アルバム『福井』のつづき。
小浜の小澤寺の記事は、このブログでも紹介した。
参照されるさいは、ここをクリック。
不動の滝
宮川村大谷小澤(オウソウ)寺(現、小浜市大谷)に在る瑞長山霊澤寺は、新保区青野の清雲山龍泉寺(曹洞宗)の末寺で「堂宇宏壮ならざれども、形勝の地を占め、四季の眺め絶佳なり。殊に夏季一たび寺内に入れば覚えず快感を叫ばしむ。毎年初夏より初秋の頃までは精神病者の不動明王に治を祈るもの数人宿を此の寺に藉る」と。
不動明王鎮座の霊場(霊峯山金光寺)に至れば、「宮川を遡りて小澤寺に盡くる所一勝地あり、不動尊を安置す、堂の上下に各一瀑あり、風光絶佳涼味掬すべく、一たび足を入るれば自ら浴塵を洗って清浄の気の迫るを覚ゆ、夏時杖を引くもの多し。上の瀑は、岩に沿ふて流れ堂の右側に沿うこと数間数十間の絶壁を落下せんとする所筧を受けて浴するに便ず。高さ三丈克く精神病を癒するの霊験あり」と。
また、瀑布河流の項に、「大谷区小澤寺に在りて二段となる、上段は巌に沿ふて落下し恰も一條の白布を懸くるが如し、此の水僅かの平地を過ぎて再び落つる所筧によりて受け浴するに便ず。前者は二丈、後者は約三丈あり」と。
宮川村誌(参河安治郎・西尾定吉、 宮川村役場、 大正八年八月二十日。)より。
また同書に、
六所明神、「大谷区小澤寺矢代坂の麓に在りて、郡県志に、上中郡大谷村に在り産神とす、六月十八日祭あり、とのみありて考ふるに由なし」と。霊沢寺の守護神?
燈籠場、「小澤寺霊澤寺の下矢代坂と不動瀑途との分るる所に一大老松の頭上を覆ひ自ら腰を下ろさしむるの勝地あり、燈籠場と云ふ。元禄年間領主酒井公の家臣大谷正房なる人、不動尊に献燈の為め自然石の大燈籠を建立す。今存するは即ち之れなり。其の後江州唐崎の松の種を蒔きしに能く繁茂して今の如くなりしといへども、其の年代を詳にせず」と。
霊峯山金光寺
上の滝
筧を受けて落し浴す。
(アルバム『福井』は以上)
今回よりアルバム『福井』である。
小林靖彦は、このアルバムの大半を福井の医学史全般に割いている。
だが、ここでは精神医療史に関わる部分のみ紹介したい。
取り上げるのは、平岡脳病院と不動の滝(旧・宮川村小澤寺)の二つである。
平岡脳病院
冨田千代(明治23年、坂井郡下兵庫生れ)は、昭和5年、夫敦貴(アツタカ)医師の急死を境として、平凡な主婦より変身して、翌6年、敷地2千坪の広い庭園を持つ200名収容の更生会病院(結核療養所)を開設した。
続いて、京都帝国大学医学部精神科の三浦百重教授の指導を受け、京都岩倉病院を見学し、昭和7年(1932)5月1日、平岡山麓・吉田郡円山東村下四ツ居第31号11、12番地(更生会病院の隣)に、98床収容の福井県代用精神病院「平岡脳病院」を開設した。
それは、リンゴ園に囲まれたコロニー式の落着いた建物で、500羽近い鶏、50頭近い豚、野菜畠が、作業療法用に備えられた。
院長には、岩倉脳病院[注:正しくは岩倉病院だろう]より林田豊次を迎えた。
歴代院長は、杉原満次郎(島根県能義郡能義村杉原六郎医師の養嗣子、京都府立医専卆、別府脳病院長より転じて着任)、渡辺□[一字判読不能]一郎(愛媛県出身)[その後、渡部欣一郎と判明]、持田次郎、渡辺栄市(S.12〜S.14. 昭和14年10月、函館市中島町で開業)、江口 [注:名前が空欄]、小松良彦、冨田信夫(千代の妹ふみの娘美耶子女医の夫)、猪原清(昭和19年10月)と引き継がれた。
千代は、冨田病院本院(米町通り)、更生会病院、平岡脳病院、下兵庫診療所、新橋北詰診療所、福井産院、金沢脳病院の七ヶ所を営業し、満州や北支の広野にも病院を建てたいと奔走し、昭和17年(1942)4月、四度目の渡満の上海で息をひきとった。
冨田千代
妹ふみの夫 冨田 直
病院の玄関
秋元教授来院
昭和20年(1945)11月 日本医療団に引き継ぎ、精神科を含んだ福井県中央病院に改組。
昭和25年(1950)4月 日本医療団の解散によって福井県へ移管、福井県立精神病院となる。(入院患者115名)
昭和29年(1954)末 福井市志比呂町31号2、200床。
昭和45年(1970)末、福井市四ツ井本町、426床。
昭和47年(1972)6月 猪原院長退職。金沢大学大塚教授院長兼務。
昭和48年(1973)6月 鳥居方策院長就任。
昭和49年(1974)4月 福井市四ツ井本町13-26、400床。
昭和50年(1975)8月 鳥居院長金沢大学教授に就任。入院患者240名。
管理棟
開放病棟
旧外来
旧病棟内部
旧病棟の俯瞰
現在も使用されているレクリエーション・センター
現在の病院
(つづく)
野積保護園(白皇山保護園)
大正5年(1916)9月、浄土真宗(西本願寺派)白皇山光西寺の住職第九世房崎秀顕は、父八世得浄と共に、暗い人生を行く精神薄弱者、不遇者、精神病者を保護善導しようと、自坊の庫裏を利用し、私財を投じて「野積保護園」(婦負郡野積村上ヶ島)を開設した。当時の収容力は、七十余名であった。
昭和5年(1930)、得浄の後を継ぎ、秀顕園長となる。
昭和7年(1932)6月、私設(届出による)社会事業として認めらる。
昭和13年(1938)10月、生活扶助による更生施設社会事業に指定されたるも、昭和20年(1945)一時停止。
昭和24年(1949)11月、野積村が借用(村営)し、生活保護法の更生施設として再発足。
昭和32年(1958)11月、町村合併(八尾町に)と同時に、村営より社会福祉法人営に切り替え、救護施設「白皇山保護園」(50床)となる。
昭和33年(1958)4月、昭和37年(1962)11月、昭和39年(1964)10月、昭和40年(1965)10月と増改築を重ね、
昭和46年(1971)11月、八尾町福島前山に救護施設「八尾園」を建築整備した。
昭和47年(1972)8月、救護施設移転に伴い、上ヶ島の旧施設を改修整備し、県知事の許可を得て、精神薄弱者福祉法に基く更生施設「野積園」と称し、収容定員50名にて発足する。
現在(昭和49年11月21日)、社会福祉法人白皇保護園は、昭和48年(1973)3月29日房崎秀顕理事長死亡(享年76才)し、西浦博良理事長を継ぎ、救護施設「八尾園」(園長西浦博良、140床、八尾町福島前山)、精神薄弱者更生施設「野積園」(園長谷井正信、45床、八尾町上ヶ島)を有し、盛大に経営されている。
(『富山』のアルバムはこれで終わり。)
小林靖彦資料アルバム『富山』の続きから。
高岡保養所(柴田病院)
昭和10年(1935)12月20日、柴田外松が、富山県射水郡佐野村字木津に、病床20の「高岡保養所」を開設した。
昭和17年(1942)7月17日、柴田外松逝去。享年53才。嗣子柴田俊秀が引き継いで経営。
昭和23年(1948)12月10日、町村合併で富山市[高岡市の誤りか?]木津となった地に病床26の「柴田病院」として開院。院長に大路喜代司を迎えた。
その後、院長は、吉田重夫、竹松常雄(軍医少尉)、石黒順吉、中川功と引きつがれて、今は浅井俊昭(金大、昭和29卆)である。
病院は、増築され、病床102であり、所在地は、町名変更され、富山県高岡市永楽町5-1である。
柴田外松
柴田病院
(つづく)
ふたたび小林靖彦資料アルバム『富山』の続きである。
(つづき)
富山脳病院
大正5年(1916)11月5日、医師福田美明(明治41年11月、金沢医学専門学校卒、明治42年10月、松原三郎教授によって神経精神科が創設されるに当り、内科教室より転じ、初代助手として精神病学を専攻、明治44年、郷里富山市にて開業)は、加納景成と共同で婦負(ねい)郡東呉羽村字藤子に、「富山脳病院」を開設。敷地1089坪、建坪114坪、収容定員22名、医員2名、看護人4名にして、院長は福田美明であった。
当時は、精神障害者に対する一般の理解は極めて浅く且つ治療の施設も皆無であったが、精神科医療のために是非入院収容施設の必要を痛感し病院設立を決意した。ところが当時は、精神病院の設立は地域の住民から当然反対をうけ、たまたま病院敷地が、当時の陸軍衛戍病院に隣接していたことから、病院長に設立の阻止を依頼に赴いた人々に対し、精神病院を開設しようとはまことに奇特なことだ大いに協力せよとの一声で一挙に問題は解決した。
開設当時は、施設も貧弱で治療の方法も主として隔離の程度であったが、逐年精神病に対する認識の向上と医療の進展とに相俟って、精神病院の存在価値も重要視され、使命達成への道が開けた。昭和9年(1934)国道8号線の改修を機に病院の全般的改築を計画し準備中に、一収容患者が着衣の襟にかくしていたマッチで放火、病院の一部を焼失したため、直ちに改築工事に着手し、仝年新築なり面目を一新した。
昭和10年(1935)5月11日、富山県代用精神病院に指定され、更に昭和16年(1941)4月、富山警察署長の提唱により、当時市街を放浪徘徊する精神障害者を収容する富山市精神病浮浪者収容所が、警察後援会によって隣接地に附設。その管理を委託された。
その後の増設により、昭和18年(1943)には一応完成の域に達し、内庭600坪をとりかこみ管理棟と5ヶ病棟を方形に配置し、他に伝染病棟、静養室棟、炊事、作業室等と城山野外作業場との設備を有するに至った。
しかし、昭和20年(1945)8月1日夜半、富山市空襲の際、被災。瞬時にして全病院施設を焼失した。当時約130名の入院患者を収容していたが、空襲の開始と共に全患者を一応避難させたが、時間の経過と共に若干の患者が再び病院内に立ち戻り5名の患者が死亡した。
その後、一時病院を休止していたが、昭和26年(1951)春頃より復興を計画し、仝年9月、美明長男福田博が開設許可をうけ、仝年11月30日再開使用許可された。
当初57床であったが、その後、5回の増改築を重ね、現在収容定数は175床(内指定病床70床)となった。
昭和27年(1952)6月25日、精神衛生法第五条による指定病院となる。
昭和39年(1964)7月15日、県よりの要望により富山脳病院の院名を「福田病院」と改称。
昭和45年(1970)末の調査では、
福田病院 富山市五福町483 175床 福田博院長 となっている。
福田美明(M.19.1.2)は、昭和35年(1960)5月12日、逝去、享年76才
(つづく)
なお、富山脳病院については、『近代日本精神医療史研究会通信』の第5号(2005年)にも記事がある。