2010.06.15 Tuesday
茨城県・湯の網鉱泉を訪ねて
今年は4月中旬になっても、まだまだ寒い日が多かった。
湯の網鉱泉に下見に来たのは、ちょうどそのころだ。
私が湯の網と精神病治療との関わりを知ったのは、「日本精神医学風土記」(『臨床精神医学』第19巻第1号、1990年)の「茨城県」からである。
それによると、「家族連れの精神障害者が入浴するようになった云々」とあり、温泉宿の風情のある中庭の写真も掲載されている。
うむ・・・ここに行く価値は十分にありそうだ。
最寄りのJR常磐線・大津港駅は、福島県にほど近い北茨城市にある。
駅前からタクシーに乗ったら、運転手と会話する羽目になるだろう。
どうも、それが煩わしい。
湯の網まで歩くことにした。
ネットからプリント・アウトしたヤフー・マップによれば、せいぜい4、5キロだろう。
地図上のわずかな手掛かりと、直感に頼りながら、歩くこと1時間余り。
「鹿の湯松屋」の看板(上の写真)が見えてきた。
たった3軒からなる集落入り口に立つ桜の見ごろも、これからという感じ。
それから2カ月が経過。
水戸で日本医史学会があった。
学会に出そうな知り合い数人に声をかけて、学会に出るついでに湯の網の温泉宿に泊まることにした。
だが、ほんとうは「ついで」なのが学会で、本務はあくまで温泉調査なのだ。
「学会にでるようなエライ方々が4、5人も来るんじゃ、緊張するなあ」と、宿の主人からはとんでもない美しい(?)誤解をされた。
湯の網のたった1軒の温泉宿が、「鹿の湯松屋」である。
上記の「日本精神医学風土記」で紹介されている温泉宿は、「松屋」の隣の「小泉屋」である。
だが、「小泉屋」はかなり前から営業を止めている。
「松屋」に着いて、早速、温泉(鉱泉を温めている)に入ることにした。
効能書き(上の写真)にある「脳」「神経衰弱」にまずは注目。
湯船のお湯は鉄分を多く含み、「むむっ・・・これは効きそうだ」と思えるほど凄い色をしている(上の写真)。
浴場の壁は色ガラスなどが使われていて、明るくなかなかモダンな様式をしている。
夕飯に名物の「キンキの塩焼き」を食べた後、宿の主人の赤津さんに昔の温泉宿のお話を伺った。
翌日は、学会へ(行かない人もいたが・・・)。
松屋の赤津さんに、大津港駅のもう一つ向こうの磯原駅まで送ってもらう。
磯原駅から水戸駅まで各駅停車で1時間。
実は、水戸駅から学会の会場である茨城大学に直行したわけではない。
2つ先の内原駅で下車し、水戸市内原郷土史義勇軍資料館を訪れた。
戦前の内原は、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所があることで全国的に知られていたのだ。
青少年たちは満蒙開拓に出かける前に、ここでさまざまな訓練を受けた。
かれらはパオに似せた建物(「日輪舎」と呼ばれた)で暮らしていたという。
上の写真は、「日輪舎」を復元したもので、ここに60人が寝泊まりしていたという。
このような「日輪舎」が訓練所に数多く建っていたのである。
かつてここで訓練を受けたという清野さんから、内原訓練所のもろもろについて丁寧な説明を受けた。
実は、戦後になると、この敷地にあった病院を茨城県が買収し、県立内原精神病院(のちに県立内原病院と改称)として発足した(1950年5月)。
現在は廃院し、精神科病院の機能は、県立の第二精神病院として1960年8月に発足した県立友部病院が担っている。
私は内原精神病院の跡を確認したかった。
清野さんに車で案内してもらい、現在は茨城県学校給食会の建物が建っていることがわかった。
駆け足の内原訪問であったが、清野さんの案内のおかげで充実した気分で内原駅にもどり、常磐線の水戸行の列車に乗る。
水戸駅から学会会場の茨城大学までバス。
結構、遠かった。
翌朝、松屋の隣でかつては温泉宿(小泉屋)をやっていた神永さんのお宅を訪ねた。
まだ宿の建物が残っているので、それを見学させてもらった。
いまでも温泉宿の雰囲気を伝えているが、「日本精神医学風土記」にその写真が載っている中庭は荒れていた(上の写真)。
ひととおり見学したあと、裏山にある小さな神社を訪ねた。
湯八幡あるいは湯泉様と呼ばれているようだ(上の写真)。
この集落を構成している3軒の家が維持している社である。