近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
『山梨』 その6 <新シリーズ・小林靖彦資料 21>

某学会の準備も一段落したので、そろそろ、アルバム『山梨』のつづきを入力しよう。


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山梨脳病院(山角病院)


 大正11年(1922)11月29日、医師山角彙晏が、初代山梨県立病院長高橋貞碩をはじめ県下の医師15名の応援を求め、甲府市袋町51番地(病院の大半は、西山梨郡千塚村塩部2961にあり)に、定床31の医師合資会社「私立山梨脳病院」を設立し、仝年12月27日開院した。

 「気が変だ、袋町へ行け」と言われた。




                  協力医師名



                 創立当時の山梨脳病院


 山角彙晏は、北條家の家老、山角紀伊守の後裔、山角格寿(産科の漢方医、安政3年3月、美濃国より東八代郡北八代1525に来たり医業を開き、慶応3年8月「大歓堂医院」と名付け、明治31年11月、71才で死亡)の四男[注:昭和32年発行『山梨人物地理編纂会』では、「3男」となっている]として、明治20年(1887)11月6日生れ、大正元年(1912)11月、金沢医学専門学校卒業。

 大正2年(1913)より大正6年まで、東八代郡北八代及び中巨摩郡竜王村にて開業しつつ、恩師松原三郎教授の指導を受く。

 大正7年(1918)2月、京都帝国大学医科大学の講習科において内科学その他の科目を修了し、仝年7月、甲府市竪近習町に「十全脳神経科医院」を開院。

 山梨脳病院は、創立当時、医員2、薬剤師1、事務員1、看護人4、看護婦2で、敷地1067.5坪、建坪246.5坪であった。




           山角彙晏




                創立当時の職員


 大正15年(1926)、52床。昭和5年(1930)、63床。

 昭和10年(1935)11月、精神病院法第7條に依り、山梨県代用病院に指定。

 昭和18年(1943)3月31日 「山角病院」と改称。

 昭和27年(1952)、107床。

 昭和28年(1953) 医療法人山角病院に改組。

 昭和29年(1954)、 165床、昭和37年(1962)、190床。

 昭和40年(1965)12月24日、山角彙晏逝去、享年68才、嗣子山角司(慶大、昭20)理事長となり、天野富馨(千大、昭10)院長に就任し、今日に至る。

 現在(昭和49年10月25日)町名変更された甲府市美咲1-6-10にあり、290床。




            彙晏先生碑












             山角病院


(つづく)

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なお、山角病院の歴史については『山角病院創立六十周年記念誌』(医療法人山角病院、1981年)に詳しい。

その中にある「父の想い出」(山角司)によれば、患者治療の先端的な取り組みに関して「昇仙峡へ患者をつれてのハイキングやテニスコートをつくってのレクリエーション等、生活療法的指導はもとより、マラリヤ療法はいちはやくとり入れ、昭和5年来日したハンブルグ大学教授ワイガント博士から、日本の片田舎の病院で、まだドイツ全土に普及していない、この療法をドシドシやっているのは驚異であると、おほめの言葉をいただき・・・」とある。

一方、ワイガントはこの時の日本訪問を、ドイツの専門誌"Zeitschrift fur psychische Hygiene"(第6巻、1933年)に"Japanische Irrenfursorge"(日本の狂人保護)と題して発表している。

そこで、このワイガント論文を再読したところ、松沢病院や京都の岩倉といったメジャーな場所の話はあるが、山角病院への言及はないようである。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 12:50 | comments(0) | - | pookmark |
『山梨』 その5 <新シリーズ・小林靖彦資料 20>

今週も学生実習の巡回はつづく。
午前中は東名・名神高速を走って隣県の某施設へ。
午後は、午前とは逆方向に東名を走って某精神科病院を訪問する予定。
いまは、その合間で、とりあえずこの入力作業をしておこうということ。

以下はアルバム『山梨』のつづき。

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刈穂稲荷社祈祷所。


 明治43年(1910)11月4日、河野ゆきが、中巨摩郡豊村吉田1141番地に、収容定員7床にて開設した。

 昭和20年(1945)頃まで存続したが、その後は、経営者が死亡し、建物も老朽破損し、現在(昭和49年10月24日)は、櫛形町吉田と町名変更された地の桑畑の中に、「刈穂稲荷神社」と刻んだ二本の石柱と雨ざらしのお稲荷さんに昔を偲ぶのみ。







(つづく)


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刈穂稲荷社祈祷所は吉田稲荷社とも呼ばれたようで、内務省の精神病者収容施設調や菅修の論文(1937年)に登場している。
ただ、その詳細はほほんど不明である。
その意味で、小林の記述と写真はわずかではあるが、貴重と言えるだろう。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 13:01 | comments(0) | - | pookmark |
『山梨』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 19>

このところ、学生の実習巡回指導で各地を巡ることが多い。
きのう訪れたある精神科病院では、夜に「盆踊り大会」だという。
誘われたが、「巡回疲れ」ということでやむなく退散してきた。
すぐ近くの公園にやぐらが組んであり、準備も楽しそうだった。
フランクフルト・ソーセージを焼くそうだ。

さて、本題の『山梨』のつづき。


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甲府市行旅病者救護所(伊勢療養所)


 この施設は、明治32年(1899)3月、「行旅病人取扱法[注:正確には行旅病人及行旅死亡人取扱法だろう]」により、甲府市伊勢町竹ノ鼻に設置され、行□人[注:行旅病人の誤りか?]を収容した。

 明治39年(1906)、新築移転し、大正2年(1913)1月より精神病者を収容し始めた。

 「平民農福島高吉の経営に係り、半公半私的の特殊施設で、市よりは行旅病者1人に付1日食費15銭宛を交付していた。此収容所は間口7間半、奥行2間半の南向藁葺平家(即18坪7合5勺)にして、監置室すべて4室ありて(10坪7合5勺即)、其九分の五面積を占め、3室各1人を収容し、1室には2人(合計5人)を収容す」とあり。(呉秀三;我邦ニ於ケル精神病二関スル最近ノ施設.大正2年[注:正しくは大正元年])。



 昭和2年(1927)6月、市に移管され、「伊勢療養所」(甲府市伊勢町2091番地ノ2)と改称され、定床25床。管理者は甲府市長。

 昭和12年(1937)10月1日より、山梨脳病院長、山角彙晏に診療医を嘱託す。

 昭和25年(1950)、山下清が、甲府駅で保護され、ここに収容さる。

 仝年、「精神衛生法」施行され、廃止さる。廃止時の収容定員は、30名(一般18、精神12)であった。収容者のうち精神病者は、山角病院(山梨脳病院の後身)はじめ各精神病院へ、一般及び精神薄弱者は、善光寺内の「光風寮」へ送致収容された。

 伊勢療養所跡は、社会福祉法人山梨立正光生園母子寮となっている。





 因みに、光風寮は、武田信玄が長野の善光寺の本尊を持ち帰り建立した「善光寺」の住職吉原自覚師(昭和49年10月25日現在、90才で健在)が、昭和22年(1947)、善光寺境内に、200坪の更生施設「光風寮」を開設したに始まる。

 昭和34年(1959)より寺の隣接地(甲府市善光寺町2666)の550坪の地に新築移転、翌35年(1960)、甲府市立の精神薄弱者救護施設「光風寮」となった。





(アルバム『山梨』はつづく)

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さて、注釈。
上記の文中に「明治39年(1906)、新築移転し、大正2年(1913)1月より精神病者を収容し始めた」とあるが、私が調べた限りでは、これは確認できていない。
むしろ、当初から精神病者が収容されていた可能性が高い。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 16:02 | comments(0) | - | pookmark |
『山梨』 その3 <新シリーズ・小林靖彦資料 18>

このところ余分な一言が多いのだが、大学研究室にいると、野暮な仕事が必ず発生する。
どういうわけだか・・・
その合間に、気分転換もかねてこの入力作業をしている。
いわば「癒し」の作業でもある。

さて、アルバム『山梨』のつづきから。


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白糸の滝


 七面山(海抜1982m)は、山岳信仰の修験道の行者(山伏)たちの修行霊場であったが、山岳信仰の衰えるに及び日蓮の高弟のひとり日朗が開山し、日蓮宗信者の生きた霊場となり、山上に久遠寺鎮守の七面大明神を祭る。

 元和2年(1616)に家康公がなくなり、側室お万の方(紀州和歌山の頼宣、常陸水戸の頼房の生母)は尼となり、七面山の女人禁制を法華経の教えにそむくものと信じ、羽衣橋のそばにある「白糸の滝」で身を浄め、仏天七面天女の加護を得て登詣をなしとげた。お万の方は銅像となって滝のそばに立っており、身を浄める信者にまじって、精神病者の水治もなされたと云う。











(アルバム『山梨』はつづく)

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さて、注釈。

最初に、「白糸の滝」については、このブログの「身延での研究会(その4)」「身延での研究会(その5)」でも紹介したので参考まで。

そこでも述べたが、羽衣(はごろも)橋のたもとにあるのが白糸の滝(=雌滝)で、もう少し離れた場所にあるのが雄滝である。
ただし、小林は雄滝には触れていない。

他方、小俣和一郎は『精神病院の起源』(太田出版、1998年)で身延の「白糸の滝」を記述し(pp.73-74、雌滝・雄滝の違いを明確に意識していないようであるが)、近隣寺院の住職の話として「精神病者の滝治療は行われたことはない」と述べている。
また、一帯が日蓮宗の一大信仰圏であることから、「日蓮宗にとっては唱題・読経こそが唯一本来の信仰手段であって、滝修行は何ら本質的な行法ではない」と述べている。
ここで滝治療が行われなかった有力な根拠の一つとして書かれたのだろう。

私も実際にこの地を訪れて、精神病者の滝治療の歴史的な事実を確認できたわけではない。
しかし、現在も修行している人の姿をみて、かつてここで滝治療がなかったとは言い切れない気がした。
また、日本各地の治療の場所を訪れた経験から、「何々宗」といった宗派の違いに関わらず、修験道的な要素は多かれ少なかれどこにも存在することを確認している。
だから、日蓮宗だからといって、滝とは無関係というわけでもないと思う。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 15:21 | comments(0) | - | pookmark |
『山梨』 その2 <新シリーズ・小林靖彦資料 17>

今日も今日とて、冷房のきかぬ大学研究室にてアルバム『山梨』の入力。
雨が降ったおかげで、それほど気温が上がらないのが救い。


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身延山功徳会


 南巨摩郡身延町にある「身延山久遠寺」は、日蓮上人が、文永11年(1274)6月17日に開創された日蓮宗の総本山で、「往時より諸病者の参詣祈祷を請うもの少なからず、其中には精神病者も加わりたり。今も毎月5、6人の精神病者来り詣づるも、何れも数日若しくは数十日間滞在するのみ」と。(呉秀三;我邦ニ於ケル精神病二関スル最近ノ施設、大正2年 [注:小林の時代は大正2年とされていたが、近年の研究により正しくは大正元年と判明。])。

 「身延山大善坊」は、長禄2年(1458)12月12日に遷化された大善坊日辺上人によって開創されたもので、大善坊三十九世、長谷川寛善上人が、明治39年(1906)1月、身延山三門裏の大杉の根方に倒れている二人の老婆を見付け、急ぎ一人を背負って自坊にとってかえし応急の処置を施し、他の凍死した老婆を無縁仏として手厚く葬ったに始まる「身延山功徳会」は、身延山参詣中の人々の不慮の災難救済、身上相談、行路病者の収容加療に端を発し、生活困窮者、浮浪者の救護、職業斡旋等を行ない、大正9年(1920)、その功績を認められ山梨県より補助を受けるに至った。

 昭和9年(1934)10月11日、寛善上人逝去(享年58才)され、長男、長谷川寛亮が後を継いだ。

 昭和10年(1935)末の菅修の調査によると、「精神病者保養所「身延山功徳会」(南巨摩郡身延町3513番地、長谷川寛亮、定員5床)」となっている。

 昭和5年(1930)から昭和15年(1940)頃までは、精神病者のための監置室が設けられていたと云う。

 昭和20年(1945)、寛亮応召(戦死)し、四十一世、長谷川寛慶(寛善の次男)、功徳会長に就任。昭和26年(1951)「財団法人」となり、昭和27年(1952)「社会福祉法人」として認可を受けて委託養老施設となり、昭和38年(1963)8月、「養護老人ホーム」となる。

 昭和48年(1973)には、ホームは、大善坊から、身延町梅平3180の2番地(旧身延山病院跡)に新築移転し現在に至る。























(アルバム『山梨』はつづく)


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ここで再び注釈を入れたい。
写真には説明がないが、最初の3枚は身延山久遠寺である。
4枚目の「大善坊」とあるのは、久遠寺の近くにある宿坊の一つである大善坊であり、「身延山功徳会」があった場所である。
しかし、小林が訪れた時には、「身延山功徳会」は旧身延山病院跡に移転しており、残りの写真は新しい「身延山功徳会」の写真である。

このブログでは身延山功徳会についても紹介したことがある。
身延での研究会(その7)」および「身延での研究会(その8)」をご参照。

そして、毎度蛇足ながら、拙論文(「山梨県身延の精神病者」『人間発達学研究』1: 19-26, 2010 [愛知県立大学])では身延山および功徳会を扱っている(ただし、CiNiiと契約している所属の大学図書館経由でしかダウンロードできない可能性あり)。

| 新シリーズ・小林靖彦資料 | 14:18 | comments(0) | - | pookmark |
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