近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
島根県の精神医療史 鷺湯精神病院


(往時の鷺湯精神病院)
[出典:杉原寛一郎「日本精神医学風土記 島根県」『臨床精神医学』、1986年]

呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)には;

鷺湯精神病院(島根県出雲国能義郡飯梨村大字植田千二百番地)は明治四十四年四月十五日医師中原清の設立にして(・・・)病院構内に天然温泉あり温度三十六度六分にして持続浴に適当なりと云 (原文は漢字カタカナ文)

とある。

これは鷺ノ湯精神病院に関するもっとも古い記述の一つだろう。
というのも、設立が明治44(1911)年であり、呉の論文が書かれたのが、その直後の大正元(1912)年だからである。

院長の中原清は、もともと小学校の教員をしていたが、志すところあって、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)に入学、明治39(1906)年に同校を卒業。
その後、東京帝国大学医科大学精神病科選科に入学、同大学精神病学教室介補となり、東京府巣鴨病院の医員を嘱託された。

その後、郷里に戻った中原は上記の呉論文にあるように、飯梨村(現・安来市)に精神病院を開業した。
病院は小高い山(丘)の建設された。
そこは旧広瀬藩の別館(植田御殿あるいは御茶御殿と呼ばれていた)の跡地である。
呉論文によれば、病室2棟9室で20人の収容定員だったという(ピーク時には45床だったようだ)。

昭和16(1941)年9月に中原院長が死去し、内科・小児科の開業医をしていた朝山保が院長を継いだという(というよりも代診に来ていたというのが正確のようだ)。
ところが、昭和21(1946)年、火災のため病院は廃院となった。
病院管理者との間にトラブルがあり、看護人が放火したのである。


(鷺湯精神病院があったという山)

以上が文献的にわかることである。
とりあえず、病院の跡地に行くことにした。
JR安来駅から、最近人気が急上昇してるらしい足立美術館の無料シャトルバスに乗る。
実はこの美術館は、鷺の湯温泉にある。
美術館の至近距離に、かつての病院があったことになる。

地元の人から病院や中原清のことなどを聞き取りを行う。
そのあと、病院跡へ向かう。
途中まで病院跡に至る道を案内してもらった。
ところが、雪による倒木で、結局山の中には入ることができなかった。


(鷺湯精神病院跡地へ至る道。この先、倒木で進めない。)

時間に余裕がなく、文献的に調べたこと以上のことは、あまり聞けなかった。
戦前の病院ことを覚えている人も、ほとんどいないので。
が、かつての病院の温泉の位置を確認することができた。
現在は民家の敷地であり、かつての面影はない。
山から患者が降りてきて、温泉場まで来たのだという。
これが呉論文にいう「持続浴」のことらしい(ただ、温泉に浸かっただけのようだが)。


(足立美術館の庭園から旧・鷺湯精神病院方面を見る)

せっかくここまで来たのだから(しかも、美術館の無料シャトルバスを使って来たので)、足立美術館を見学した。
日本画(とくに横山大観のコレクション)と日本庭園で知られる。
アメリカの“Journal of Japanese Garden”という雑誌が、「庭園日本一」と評したそうである。

あいにくの雪だったが、雪もまたいい。
おもしろかったのは、かつて鷺湯精神病院があった山が、この庭園の借景になっていること。
もし、病院があったなら、この庭園の借景コンセプトにも影響したかもしれない。

| プチ調査 | 13:57 | comments(0) | - | pookmark |
図書館への旅(10) 島根県立図書館
先週のこと。
大雪が心配されたが、名古屋から東海道山陽新幹線、伯備線を経由して、松江に行った。
島根県の精神医療史調査が目的である。
まずは、松江城のお堀端にある島根県立図書館へ。

 
(島根県立図書館入口)

島根県のポイントは二つあった。
一つ目は、昭和15(1940)年の厚生省調査(精神病者収容施設調)に記載されている「松江救護人収容所」。
これに関する資料はないか。
二つ目は、県内に戦前からある(あった)3つの精神病院。
なんと言っても注目は、明治44(1911)年に開院し、昭和21(1946)年に廃院となった「鷺湯精神病院」である。
鷺の湯温泉との関わりは?

事前のウェッブ上の調査からわかっていたが、ほとんどすべての資料は郷土資料室にある。
結局、図書館には昼過ぎから、夕方の閉館時刻までいた。
調査の結果は、また後ほどのブログで。

図書館を出て、県庁の横を通り過ぎ、JR松江駅前に予約してあるホテル方面へ向かう。
途中、宍道湖大橋を渡る。


(宍道湖大橋。渋滞している。仕事帰りの車か。)

ホテルに戻る前に、松江駅のなかの「磯の家」という店で「島根定食」というのを食べた。
魚尽くしのメニューがいい。
| 図書館への旅 | 14:28 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(5) 「精神病者治療所」(京都4)
小林靖彦資料の京都の医学史に関わる記述はなおも続く。

(つづきから)

4) 青蓮[しょうれん]院 (京都市東山区粟田口三条坊町)

 天台宗山門派に属し、旧号十薬院と称し、俗に粟田口御所と呼ばれる。天養元年(1144)天台座主行玄の創始になり、仁平3年(1153)鳥羽法皇の命により殿舎造営され、皇子覚快法親王を入寺させた天台宗三門跡の一つであります。

(青蓮院1)

(青蓮院2)

 明治5年(1872)11月1日、永観堂の住職東山天華ら、ここに京都府仮療養院を創始す。現在、境内に「療病院跡」の石碑あり。
 京都での最初の公立病院であり、明治7年(1874)寺町広小路に移され、病院及び学校が設立されました。これが京都府立医科大学の濫觴であります。

(療病院跡)

(つづく)
| 小林靖彦資料 | 15:56 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(4) 「精神病者治療所」(京都3)
以下は 「精神病治療所」の京都のつづきで、久世観音の記述である。
ただ、この観音と精神病治療とのつながりを示す根拠(文献)がどこから来ているのか、少なくとも私は調べ得ていない。
小林靖彦はどこでこの事実(だとすれば)をつかんだのだろうか・・・

(つづきから)

3)久世観音

 久世の観音寺は、洛南、水度[ミト]神社(久世郡[ママ]城陽市寺田)の前あたり、旧奈良街道に面してあったと云う。
 天平仏と思われる脱[活?]乾漆造りの観音像(2尺5寸)が安置されてあったと云う。

(水度神社)

 この観音像は、正面寺の御本尊であったが、治承4年(1180)宇治川の戦で敗れた源三位頼政の兵が逃げ込んだため、焼討ちされ際、火中より取り出され、水度神社境内の宮寺に安置された。
 天正4年(1576)、街道に面して観音堂が建てられ、そこに移された。それが久世の観音堂であり、夜叉観音、夜叉観音寺とも呼ばれ、その後、無住となり、正徳3年(1716)在住となりしも、慶応2年(1866)類焼、仝年再建されたと云う。

(観音像)

 その昔、寺田広司という代官の娘、13回も嫁ぎしも、その都度戻され、世間から夜叉と呼ばれしが髪をおろして尼となり、寺を守り、死して夜叉塚に葬らる。夜叉塚は、移されて、現在、水度神社の隣の池(玉池)の中にある。
 精神病者を世話した時期は不明なれど、代官の娘が世話された頃に始まると考えられる。
 観音寺は、淨業観音とも称せられた時期もあったと云う。

(三縁寺)

 明治13年(1880)明治天皇の奈良行幸の際、当時の知事槇村正直によって、寺は廃され、観音像は、三縁寺に預けられ、今日に至る。
 三縁寺は、城陽市寺田中大小にあり、浄土宗百万遍派に属し、明応6年(1497)顕誉上人により開かれ、本堂に阿弥陀立像の本尊あり、そのそばに、旧正面寺の[一字?]伝とされる観音像あり。

 以上の紫雲山大雲寺、岩屋山志明院、久世観音、さらに音羽山清水寺を結んでみますと、御所を中心として半月状になっており、厄介者をなるべく離れたところに連れて行きたいという意図がうかがえます。
 因みに、清水寺は音羽山と号し 法相宗に属し 京都市東山区清水にあり、奥の院の下にかかっている細い三すじの水は 有名な音羽の滝であります。

(つづく)
| 小林靖彦資料 | 12:09 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(3) 「精神病者治療所」(京都2)
 「精神病治療所」の京都の記述は、紫雲山大雲寺の次に岩屋山志明院(しみょういん)の記述が続く。
小林靖彦が志明院と滝治療との関係を見出したのは、江戸時代の漢方医・香川修徳の『一本堂薬撰続篇』からであろう(小林靖彦「江戸時代の精神医学 2. 治療編」『臨床精神医学』11: 49-54, 1982)
それによると、香川修徳は狂病に対する滝の治効を記述するなかで「京北石屋山懸垂」に言及している。

(前回からのつづき)

2)岩屋山志明院(京都市北区雲ヶ畑出谷町)

 志明院は、眞言宗古義派(御室派)に属し、教王護国寺(東寺)の末寺で、正しくは、岩屋山金光峰寺志明院であります。
 
因みに東寺は京都市下京区九条にあり、正しくは教王護国寺といい、眞言宗東寺派の総本山で、わが国最大の五重塔を有する。

(志明院の立札)

 孝徳天皇の白雉元年(650)役[えん]の行者の開基草創になり、天長6年(829)、弘法大師によって再興された日本最古不動明王顕現の神秘霊峰であったが、天保2年(1831)の回禄(火事)により、山門と鐘楼を除く殆んどが焼失し、加えて、明治初期の廃仏毀釈によりほとんど荒廃せんとしたのを、村人信徒の努力によって、明治35年(1902)復興されたものであります。

(志明院二王門)

 山門には、二王門と称し、室町時代の作で、小野道風の書と称される「岩屋山」の額を掲げ、本堂には、本尊不動明王を祀る。
 左手に、鳴神上人の行場として伝えられる飛竜ノ滝あり。
 谷川の水を落して滝となし、上に飛竜権現を祀る。
 
弘法大師入山行法の時、神童出現し、飛竜となりて滝谷に入りしを以て飛竜ノ滝と名付けられた。浴すれば心願成就すと云う。

(志明院本堂)

 その奥に、鳴海[ママ、正しくは鳴神]上人護摩行のため籠ったと云われる護摩洞窟あり。
 
因みに「鳴神上人は、当山の僧にして、朝廷に願いを立てしを許されず、三千世界の竜神を飛竜の滝壺に封じ込み、黒雲坊、白雲坊を従えて護摩の洞窟に籠る。ために旱魃となりて民百姓苦しむ。朝廷、雲の絶間姫なる洛中一の美女を遣わし、色仕掛にて、上人を迷わせ破戒させ、護摩洞窟の注連縄を切る。上人の法力破れ、竜神天にのぼり、雨沛然と降る」と云う。(歌舞伎十八番の一つ、雷神不動北山桜)。
 
(志明院 飛竜ノ滝)

 金光山中腹に首より上の病に御利益ありとい云う脳薬師あり。
 嘗つて、癲狂の者、此の地に来たり、客殿に泊り、飛竜ノ滝に浴し、脳薬師に詣で、平癒を祈願したと思われるが、今はその姿を見ません。

(志明院の護摩洞窟)

(つづく)
| 小林靖彦資料 | 00:01 | comments(0) | - | pookmark |
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