今回は写真がない。
(つづきから)
3) 私立回春病院附属大阪癲狂院(大阪市南区逢坂上ノ町4953)
明治19年(1886)2月、医師山本洪輔が創立。地坪七百余坪でありました。
明治22年(1889)6月大阪精神病院と改称。
明治26年(1893)5月30日、失火したるも、入院患者52名中1名の負傷者もなかった。再建。
大正3年(1914)5月1日、ドクトル山本宗一は、大阪府南河内郡志紀村大字天王寺屋129に大阪脳病院(100床)を創立。大阪精神病院の分院とも見做すべきもので、敷地四千六百十四坪、建坪四百七十七坪でありました[注:岡田靖雄(2002)によれば、大阪癲狂院/大阪精神病院は「のち大阪脳病院に吸収された」とある]。
大阪脳病院は、昭和38年(1963)山本病院と改称され、今日に至る。(八尾市天王寺屋129、515床)[注:山本病院のHPによれば、大阪脳病院の設立は1913年とある。]
4) 私立大阪癲狂院(大阪市北区本庄葉村町)
明治25年(1892)2月20日、医師阪本元良が知事の委嘱を受けて東大で精神病学を修めて創立したもので、敷地七百五十坪、建坪百三十九坪で、定員は104床でありました。
元良の子、三郎は、パリ滞在中に視察したフランスの病院の様式を取り入れて、昭和5年(1930)近代設備を充実せる阪本病院を、大阪府布施市上小阪2丁目56に設立しました。
昭和6年(1931)私立大阪癲狂院は、患者を阪本病院に引き継いで廃止されました。
阪本病院は三郎の子、健二に引き継がれて、今日に至っています。(東大阪市上小阪町2-56-1、415床)[注:阪本病院のHPによれば、現在は東大阪市西上小阪町7-17とある。]
5) 大阪脳神経病院(大阪府豊能郡中豊島村大字長興寺123)
大正4年(1915)医師稲葉近蔵が開設したもので、敷地七百七十七坪、建坪二百九十一坪、収容定員は98床でありました。
6) 関西精神病院(大阪府東成郡住吉村)
大正5年(1916)西浦八平が設立、谷口祝延が院長となりました。敷地千百五十二坪、建坪二百五十坪で、収容定員は83床でありました。
7) 大阪大学医学部精神医学教室
明治27年(1894)4月7日、大阪府立医学校病院に精神科が新設され、大西鍛医長となり、10月病室落成す。
明治41年(1908)10月12日、大阪府立高等医学校の精神病館落成す。
(以上、大阪の記述は終わり。次は愛知県)
前回で「図書館への旅」は終わり、小林靖彦の大阪の資料にもどる。
(つづきから)
2) 癲狂病院(大阪府豊中市熊野田)
大阪城代の御殿医たりし石丸家は、代々浪速熊野田の地において万病の施療をしていたが、その内の名医として有名なりし周吾の代に至り、癲狂者の治療のため、文政年間(1818〜1829)、収容施設を設置し、漢方薬による治療を始めました。その庭の土を足の裏にぬれば、精神病が治るなどの伝説を生むほど盛況であったと云います。
(石丸癲狂病院跡)
明治18年(1885)石丸周吾の子孫の姻戚たる木村謙太郎[注:呉秀三論文(1912)には、木村兼太郎とある]を院長とし、従来の組織をあらためて石丸癲狂病院としました。
明治33年(1900)増築し、病室を17個とし、収容定員25人となる。石丸周二に引き継がれて石丸病院と改称された[注:石丸家の家系に関する記述には、不明な点がある。呉秀三(1912)は、石丸周次(周二ではなく)は明治18年に死亡し、そのあとを上記の木村が継いだとしながら、他所で周次の没年を明治27年とも書いており、記述に矛盾がある]。
今次世界大戦中、修練道場に指定され、また、子孫は医師なく、昭和20年(1945)廃止されました。
処方は下剤と鎮静剤を混合せし漢方薬にして、今も石丸家の庭土を貰い受けに来る人ありと云う。ここにあった躁狂室は、京都癲狂院の護体室と共に、保護室の中にありて特異な存在でありました。
(躁狂室)
昭和38年(1963)訪れしとき、昔日の面影を残す建物がありました。
(つづく)
名称が"Staats- und Universitätsbibliothek Carl von Ossietzky"と長いが、要するにハンブルク大学の構内にある総合図書館である。
ここにもワイガント(Wilhelm Weygandt, 1870-1939)の関連調査で訪ねることにした。
ワイガントは多才な人であった。
大学では最初は哲学や文学を専攻し、次に心理学もやり、最後は医学を学んだ。
そんな背景もあってか、生涯で詩集を何冊か出している。
そのうちの一つが1931年に出版された"Auf Bergen und Meeren"(『山と海で』とでも訳すべきか)である。
前年の1930年に日本を旅行した時の印象などを中心にした詩集らしい。
この詩集の一部(と思われるもの)が、昭和8年の『神経学雑誌』(第36巻)に、ドイツ語原文と日本語訳とが併記される形で掲載されている。
「樫田五郎訳」、「齋藤茂吉閲」、となっている。
私宅監置調査で呉秀三とともに名を連ねている樫田は、ワイガントのもとに留学したことがある。
一方、齋藤は呉のもとで学んだ精神科医であり、歌人であったことは言うまでもない。
ただ、どうしたことか、『神経学雑誌』では、"Auf Bergen und Meeren"ではなくて、"Aus ...."となっている。
単純な書き間違いとは思うが、"Aus"にしてしまったおかげか、日本語の題名は『山と海から』となっている。
まあ、そんな細かいことはどうでもいいから、原本が見たい。
ホテルからハンブルク大学をめざして歩くことにした。
(朝早く、まだ人通りもまばらなハンブルクの中心街で)
(地下鉄に乗るわけでもないのに、駅をぶらいついた)
上の写真のように、9時の開館まで時間があるので、街をぶらついた。
少々道に迷いながら、ハンブルク大学の構内に到達。
わりと雑然としたキャンパスである。
ドイツの大学では比較的後発の、1919年創立ということも関係あるのか。
あるいは、第二次世界大戦で徹底的に破壊されたのか。
図書館に入り、インフォメーションの人に来館の意図を告げる。
すると、「この本は少し離れた書庫にありますから、見られるのは・・・」と、私がこの街にもういない日付を言う。
私のがっかりした顔を読み取ってか、「何か問題でも?」と、その人。
どうしようもないので、すごすごと退散するほかなかった。
この本、日本でもう一度探してみよう。
どこかにあるかもしれない。
(Staats- und Universitätsbibliothek Carl von Ossietzky)
というわけで、「図書館への旅」と銘打ちながら、あとはハンブルク観光の話になる。
図書館から少し歩いたところに、紫色のつぼみをもった草花が一面に生えていた。
思わずカメラを地面に接近させて撮った(下の写真)。
ところが、この場所はかつてハンブルクに住んでいたユダヤ人を追悼すための広場だった。
彼らはここからナチスの強制収容所に送られたのである。
おそらく貨車に詰め込まれたのだろう。
いまでもすぐ近くを鉄道が走っている。
(「強制退去させられたユダヤ人のための広場」)
港を目指すことにした。
再び街の中心街を抜けて、どんどん進むと、印象的な建築群に出くわした。
企業のビルのようである。
有名な建築家が設計したものなのだろうか。
(印象的なビル群)
このビルのすぐ向こうが港になっていた。
港を周遊する船に乗るのがハンブルク観光の目玉らしい。
あちこちで乗船切符を売る人の声がする。
それにしても今日は寒い。
こんな日にクルーズは気が進まない。
(ハンブルクの港で)
寒くて寒くて、歩くのはやめて、地下鉄に乗って中央駅へ向かう。
駅の周辺の店をめぐる。
本屋に行ったり、デパートに行ったり。
あれこれ見ているうちに、購買意欲が高まってくる。
本を何冊か、それから、コーヒーや紅茶、文房具などを衝動的に買ってしまった。
ある本屋のショーウィンドーを見ると、日本に関する本ばかり。
最近、ドイツのマスコミでは、地震の影響で日本の露出度が急に高まっている。
それに便乗して、「日本を売ろう」ということなのか。
(すべて日本関係の本)
(ハンブルク中央駅で)
ハンブルクにハンバーガーの起源があるのかどうか、不勉強で知らない。
とにかく、「ピルス(ビール)にソーセージ」気分だったので、注文。
それらを口にしながら今日を振り返る。
泊まっているホテルがハンブルクの中央駅に近いので、どうしても一日はここから始まる。
文書館が開くまでに時間があり、またもや駅構内のマクドナルドへ。
絵葉書を書くことにした。
昨年、南ドイツで行われた精神医学史関係の学会で講演をした際に、一人の「元患者」から分厚い美術書をプレゼントされた。
私の「趣味」を関係者から聞いたらしい。
その後も手紙のやりとりがあって、その返事をここで書こうと思ったのである。
ハンブルクの夜景の絵葉書にお礼を書いて、ホテルのフロントで買っておいた切手を貼って出来上がり。
そして、日本から持ってきた新書を読んで時間をつぶす。
(駅構内のマクドナルドで)
Staatsarchivには、また早く着きすぎてしまった。
あたりを一周し、10時に中へ。
昨日予約しておいた、精神科医ワイガント(Wilhelm Weygandt, 1870-1939)の資料にざっと目を通したが、決定的な新事実があるわけではない。
これは、どうも空振りだ。
そんな気分で閲覧室を出て、昼ごはんにする。
昼ごはんといっても、文書館のロッカールームの片隅に数席ある椅子にすわって、ホテルの朝食のあまりで作った簡単なサンドウィッチを食べるのみ。
それに、50セントのコーヒー。
このスペースには、コイン式のコーヒーメーカーが置いてある。
閲覧室にもどり、気分あらたに資料をもう一度丁寧に読む。
すると、いくつかの文書に共通のキーワードに気がついた。
そのキーワードに着目すると、ここにも、そこにも、と見つかるものである。
「これなら行けるかもしれない」と一人合点して、必要な部分のコピーを依頼した。
こうして、文書館を後にし、冒頭の「ピルスにソーセージ」にたどりつくわけである。
(Staatsarchiv Hamburgの入口付近)