近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
オックスフォードでの会議を終えて


(St. Anne's College の会議会場)

2013年6月26日〜27日にオックスフォードのSt. Anne’s Collegeで行われた国際シンポジウム "Therapy and Empowerment – Coercion and Punishment" に参加した。
いかめしいタイトルだが、平たく言えば「作業療法の歴史」の会議である。
参加者は20数名と小規模だが、逆にそれ故に実に濃密な二日間だった。
英語圏・ドイツ語圏の参加者が中心で、OT(作業療法士)関係の人が半分、広義の歴史研究者が半分という感じ。


(会議の様子)

最初に参加の誘いがあったとき、作業療法とはまるで縁がない私、なので発表するネタがあるはずがないと思っていた。
が、よくよく考えてみると、縁がないわけでもない。
それどころか、大有りだ。
近代日本の精神医療史のなかで、作業療法は一つのジャンルである。

そもそもわが国の作業療法は、精神科ではじまったといってよい(これは欧米でも同じようだ)。
なかでも、戦前の東京府立松沢病院の加藤普佐次郎らによる「土木作業」(将軍池と加藤山づくり)はあまりに有名である。
(もっとも、会議の参加者の一人から、この土木作業の経済的なメリットは何かと問われて、答えに窮した。思えば、病院の作業は常に労働・搾取と結びついていたわけだが、この松沢の土木作業はどう位置づけられるのか。そもそも「作業療法」と言えるのか。単に、この作業経験をネタに博士論文を仕上げることになる加藤の趣味に、患者がつき合わされていただけなのか。もちろん、結果として、美しい「日本庭園」になったというメリットはあったかもしれないが。)

戦前はともかく、戦後の(あえて精神科とは限定しない)作業療法の歴史がよくわからなかった。
そこで、この国際シンポジウムでの発表ネタのためにいろいろ調べてみると、戦後日本の作業療法の世界には興味深い歴史があることがわかった。

とくに重要と思われた事項は、国立武蔵療養所で始められた「生活療法」、国家資格としての理学療法士と作業療法士の養成のためにわが国最初に創設された「リハビリテーション学院」、日本精神神経学会が反対した作業療法の診療報酬点数化、であった。

加えて、興味深いのは「作業療法理論」である。
アメリカ直輸入の理論からはじまって、日本から発信された「川理論」(「川」はriverのこと)なるものまで。

そんなことをまとめて発表したわけだが、英語圏(イギリス、アイルランド、オーストラリア)のOTの人からは、「来年は横浜で作業療法士の世界大会がある」と参加を強く勧められた。
5千人くらいが参加する、4年に1回のすごい会議らしい。

二日間の会議の締めくくりとして、Oxford Brookes University の図書館に皆で移動した。
イギリスで最初の作業療法士の養成学校である The Dorset House の資料が保存されているという。


(Oxford Brookes University の図書館。OT関係の資料が置かれていた。)

最後におまけ。
会議が終わって、やっとオックスフォード見物をした。
適当に歩いてたどりついたのが、Christ Church。
Church とあるが、オックスフォード大学の有力なカレッジのひとつである。
入場料を払って中へ。
Hall に入ると、どこかで見たような感じ。
『ハリー・ポッター』の魔法学校の食堂のモデルになったという(『地球の歩き方』によれば)。
さらに、あのルイス・キャロル(または、Charles Dodgson)が、ここで学び、教え、住んでいたという。


(Christ Church の The Hall)

| フリートーク | 15:47 | comments(0) | - | pookmark |
『精神医学史研究』 Vol.17 no.1 (2013)
 2013年6月に『精神医学史研究』 Vol.17 no.1 (2013) が発行されました。
目次の詳細は、学会のホームページをご覧ください。 
| おしらせ | 17:10 | comments(0) | - | pookmark |
『名古屋の精神医学史 戦後編2』 その10 <新シリーズ・小林靖彦資料 65>

今回で『名古屋の精神医学史 戦後編2』は終わり。
小林の「小括」があるのはおもしろい。
このアルバム、および『名古屋の精神医学史 戦後編1』のふたつの「小括」のようである。
小林の「戦後精神医療史」観がわかる興味深い記事である。
基本的には、現在にも引き継がれている、「入院治療から地域ケアへ」という教科書的な記述と言っていいだろう。

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小括


 敗戦の混乱の中で、精神病者を収容治療するところは、愛知県立精神病院、名古屋帝国大学医学部付属病院、精治寮病院の本院と分院、北林病院しかなく、それも充分に機能を発揮出来る状態ではなかった。

 しかし、食糧難などの生活苦のため、軽症患者の外来通院もほとんどなく、また、私宅監置に依存し、入院してくる患者も少なかった。

 この当時、愛精病院と名古屋市立大学病院精神科の誕生が見られたのみであった。

 新しい日本建設のため、日本国憲法をはじめ幾多の法律が制定されたが、昭和25年(1950)5月1日、精神病者監護法と精神病院法が廃止されて、精神衛生法が公布された。

 精神病院法による代用病院は、指定病院として存続されることになり、守山荘病院、杉田病院、八事好徳病院、香流病院、八事病院が陸続として新生した。また、国立名古屋病院、中部労災病院、中京病院、名古屋鉄道病院にも精神科が併設されることになった。

 そして、好景気の波にのり、また、措置入院患者の特殊治療承認申請の廃止、精神衛生鑑定と入院措置の移しかえの実施(昭和36年)により、私立病院は増改築が繰返されて、大病院化していった。

 精神科医療に革命的変貌をもたらしたクロールプロマジンをはじめとする向精神薬の開発により、あらゆる身体的治療法(電撃療法、インシュリン・ショック療法、ロボトミー等)は影を消してしまい、精神療法、作業療法を中心とする生活療法の再評価がなされ、これは一方に医療収入減少を生み、一方、昭和40年(1965)6月30日、精神衛生法は改正されて、「入院中心主義から地域精神衛生活動へ」と精神衛生対策の中心が変更され、また、仝年10月1日から外来医療費公費負担制度が実施され、精神病院建設ラッシュも終った。

 その後に、開設されたものは、国立療養所志段味荘(結核療養所より転換)と松蔭病院のみであった。

 一方、田所クリニック、名古屋第一赤十字病院、名古屋保健衛生大学ばんたね病院、愛知医科大学附属病院、仁愛診療所と、幾多の外来診療所の開設が見られた。

 地域精神衛生活動の方向として、地方精神衛生審議会の発足、精神衛生相談所から精神衛生センターへの発展、保健所に精神衛生相談員の配置と、精神科医の委嘱による活動等が見られる。まだ充分な進展は見られないが、着々と努力が重ねられている。

 村松教授の努力で発足した精神衛生協会の活動も、昭和40年(1965)、全国大会を開催したのをピークに、減退の一向を辿っており、精神障害者への人格蹂躙、偽医師の問題等々があらわれ、精神科医療の本質が問われる事態となってきた。

文献

[注:なぜか文献番号の31以下しか掲載されていない。アルバムの一部が紛失しているのか。]

31)名古屋市立大学事務局総務課; 名古屋市立大学20年の歩み.昭和45年(1970).
32)愛精病院; 愛精病院二十年史.昭和44年(1969).
33)名古屋大学; 名古屋大学環境医学研究所要覧.昭和47年(1972).
34)国立名古屋病院; 国立名古屋病院二十年史.昭和41年(1966).
35)守山荘病院; 守山荘病院の歩み.創立十周年記念 昭和37年(1962).
36)守山荘病院; 守山荘病院の歩み.創立十五周年記念 昭和42年(1967).
37)八事病院; 十年のあゆみ.昭和46年(1971).
38)瀬戸少年院開庁十五周年記念誌編纂室; 陶陶塾十五年誌.昭和25年(1950).

(以上『名古屋の精神医学史 戦後編2』は終わり。)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 23:03 | comments(0) | - | pookmark |
『名古屋の精神医学史 戦後編2』 その9 <新シリーズ・小林靖彦資料 64>

名古屋少年鑑別所


 昭和24年(1949)1月1日、新少年法が実施されることになり、名古屋少年観護所及び名古屋少年鑑別所が開庁した。

 昭和25年(1950)4月、「名古屋少年保護鑑別所」と改称。

 昭和27年(1952)7月、「名古屋少年鑑別所」と改称。

 医師梶村洋一が、昭和36年(1961)3月16日より、昭和43年(1968)11月まで、第五代所長を勤めた。





 医師杉田稔は、昭和25年(1950)1月20日から、昭和39年(1964)2月29日までの14年間、医務課長を勤めた。杉田稔は、杉田直樹教授の次男である。



 医師遠藤統久が、昭和48年(1973)3月まで勤務したが、今は、庁舎は立派になったが、精神科医は勤務していない。





(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 21:48 | comments(0) | - | pookmark |
『名古屋の精神医学史 戦後編2』 その8 <新シリーズ・小林靖彦資料 63>

今回は少年審判所・家庭裁判所がテーマになっている。
なぜこれが「名古屋の精神医学史」なのか、と不思議に思われるかもしれない。
一般論としては、司法と精神医学との結びつきは深いから、という説明もできるだろう。
ただ、実際のところは、小林がかつて岐阜少年鑑別所所長をしていたという経歴に負うところも大きいと考えられる。

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名古屋少年審判所・名古屋家庭裁判所


 大正11年(1922)、「少年法」制定せられ、東京市と大阪市に「少年審判所」が設けられた。

 「名古屋少年審判所」は、昭和9年(1934)1月1日、名古屋市千種区萱場町3の33に開設された。(仝日、瀬戸少年院も開設された。)

 名古屋少年審判所には、杉田教授をはじめ、大野純三、堀要らの名大精神科の医師が嘱託として勤務した。

 この少年保護に関する事件を処理する行政官庁である「少年審判所」と、地方裁判所の支部として家庭事件を処理してきた「家事裁判所」(昭和23年1月設置)とを統合して、昭和24年(1949)1月、「家庭裁判所」が、誕生した。

 「名古屋家庭裁判所」は、はじめ名古屋高等裁判所内に、ついで中部地方建設局、さらに、中部営林局のあったところを転々とし、昭和35年(1960)4月、名古屋市東区上竪杉町4-1に、新築移転した。



 

 医務室には、堀助教授が嘱託として勤務していたが、昭和28年(1953)、山田豊が、技官として赴任し、今日に至る。




(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 22:55 | comments(0) | - | pookmark |
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