久しぶりの小林靖彦資料の紹介記事である。
前回は、大正3年に名古屋の鶴舞へ移転した、愛知県立医学専門学校の話だった。
大正9年、愛知県立医学専門学校は、県立愛知医科大学へと昇格。
専門学校側としては、一気に官立(国立)医科大学への昇格を企図したようだが、すぐにはかなわず、とりあえず県立どまり。
北林貞道が医学専門学校の時代からの精神科の「教諭」、さらに大正6年の公立学校職員制で「教授」へと名称変更。
以下の小林の記述でわかりにくところがあるかもしれない。
あらかじめ解説しておくと、北林は愛知県立医学専門学校「教授」だったが、この専門学校が大学に昇格したのと同時に、愛知医科大学「教授」に移行したわけではない。
名称は同じ「教授」だが、根拠となる法令が違うようだ。
北林が医科大学教授になったのが、専門学校から医科大学への昇格2年後であった理由は、このへんの事情からだろうか。
以下は、小林の記述である。
北林教授は、先に在欧中、Monakov 教授より脈絡叢が胎生的に脳髄の発達、又、後天的に脳髄の機能と重大関係あるの指示を受け、Bleuler 教授より診断確実なる多数の脳材料を得て、叢と機質的(注:器質的か)脳疾患及精神分離症(注:統合失調症)との関係を研索し、就中分離症の病理本態をば新方面より闡明せんと企て、海外で其成績を発表したが、大正10年の第20回日本神経学会総会で「脈絡叢に関する輓近の知見」なる宿題報告を行い、仝年11月、東京帝大にて学位論文が通過した。
其の要旨は、精神分離症の脈絡叢が集積委縮と集積硬化とを起し、叢の各分泌細胞も絨毛血管も著しく変化し、2つの周囲には膠様質や石灰質の沈着あり、又脳室の一小部分たる絨毛間腔には毎常モ氏(注:Monakov氏)の所謂浸出物や種々のコンクレメント杯を認め、脳室被膜も亦絨毛の分泌細胞に見る如き変化あり、被膜下組織、膠質組織には委縮があり、委縮せる間隙に上記の異物たるコンクレメントの類を発見するも、他の疾病に於ては此等著明な変化なきが其区別点なりと云うにあり。
大正11年7月、北林教授は、県立愛知医科大学教授に任ぜられた。
仝年7月11日、県立愛知病院は、「愛知医科大学病院」と改称された。
大正12年10月23日、新営の病室ニ百坪竣工し、旧病室と合わせて四百坪となり、「大いに余裕を生じた」と北林教授は「愛知医科大学―神経精神科学教室ノ歴史及ビ作業ノ小況」の中で述べている。
大正13年6月1日、愛知医科大学病院は、「愛知医科大学附属病院」となった。医学校が病院に附属された形から、独立して併立となり、ここにはじめて病院が、医学校に附属されることになった。
鶴舞に移った愛知医学専門学校、昇格した愛知医科大学の神経精神科学教室(主任・北林教授)の入局者は、次のごとし。
(上の写真の説明:小林の自筆による)
(つづく)
小林の記述は以上である。
ところで、さる情報筋から聞いたのだが、名古屋大学附属図書館医学部分館で後藤新平の足跡をたどるミニ展示会(「愛知医学校長 後藤新平 −『大風呂敷』と呼ばれた男の名古屋時代−」)が2014年1月31日まで開催されているそうである。
このブログで紹介した記事と重なると思われる。
後藤新平ファンは必見かもしれない。
参考まで。
以下のように「近現代精神医療史ワークショップ4」を開催します。
今回のテーマは、「ミュージアム」です。
関心のある方は気軽にご参加ください。
日時:
2013年12月22日(日)13:00 から 16:00ころまで
会場:
〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38
ウインクあいち(愛知県産業労働センター)
会議室1306
アクセス:
(JR・地下鉄・名鉄・近鉄)名古屋駅より
◎JR名古屋駅桜通口から ミッドランドスクエア方面 徒歩5分
◎ユニモール地下街 5番出口 徒歩2分
** 演者および演題 **
13:00-14:30
山名 淳 (京都大学大学院 教育学研究科)
想起のアーキテクチャとしてのミュージアム
――「時間のループ化」問題を考える――
14:30-16:00
竹島 正 (国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所)
歴史資料館整備の現在的意味
+
後藤基行 (国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所)
1954年・63年『精神衛生実態調査』の資料的意義と研究可能性について
以上
そのスケジュールに関する記事(「第17回日本精神医学史学会学術集会 公示 (学会スケジュール)」)が学会ホームページにアップされたのでご参照いただきたい。
なお、スケジュール自体は、学会ホームページにリンクした第17回日本精神医学史学会学術集会のHPで見られる。
8時半に京都駅前に集合。
移動手段は貸切バス。
京都の観光どころなどを通りながら、10時ころ岩倉に到着。
いったい、岩倉を訪れたのは何度目だろうか。
そのうち何度かは、今回のエクスカーションでガイドをつとめた中村治氏(大阪府立大学)のガイド付きだった。
中村氏は、「橋本さん、悪いなあ、知っていることばかりで」と言うが、
何度訪れても新たな発見がある。
岩倉自体がどんどん変化していることも、その一因である。
下の写真は、旧・今井保養所(右)と階段(中央)である。
文献などでお馴染みのアングルの写真かもしれない。
だが、私にとっては、左の北山病院の建物が新しい。
「いつの間に建ったのか・・・」という感じ。
(旧・今井保養所附近)
ラッキーなことがあった。
たまたま庭に出ていた今井さんの配慮で、玄関先から旧・今井保養所の中を見ることができた。
いつも岩倉児童公園から、遠巻きに建物外部を見るだけだったので、感動的…
下の写真は玄関先から庭を眺めたアングル。
屋内は和風の落ち着いた雰囲気。
おそらく、保養所として現役だったころもこんな感じだっただろう。
(旧・今井保養所の中)
もうひとつの目玉は、旧・城守保養所(新館)の訪問である。
城守さんのお宅の内部を見学するのは初めてだった。
かつて患者を預かっていたという部屋が、「資料館」に改装されている。
つまり、公共に開かれているということだ。
画期的である。
岩倉や保養所に関する書類や写真が展示されている。
(「城守保養所資料館」)
座敷で城守家の御当主よりお話を伺った。
「岩倉歴史散歩道」というオールカラーのパンフレットもいただいた。
下の写真はその座敷だが、かつてここに患者が泊まっていた。
8畳間がふたつ。
1部屋に2人ずつだったという。
(城守家座敷)
城守家を後にして、南禅寺に移動した。
かつて、この方丈(現在は国宝)に京都癲狂院があった。
しかも、わが国最初の公立精神病院だった。
岩倉の患者をこの癲狂院に入院させたという経緯もあって、今回の探索には欠かせぬスポットである。
(南禅寺方丈前で)
とはいえ、お昼近くになっていたので中村氏の説明もそこそこに、門前の京料理店「八千代」へ。
名物の湯豆腐などをいただいたあと、琵琶湖疎水に沿って周囲を散策。
その後、バスで京都駅へ、そして解散。
思えば、この散策は第36回日本精神病理・精神療法学会の企画だった。
そもそも私はその学会員ではない。
参加させていただいて感謝。
(京料理の店「八千代」)
小林靖彦アルバムが『愛知県精神医学風土記』から、『愛知県精神病院史』へと変わったが、相変わらず内容は愛知県立医学専門学校の話である。
以下は小林の記述である。
大正3年3月30日、愛知県立医学専門学校は、県立愛知病院と共に、鶴舞公園北側に、新建築成って移転した。
精神病棟は、東西に長く、その中央に総入口があり、西病棟を男子に、東病棟を女子患者にあてて収容した。自費患者25名、学用患者4名、計29の定員であった。
大正4年4月、新装なった愛知(注:県立)医学専門学校を会場に、解剖、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科の4つの医学会が開催された。
大正6年1月、「公立学校職員制」が公布され、北林教諭は、教授となった。
仝年6月より、北林教授は、3年間瑞西に海外留学を命ぜられた。
大正8年3月、「精神病院法」が制定された。
大正9年3月13日、愛知(注:県立)医学専門学校の大学昇格運動の最中、東海精神神経学会の前身である「日本神経学会名古屋地方会」が誕生した。
この第1回例会では、北林教授はスイスからの帰朝の途にあり、神経科からは渡辺鍵太郎(大正4年入局、大正15年5月助教授、仝年6月医学博士、仝年8月三方原脳病院開設)が、ただ一人報告している。
大正9年6月、愛知県立医学専門学校は、「県立愛知医科大学」に昇格した。
(つづく)