2011.07.31 Sunday
小林靖彦資料紹介(21) 「精神病者治療所」(千葉1)
夏になり、大学も少しは暇になってきた。
そこで、しばらく中断していた、小林靖彦が遺した未刊の原稿「精神病者治療所」(昭和48年)を順次紹介する作業を再開したい。
今回は千葉県の記述である。
実はこの資料には、日本の近代精神医療史上(私が思うところ)極めて貴重な写真がいくつか含まれている。
7.千葉
1)正中山法華経寺(市川市中山2-10-1)
正中山法華経寺は、日蓮宗四大本山の一つであります。文応元年(1260)、日蓮の大壇越、若宮の領主富来(とぎ)五郎常忍が妙蓮山法華寺を建立、これが正中山法華経寺の濫觴である。
(正中山法華経寺)
(日常上人)
常忍の縁者、太田左衛門尉乗明の本妙寺を建立。常忍は僧となり、日常と名乗り、両寺の住職を兼ね、以来両寺一主であり、元徳3年(1331)合併して本妙法華経寺と号せしも、後、正中山法華経寺となった、中山妙宗の総本山であります。
法華経寺にては、古くより寺内に精神病者を収容して、信仰読経により治療せりと云う。
独語し、空笑しつつ境内を掃除する男を今も見ます。(昭和47年5月21日)
(中山病院)
(中山病院)
法華経寺は、大正6年(1917)、時勢に応じて中山療養院を開設し、医師による障害者の保護治療を開始した。その開院の案内文に曰く「拝啓 時下益々、御清祥奉賀候。陳者、豫テ御高配相蒙候中山療養院之義今般一部落成開院ノ運ニ相成候間、此段御礼旁御報告申上候也。大正六年五月。千葉県東葛飾郡中山村、大本山法華経寺執事」と。
(中山病院別館)
(中山病院別館)
その後、大正10年(1921)8月、施設は本山の手を離れ、当時高名なりし精神科医と檀徒の共同経営に移り、中山脳病院と改称。
昭和23年(1948)中山病院と改称。昭和27年(1952)医療法人静和会中山病院となり、院長は作田淳で、中山別館を有している。(市川市中山2-10-2、231床)
(千葉県の記述は、次回もつづく)
そこで、しばらく中断していた、小林靖彦が遺した未刊の原稿「精神病者治療所」(昭和48年)を順次紹介する作業を再開したい。
今回は千葉県の記述である。
実はこの資料には、日本の近代精神医療史上(私が思うところ)極めて貴重な写真がいくつか含まれている。
7.千葉
1)正中山法華経寺(市川市中山2-10-1)
正中山法華経寺は、日蓮宗四大本山の一つであります。文応元年(1260)、日蓮の大壇越、若宮の領主富来(とぎ)五郎常忍が妙蓮山法華寺を建立、これが正中山法華経寺の濫觴である。
(正中山法華経寺)
(日常上人)
常忍の縁者、太田左衛門尉乗明の本妙寺を建立。常忍は僧となり、日常と名乗り、両寺の住職を兼ね、以来両寺一主であり、元徳3年(1331)合併して本妙法華経寺と号せしも、後、正中山法華経寺となった、中山妙宗の総本山であります。
法華経寺にては、古くより寺内に精神病者を収容して、信仰読経により治療せりと云う。
独語し、空笑しつつ境内を掃除する男を今も見ます。(昭和47年5月21日)
(中山病院)
(中山病院)
法華経寺は、大正6年(1917)、時勢に応じて中山療養院を開設し、医師による障害者の保護治療を開始した。その開院の案内文に曰く「拝啓 時下益々、御清祥奉賀候。陳者、豫テ御高配相蒙候中山療養院之義今般一部落成開院ノ運ニ相成候間、此段御礼旁御報告申上候也。大正六年五月。千葉県東葛飾郡中山村、大本山法華経寺執事」と。
(中山病院別館)
(中山病院別館)
その後、大正10年(1921)8月、施設は本山の手を離れ、当時高名なりし精神科医と檀徒の共同経営に移り、中山脳病院と改称。
昭和23年(1948)中山病院と改称。昭和27年(1952)医療法人静和会中山病院となり、院長は作田淳で、中山別館を有している。(市川市中山2-10-2、231床)
(千葉県の記述は、次回もつづく)