近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
『静岡』 その12 <新シリーズ・小林靖彦資料 42>

なおも小林靖彦アルバム『静岡』の精神病院の話題がつづく。
これが2012年最後の投稿記事となるだろう。


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沢保養院(浜松脳病院、神経科浜松病院)


 山岡芳太郎は、大正12年(1923)3月31日、私立精神病院設置の申請をし、仝年5月21日認可され、浜松市沢93番地の地に、本館28坪、収容室171坪、伝染病室12坪を設立し、定床45名の私立精神病院「沢保養院」を開設し、院長に医師杉山与茂平を迎えた。

 大正14年(1925)、沢町は広沢町に改められた。

 杉山院長の後任に、土田誠一が就任、昭和3年(1928)9月29日には収容定員64床となる。

 昭和4年(1929)11月6日、沢保養院は、「浜松脳病院」と改称。収容定員88床、敷地2500坪、建坪330坪となる。

 昭和6年(1931)5月13日、代用精神病院に指定さる。

 父(東京市下谷区上野桜木町の土田病院長医学博士土田卯三郎)の死後の病院経営のため土田院長退職し、昭和7年(1932)10月3日、宇田儉一(慈恵医大卆、慶大で学位授与)が院長に就任。

 昭和8年(1933)12月15日、宇田院長辞職し、仝日、藤井綏彦(慶大卆、井ノ頭病院長)が院長に就任。

 昭和9年(1934)、山岡芳太郎に代って、藤井綏彦開設者となり、仝年、浜松市板屋町370に、藤井診療所を開設。

 昭和18年(1943)、山岡芳太郎死亡し、盛治が後を継ぐ。

 昭和26年(1951)、「神経科浜松病院」と改称す。

 昭和28年(1953)、山岡盛治死亡し、現理事長山岡了一、後を継ぐ。

 昭和29年(1954)9月1日、藤井院長、自分の持株を、現院長川口才市に引き継ぎ、昭和30年(1955)7月15日、藤井院長逝去。

 昭和30年(1955)、川口才市が開設者、院長となり、97床に増床。

 昭和36年(1961)、コンクリート病棟(152床)に増築し、300床となる。

 現在、浜松市広沢2-56-1にあり、定床263名、敷地3000坪、建坪970坪の神経科浜松病院として現存している。


神経科浜松病院


(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 09:15 | comments(0) | - | pookmark |
『静岡』 その11 <新シリーズ・小林靖彦資料 41>

アルバム『静岡』のつづき。
前回に引き続いて、精神病院の話。


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駿府病院


 溝口 正(旧姓、松島は、愛知医専在学中、溝口和平の長女美千代と結婚)は、大正9年(1920)愛知医専を卒業し、神経精神科学教室(主任北林教授)に入局、東大精神科に内地留学し、呉教授の指導を受け、松沢病院を経て、大正11年(1922)、静岡に帰り、静岡脳病院(院主溝口和平、院長玉木為三郎)の副院長に就任。

 和平の死(大正12年)後、玉木院長が内科医であること、親族の株主と意見が合わない、等々の理由から、昭和7年(1932)11月21日、独立して、静岡市沓ノ谷107番地ノ2に、「駿府病院」(65床)を開設した。

 これは、現在、第一駿府病院(静岡市沓ノ谷1-327、定床217)として存在している。

 他に 第二駿府病院(静岡市長沼647、定床290)
     第三駿府病院(清水市日立町17-8、定床247)
     第四駿府病院(藤枝市新島830-6、定床118)

 がある。


溝口 正


第一駿府病院


第二駿府病院


第二駿府病院


第三駿府病院


第四駿府病院

(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:59 | comments(0) | - | pookmark |
岡山県の精神医療史調査(川口保養院など)

岡山県の精神医療史で気になるところがあった。
川口保養院である。

この施設は、昭和の初めに行われた内務省(および厚生省)の「精神病者収容施設調」に何度か登場している。
住所は岡山市花畑六二。

他方、富井通雄「日本精神医学風土記 第4部 第4回 岡山県」(『臨床精神医学』(21(5): 939-949, 1992)によれば、

「1885年ごろに川口組によって岡山の花畑に創設された川口精神病者監置場が県下での最初の精神病者収容施設となっている。しかし、それは保養所でもなく、医療とも無縁の単なる監禁施設であった。にもかかわらず、それが昭和初期まで県下唯一の収容施設として存続し、機能を果たしていたようである。」

と。

なかなか面白そうな施設である。
フットワークも軽く、2006年2月、はじめて岡山を訪れた。
まずは、岡山県立図書館で下調べ。

川口保養院は、岡山市花畑の川口鹿蔵(1849-1926)が明治18(1885)年頃からはじめた癩患者、棄児迷子、行路病者の収容施設にさかのぼる。
後には岡山市の被救護者の委託も受けた。
明治31(1898)年からは、県と市の勧奨により精神病者監置場を設けて、精神病者を監置していた。
鹿蔵の三男・川口魁(1885-?)が、明治41(1908)年[注]川口保養院の院主となる。

[注] 『岡山県人物誌』(1927年)によれば、明治18年生まれの川口魁は「明治三十一年二十五歳にして川口保養院主となり」とある。25歳のほうが正しいとすれば、院主となったのが明治31年というのは誤りで、ただしくは明治41年ではないか

川口魁は後に岡山市会議員、岡山県会議員をつとめた。
大正11(1922)年に市立の岡山救護所が設けられ、行路病者や被救護者はそちらに送り、もっぱら精神病者の監置のみを行うことになった。
昭和3(1928)年の『岡山市社会事業要覧』では、経営者が川口巌となっている。
なお、「花畑」という地名は、1967年の住居表示事業で、網浜の一部を加えて御幸町に変更された。

というくらいのことが、文献的にはわかった。

下の1940年の岡山市街地図によれば、かつての鐘紡岡山工場のやや北側の、御幸堤に沿ったあたりに、川口保養院があったらしい。





昭和初期の鐘紡岡山工場
(出典:蓬郷巌編 『15 ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 岡山』 国書刊行会、1978年)


川口魁。創立者・川口鹿蔵の三男、保養院の後を継いだという。
(梶谷福一編 『岡山県人物誌』 新聲時報社出版部、1927年)


図書館での調査の翌日、いまはどうなっているのかと、保養院があったと思われる場所をうろつく。
たぶん昔のことを知っているに違いないお宅を探り当て、インターホンを押した。
だが、文字通り私は単なる「突然の不審な訪問者」であり、門前払いだった。
これで川口保養院は迷宮入りか・・・そう思って名古屋に帰るほかなかった。

それから6年以上が経過し、ふたたび岡山を訪ねることになった。
その経緯は・・・

今年(2012年)になって、岡山の阪井さんを知ることになった。
彼女は不動産屋さんだが、「NPO法人おかやま入居支援センター」の理事でもある。
不動産屋さんの立場から、精神障害者の住宅問題に関心を持ったという。
近々ベルギーのブリュッセルで開かれるある会合に出席するのだが、ゲールまで足をのばして精神障害者の里親看護の実際を知りたいと。
それで、ネット上などでゲール情報をいろいろと垂れ流している私とつながったのである。
私が阪井さんにゲールの友人の連絡先をお知らせしたところ、実際に阪井さんはゲールでその人に会ってきた。

その後、私は川口保養院のことを思い出し、阪井さんにいろいろ無理を言い、あれこれ調べてもらった。
その過程で、1945年の空襲で川口保養院が焼失、廃院となったこともわかった。
最近になって、保養院のことをある程度記憶している人とアポがとれたということで、今回(2012年12月)の岡山行きとなった。

阪井さんのはからいで、かつて川口保養院の近くに住んでいる2人の古老に話を聞くことができた。
81歳の男性の記憶では、病院(と呼べるようなものではなく、小さなもの)の建物は3つあった。
建物には格子はなかった。
寒いのに薄着の患者を見たという。
そのご老人は、昭和50年代のゼンリンの住宅地図を持ってこられた。
現在の位置関係と比べると、下の写真の保育園とその周辺あたりの敷地に保養院があったようだ。
しかし、昭和20年6月29日の岡山空襲で保養院は焼失し、そのまま廃院となったという。


かつて川口保養院があったと思われるあたり

もう一人のインフォーマント、84歳の女性の記憶は小学生のころにさかのぼる。
とにかく、保養院はこわい存在だった。
神経、頭のおかしい人がいると聞いていた。
こわくて中を見たことはない。
ここから聞こえてくる(患者の)大声を聞いては、逃げた。
建物は平屋で、何人くらいの男女がいたか、わからない。


手前が御幸堤。この土手のすぐ向こうに、かつて川口保養院があったと思われる。

古老から聞けた話はこれくらいであり、これといって物的なものは何も出てこなかった。
だが、当時の保養院が周囲からどのように思われていたかを、ある程度知ることができた。
現場でその場の雰囲気を体感しておけば、いつか歴史を記述する時に必ず役にたつ、と信じている。

さて、岡山と言えば、外せないものがある。
きび団子ではない。
「こらーる岡山」である。

以前、このブログでも紹介した想田和弘監督の映画『精神』の撮影の舞台となった精神科クリニックである。
阪井さんに案内してもらった。
JR岡山駅のすぐ近くなのに、タイムスリップしたようなレトロな雰囲気がある。
休日でひっそりとしていた。


閑静なたたずまいの「こらーる岡山」。

| プチ調査 | 13:16 | comments(0) | - | pookmark |
『静岡』 その10 <新シリーズ・小林靖彦資料 40>

アルバム『静岡』も、いよいよ精神病院の登場である。

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静岡脳病院。


 大正4年(1915)8月6日、溝口和平が、静岡市幸町13番地に「静岡脳病院」を開設した。敷地五百坪、建坪百五十坪、収容定員48名であり、院長に玉木為三郎が就任した。

 大正11年(1922);和平の婿養子溝口正(愛知医専卆)が、東大留学より帰り、副院長に就任。

 昭和7年(1932)、溝口正は、独立して「駿府病院」を創立。義弟溝口勝朗が静岡脳病院院主となる。

 溝口和平は、大正12年(1923)、享年52才で逝去した。

 昭和10年(1935)来の調査によると、静岡脳病院(静岡市田町7丁目69番地、145床)の院長は、式場隆三郎となっており、その後は、院長は、辻山義光、木村俊雄と引き継がれた。

 昭和20年(1945)、空襲にて全焼し、患者を駿府病院に移し、廃院された。



大正8年2月2日。静岡市新通六丁目。溝口和平。45才。
静岡脳病院庭園ニ於テ写ス

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:13 | comments(0) | - | pookmark |
『静岡』 その9 <新シリーズ・小林靖彦資料 39>

今回は「不二大和同園」(ふじだいわどうえん)である。
この施設は、宗教・思想系の研究者には知られているかもしれない。
が、精神医療史で扱われることはほとんどなかった。
ただ、精神関連の分野からの研究もないことはない。
最近の研究論文として、以下の澤田氏のものがある。
参考までに。

・澤田恵子: 「戦前、精神障害者の治療を担っていた民間施設とは (3) 富士山中にあった民間療法施設「不二大和同園」」( 『精神看護』13(3), 92-96, 2010)

また、私(橋本)の論文「山里に暮らす精神病者―静岡県竜爪山穂積神社の場合」(橋本明編著『治療の場所と精神医療史』日本評論社, 2010年所収)でも、不二大和同園について触れている。

以下は小林アルバム『静岡』の記述と写真。

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不二大和同園。

 昭和3年(1928)7月7日、品田聖平 [品田俊平の誤りか] が私財を投じて静岡県富士郡吉水村比奈3300番地に、敷地5万坪(のちに30万坪)を求めて、「不二大和同園」を設立した。

 朝夕の礼拝(心教経典拝読)、黙想(禅、鎮魂に相当)、法話(説得療法)、感想を述べさせる、作業療法(山林を伐採、土運び、草取り等、自然の太陽、空気、土地に親しさと勤労に汗を流させる)、自然安静療法(太陽と共に起き寝ることを原則とする、ランプを使う、二木謙三式の食事、粗食、小食、玄米)、芸術療法(習字や短歌、俳句、作文を作らせる)等を通じて、精神病者を収容して指導した。

 昭和10年(1935)4月14日、父、品田俊平(心教開祖)を失い、東京と山との往復となり、のちに妹の平田愛子、更に門人の後藤清房に任せ、昭和25年(1950)頃まで続けたが、経営困難となり、消滅した。

 昭和49年(1974)5月12日、古老の案内にて訪ねる。道端に「大和同園入口」の標識倒れてあり、「昭和3年、品田さんが開設し、50町歩(15万坪)の広大な敷地を有し、50〜60人の精神病者がおり、人の道の説教を聞き、作業療法をしていたが、昭和17年ごろ、品田さんは、やめて東京に引き揚げて行かれた」とのこと。




(注:品田聖平の肩書き)


大和同園入口の標識


品田聖平


大和同園跡


大和同園跡


(つづく)

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:09 | comments(0) | - | pookmark |
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