近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
島根県の精神医療史 続・鷺湯精神病院

少し前、「島根県の精神医療史 鷺湯精神病院」という記事を書いたが、その続編である。
今年の1月末の島根調査でやり残したこと、新たに湧いた疑問を解決すべく、2月下旬に再び安来と松江を訪れた。
試験監督が当たっている、国公立大学の前期日程二次試験が始まる直前のことである。

今回は、呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)にも創立者として名前が出てくる、医師・中原清の末裔の方に会うことができた。
詳しい経歴は省略するが、一時は東京帝国大学精神病学教室に所属していた中原は、郷里に戻って鷺湯精神病院を開く。
明治44(1911)年のことである。
全国的にも精神病院が珍しかった当時、島根県の山あいで開業したことは驚異的なことだったかもしれない。
中原はのちに県会議員や飯梨村(現在の安来市の一部)村長なども務めた、文字どおり郷土の名士であった。
その肖像写真が『飯梨郷土誌』に第八代村長として掲載されている(と末裔の方に教えてもらった)。


(中原 清 1878-1941
[出典:飯梨公民館『飯梨郷土誌』、1994年]


前回訪れた時にも、鷺湯精神病院の跡地を確認したが、よくわからないことがあった。
それは、下の「日本精神医学風土記 島根県」の写真と、現在跡地と推察される場所との対応関係である。
正面に見えているのは、母屋(院長宅と炊事場)とわかっているが、手前の「つり橋」のようなものは、いったい何だろうか?
川などないはずだが。

 

(往時の鷺湯精神病院)
[出典:杉原寛一郎「日本精神医学風土記 島根県」『臨床精神医学』、1986年]

末裔のお宅であれこれ検討。
その結果、上の写真の赤い枠で囲った小屋だけが現在残っているものだとわかった。
下の写真は現在のものだが、真ん中の電柱の左にある小屋のことである。
この小屋は穀類を貯蔵していたもので、座敷もあったという。
「つり橋」に見えたのは、刈り取った稲を掛ける「はぜ」だろうということになった。
現在は駐車場になっているが、以前はこの一体は田んぼだったという。


(「日本精神医学風土記 島根県」の写真とほぼ同じ角度から撮った写真)
[橋本、2011年2月撮影]

今回の報告は以上である。
単に場所の新旧を比較しただけのことだが、パズルが解けたようなスッキリとした気分だった。
とはいえ、末裔のお宅で(決して皮肉ではなく)「昔の病院のことを調べて、何になるんですか?」とまじめに聞かれて、一瞬うろたえた。
学問的な説明はいくらでもできるだろうが、ここでそんなことを言ってもはじまらない。
「何って・・・とにかく、面白いんです」と答えるほかなかった。
でも、これが偽らざる気持ちかもしれない。

 

 

| プチ調査 | 12:36 | comments(2) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(11) 「精神病者治療所」(東京2)

 以下の後半では、東京都立松沢病院の歴史が書かれているが、記述にやや正確さを欠いている印象。

(つづきから)

3)加藤瘋癲病院
(東京市本郷区田町28番地)

 越前の人、医師加藤照業は、明治8年(1875)2月、東京市本郷区田町6番地で、精神病専門で開業。明治11年(1878)12月18日、田町28番地に移転し、病院を設立。日本最古の私立精神病院で「田町気狂い病院」として有名でありましたが、明治31年(1898)10月、失火し病室の一部焼失し焼死者6人を出す。


(加藤瘋癲病院)

 これよりさき明治25年(1892)10月に、東京府北豊島郡高田町に、一万五千坪の地所を獲し、患者千五百名を収容する大精神病院を建設せんと企てていた加藤は、責任を負って、12月5日廃院しました。

4)救育所

 明治5年(1872)、東京府知事は、本郷の加賀屋敷に救育所(約140名収容)を設け、其の癲狂室に精神病者を収容しました。

 明治6年(1873)2月5日、上野の護国院跡に移転。明治8年(1875)養育院と改称。

[注:以上の記述は正確ではない。東京市中の浮浪者を収容するために、救育所が三田につくられたのは明治2年である。その後、三田以外に高輪、四谷見附にも同様の施設が設けられた。ここでは町会所の囲籾(かこいもみ)を使用して収容者への食糧支給が行われていた。だが、のちに町会所は廃止され、その財産は営繕会議所に引き継がれた。営繕会議所の附属機関として明治5年に本郷元加州邸跡に設立されたのが養育院である。この時、約240人の浮浪者が収容された。いったんは、浅草の長谷部善七のもとに預けられた収容者は、明治6年2月5日に護国院跡に移されたのである。cf.『養育院百年史』1974年]

 明治12年(1879)収容していた精神病者50名を、東京府仮癲狂院に引き継ぎ、神田区和泉町に移転。明治19年(1886)[注:正しくは明治18年]本所長岡町に移転。

 これ東京都立養育院の前身であります。

5)東京府仮癲狂院

 明治12年(1879)6月、上野養育院内病室の一部に精神病室が設けられ、養育院移転後、東京府仮癲狂院(100床)となる[注:呉秀三(1912)も「仮癲狂院」という呼称を過去遡及的に使ってはいるが、当然ながら、最初から「仮・・・」を正式名称としていたわけではない。正式には、あくまで「東京府癲狂院」である]

 明治14年(1881)8月、本郷東片町1番地に移転し、東京府癲狂院(150床)となる。敷地三万二百六十四坪余、建坪六百八十二坪余であり、入院患者は、躁狂、鬱狂、偏狂、痴狂に分類され、治療法として臭剥、抱水クロラール、ヒオスチアミン、コデイン、灌水がありました。


(東京府癲狂院)

 明治19年(1886)6月、小石川区駕籠町45番地に移転。明治22年(1889)3月東京府巣鴨病院と改称。敷地一万七千九百九十一坪[注:小林が参照したであろう呉(1912)論文では、一万七千三百四十八坪とある]余、後、二万二千九百三十一坪余であった。


(東京府巣鴨病院病棟)


(東京府巣鴨病院病室)

 明治35年(1902)作業療法(農業、植物培養、牧畜、編物、裁縫、洗濯、紙漉、紙捻細工、状袋張、機織、造花、麻継)を始め、構外運動の制を定め、患家の希望などにより患者を外出せしめました。


(機織)


(構外運動)

 明治38年(1905)、仮出院の制を設け、1週間以内の外泊を許可することとしました。

 明治42年(1909)3月、院内児童のため小学校を設け、修養学院と称しました。

 大正8年(1919)荏原郡松沢村に移り、東京府立松沢病院と改称。敷地六万千五百三十一坪である。

 昭和18年(1943)東京都立松沢病院となり、今日に至っております。(東京都世田谷区上北沢2-1-1、1470床)


(東京都立松沢病院)

(つづく)

| 小林靖彦資料 | 13:23 | comments(4) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(10) 「精神病者治療所」(東京1)
 引き続き、小林靖彦の未発表原稿「精神病者治療所」(1973年)から、「東京」に関するものを順次紹介していきたい。

2.東京

1)狂疾治療所

 弘化3年(1846)、江戸日本橋の医師、奈良林伊織(一徳)によって江戸小松川(東京府南葛飾郡小松川村字新田)に創立され、明治6年(1873)、その子奈良林元春に引き継がれ、明治11年(1879)改築されて病床40余となり、明治13年(1880)4月小松川癲狂院と改称、ついで明治24年(1891)小松川精神病院と改称され、元春の子、奈良林浅次郎院長となる。


(小松川癲狂院)

 明治41年(1908)1月、南葛飾郡亀戸村に移転され、2月加命堂脳病院と改称、さらに加命堂病院となり、昭和19年(1944)廃止されました。


(加命堂脳病院)

2)高尾山薬王院(東京都八王子市高尾町)

 高尾山薬王院有喜寺は、高尾山(標高600m)の山頂にあり、聖武天皇の天平16年(744)に創立された真言宗智山派の名刹であり、江戸時代、関東一円にわたり信徒100万と称せられました。今は、「明治の森・高尾山国定公園」として自然が保護され、緑陰を求める東京人の行楽地となっております。


(高尾山薬王院立札)
[注:写真では説明書きの右端が切れている。]


(高尾山薬王院)

 中興開山の永和年間(1375-1378)以来、修験道の遺風を継承し、山伏による火渡りの大祭の荒行や、蛇滝、琵琶滝で滝をあびる水行など。数多くの宗教行事が行われています。

 滝治療を求めて、麓の宿に泊って滝に打たれる精神病者の姿が、古くから見られたと云います。

 今でこそ、ケーブルカー、リフトが山頂近くまで来ており、道路も整備されているが、昔は、山深く、親族が病気の平癒を祈願して寺まで来たり、病者は滝に打たれに来るだけだったらしく、寺に詳しい記録はないと云います。


(蛇滝の下り口)


(蛇滝)

(つづく)


 上の写真「蛇滝の下り口」に見える石の道標は、このブログにある高尾山の記事の写真に見えるものと同じ。私は真冬に高尾山を訪れたため、この「蛇滝の下り口」から蛇滝に到達することができなかった。道が凍結していたのである。
| 小林靖彦資料 | 14:59 | comments(0) | - | pookmark |
奈良県の精神医療史 滝坂妙見宮


(奈良公園のシカ)

2月11日、奈良は一面の雪景色。
近鉄の新大宮駅付近のホテルを出て、まずはJR奈良駅へ。
荷物をコインロッカーに預けて、春日山をめざして歩く。

春日大社の一の鳥居から入り、参道をどんどん進む。
シカが器用に後ろ足だけで立って、樹木の葉を食いちぎっていた。
前足を地面に着地させた途端、揺らした木から落ちる雪をまともにかぶることになる(上の写真)。

春日大社の二の鳥居をくぐり、本殿を素通りして、「奥の院道」を進む。
やがて、道は下りになり、「柳生街道」、またの名を「滝坂道(たきさかのみち)」、に出た。
この雪道をさらにどれくらい行くことになるのか・・・
雪はどんどん積もってきた。
少し心細くなり、「遭難」という言葉が頭に浮かんできた。

昭和4年7月末現在の内務省の「精神病者収容施設調」(昭和6年発行)には、「瀧坂妙見宮(奈良市高畑町)」が載っている。
収容定員は20人、現在収容人員は14人とある。
だが、内務省文献以外には、手がかりを見つけられなかった。
ただ、ウェッブ上で、その妙見宮が春日山を越えた向こうにあるらしいことは突き止めた。
行くしかない。

春日山遊歩道をずんずん進む。
雪道には人の歩いた形跡がほとんどない。
未踏の地、という感じ。
どれくらい歩いたか。
白一色の景色の中に、橋の赤い欄干が見えてきた。
滝坂妙見宮の入口はそのすぐ脇にあった。


(滝坂妙見宮の入口付近。左の階段が妙見宮への道。)

案内板によれば、滝坂妙見宮は日蓮宗春日山教会ともいい、創立は明治42年。
昭和の初めには近畿一円に教線を広げ、参道は昼夜を問わず参詣者で賑わった。
だが、第二次世界大戦の影響で信徒は四散し、昭和36年の台風被害で建物は壊滅的な被害を受けたという。
その後、信徒や関係者の協力で、往時の状態に復興したという。


(参籠所)

妙見宮の階段を登っていくと、最初に目に付くのが参籠所である。
谷を挟んで参籠所と対峙する位置に休憩所があり、その奥に滝場と二つの不動堂がある。
滝は人工的に設置したものだろう。
その水量はきわめて少ない(どこかで水量は調節できるのかもしれない)。


(手前が岩で囲まれた滝場。白壁の不動堂が二つ見える。)

この日、妙見宮の事務所には誰もおらず、詳しい話は聞けなかったが、現在も信者に使われている施設なのだろう。
「比較民間精神医療史」的に言えば、滝坂妙見宮における、参籠所や滝場、本堂や庫裡などの配置、および自然地理学的環境は、きわめて典型的なものといえる。
類似のものとして、東京・高尾山の蛇滝周辺の施設が思い出される。

さて、妙見宮を後にして、山を降りる。
春日山の外周の道を進み、旧・志賀直哉邸の前を通って、再び春日大社の一の鳥居の前に出た。
せっかくだからと、奈良国立博物館に入る。
特別陳列「お水取り」を見ながら、東大寺の二月堂に行こうかという気になる。
二月堂に行った記憶がない。

東大寺の二月堂周辺で気がついたのは、滝場がいくつかあることである。

不動堂に登ると、その奥に垢離場がある。
その門には「滝場の御使用について」という張り紙がしてあった。
昨今のパワースポット・ブームで利用者が増えているのだろうか。

二月堂の下にも滝場があった。
周囲を囲まれているので、あまり人に気がつかれないかもしれない。


(東大寺二月堂にある滝場)

東大寺で滝場の原型を見たような気がした。

| プチ調査 | 13:01 | comments(0) | - | pookmark |
図書館への旅(11) 奈良県立図書情報館
 
(奈良県立図書情報館)

JR奈良駅を降りて西口に出た。
明らかに、うら寂しい雰囲気が漂っている。
奈良に来る観光客たちは東口に出て、東へ東へと向かう。
しかし、西口から、図書館、いや図書情報館への道のりには、古都らしきものは一切ない。
本当になにもない。

それぞれの都道府県には、それぞれ独自の精神医療史があって、興味が尽きない。
奈良県で目立つのは民間の精神病者治療所の多さである。
内務省が行った昭和3年および4年の「精神病者収容施設調」を整理してみると、奈良県にあったとされる民間の収容施設は15ヶ所。
他府県と比べると格段に多い。
しかも、どれも宗教(さらに、いわゆる新宗教・新興宗教)と深く関わっているようである。
まず、この資料を集めたい。
以前ここで紹介した奥不動寺もそのような施設のひとつだが、もっと資料はないものか。

これとは別種の資料も見たかった。
奈良県立図書情報館は公文書館の機能も果たしており、公文書資料も充実しているようだった。
その中で、事前に検索してあった行旅病人・死亡人の資料が気になった。
言うまでもなく行旅病人・死亡人とは、ホームレス状態で病気になったり、行き倒れて死亡したりした人たちのことである。
この中には、当然ながら精神病者も含まれていたはずである。

奈良県社会課でまとめられた昭和10年あたりの文書綴りをめくりながら、当時の行旅病人・死亡人どんな人たちだったのかよくわかった。

死亡人でとくに多いのが自殺(その中でとくに溢死)である。
ある人は山林で首をつり、腐乱した状態で村の人に発見された。
身元がはっきりせず、役場が死体の処理をすることになる。
山から死体を運搬するための人夫賃、仮に土葬するための費用、地元の新聞に掲載する死亡広告料が、記録されている。
いったん役場が立て替え、その後、役場が県に請求するしくみになっている。

精神病者の事例も見つけた。
東北地方から出てきて、奈良県で働いていたその人は、早発性痴呆(いまでいう統合失調症)に罹患する。
仕事をやめると、食費が稼げず、食うや食わずの生活。
役場は行旅病人として取り扱うことにした。
暴行などはないので家で静養していたが、やがて本籍地である東北地方のとある県に帰郷した。

もうひとつ精神病者の事例。
奈良県内の省線(のちの国鉄、いまのJR)の駅構内で徘徊・挙動不審の人が駅員の通報で警察へ。
精神の異状が認められ、保護検束される。
行旅病人として取扱処理されることになった。
ただし、その後どうなったのかの記述はなく、転帰は不明である。

朝から図書情報館で作業をしてきたが、気がつけばあたりは真っ暗。
腹も減ってきた。
館をあとにし、暗い道を近鉄の新大宮駅方面に向かって歩く。
そのあたりに宿をとったので。
| 図書館への旅 | 21:24 | comments(0) | - | pookmark |
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE