アルバム『静岡』のつづきから。
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静岡病院。
藩立静岡病院の三等御医師並であった村松良粛は、明治9年(1876)宮崎総吾、茂木茂、今井信郎、浜田修らと相談して、病院新設を県令に申請し、県費1万円の補助をえて、病院を屋形町に開設した。静岡大病院と呼ばれた。
明治9年(1876)10月、これを公立病院とし、仝年10月29日、県立静岡病院の盛大な開院式が挙行された。
院長には、東京医学校卆の三浦浩一が就任した。毎週火、木、土の3日間、午后2時より英国人宣教師兼医師マクドナルド(Davidson Macdonald)が無償で診療に従事した。附属「医学教場」で医生の養成が行なわれ、マクドナルドはその講師をも兼ねた。
明治13年(1880)静岡県下唯一の医師養成機関となったが、明治15年(1882)には病院は郡立となり、医学教場も、明治16年(1883)廃止される。
静岡病院
(つづく)
さて、今回は浜松。
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浜松病院。
明治6年(1873)3月、引佐郡気賀半十郎、長上郡平野又十郎、豊田郡青山徹、青山宙平らが資金を出し合い、浜松県から五百円を無利息七ヶ年年賦で借り、計三千円にて、会社病院「浜松病院」を開設。初めの医師は荻生汀と小川清済らであったが、間もなく県立に発展。場所は、浜松紺屋町(医師会館あたり)であった。
明治7年(1874)1月、浜松県立「浜松病院」が誕生した。
明治7年(1874)4月、利(トギ)町に新築移転した。
院長は、はじめきまっていなかったが、仝年途中から、太田用成が院長として来浜した。附属浜松医学校が開設され、太田院長が学校長を兼任した。副院長は中島煕、医員に奥田喬治、中西玄仙が居り、教員に柴田邵平、河合虹平が居り、9年(1876)には虎岩武(太田院長の弟子)が赴任した。
明治11年(1878)5月、学生の便宜を計って米国ペンシルベニア大学教授ハルツホルンの原書を翻訳し、「七科約説」という医学全書の上編を浜松の開明堂から出版し、続いて、翌12年(1879)4月、上編の改訂再版と「七科約説下編同附録」を出版した。本書の翻訳には、主に虎岩が当ったが、太田、柴田、虎岩共著となっている。
(注:アルバムには説明がないが、浜松城である。)
浜松医学校の学生は、本科生、員外生、予科生に分かれ、予科では主に英語を学び、2年目から理化学を修めて本科に進み、本科では理学、化学、解剖、生理、薬物、内科、外科のいわゆる七科目を必修して、各科目毎に試験を行ない、合格者には修業証を与え、全科目の修業証を得た者に内務省から試験問題を与えて、学校長、各教官が試験官となって考査のうえ、合格者を申請して医師開業免許を下附されるようになっていた。員外生は開業医の有志の者に聴講生として主に内科、外科を講義した(注:少し文意がわかりにくい)。
明治9年(1876)3月、浜松県は静岡県に併合され、病院は静岡県立となり、明治13年(1880)県の方針によって医学教育は、県下一ヶ所にまとめて静岡病院で行なうことになり、浜松医学校は廃止となった。
太田院長も、明治12年(1879)に辞職し、福島豊策(長崎医学校出身の外科医)が院長に就任した。
明治15年(1882)浜松病院は郡立となり、明治20年(1887)福島院長辞職し、太田用成が再び院長となったが、明治24年(1891)ついに経営困難のため廃院された。
太田用成は、信州飯田の人、横浜の米人医師、江戸の医学所で学び、飯田に帰り多くの子弟を教育した。明治6年(1873)県立飯田病院の副院長となり(院長は江馬元齢)、天龍病院長を経て、浜松病院長となり、その後、掛川病院長となり、浜松の大工町で開業、明治45年(1912)7月、69才で死去。浜松市鹿谷町松林寺の墓地に、キリスト教式の墓がある。
(つづく)
アルバム『静岡』のつづき
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沼津病院。
沼津兵学校頭取西周は、兵学校に病院が必要であるし、軍医の養成も必要と考え、藩首脳部と相談し、明治元年(1868)11月、陸軍医師頭取を命じられた杉田玄瑞(注:玄端とも)(杉田立卿の養子、杉田宗家をつぐ)と謀り、東京の薩摩屋敷をゆずり受け、船で運び沼津西之条(今の沼津市西條)に、百坪たらずの平屋を移築し、明治2年(1869)3月、兵学校附属「医局」(沼津陸軍医学所)を開設した。病院頭取は杉田玄瑞。
明治2年(1869)8月、藩制改革により医局は「沼津病院」と改められた。
廃藩置県により、病院医師たちが東京、大阪に去り閉鎖寸前となったが、杉田玄瑞ひとり沼津で病院再興に努力し、明治5年(1872)8月「私立沼津病院」を発足させた。
この病院は、組合立会社病院、郡立駿東病院、私立駿東病院と引き継がれて、昭和20年(1945)まで存続した。
当時の沼津病院で使用の手術道具
(注:アルバムの写真には説明がないが、沼津病院の跡地を撮影したものだろうか。)
このほか、明治3年(1870)3月、掛川小病院(掛川市六軒町)と、中泉病院(磐田)が、藩立として設立されたが、いずれも廃藩置県によって廃止された。
明治4年(1871)廃藩置県により、足柄県(伊豆が含まれる)、静岡県(駿河一国)、浜松県(遠江国の大部分)、堀江県(今の浜松市庄内地区)に分たれたが、明治9年(1876)、あわせて静岡県となった。
(つづく)
アルバム『静岡』のつづきから
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沼津兵学校.
欧米のすぐれた近代的軍事訓練によって士官を養成し、徳川藩の再建を画策していた阿部潜と江原素六は、兵学校設立を上申し、旧幕府重臣のいる静岡では、自由で意欲的な試みが押えられるのをおそれて、沼津に設置せんとした。許されると、かねて幕府の御金蔵から盗み出しておいた11万両をもとにして学校づくりに専念し、イギリスから帰国したばかりの西周(アマネ)を頭取に、赤松則良、塚本明毅など当時の学界における最高のスタッフをそろえ、東京から移住してきた30才以上の幕府士官三百余人を解職して生徒とし、沼津藩主水野出羽守忠敬(5万石→上総国菊間藩)の邸を校舎として、明治元年(1868)12月、「沼津兵学校」を開設した。
西周は、明治元年(1868)10月徳川家兵学校頭取を命ぜられ、明治2年(1869)8月、徳川兵学校は沼津兵学校と改められた。
沼津兵学校は、廃藩置県によって廃止された。
沼津兵学校跡
(つづく)
「全国歴史資料保存利用機関連絡協議会」という長い名称の会がある。
おもに全国の公文書館や博物館などのアーキビストで構成されている。
私は精神医療史の資料集めで、しばしば公文書館にはお世話になっている。
そして、公文書などの歴史資料の保存や利用には大いに関心があるので、つい最近入会した。
その第38回目の全国大会が2012年11月8日・9日の日程で開催されるということで、広島にやってきた。
プログラムの詳細は、ここを参照されたい。
とりあえず8日午後の研修会のうち、以下の二つに参加した。
・「アーカイブズの実践入門」 講師: 定兼 学 氏(岡山県立記録資料館 館長)
・「大学アーカイブズの社会連携活動」 講師: 小宮山 道夫 氏(広島大学文書館 准教授)
とてもおもしろく、勉強になったし、精神医療史資料の保存と利用にも使えそうなヒントをたくさんもらった気がする。
ところで、この会合の受付をしたときにもらった観光地図を見ていたら、会場の広島県民文化センターのすぐ近くが、原爆の爆心地(島外科)であることを知った。
行ってみると、小さな記念碑があった。
その前で、修学旅行かなにかで課題を与えられたらしい小学生のグループが、たむろっていた。
ここから、原爆ドームは目と鼻の先。
やはり、修学旅行の小・中・高校生集団があちこちに。
外国人観光客も多い。
(↑ 原爆ドームの写真は難しい。どう撮っても「ありきたり」になってしまう・・・)
さらに、平和公園にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」に入る。
入場無料。
追悼の施設なので展示品は多くはなく、とても静かな雰囲気。
ベルリンのユダヤ人追悼関連の施設をふと思い出した。
(↑ 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のなかの「平和祈念・死没者追悼空間」)
だが、広島は原爆だけの街ではない。
ぶらぶら歩いて、「お好み村」にたどりつく。
広島風お好み焼きの店が何軒も集まっているビルである。
どういうわけだが、客でいっぱいの店と、ガラガラの店とがある。
やや迷いながら、空いている店に入った。
おいしかった。
(↑ なかに中華そばが入っていた。)
蛇足だが、広島の中心街を歩いていて違和感があった。
自転車の運転がどうも危険である。
歩行者にあまりやさしくない走り方が目立つ(あの世界的に有名な、殺気立ったアムステルダムの自転車ほどではないが)。
他方、広島の歩行者は、ひどく「従順」である。
ほとんど車が通らない、距離の短い横断歩道の赤信号を、ひたすらじっと待っている。
ただ、ひたすら。