近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
『愛知県精神医学風土記』 その8 <新シリーズ・小林靖彦資料 73>

公立医学校の横井信之校長が病気のため退職し、1880(明治13)年5月、後藤新平が校長心得に就任。
1881(明治14)年4月、医学校通学生の募集が布達された。
募集人員は70人、入学試験は「十八史略(講義)、日本外史講義、作文(片仮名文)、身体検査」だった。
同年6月に医学校規則が改正され、生徒を「医学生徒及び傍聴を願ふ処の卒業医師」の2グループとした。
入学資格は満17歳から25歳の者で、学力および体格検査のうえ入学を許可することとした。
25歳以上の者は、欠員がある場合のみ入学を許可された。
教育年限は4年、これを8期に分けた(今で言うセメスター制だったのか)。

1881(明治14)年9月、公立病院を「愛知病院」に、同年10月には公立医学校を「愛知医学校」と改称。
これに伴い、後藤新平は校長心得から愛知病院長兼愛知医学校長に任ぜられた。
また、教授陣を充実させ、外人教師にかえて東京大学卒業の医学士を4人揃えた。
愛知県出身の医学士、鈴木孝之助は月俸120円で任用された。
これは破格の待遇だったという。





(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 17:21 | comments(0) | - | pookmark |
『愛知県精神医学風土記』 その7 <新シリーズ・小林靖彦資料 72>

これまでローレッツの話題が出たが、彼と同じ時(1876年5月)に医学講習所に着任したのが司馬凌海(盈之)(1839-1879)である。
凌海は佐渡の農家に生まれ、11歳で江戸に出て、松本良順、佐藤泰然などのもとで医学、蘭学を学んだ。
「神童」と称された。
5か国語(独・英・蘭・仏・支、一説には露も加わり6か国語?)に堪能で、ラテン語、ギリシャ語の教養もあったという。
医学講習所では、ローレッツの講義を通訳したという。
後藤新平は凌海の教え子。

のちに肺患に罹り熱海に転地。
東京への途上、1879(明治12)年3月、戸塚で死去。
39歳。

司馬凌海の碑が名古屋(中区大須2-7-25)の大光院にある。
1882(明治15)年3月、後藤新平ら門人百人余りの尽力で建てられた。
小林靖彦はこの寺を訪れたようで、その写真をアルバムに貼っている。











(つづく)

*** 追記 ***

その後、このブログの「読者」から、最近(2013年9月)大光院で撮った写真を送っていただいた。
お礼を述べるとともに、以下にその写真をアップしたい。







以上。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:47 | comments(0) | - | pookmark |
『愛知県精神医学風土記』 その6 <新シリーズ・小林靖彦資料 71> および 番外編

1879(明治12)年、愛知県の公立医学校校長・佐々木優介は岡崎病院の院長として転出。
同年3月、後任の校長として、陸軍一等軍医・横井信之が就任、また、ローレッツの任期が1年間延長された。
同年6月、医学校の修業年限を3年から4年に延長。
同年7月、校長を補佐する監事が置かれ、初代の監事となったのが当時24歳の後藤新平。



ところで、1879(明治12)年1月に、ローレッツは癲狂院設立の建議書を県令に提出している。
「僅々数月にして受診患者中既に発狂者を見る事数輩に及」んだためという。

ローレッツが設計した癲狂室は1880(明治13)年4月に竣工。
当時、国内には類例がない斬新な建物だったという(下の写真)。
2階のように見える部分は、採光のための窓である。

呉秀三『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)には、「愛知病院ノ精神病室(今ハ此室ナシ)」の模型写真がある。
一方、以前紹介した、田中英夫『御雇外国人ローレツと医学教育』(名古屋大学出版会、1995年)には、第24回日本医学会総会の委嘱により名古屋大学工学部建築学科の先生が描いた癲狂室の「復元図」が載っている。



さて、ローレッツは、1年の任期延長を終え、1880(明治13)年4月に退職となった。
ローレッツの功績は多岐にわたる。
下の写真は彼の講義内容をまとめた『断訟医学』および『皮膚病理一班』である。





ローレッツが愛知県を去るにあたって、県令をはじめ諸官吏、医学校職員、在校生たちが人力車を連ねて熱田に至り、水月楼(どんな店か、詳細は不明)で盛大な送別会が行われたという。
病床の校長・横井信之にかわって送別の辞(送教頭老烈氏之詞)を述べたのが、後藤新平だった。

(つづく)

                      *** 番外編 ***


大学が夏休みになると、今度は実習学生の「巡回指導」というものがある。
精神保健福祉士の国家試験受験資格の実習ということで、精神科の病院や施設で実習中の学生を訪ねる旅である。
今回、岡崎方面の病院に行くことになった。
せっかく岡崎に行くなら、現在開催中のあいちトリエンナーレ2013の岡崎会場を逃す手はないと思えた。
岡崎会場にだけ行くのもなんだから、やっぱり、(実質的な)メイン会場である名古屋・栄の愛知芸術文化センター(愛知県美術館)にも行くことに。

名古屋・栄のほうを訪れる人は多いだろうから省略し、ここでは岡崎を紹介したい。
一言で言えば、岡崎は実に「ディープ」な会場である。
籠田公園の市営地下駐車場に車をとめて、適当に歩く。
迷ったかなと思い、道を聞こうと入ったビルが「康生会場」の一角をなす「春ビル」だった。
すぐ近くに「旧連尺ショールーム」があったが、窓が一つもなく、それらしい雰囲気がないので、「ほんとに、これ、やってんの?」という感じで自動ドアの前に立つ、「閉まってるよ、これ」とほぼ確信を持ちながら。
すると、スーッとドアが開く。
開いたものの、いきなり遮光カーテンが引いてあって、中は真っ暗。
どこからか「入場券を拝見いたします」という声が…

さて、私が期待したのは、「康生会場」から少し離れた「松本町会場」。
古い(かなりさびれた?)商店街とお寺で構成されている会場らしい。
まず目に入ったのは、「旧あざみ美容室」という、天井も一部落ちかけた家。
ここに展示がある。

細い路地を入ると、「旧今代」(昔の店?民家?)にて丹羽良徳の展示「日本共産党でカール・マルクスの誕生日会をする」。
これは正直、笑えた(まじめな党員の方には申し訳ないかもしれないが)。
展示に先立ち、7月6日の夕刻にここで、マルクスの195歳の誕生日会が行われたようで(その時のパンフによれば、予約不要、誰でも参加OK)、この時の様子も中でビデオ上映されていた。



「松本町会場」から再び「康生会場」へもどり、「岡崎シビコ」へ。
これは、6階建てのデパートのようだが、上のほうのフロアはいまは使われていないらしい。
そこが展示会場になっている。

下の写真は5階に展示(音や光の演出もあるので、上演と言ったほうがいいかも)されていた向井山朋子+ジャン・カルマン(Jean Kalman)の「Falling」。



さらに、「岡崎シビコ」の屋上に出る。
一面白くて、とても眩しい。
会場ではサングラスを貸してくれる。

天気がいいな、などと空を見上げると、なにか白い網のようなものが。
サングラスに筋でもついているのかと思ったら、


(「岡崎シビコ」の屋上)

屋上一面の、手が届かないくらいの高さのところに、細いネットが張り巡らされていたのである。



そんなわけで、全部は見れなかったが、時間もないので退散。
会場を後にして駐車場に戻るまでの、「典型的な地方都市の商店街らしさ」がおもしろくて仕方がない。
ふつうであればあるほど、パッとしなければしないほど、コンテンポラリー・アートに見えてくるから不思議である。
これがトリエンナーレの狙いの一つなのだろう。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:37 | comments(0) | - | pookmark |
『愛知県精神医学風土記』 その5 <新シリーズ・小林靖彦資料 70>

ローレッツが、(医学講習場→公立医学講習所→)公立医学所に赴任してから1年あまりたって、大きな変化があった。
1877(明治10)年7月、「名古屋西本願寺別院」にあった病院および医学所が、「堀川河畔天王崎町」に新築移転となったのである。

『名古屋大学医学部百年史』によれば、当時「中京唯一の洋風かつ理想的な建築が竣工」した。
建設費用は、病院については県税および(名古屋の)東、西本願寺と高田派等真宗三派の寄付金により、医学所は県税および管内開業医の醵金によってまかなわれた。


(堀川沿いの新病院・医学所)


(小林が撮影した天王崎橋付近の堀川。1970年代か。)


(小林が撮影した天王崎橋)

上の小林アルバムの写真も悪くはないが、Network2010 というサイトに、“明治時代の名古屋「愛知県立医学専門学校」”というページがある。
堀川時代の写真や、過去と現在の位置関係がよくわかる地図も掲載されている。
こちらも参照されたし。

1878(明治11)年1月、医学所の校長(正確には所長?)に佐々木優介が就任。
同年4月には、医学所が「公立医学校」と改称され、病院附属から独立。

下は、1878年冬の「入学記念」の写真だという。
「下より二段目右から3人目が後藤新平」だそうだが、顔が判別しがたい。
後藤は福島県須賀川の医学校を出て、1876(明治9)年に愛知県病院に就職(三等医)。
ローレッツの講義も聴いている。
西南の役で傭医として赴任後、再び名古屋にもどり、1878年には県病院に再度就職した。



(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:36 | comments(0) | - | pookmark |
『愛知県精神医学風土記』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 69>

愛知医学校の歴史の続きから。

1873(明治6)年5月、「名古屋西本願寺別院内」に「仮病院」が開設されたが、同年11月には同所に「医学講習場」が設置された。
授業は教師ヨングハンスが英語で教え、英語の教科書が使われたという。
これに関して、「医学講習場仮規則」の第9条に面白い規定がある。

第九条 生徒年齢三十歳以下の者は原書に就かしめ以上の者は訳書に順はしむべき事。但三十歳以上の者と雖も既に原書を学びたる者は勿論有志の徒は此限りに非ず。

つまり、「30歳以上の学生は、訳本でいいよ」ということである。
含意としては、「高齢者」に原書はきついだろうから、ということか。
現在の、社会人が多い大学院教育と、どこかスタンスが似ている。

さて、その後、いくつかの名称変更があった。
1875(明治8)年1月:「(仮)病院」から「(愛知)県病院」へ。
1876(明治9)年4月:「県病院」から「公立病院」へ、「医学講習場」から「公立医学講習所」へ。これと同じ時期に、ヨングハンスは任期満了となり、退職。

ヨングハンスの後任が、1876年5月に赴任したローレッツ(Albrecht von Roretz, 1846-1884)である。



ヨングハンスに比べて、オーストリア出身のローレッツの情報は格段に多い。
小林が引用している『名古屋大学医学部百年史』によれば、着任した「ローレッツは当時二十四歳、堂々たる髭髯をたくわえた六尺豊かな巨漢で、外科学を専攻し、講義は外科通論、臨床講義のほか、婦人病論、産科学、皮膚病論を講じた」とある。
精神医学史的には、わが国でもっとも早い時期に精神病学(精神医学)を講じた外国人の一人としてよく知られている。

小林靖彦がアルバムを作成した時代以降、ローレッツについてはかなり研究が進んだと言えよう。
田中英夫『御雇外国人ローレツと医学教育』(名古屋大学出版会、1995年)は、もっとも詳しい文献かもしれない。
とくに、マイクロフィルム版の後藤新平資料に収められた、ローレッツ関係の文書を分析したところが評価される。
ただし、私がこのマイクロフィルムを使って論文を書いた経験からすると、後藤新平文書をさらに読み込む余地はあり、ローレッツ研究はまだまだ未完という感じ。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 17:20 | comments(0) | - | pookmark |
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