万坪、500床という理想のプランをつくり、候補とされる土地を視察したが現実はきびしかった。当時、移転先を視察して歩いた仲野達之助氏(後に院長)は、「県有地なるものは山奥に多く(中略)陶土採掘の跡地のグランドキャニオンばりの谷間とか、高圧線の走る人里離れた深閑とした山の中とかひどい所ばかりであり、帰院した時は何とはなしに妙な虚脱感さえ感じた」という。その後、城山は城山に残るという結論になった。そして昭和50年には、「東洋一」といわれた旧病棟は撤去されたのである。

という。
上記の「山の中」の「ひどい所」が、どうやら現在の長久手市にある愛知県立大学のあたりらしい。

前置きが長くなってしまった。
以下は小林靖彦のアルバムより。

-------------------------------------------------------------

愛知県立精神病院。
愛知県立城山病院。

 愛知県は、昭和5年5月30日、精神病院法による内務大臣の設置命令を受け、名古屋市東区田代町金児硲74番地(現在の千種区徳川山町4-1-7)に東病室(20床)を建て、昭和7年12月6日、「愛知県立精神病院」を開設した。

 院長には、東京・松沢病院より、児玉昌を迎えた。

 その後、昭和8年に、西病室を建築し、昭和10年10月、病床100床の精神病院として完成した。

 敷地15,216.95坪、建坪715坪、鉄筋コンクリート2階建であった。

 昭和14年に病床を増築し、200床となった。

 昭和21年3月30日、児玉院長は、名古屋市立女子医学専門学校の精神科教授に就任のため退職し、名古屋帝国大学教授杉田直樹が、院長を兼任することになった。

 昭和23年4月1日、「愛知県立城山病院」と改称された。

 昭和28年、児童病棟を開設。

 周辺の市街化に伴う住民の要請もあり、昭和34年6月1日、内科、外科、小児科、産婦人科の入院及び外来の一般診療を開始。

 昭和35年4月1日、愛知県城山精神衛生相談所を併設。

 児童病棟は、昭和35年5月廃止。一般病床は、昭和41年4月1日廃止。城山精神衛生相談所は、昭和46年4月1日、愛知県総合保健センター・精神衛生センター部として移転した。

 昭和41年4月1日、病床380床となる。

 増改築を繰返し、昭和52年10月31日、様相も新たに近代的なモデル病院(392床)となった。

 歴代院長は、児玉昌(昭・7・12−昭・21・3)、大島金光(兼務、昭・21・3−昭・21・5)、杉田直樹(兼任、昭・21・5−昭・24・8)、浅井保(昭・24・8−昭・37・2)、磯部千里(心得、昭・37・2−昭・39・10)、浅井保(昭・39・10−昭・52・3)、仲野達之助(昭・52.4〜)である。


開設当時の愛知県立精神病院


児玉 昌


旧玄関


昭和53年11月20日、浅井前院長は、名誉院長の称号を授与された。




(注:改築後の病院)


(注:改築後の病院)

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:30 | comments(0) | - | pookmark |
内藤病院: 『愛知県精神病院史』 その17 <新シリーズ・小林靖彦資料 94>

さて、今回は内藤病院。
小林靖彦の記述には、名古屋特有(?)の地名が出てくるので、説明が必要だろう。

まず、「聞天閣」はかつて鶴舞公園内にあった建物。
明治43年、同公園で開催された第10回関西府県連合共進会の際に、噴水塔、奏楽堂、鈴菜橋などとともに建設された。
しかし、昭和17年、「聞天閣」は移築のため解体されたらしい(移築先は調べきれず、不明)。

また、「オリエンタル中村」(小林は「中村オリエンタル」と書いているが)とは、かつて栄にあったデパートである。
現在は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の名古屋三越栄店となっている。

以下は小林のアルバムから。

----------------------------------------

内藤病院。

 医師 内藤稲三郎は、大正6年5月8日、愛知医学専門学校卒業、神経精神科学教室入局。北林教授の激励により、大正9年冬、欧州に私費留学し、ウィーンのマルブルグ教授の下で研究し、大正13年6月、ドクトルの学位を得て帰国。大正15年1月、医学博士(東京帝大)となり、間もなく開業。

 昭和3年8月20日、名古屋市中区島西町3丁目20番地(鶴舞公園−聞天閣南)に「内藤病院」(56床)を創設し、「外来診療所」を名古屋市中区南大津町・医家小路内に設置した。

 医家小路は、現在の中村オリエンタル附近にあった。石畳の小路に面して、赤レンガ造りの建物(志水建設施工)が立ちならび、各科の名医が軒をつらねて外来診療所を設けていた。

 昭和20年3月、外来診療所が戦災で焼失し、仝年4月を以て内藤病院を閉じた。仝年5月、病院建物も焼失してしまったが、既に患者さんは居らず、焼死者を出さなかったことは不幸中の幸いであった。

 内藤稲三郎は、昭和27年4月より翌年6月まで新設された守山荘病院の院長をつとめたが、旧来の患家の要請もだし難く、名古屋市中区栄5-12の地に、「神経科・内藤医院」を開業し、昭和45年8月20日、逝去。この日は奇しくも内藤病院開院の月日であった。

 嗣子・昌が、夜間開業して後を継いでいる。


ドクトル・メヂチーネ 医学博士 内藤稲三郎


内藤病院


昭和10年頃の広告


ありし日の聞天閣(貴賓館)。


ありし日の聞天閣(貴賓館)。


神経科・内藤医院

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:35 | comments(0) | - | pookmark |
救済院・東山寮: 『愛知県精神病院史』 その16 <新シリーズ・小林靖彦資料 93>

大学入試センター試験が終わり、なにやら一仕事終えたような感じ。
べつに、試験監督業務が終わったからといって、他のやりかけの仕事が消滅したわけでもないのだが。
気持ちの余裕から、少し気休めの感じで、これを書いている。

今回の救済院・東山寮は、小林靖彦がかなり勢力を傾けて資料を集めたものの一つだろう。
たぶん、この東山寮に最初に着目したのが小林であり、その歴史にもっとも精通していたのも小林だろう。
おそらく、小林は「日本精神医学風土記 愛知県」(『臨床精神医学』 16(9): 1335-1344, 1987)に、この施設の記事を書くために資料を集めたのではなかろうか。

ちなみに、この東山寮については、かつて拙著(『精神病者と私宅監置』六花出版、2011年、pp.109-110)のなかで小林論文も参考にしながら記述したことがある。
一応、紹介すると;

 「大正15(1926)年4月に名古屋市は東山寮(当初は救済院と称していた)を開設し、すべて公費による困窮者収容を開始した。施設としては大規模で本格的なものだった。昭和3(1928)年の市の資料が示すところでは、東山寮の収容定員として、行旅病人70人、精神病者36人、窮民50人、合計156人であった。平屋13棟、二階建て5棟を持ち、事務室がある本館、病舎、医局などから構成されていた。一つの病舎は精神病者の収容に当てられ、普通病室のほかに保護室や持続浴室もあった。  昭和7(1932)年に救護法による救護施設の認可を得ると、各病舎の増築が行われた。精神耗弱者収容舎も増築され、収容定員は65人となった。  精神病者はすべて精神病者監護法にもとづく公費での監置であったが、昭和7(1932)年以降は救護法によって収容された精神病者も加わった(救護法による経費負担は、国庫2分の1、県4分の1、市町村4分の1である)。  しかし、昭和20(1945)年5月の空襲で東山寮の多くの建物が焼失した。戦後は昭和21(1946)年の生活保護法の施行にともなって保護施設の「瑞穂寮」と改称、建物も改修され、精神科の施設としての役割を終えた。
 この東山寮は昭和12(1937)年の菅修の論文では、定員80人の「精神病者収容所」として分類されている。  しかし、昭和15(1940)年の厚生省による『精神病者収容施設調』では東山寮が「精神病院法に拠らない公立精神病院」として掲載されており、  必ずしも施設の位置づけが明確でない部分がある。」

引用は以上である。
さて、小林アルバムは以下のとおり。

------------------------------------------------------------------

救済院・東山寮。


 名古屋市は、大正2年10月、明治天皇御聖徳記念事業として、救済院設立の計画を立て、大正15年4月4日、行路病人、住所不定者、精神病者、その他、生活困窮者等の救済を目的として、総工費25万1638円をもって、南区弥富町蜜柑山1番地に、敷地4,707坪、建坪延1,518坪、収容定員150人の救済院・東山寮(精神病者収容定員30人)を開設した。

 精神科医として、愛知医科大学神経精神科学教室(主任・北林貞道教授)の助手・松本義雄が医務嘱託となり、次いで、高橋義勇が之を引き継いだ。

 昭和8年3月、精神耗弱者収容舎(65床)が竣工した。

 また、この年、精神病舎(125坪)失火、精神病者1人が焼死した。これは、患者の放火であった。

 昭和10年末の菅修の調査によると、定員80床と記載されている。

 高橋義勇の後任に、柴宮誠吾、その後、昭和12年7月、名古屋医科大学精神病学教室(主任・杉田直樹教授)より、川端純一助手が赴任した。

 川端純一が赴任した頃は、120名程が入院しており、男子患者は橘寮に、女子患者は桜寮に収容されていた。

 昭和18年1月、川端純一は、名古屋帝国大学医学部臨時附属医学専門部講師を委嘱され、東山寮は医学生の臨床実習の場となった。

 昭和20年5月17日の空襲により、講堂と精神病舎を残し、全施設の三分の二以上が灰じんに帰し、多くの患者が焼死した。この時、川端は召集されて戦地にあった。

 昭和21年10月1日、復旧されて、東山寮は、瑞穂寮と改称され、生活保護施設となった。精神科病棟は復活しなかった。

 昭和22年6月24日の愛知軍政部公共福祉課の改善命令書に「精神病診断設備の改善」が含まれているところを見ると、実際には収容されていたと思われる。

 昭和37年10月1日、瑞穂寮は、厚生院と改称され、今日に及んでいる。

(注:以下の図およびテキストは、小林靖彦が文献からコピーして、アルバムに添付したものであるが、出典は不明である。)



東山寮創立当時の建物配置図

当時東山寮への道は市電八事線の半僧坊で下車し、山道を三十分位歩くと到着する程不便なところであった。
向こうの方の高台に東山寮の屋根が松林越しに見えているが、歩いても歩いてもなかなかそこへたどりつかなかったという。












昭和18年頃焼失前の配置図


空襲による寮の罹災

 戦争の激化とともに米軍の本土への空襲もその回数を次第に増加の一途をたどり、被害は高まり、罹災者の数も急激に増加していった。名古屋の人口も戦地への応召、疎開、戦災などによって次のように減少していったのであるが、罹災者の増加に正比例して、寮への入寮要請も急速に増加していった。このような状況下にあった昭和二十年五月十七日夜間のB29による名古屋地方の空襲は、東山寮の建物(本館始め寮舎など)の大半とも言える三分の二以上の建物が灰じんに帰してしまった。夜間のため職員の数も少なく、ために避難、誘導をも思うにまかせず収容者の死傷者も少なくなかったという。
 当時、松林の中に点在する東山寮の建物は、上空から見ると幾棟か並んでいて、丁度兵舎のように見えたのではないだろうかといわれたものであった。そのために集中的に攻撃をうけたのではないかと職員を始め人々のもっぱらの噂であった。

 東山寮が爆弾により焼失しました。市役所の施設の中で一番最初にやられたように記憶していますが…
 先ず仏様を安置する部屋がすっ飛ぶ。あそこもここもと五分の一程が綺麗に無くなりました。子供を安全に何処へ疎開させるかについて一番心配しました。防空壕を掘って幾日目か記憶していませんが丁度空襲に遭い避難させると、その脇に爆弾が落ち土を頭から被っただけで全員助かったと云うこともありました。丘の上に幾棟も並んでいるからきっと兵舎か何かだと思ったんでしょうね。今度は焼夷弾でやられましたが、その時は相当焼け死んだ患者もありました。本当に申し訳ないことをしたと思っています。何せ夜分の事でもあり皆動けなかった人ばかりです。



生活保護施設としての再建と整備

 昭和25年5月17日の空襲によって、その建物の2/3以上が焼失し、僅かに精神病舎のみが残ったといった状態の寮は「生活困窮者緊急生活援護要綱」により昭和21年8月に第一期工事として、仮本館と附属建物及び第一寮棟などを建設、昭和22年7月には、第二期工事として510万円にて(その内訳、工事費3,928,350円、設備費975,028円、工事監理費133,678円、その他62,954円)第二寮棟、調理場、洗濯場、消毒室並びに浴場を建設し、さらに、昭和23年1月には、第三期工事として本館301坪4(994,62平方米)360万円(内訳、設計管理費133,522円、工事費2,671,450円、設備費795,028円)を改築し、医局、薬局、看護婦宿舎及び病棟などを増設するなど、その復興整備は着々と進められていった。
 その後昭和23年10月には、第四期工事として、120万円(内訳、設計管理費60,050円、工事費939,950円、設備費200,000円)で小児病棟71坪を新築するとともに精神病棟を改築し、更に昭和24年8月には、第五期工事として診察室の増設、炊事場の改築を行うなど、その内容の充実と併せて建物の整備は、急速に実施されていった。この時点の瑞穂寮の形態は次のとおりとなった(注:上の図。なお、1946年10月1日に「東山寮」から「瑞穂寮」に改称し、旧生活保護法第7条による保護施設(浮浪者収容保護施設)として認可された。さらに下の写真は、「瑞穂寮」から「厚生寮」となった時代に、小林が撮影したものだろう)





(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:46 | comments(0) | - | pookmark |
豊橋脳病院(岩屋病院)とその後: 『愛知県精神病院史』 その15 <新シリーズ・小林靖彦資料 92>

今回は豊橋脳病院である。
現在は岩屋病院として続いている。

小林靖彦のアルバムには、この病院が1938(昭和13)年に愛知県の代用精神病院になったのを記念して作られたと思われる、写真(絵葉書)が何枚か貼られている。
この写真は、入院案内などとともに関係者に広く配られたようである。

当時の院長は中野嘉一。
豊橋脳病院に赴任する前、東京武蔵野病院に勤務していた。
文学ファンにはよく知られているだろうが、太宰治が東京武蔵野病院に入院していたとき(1936年10月13日〜11月12日)、担当医だったのが中野である。
東京の病院から異動したのは、彼が愛知県出身だったからだろうか。

さて、豊橋脳病院・岩屋病院の話題はこれに尽きない。
おそらく戦前に建てられたと思われる木造の病棟が、ほんのつい最近まで残されていた。
ほんのつい最近、というか目下、解体中か。
その情報をききつけ、病院の許可を得て、病棟解体前に写真撮影会を行った。
鉄格子の和室、暗い保護室が印象的だった。
精神医療史研究者としては、解体はきわめて残念だが、むしろ、よくぞここまで残しておいてくれた、と評価すべきかもしれない。
今回はその写真も紹介したい。

以下は小林の記述。

-----------------------------------------------------------------

豊橋脳病院。

岩屋病院。


 小林辰男は、昭和9年12月18日、豊橋市の東部、愛知県と静岡県の県境に近い岩屋観音山麓(豊橋市岩屋町岩屋観音下、現在の豊橋市岩屋町岩屋下1-2)に、木造平家建て3病棟の「豊橋脳病院」を開設した。病床、35床。

 昭和10年5月、名古屋医科大学精神病学教室(主任、杉田直樹教授)より、山田聖(昭和7年、名古屋医科大学卒)を迎え、院長とした。

 昭和10年から13年にかけて増築し、171床となる。この間、昭和12年、山田院長は、独立(岡崎脳病院創設)のため退職。

 昭和13年4月、慶応義塾大学医学部精神病学教室(主任、植松七九郎教授)より中野嘉一、院長として赴任。

 昭和18年6月14日、「岩屋病院」と改称。仝年12月末、中野院長、応召。昭和19年10月、福田常太郎(元愛知県警察部衛生課長)、院長に就任。

 昭和23年3月、福田院長、交通事故により急逝。千葉大学医学部精神医学教室(主任、荒木直躬教授)より、梶村洋一を院長に迎え、ついで、柴山茂、武田芳夫とつづき、昭和39年4月、小林亮が院長に就任。病床550の大病院である。


(小林辰男)


(戦前と思われるが、撮影年代不明。岩屋山からの撮影か。)


(代用精神病院になった頃の病院の絵葉書)


(同病院の絵葉書)


(同病院の絵葉書)


(絵葉書に同封されたと思われる関係者への挨拶状)


(入院案内の一部)


(旧病棟の玄関か。撮影年代不明。)


(1970年代以降に作成されたと思われる病院パンフレットから)


(上と同じ病院パンフからとった病院待合室の写真。現在も基本的に同じ。)



(上と同じパンフからの岩風呂の写真。現在も基本的に同じ。)


(小林亮)

-----------------------------------------------------------------

小林靖彦の記述は以上であるが、解体前の木造病棟の写真は以下のとおり。


(上に示した戦前の絵葉書の一枚と、ほぼ同じと思われる位置で撮影)


(かつての病室の中から外を見る。)


(かつての保護室)


(保護室の中から廊下を見る。)


(解体が進む。)

以上。

なお、『愛知県精神病院史』はつづく。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 17:26 | comments(0) | - | pookmark |
東山脳病院: 『愛知県精神病院史』 その14 <新シリーズ・小林靖彦資料 91>

名古屋市にあった東山脳病院は、有数の精神病院だったらしい。
だが、1945年5月、戦災により廃院。
空襲だろうか。
ちなみに、同年の3月19日には名古屋駅が、5月14日には名古屋城が空襲で破壊されている。
以下は小林の記述。

-------------------------------------------------

東山脳病院。


 丸山萬五郎は、大正6年8月29日、愛知郡東山村大字田代掘割26番地の1(今の王山会館あたり)に、敷地1360坪、建坪530坪で、収容定員250名の「東山脳病院」を開設した。

 大正2年に、満3年の留学を終えて帰朝していた東大精神科助手・医学士田澤秀四郎を院長に迎えた。医員3名、看護人22名(男12、女10)であった。

 大正9年、「看護婦養成所」を設置した。この年の暮に、田澤院長が死去した。

 大正10年、元新潟脳病院長 伊藤勘助が、院長に就任した。

 昭和6年、元満大助教授 池内宏紀、伊藤院長の後を継ぎ院長に就任。

 昭和10年末の調査によると、名古屋市東区田代町字掘割26番の1、180床、とあり、県下第二の精神病院であった。

 昭和16年、谷望、院長に就任。谷院長は、昭和19年応召。

 昭和20年5月8日、戦災によって焼失、廃院となる。

 医員には、川端純一(元名古屋市衛生研究所長)、大谷正敏(元岡崎医療刑務所長)、伊藤真次(元北大生理学教授)、織家実(元名古屋市衛生局長)、座馬正道(戦死)、村井寿夫(元、西尾市で開業)の名があり、病院には、片耳聴診器あり、聴診しながら問診ができて便利だったと云う。


(東山脳病院)



(なお、小林アルバムには病棟内の写真がもう一枚添付されているが、一部の患者のプライバシーに配慮してアップは見合わせた。)

[追記(2014年10月25日)]

丸山萬五郎のひ孫にあたる方から情報提供があった。
それによると、東山脳病院は空襲で消失したが、空襲前日に患者を帰宅もしくは寺などに避難させていたという。
情報提供者の祖父の丸山秋は副院長をしていたようで、上の写真(昭和12年元旦記念写真)の前列右から四人目が丸山秋ご本人かもしれないという。

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:31 | comments(1) | - | pookmark |
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE