近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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戦後日本とアルコール依存症(5) 断酒か節酒か

1959年に東京で開催された日本医学会総会で、抗酒剤の開発者であるデンマークのヤコブソン(Erik Jacobsen)が講演し、「今日アルコール依存症患者の唯一可能な治療法とは、断酒させることであり、その断酒を生涯にわたって継続させること」だと述べたことは、以前のブログでも紹介した。

これまで話題にしてきたわが国の断酒会は、まさにヤコブソンの路線を堅持しているわけである。

だが、アルコール依存症からの回復には本当に断酒しかないのか、断酒がすべてなのか?

という疑義も当然あるだろう。

 

わが国でおなじみの抗酒剤シアナマイド(Cyanamide)の開発者である向笠寛は、1962年に発表した論文で、断酒(向笠は「断酒」ではなく「禁酒」という言葉を使っている)ではなく、抗酒剤を利用した節酒療法の有効性に言及している。

それによると、シアナマイド(以下、Cy)の量を何段階かに変えて服用させ、そのあと清酒を摂取した患者のアルコール反応(血圧、脈拍、皮膚温度をふくむ体調の変化)を計366回観察した結果、少量の Cy を投与した場合は、「ゆっくり飲酒させると、酒の味を損なうことなく、少量の飲酒を楽しませることができ」る、しかも「Cy は少量でもある程度あたえてさえおれば、病的酩酊があらわれなくなることは大きな利点」だと述べる。

つまり、Cy を大量に投与した場合には飲酒による身体反応は激烈となり、患者への負担も大きくなるが、Cy が少量ならば飲酒による身体反応は軽度で、かつ軽く身体反応があるため飲みすぎは抑制され、結果として少量であっても飲酒も楽しむことができるようになる、という理屈らしい。

 

途中の詳細は省くが、向笠はこの論文の終わりのほうで、上述のヤコブソンによる断酒が唯一の治療法であるという主張を紹介しつつ、それに反論する形で、「しかし、酒精中毒者たちにとって禁酒がいかに困難であるかは周知のとおりであり、これに常人並の飲酒を許し、それで充分満足できるように、酒精に対する耐量をさげてやることは、もっとも合理的な方法」だとする。

そして最後に、「Cy による節酒療法の治療成績は、記述の如く社会的治癒率76%がえられ、中毒者から飲酒のたのしみをうばうことがないので、苦痛がすくなく、実施が容易であることを考えれば、禁酒よりも節酒を目標にした本治療法のほうがまさっている」と、抗酒剤の開発者らしく、Cy を利用したもっとも効果的と考えられるアルコール依存症の治療法を提唱するのである。

 

その後、向笠は1988年の論文でも「私は節酒療法を提唱し、いまなおその立場をかえていない」と述べている。

背景には、抗酒剤を中心とするアルコール依存症の薬物的な治療が十分に評価されてこなかったという認識もあるようだ。

向笠は同論文で「嫌酒療法を熱心にやればやるほど、がっかりさせられる。抗酒剤としていかにすぐれていても、アルコール依存者たちが薬を嫌って飲まなくなってしまえばその先どうしようもない。このような理由から治療者(医師)の熱意はどこへやら、抗酒剤療法にはもはや期待がもてないとして断酒会への働きかけを強調する」と苦言を呈している。

まるで、薬物療法から断酒会へと重点を移していった、わが国のアルコール依存症治療のパイオニア、下司孝麿(以前のブログ参照)を念頭に置いているかのような発言である。

 

同類の、いわば断酒会への傾斜を牽制する言説は向笠以外にも散見される。

たとえば、「薬物療法の発展が不充分である」と考えていた精神科医の津久江一郎は、1969年の論文のなかで、「今日、欧米はもちろん、日本においても薬物療法に対しては、なお諦め的慣習が踏襲されてか、積極的な関心が少ないのに反し、社会適応性を直接重視しての断酒会などを通じての働きかけが、極めて盛んとなってきている」と述べているし、以前のブログでも登場した斎藤学は1985年の著書のなかで、「アルコール医療に対する治療的ニヒリズムはわが国の精神科医療全般を覆って」いるとしたうえで、この道の専門家であっても「断酒会やAA(Alcoholics Anonymous)を紹介する以上のことが(・・・)可能であろうか。もし専門家が断酒会依存に陥っているとしたら、それは断酒会自体にとって危険であり不幸である」と指摘している。

 

結局、向笠が提唱した節酒療法は日の目を浴びることもなく、断酒継続が日本のアルコール依存症の中心的な治療方針であったと思われる。

このあたりの動向について、2006年の心光世津子の記述を引用すれば、わが国の「アルコール医療は、はじめから断酒継続を目標に据えた治療をしていた。ジェリネック [注: E. Morton Jellinek, 1890-1963, アメリカのアルコール依存症研究者] の主張と同様に、アルコール依存症は進行性に飲酒に対するコントロールを喪失する疾患であり、節酒はきわめて困難という立場をとった。その後、海外の研究者らの中に、大規模な調査からコントロール喪失説に異議を唱える者が現れ、節酒プログラムも提供されるようになったが、わが国においては、現在も治療方針は変わっていない」という。

 

昨今では飲酒欲求そのものを抑制するという「飲酒量低減薬」ナルメフェン(Nalmefene)が開発され、わが国でも少し前に製造販売が認められたという。

唯一の治療法が断酒継続であり、節酒は困難と言われた時代から見れば、アルコール依存症の治療は新たな段階を迎えたということだろうか。

だからといって、集団精神療法や断酒会をはじめとする自助組織がこれまで担ってきた、心理社会的な治療アプローチの重要性が今後増大することはあっても、減少していくことはないだろう。

 

「戦後日本とアルコール依存症」というタイトルで語るべきことは、まだまだある。

断酒会以外に、日本における AA の展開も興味深いし、いわゆる内観療法とアルコール依存症治療との関わりも捨てがたい。

しかしながら、これらの話題はまた別の機会に譲りたいと思う。

 

<参考文献など>

・北村正樹「飲酒前に服用する国内初の飲酒量低減薬」『日経メディカル』2019年2月22日(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/series/drug/update/201902/559874.html)

・向笠寛「Cyanamide (H2NCN) の生体アルコール反応におよぼす影響ならびに治療的応用」『精神神経学雑誌』64(5): 469-491 (1962).

・向笠寛「嫌酒療法」、大原健士郎・渡辺昌祐編『精神科・治療の発見』星和書店 (1988), pp. 277-289.

・斎藤学『アルコール依存症の精神病理』金剛出版 (1985).

・心光世津子「アルコール依存症と医療化」、森田洋司・進藤雄三編『医療化のポリティクス―近代医療の地平を問う』学文社 (2006), pp. 115-127.

・津久江一郎「アルコール中毒とくにアルコール嗜癖者の治療ならびに問題点」『広島医学』22(9): 794-802 (1969).

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