きょうの話は愛知医科大学である。
これについては、以前このブログで紹介した香流病院・守山十全病院も参照していただきたい。
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愛知医科大学
愛知医科大学は、昭和47年(1972)4月1日、名古屋市守山区大字森孝新田字元補7番地の「守山十全病院」(昭和32年5月、香流病院として開設)を母体として、開設された。
昭和47年(1972)4月1日、西丸四方(元信州大学医学部精神科教授)が、教授に就任、精神医学講座開講さる。
昭和47年(1972)12月16日、名古屋市立大学医学部講師大原貢が、助教授として着任した。
(つづく)
「名古屋保健衛生大学ばんたね病院」といっても、ピンとこない人も多いのではないか。
現在は「藤田保健衛生大学坂文種報徳會病院」と改称されている。
「坂文種」の読みは「ばんぶんたね」だが、地元では「ばんたね病院」と呼ばれているようだ。
そういえば名古屋駅近くで、新幹線の窓からこの病院をよく見るような気がする。
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名古屋保健衛生大学ばんたね病院
名古屋保健衛生大学は、昭和46年(1971)10月1日、名古屋市中川区八幡町2丁目8番地の「坂文種報徳会病院」(昭和5年9月16日創設)を買収して、「名古屋保健衛生大学ばんたね病院」を開院した。
昭和47年(1972)2月4日、神経科を開設し、慶大より山内維光が医長として赴任した。名古屋保健衛生大学助教授である。
(つづく)
今回は名古屋第一赤十字病院。
小林靖彦がこのアルバムを作成した当時、彼自身がこの病院に勤務していた。
そのため、小林本人が登場している。
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名古屋第一赤十字病院
日本赤十字社の前身である「博愛社の愛知支部」が、下笹島町に出来たのは、古く明治10年(1877)の5月のことであった。
「日本赤十字社愛知支部」の創立は、明治20年(1887)12月10日であった。
大正12年(1923)1月22日、中区下笹島町八十番地に、「名古屋診療所」を開設。
昭和12年(1937)4月、「日本赤十字社愛知支部名古屋病院」(101床)開設。
昭和20年(1945)8月、「名古屋赤十字病院」と改名。
昭和29年(1954)3月、「名古屋第一赤十字病院」となる。
昭和45年(1970)10月、病床850の愛知県A級基幹病院となる。
昭和46年(1971)8月16日、精神科併設。小林靖彦(元名市大精神科助教授、元愛知県厚生連尾西病院長)パートを委嘱。
昭和47年(1972)1月1日、小林靖彦が精神科部長に就任。
(つづく)
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なお、名古屋第一赤十字病院は、平成22年(2010)3月には全面改築工事が完了している。
病院のホームページにある病院の沿革では、スライドショー「病院のあゆみ」も見られ、なかなか充実している。
これからアルバム『名古屋の精神医学史 戦後編2』を順次紹介していきたい。
ここに登場するのは、
田所クリニック
名古屋第一赤十字病院
名古屋保健衛生大学ばんたね病院
愛知医科大学
仁愛診療所
精神衛生相談所・精神衛生センター
くすのき学園
名古屋少年審判所・名古屋家庭裁判所
名古屋少年鑑別所
である。
また、アルバムの最後に、名古屋の精神医学史の「(戦前之部)小括」および「文献」が書かれているので、それも紹介していく。
まずは、田所クリニックから。
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田所クリニック
昭和45年(1970)7月1日、元名大講師田所靖男は、名古屋市千種区覚王山通4-36(大恵ビル2階)に、神経科・内科「田所クリニック」を開設した。
これは、脳波検査を主とし、「てんかんクリニック」とも称せられるべき特異な存在である。
(つづく)
雑誌 "History of Psychiatry" (Sage Publications) の最新号(vol.24 no.2)に拙論文
A ‘German world’ shared among doctors: a history of the relationship between Japanese and German psychiatry before World War II
が掲載されている。
ドイツ系ラトビア人のスティーダ(W. Stieda)、ハンブルグ大学のワイガント(W. Weygandt)、そして東京帝国大学の呉秀三の biography や相互交流、ナショナル・アイデンティティに焦点をあてながら、彼らが共有していた「ドイツ的な世界」を描いた(つもりである)。
今となっては、ラトビアやハンブルク、東大医学図書館での調査の労苦を、なつかしく思い出す。
通常、ネット上ではアブストラクトしか読めないと思うので、全文ご入り用の場合はご連絡を。