前回の「名古屋市立大学医学部」の続きから。
ちなみに、小林靖彦は1961年から1969年まで、同大学医学部(精神科)に勤務。
本文中にもあるように、岸本鎌一教授のもとで助教授だった。
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(名古屋市立大学医学部のつづきから)
昭和30年(1955)4月15日、村上教授は退職され、京都大学教授に就任。仝年10月1日、吉田和夫教授就任。
(吉田教授)
吉田教授は、不幸、病におかされ、昭和34年(1959)4月26日、夭折さる。享年40才。
昭和34年(1959)12月25日、名大教授(環境医学研究所長)岸本鎌一が、教授に就任。
(岸本教授)
昭和41年(1966)11月、医学部臨床医学教室は、附属病院(市立大学病院と称する)と共に、川澄地区に移転する。町名は、瑞穂区瑞穂町字川澄1である。
(名古屋市立大学病院)
昭和42年(1967):第17回日本医学会総会が、名古屋で開催されるに当り、岸本教授は、第55分科会である第12回日本人類遺伝学会の会長をつとめ、また、総会シンポジウム「精神薄弱の成因と対策」の司会を担当した。このシンポジウムで、小林靖彦助教授は、「精神薄弱の遺伝」を担当した。
仝年、秋の第9回日本老年社会科学会において、岸本教授は会長をつとめ、「老人の行動を左右するもの」と題する会長講演を行った。
昭和44年(1969)3月31日、岸本教授は停年退職され、名誉教授の称号を授与された。
仝年(1969)7月15日、京都大学助教授大橋博司が教授に就任した。
(大橋教授)
大橋教授は、昭和48年(1973)11月30日、退職され、京都大学教授に就任した。
児玉教授は「遺伝学、精神衛生学」を中心に、村上教授と吉田教授は、「精神病理学」をもって教室員を指導し、岸本教授は、「精神薄弱の病因研究」を教室の主テーマとし、「東洋的精神療法」を自身の研究テーマとし、大橋教授は、「脳病理学」の領域にユニークな研究を示した。
(つづく)
今回から「新シリーズ・小林靖彦資料」で、新しいアルバム『名古屋の精神医学史 戦後編1』を紹介したい。
製作年代は1973年頃と考えられる。
名古屋の精神医学史!?
なんともローカルな話題に聞こえるだろう。
小林にとって、地元の名古屋こそが研究の起点なのだから、仕方がない。
もっとも、ローカルとか、セントラルとか、そんなことは小林の関心事ではなかっただろうが。
いずれにせよ、一地方の精神病院の歴史を網羅的に扱おうという発想は、まさに「小林的なもの」であり、斬新ですらある。
よく引用される『東京の私立精神病院史』(牧野出版)の刊行が1978年だから、それよりも数年は早い。
しかも、『東京の・・・』のほうは、東京精神病院協会(当時)の編による。
名古屋のほうは、小林個人の仕事である。
さて、『名古屋の精神医学史 戦後編1』で取り上げている病院等は、
名古屋市立大学医学部
愛精病院
名古屋大学環境医学研究所
国立名古屋病院
守山荘病院
杉田病院
楠第一病院
香流病院・守山十全病院
中部労災病院
八事病院
中京病院
名古屋鉄道病院
松蔭病院
国立療養所志段味荘
である。
以下、小林の「まえがき」に続いて、順に見ていこう。
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(まえがき)
廃墟と化した名古屋に、復員服の男たちが帰って来た、方々に闇市が発生した。
その中を、同じく復員服の精神科医たちは、大学の医局に、病院にと帰って来た。しかし、座馬正道(サイパンにて戦死)、岩田全弘(比島にて戦死)、北林道彦(ルソン島にて戦死)は帰らなかった。
[注:戦死した3人は、いずれも名古屋医科大学(現・名古屋大学医学部)の精神科に入局した人たち。1937年入局の座馬は同年名古屋医科大学卒業、1939年入局の岩田は同年日本大学医学部卒業、1943年入局の北林は同年東京医学専門学校卒業。これらの情報は、名古屋大学医学部精神医学教室『開講80周年記念誌』(1988年)による。]
そして、明治八十年伝えられた天皇原始教はくづれ落ち、支柱を失い、価値観の激変に戸惑いしながらも、研究診療を開始した。
復興、前進、繁栄の道を辿った歴史を、精神病院の推移の中に、とらえてみる。
名古屋市立大学医学部
昭和18年(1943)4月1日、名古屋市は、名古屋市瑞穂区瑞穂通りの名古屋市民病院(昭和6年7月13日創立)を母体として、「名古屋市立女子高等医学専門学校」(5年制)を開設した。
昭和19年(1944)4月1日、名古屋市立女子高等医学専門学校は、「名古屋市立女子医学専門学校」と改称。
(名古屋市立大学病院[開学当時])
昭和21年(1946)6月26日、愛知県立精神病院長 児玉 昌 が精神科教授に就任。
(児玉教授)
昭和22年(1947)6月18日、「名古屋市立女子医科大学」に昇格。
昭和25年(1950)4月1日、「名古屋市立大学医学部」となり、仝年6月、神経精神医学教室が設置。
昭和26年(1951)6月9日、児玉教授は退職し、仝年9月16日、京都大学助教授村上仁が教授に就任。
(村上教授)
(つづく)
昨日のこと。
心理療法家であり、心理療法に関わる著書・訳書も多く出版されている笠原敏雄氏からメールが届いた。
現在執筆中の本のための資料を調べている過程で、「わが国精神医学史上の若干の再発見」があったので(面識はないものの)私に連絡したということだった。
この「わが国精神医学史上の若干の再発見」という記事は、笠原氏が作成しているウェッブサイト上にある。
とても興味深い内容なので、ご本人の了解を得て(また、当初からご本人が望むところでもあったので)リンクをさせてもらった。
石田昇やフレデリック・ピーターソンの業績に関する新しい知見が中心だが、小酒井光次(不木)、今村新吉、松本高三郎、石黒忠悳らについても言及されている。
2013年1月12日(土)に金城学院大学サテライト(名古屋・栄)で「近現代精神医療史ワークショップ3」が開催された。
ふりかえりの意味で、各報告の概要をごく簡単に紹介したい。
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報告1
地域精神医療に求められているもの―洛北岩倉の事例をもとに―
中村 治(大阪府立大学)
京都洛北の岩倉は精神病者預かりの伝統で広く知られ、わが国の精神医学史では必ず登場する重要な場所である。したがって、その伝統が実質的に消滅した戦後になっても、精神障害者と地域住民との関係は比較的良好であったように思われる。だが、1979年に一度だけ、岩倉に精神障害者の共同作業所の建設計画が持ち上がったとき、地域住民の反対があったという。中村氏はその理由を「風評被害」「患者預かりによる経済的潤いの減少」「地域共同体の崩壊と寛容度の低下」「農作業や暮らしの機械化」などの点から分析し、病院(治療者)側が考える精神障害者のケアと、地域住民側の精神障害者へのアプローチとが、行き違う状況をとても興味深く描き出した。そもそもこれまで戦後の岩倉に関する研究報告は稀であり、また医療・福祉的な観点に呪縛されない新鮮な切り口が印象的な報告であった。
(写真はプレゼンテーションで使われたパワーポイント画像からの一コマ)
旧・岩倉病院跡に建つ府営岩倉団地。中央の門柱は旧・岩倉病院の門柱である。右端は旧・岩倉病院の医者宅。2013年1月11日。
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報告2
東京府巣鴨病院の記録に残る聾患者
當間正敏(日本聾史学会)[手話通訳:石神博行・佐川有子]
これまで近代精神医療史と聾者に関する研究は皆無だっただろう。報告者の當間氏はこの分野のパイオニア的存在である。當間氏は、明治・大正期の東京府巣鴨病院の年報にある「退院患者ノ合併症表」(明治26年〜明治35年)、「退院者病症ニ對スル既往ノ病歴」(明治36 年〜大正7年)および「患者及其ノ疾病(5)死亡」(明治35年〜大正7年)の統計にある聾患者の記述に着目し、検討を加えている。その一部を紹介すると、この間に5人の聾患者が退院患者として登場する。いずれも男性で、病名は「白癡」「續癡狂」「中酒狂」「早發性癡呆」「癲癇性精神病」である。一方、3人(1人は女性)の聾患者が死亡患者として記録されているが、2人には精神病名の記載がないという。いかなる状況で巣鴨病院に入院したのか、聾と精神病の診断や聾患者の待遇をめぐる複雑な問題が背後にあったのではないかと思わずにはいられない。今後も、近代における聾者と精神医療の関わりについて、氏の研究活動がさらに発展することを期待してやまない。
(下の図はプレゼンテーションで使われたパワーポイント画像からの一コマ)
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報告3
病院建替えを機に精神科病院の歴史を振り返る―精神保健福祉士の視点から―
水野 葵(医療法人 好生会 三方原病院)・小山友理子(医療法人 好生会 はまかぜ)
2011月3月、浜松市にある精神科病院・医療法人好生会 三方原病院(1915年開院、現在の入院患者定床278 床)で、病棟の建て直しを機に「旧病棟の見学会」と「さよならセレモニー」が開催された。その内容は日本精神保健福祉士協会全国大会(2012年6月、熊本)で発表され、その発表抄録(『精神保健福祉』vol.43, no.3, 2012, pp.224-225)から私(橋本)の知るところとなった。精神医療の歴史をこのような形で社会にアピールすることができるのかと衝撃を受け、この行事を担当した水野・小山両氏に報告をお願いした。それによると、「旧病棟の見学会」は静岡県および愛知県内の看護師・OT・PSW を目指す学生、および市内の福祉施設職員を対象とした。精神科医療の歴史や当院での対応について説明した後、病棟を見学してもらった。他方、「さよならセレモニー」は入院患者とデイケアのメンバーを対象とし、病棟への落書き(入院生活を振り返る)、スライドショー(病棟で過ごした時間をみんなで分かち合う)、そして座談会(旧病棟での思い出を語らう)を行ったという。両氏は「患者個人の歴史のみならず、患者が置かれていた状況について理解しようとする意識が大切」と述べた。精神医療史を研究する者として、まったく同感である。
(下の図はプレゼンテーションで使われたパワーポイント画像からの一コマ)
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報告4
岩龍寺ならびに香良脳病院における水治療の変遷
三浦 藍(梅花女子大学)
兵庫県丹波市氷上町香良にある岩龍寺は、昭和初期に数回出された内務省衛生局『精神病者施設収容調』にもしばしば登場するほど、滝治療場としてよく知られていたようである。そのためか、過去にもいくつかの論文は出されている。だが、岩龍寺と香良脳病院との関係史や、患者処遇の実際について、おそらく報告者の三浦氏ほど資料の発掘に努め、関係者へのインタビューを重ねて検討した例はないだろう。三浦氏は岩龍寺と香良脳病院での水治療の特徴として、病院設立以前から同じ場所で精神病者の治療が行われ、近代的な(はずの)病院で伝統的な水治療が継承され、病院での治療に医療者ではない一般人が関わっていたことを挙げている。一見すると、東京の高尾山薬王院の琵琶滝に集まる患者と、その集客を期待して作られた宿屋から派生した精神病院(高尾保養院)との関係に類似している。だが、香良だけのとても興味深いトピックに満ちている。たとえば、岩龍寺の滝周辺に出店した足立家保養院で水治療に携わった足立常雄とその精神病治療観、岩龍寺での「精神病者療養所」の廃止と滝の現状維持をとりきめた「岩龍寺と香良脳病院との契約書」、そしてそもそも香良脳病院が設立された理由など、伝統的な治療場の近代史研究の想像力をかきたてる報告だった。
(下の図はプレゼンテーションで使われたパワーポイント画像からの一コマ)
以上。
最後に、ワークショップに参加された方に感謝申し上げたい。
精神医療史関係の発表があるので、以下の情報を転送いたします。
誰でも参加でき(ると思い)ます。
*** 日本医史学会1月例会 ***
日 時:平成25年1月26日(土)午後2時より
場 所:順天堂大学医学部11号館16階北フロア
集会費:200円
1. 『源氏物語絵巻』と『平治物語絵巻』にみる口腔観の比較考察
西巻明彦
2. 日本における精神科医療・医学史研究の歩み(その1)―戦前
岡田靖雄
お問い合わせ:
一般社団法人 日本医史学会
〒113-8421文京区本郷2-1-1
順天堂大学医学部医史学研究室内
tel:03-5802-1052
E-mail:jsmh@juntendo.ac.jp