近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
第112回日本医史学会総会

来る2011年6月11日・12日に、東京の順天堂大学医学部本郷キャンパスで日本医史学会が開かれます。
いわゆる「精神」関係の演題は以下の通りです。

第一日目第一会場(有山登記念館講堂)
15:40〜16:30のセッションのうち

・優生保護法における優生審査の実際にふれて
 ・・・・・岡田靖雄

・戦前の「行旅病者救護所」
 ・・・・・金川英雄、堀みゆき

・戦後精神医療史の再検討(1) ライシャワー事件の読み方
 ・・・・・橋本 明

以上です。
毎年ながら、「精神」演題は決して3つは越えないという感じがしますが・・・

| おしらせ | 17:11 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(20) 「精神病者治療所」(広島2)

広島の記述のつづきを見てみよう。

(つづきから)

2) 広島脳病院(広島市白島西中町)

 大正8年(1919)11月3日、医師天野進作(府立大阪医学校卒)が設立。

 現在、天野病院(広島市西白島町7-31、124床)として存在している。

3) 半田救護所
(広島市西白島59-1)

 明治20年(1887)開設され、昭和9年(1934)火災を起こし死亡者も出ました。

4) 三原静養院(御調郡三原町大字三原築出)

 大正2年(1913)設立されました。
(注:三原静養院については、2006年の第10回精神医学史学会(於:京都大学芝蘭会館別館)での田端幸枝らによる報告「精神病者監護法下における監置患者の暮らしと地域社会; 三原静養院における監置患者の暮らしと地域社会」がある。)

5) 湯の山温泉「明神の滝」(佐伯郡湯来(ゆき)町和田)

 可部線水内(みのち)駅の西南11km、太田川の支流水内川沿いの畑地を見下ろす山裾の南斜面にあり。


(温泉入口)

 宝永4年(1707)湧出するを発見。寛延元年(1784)藩主浅野吉長公、専用の湯殿を建つ。
 藩儒堀正脩が「霊泉記」を著し、霊験いちじるしいことが領の内外に伝わり、寛延2年(1749)には、5月末から8月末までの入湯者は約8000を数え、このため宿屋が急増して37軒になったという。


(湯の山明神)

 浴場の上に、湯の山明神が祭られ、その境内にラジウム泉28℃の温泉湧出し、竹を用いて湯滝となし、10条あまり、とうとうとして共同浴場に落下す。


(明神の滝)

 戦前、頭のおかしい人のみ来たり、明神の滝(男湯のこと)に打たれ(注:当研究会の現地調査によれば、かつては男湯・女湯の区別はなかった。上の写真にあるつい立は、男女の湯をわけるためにのちに作られたものだろう。湯の山温泉調査の詳細はこの記事を参照)、脳神経症の特効泉とされた。ここにて快癒した人々の書き残せる文字を浴場のあちこちに見る。目の見えるようになった盲人の奉納せしびわ、歩行の出来るようになったいざりの奉納せし車などが、明神の舞殿に飾られている。
(秘湯をたずねて、その13.中国路の諸温泉より 稲垣幾代.大塚薬報 No.244. 1972,4より)

(広島の記述はここまで)

| 小林靖彦資料 | 14:42 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(19) 「精神病者治療所」(広島1)

小林靖彦の未刊行原稿「精神病者治療所」で、「愛知」の記述の次に来るのは「新潟」である。
だが、「新潟」に資料として貼られていた写真は剥がされており、目下その写真資料を探索している。
したがって、「新潟」を後回しにして、「新潟」の次に記述されている「広島」を紹介したい。


6.広島

1)瘋癲病治療所(佐伯郡廿日市町大字宮内字宮迫)

 弘治元年(1553)開基了源房顕尊師が、三河より此の地に移り、真言宗竜口山神福寺を建てしも、後、真宗に入り、寺も南光山専念寺と改めた。


(武田家系図1)

 次に、武田信玄の子孫と云われる武田太郎光平が、安芸の銀山より迎えられて第二世釈祐薫法師となり、降って第七世慈道法師の次女静恵に、文化5年(1808)、能美島大王村の医師村上元伯の弟、一逕を養子として迎え、分家せしめて、家伝の瘋癲病秘方により精神病者に効く丸薬を造り施療せしめた。


(武田家系図2)


(武田家系図3)

 一逕の子、述吉も医師となりて文敬と称し、その子、謙吉も長崎にて医学を修めて敏恵と改名し、明治33年(1900)11月5日、瘋癲病治療専門の病院、武田精神病院(15床)を設立しました。遠く九州方面からも患者集り盛大なりしも、子孫に医師なく、大正7年(1918)1月1日、廃院されました。

 非公式には、大正11年(1922)敏恵71才で死亡した後、朝鮮より武井守一医師を迎え、医療を続けたるも、昭和17年(1942)之も廃止された。

 現在、病院跡(佐伯郡宮内村字針田160)は、中国電力株式会社の宿舎になっており(注:小俣和一郎(1998)によれば、現在は取り壊されて、更地になっているようである)、武井医師は附近で医院を開業し、南光山恵念寺も現存しています。

 敏恵の孫の武田衛は、広島県安佐郡祇園町長束1094に住い、家系図、病院の看板、家伝の秘薬を所持しています。

 家伝の秘薬は、服用すると、大量の便を排泄し鎮静すると云い、下剤と鎮静剤の両作用をもつものであったし、製造に際しては、支那の原木(信州にもあった)を小刃をもって刻み製するが、マスクをしても涙が出て仕方がなかったと云います。

(注:武田精神病院については、小俣和一郎『精神病院の起源』(1998年)の現地調査にもとづく記述がある。上記の小林の記述は、自身の『日本精神医学小史』の記述とほぼ同じである。小俣は小林の『・・・小史』の記述も参照したうえで、現地を訪れたのだろう。)

(つづく)

| 小林靖彦資料 | 15:35 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(18) 「精神病者治療所」(愛知2)

愛知の資料がつづくが、残念ながら写真は挿入されていない。
そういえば、前回の灸寺(光明院順因寺)に関しては、

 岡田靖雄:灸寺・羽栗病院訪問記.日本医史学雑誌36(4): 401-411, 1990.

が詳しい。


(つづきから)

2) 名古屋脳病院(愛知県御器所村大字御器所字荒畑)

 大正4年(1915)11月24日、医師岩田芳夫(明治43年愛知医専卒)が設立。敷地千百坪、建坪二百五十坪で、収容定員は百名であり、院長は氏家秀雄(予備陸軍二等軍医正)でありました。

 昭和17年(1942)精治寮病院と改称され、今日に至っています。(名古屋市昭和区洲原5-1、175床)

 昭和15年(1940)、名古屋市南区笠寺町に分院を設立し、これは現在、笠寺精治寮病院として存在しております。

3) 東山脳病院(愛知郡東山村大字田代掘割26番地の1)

 大正6年(1917年)8月29日、丸山萬五郎が設立したもので、敷地千三百六十坪、建坪五百三十坪で、収容定員は205名、医員3名、看護人22名で、院長には元東大精神科助手医学士田澤秀四郎が就任しました。(田澤秀四郎は、大正2年に満3年の留学を終えて帰朝している。)

 大正9年(1920)4月、看護婦養成所を設置。

 大正10年(1921)元新潟脳病院長伊藤勘助院長に就任。(前年12月に田澤院長没。)

 昭和20年(1945)戦災により焼失、廃止さる。

4) 豊橋精神病院(豊橋市大字東田字東郷179)

 大正3年(1914)鈴木繁平は、豊橋市大字中柴にて精神病者慰安所を設置し、医師を聘して精神病者の委託看護治療に従事した。

 大正8年(1919)に至り、敷地二千八百二十五坪、建坪三百六十四坪余の病院を設立し、院長に医学士飯島伴之輔を迎え、他に医員3名、看護人8名が勤務しました。

 大正10年(1921)、元音羽養生所医員安部達人院長に就任す。後、豊橋再生館病院と改称。

 昭和10年(1935)不祥事件あり、閉鎖を命ぜられ廃止されました。

5) 名古屋大学医学部精神医学教室

 明治12年(1879)公立医学校(堀川畔天王崎町)においてDr Albert von Roretz(注:正しくはAlbrecht von Roretz)が犯罪に関係ある精神病学を講義し、翌13年(1880)4月には、愛知病院内に小規模ながら最新式純洋風の精神病室が落成しました。

 明治40年(1907)北林貞道が着任し、翌41年(1908)1月8日、精神病学講座が設置されました。

 大正3年(1914)3月、病院も愛知県立医学専門学校も鶴舞公園の北側に移転され、精神病棟も新設されました。

 昭和7年(1932)東大助教授杉田直樹が名古屋医科大学教授として着任し、仝年、愛知県立精神病院が誕生し、院長として児玉昌が着任しました。

(「愛知」の記述は以上で終わり)

| 小林靖彦資料 | 15:37 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(17) 「精神病者治療所」(愛知1)

今回から小林靖彦資料は愛知県にはいる。
小林の「地元」ということになる。
ところが、この未刊行原稿「精神病者治療所」の「愛知」のページからは、貼ってあった写真が無残にもはがされている。
小林には、一度作った資料に貼った写真を、他の資料を作るために切り取ったり、はがしたりする「悪い癖」がある。
したがって、以下に挿入されている写真は、最初に挿入されていたと推察される写真を、小林が遺した他の資料から補ったものである。


4. 愛知

1) 光明山順因寺(愛知県岡崎市羽栗町)

 光明山順因寺は、始め天台宗に属し、室町時代の初期、普照法印によって開かれた古刹で、善視、善祐、善頓、日善を経て、6代照善法印は、浄土真宗に入り、文亀3年(1503)5月朔日、釈正善法師と改名しました。


(光明院順因寺過去帳)

 灸法と漢方薬による精神病の治療は、3代善祐法印に始まり、応永年間(1394〜1428)と推定され、引き継がれて今日に及び、歴代法師中、漢方医もニ、三あり、収容治療もなされていたと考えられます。


(光明山順因寺)

 昭和31年(1956)、29代の当主粟生敏春により灸寺羽栗病院開設され、精神科特殊療法と並んで、灸法、漢方薬による治療も併用され、全国的な名声を有し、外来、入院共に遠隔地よりの患者が多い。(岡崎市羽栗町字田中、108床)


(羽栗病院看板)

 灸法は、有痕灸にして、艾炷小さく、第二胸椎と第十二胸椎、或は第一腰椎の両側の二横指離れた部位と、第五胸椎より一横指離れた部位で、男左側、女右側、足の第五趾と第四趾との間の少し上の部位、以上の7か所に、初めの1週間は毎日7ケづつ午前中に、その後は1週間1回7ケと定められております。


(羽栗病院)

 漢方薬は、蒼述、当帰、紫胡、遠志、酸棗仁、甘草、陳皮、黄耆、辰砂を調合したものであります。

 六百有余年の歴史を有する精神病治療所で、寺は可成り荒れてはいますが、昔日の面影を残し、新しい精神病院との併設は、よき調和を保っております。



(つづく)

| 小林靖彦資料 | 15:48 | comments(0) | - | pookmark |
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