世田谷美術館に行った。
たぶん、四半世紀くらいぶり。
両国国技館に行くつもりが、予定変更で急遽ここに。
「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」展が気になったのである。
(東京都立砧公園内にある世田谷美術館の正面入口付近)
この展覧会が、アンリ・ルソーを導入にしながら、どのように「アウトサイダーズ」にまで来館者の関心をつないでいくのか。
そのプロセスに興味があった。
これまで世田谷美術館は、アウトサイダー・アートに力を入れてきたようだ。
にもかかわらず、というか、むしろ、それゆえにこそ、アウトサイダー・アートを主題にしながら、一般受けするルソーを代表とする素朴派をバッファーにすることで、アウトサイダー・アートを無骨に前面に出さない「控えめな主張」を試みたということか。
言いかえれば、日本に蔓延している(かもしれない)「アウトサイダー・アート=障害者アート」という刻印を消し去りたいという、美術界からの反撃みたいな感じ?
それはともかく、展示作品はすべて世田谷美術館の収蔵品のようだが、「アウトサイダーズ」の「人選」はバランスが取れていたように思う。
山下清 (1922-1971) や 草間彌生 (1929- ) はあくまで控えめに、目立たぬように。
このところ西欧美術界で人気の、いわゆる「アール・ブリュット・ジャポネ」系作家の展示も一切ない。
意図的だろう(か?)。
個人的には 久永強 (1917-2004) の絵が強烈だった。
もともとカメラ店をやっていた久永は、香月泰男のシベリア抑留・シリーズを見て衝撃を受けたものの、「私のシベリアはこれではない」と、自ら絵を書きはじめたという。
展示の一角が「グギングの画家たち」に当てられていたのはうれしい。
August Walla (1936-2001) の絵は印象的。
オーストリア・ウィーン近郊の Gugging (精神病院内)の「芸術家の家」に所属していた作家である。
かつて、この「芸術家の家」を訪れたことがあるが、この家の壁面全体もWalla が描いたものであった。
この展覧会の詳細は、世田谷美術館のホームページをご参照。
さて、ついでというにはやや遠いが、その足で上野の国立西洋美術館にも行った。
「ル・コルビュジエと20世紀美術」展も気になったので。
ところが、偶然なことに世田谷美術館の展示との接点があった。
Louis Soutter (1871-1942) である。
Soutter はスイスに生まれ、26歳で渡米。
コロラド大学の美術学部長まで務めた人のようである。
後に精神の病を患ったようで、52歳で高齢者の施設に入所、絵を描きはじめた。
彼の母方の従弟であるル・コルビュジエによって、その作品が見出された。
ル・コルビュジエは Soutter の才能を確信し、経済的な支援を行ったという。
Soutter の作品は世田谷美術館と国立西洋美術館の両方に展示されていた。
(国立西洋美術館の正面入口付近)
友人の高校教師に頼まれて、いわゆる「出前授業」に行ってきた。
一般的な依頼のルートは、高校→大学(事務局)→学部・学科→教員、というものだが、
友人から直に頼まれた(ので逃げようがない)。
もちろん、勤務先の大学の宣伝という目的もあるのだが、「出前授業」のテーマは「好き選んでください」ということだったので、自分の研究を高校生に伝えるいい機会と考えた。
そこで、「こころと社会と歴史」というタイトルで、西欧と日本の精神医療史の話をすることにした。
話のネタは、大学で担当している「精神保健福祉論」のなかで、“おまけ”として毎回の授業でやっていた「狂気と逸脱の表象」から選んだ。
ここでいう「狂気と逸脱の表象」とは、洋の東西や時代を問わず、さまざまな絵や写真などに表現された「狂気」のことである。
それが何であるか、専門家以外には想像もつかないことが多いが、学生にそれを考えてもらう、という「遊び」である。
突拍子もない、「出鱈目」な回答ほど面白いのだが、間違った答をすることにセンシティブな近年の学生たちは、たいてい「もじもじ」しながら無難な答をしぼり出すのみ。
さて、「出前授業」を行ったのは、静岡県立磐田南高校。
大正11年に(旧制)見付中学として開学。
県西部の進学校である。
(JR磐田駅から歩いて、15分くらいで到着。)
磐田南高校の「出前授業」は、「ミニ大学」という枠組みのなかで行われており、今年で14年目だという。
今回は9月18日から20日までの3日間の日程。
驚いたのは、全国から30人もの大学教員が来ていることである。
九大以外の旧七帝大、早慶、筑波、広島などなど。
「よくもこれだけ集めたものですね」と進路担当の先生に言ったら、うれしそうだった。
それはともかく、生徒は熱心に聴いてくれていた様子で、授業はやりやすかった。
授業の終わりには、まっすぐな質問も出た。
大学生とはだいぶ違う。
ところで、磐田南高校に隣接して「遠江国分寺跡」がある。
建物の礎石くらいしか残っていないが、雰囲気のいい緑地になっている。
友人によれば、なかなか高校の建て替えができないのは、地面を掘り返すと遺跡が出てくるから、ということ。
(国分寺跡の緑地)
ローレッツが愛知医学校(当時は公立医学校という名称だったが)で、精神病学に関する講義を行ったのは明治12(1879)年とされる(たとえば岡田靖雄『日本精神科医療史』)。
これは、同年にベルツ(E. Baelz)が東京大学医学部で開始した講義と並んで、わが国で最初の精神病学講義、とはしばしば言及されることである。
ところが、明治13(1880)年にローレッツが退職すると、愛知医学校の精神病学の講義は途絶えてしまった。
精神病学が復活したのは、明治21(1888)年だった。
担当したのは、愛知医学校教諭で内科学担当の医学士、川原汎である。
4年の学生に対して、内科学の分科として、1学期間(半年)、各週2時間の講義。
下の写真は川原による『精神病学提綱』(明治27年)である。
小林靖彦によれば、総論をWeiss-Salgo、診断をJ.L.A. Koch、治療総論をE. Kraepelin、法医学的鑑定をE. Hofmann の著書から引用・訳出・編纂したもののようである。
川原の後、(内科担当の傍ら)精神病学の講義は、大西克孝(明治30 [1897] 年)、長松将之輔(明治33 [1900] 年)に引き継がれた。
明治34(1901)年8月、愛知医学校から「愛知県立医学校」に改称。
明治36(1903)年7月、専門学校令により、愛知県立医学校は「愛知県立医学専門学校」となった。
校長は引き続き熊谷幸之輔である。
(細かいことだが、上の写真の「愛知医学専門学校」という名称はなかった?これまでの経緯をみると。)
明治40(1907)年、文部省は医学専門学校令を出して、その教科目に精神病学を正課として設置することになった。
同年12月29日、愛知県立医学専門学校の精神病学担当教諭として、東京帝国大学医科大学助手の北林貞道が赴任。
北林は愛知県立病院神経精神科部長も兼務した。
精神病学講座の開講は翌明治41(1908)年1月8日(この日が名古屋大学医学部精神医学教室の始まりとされているようである)。
北林は長野県飯田の出身。
明治29(1896)年、愛知医学校を卒業。
明治30(1897)年より1年間、東大で内科学の研修。
明治33(1900)年より東大助手および東京府巣鴨病院(松沢病院の前身)医員をしていたが、明治40(1907)年に母校に戻ってきたというわけである。
相変わらず愛知医学校の続きである。
今回から小林靖彦アルバムは『愛知県精神医学風土記』の「6」である。
この「6」のアルバムにはあまり写真がなく、本の文章をコピーして、切り張りしたものが多い。
だが、内容は面白い。
愛知医学校の経営はかなり危機的だったらしい。
1887(明治20)年9月の勅令により、明治21年度から府県立医学校の費用に地方税を投入できなくなった。
つまり、医学校の独立採算制の導入である。
地方税の支弁を禁じた理由は、公立(府県立)の医学校を減らし、官立(国立)の医学校を増やしたいという国策によるらしい。
どうやら国は、公立の医学校の教育は「不完全」で、官立のほうは「完備」していると考えていたようだ。
この政策の影響は如実に現れている。
勅令の1年前だが、1886年の愛知県の県会では、一度は愛知医学校の廃止案が可決されたという。
また、隣の三重県では甲種の医学校が同年3月に廃校、岐阜県医学校も同年7月に廃校となった。
こうして、1886年に全国にあった公立医学校23校は、翌年には18校に減り、1889年には3校(京都、大阪、愛知)にまで減った。
当時の愛知医学校の年額校費は約3万円であり、この半分程度を地方税でまかなっていた。
半分の予算ではもたない。
学生の授業料収入だけではやっていけない。
県庁からは、廃校やむなし、との声も出た。
だが、当時の熊谷校長にしてみれば、廃校だけは避けたかった。
校長の見通しでは、
1)他の医学校が廃校すれば、転入学生が増え、授業料の増収がある。
2)(医学校の)病院で親切に患者を扱い、診療時間を延長すれば、収入も増える。
3)さらに、経費の節減(場合によって、給料の減額)を行う。
これらによって、危機を脱することができると。
実際、功を奏したようで、医学校は存続したのである。
他の府県医学校の廃校によって、遠近より入学する学生が増えたという。
逆に、新たに設置された官立医学校へ、愛知医学校から多数の転学者が出るのではないかと予想されたが、それほど多くはなかったようだ。
熊谷校長曰く、「自分は父の教訓である本田を荒して新田を拓くなかれという言葉を守って、遂に廃校にしなかった」(熊谷幸之輔校長回想)と。
熊谷校長に敬意を表して、もう一度写真を掲載しよう。
(つづく)
1882(明治15)年5月、医学校通則(文部省達)が制定された。
医学校は甲と乙の2種類となる。
甲種は「尋常の医学科を教授し以て医師の具成を図り」、
乙種は「簡易の医学科を教授し以て医師の速成を図る」とした。
甲種医学校の卒業生は、無試験で医師の資格が得られた。
ただし、甲種になれたのは、官公立の医学専門学校のみだった。
また、甲種医学校の教員のうち少なくとも3名は、東京大学を卒業した医学士でなければならなかった。
ところで、1899年、新設の京都帝国大学医科大学に設置されるべき講座が決まると、京都府医学校(現・京都府立医科大学)の医学士教諭の引きぬきが起こったことはよく知られている。
京都府医学校に甲種医学校からの脱落の危機が迫ったのである。
1900年5月、ついに医学士教諭が2名(島村俊一、高山尚平)になってしまう。
あわてた島村校長(東大卒、精神病学)は、人探しに奔走、危機は回避された・・・
一方のわが愛知医学校はと言えば、とくに大きな問題もなく1883(明治16)年1月に甲種医学校と認定された。
その年、校長の後藤新平が内務省へ転出。
それに伴い、鈴木孝之助が校長に、熊谷幸之輔が病院長に就任。
前年(1882年)4月に、板垣退助が岐阜で遊説中に刺客に襲われて負傷。
この時、後藤は人力車で現地へ急行し、応急手当をする。
後藤の名は一躍天下にとどろいたという。
東京転出は、この功あってのことか。
1883(明治16)年10月、鈴木校長が海軍大軍医として転出、熊谷幸之輔が校長に就任。
なお、後藤新平の名古屋時代の旧居跡が、中区大須にあるらしい(未確認)。
小林靖彦はその写真も撮っている。
(つづく)
*** 追記 ***
その後、ブログの「読者」から、現在(2013年9月)の「後藤新平邸跡」の写真を送っていただいた。
お礼を述べるとともに、その写真をアップしておきたい。
以上