近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
<< 日治時期台北精神病學史1 養神院 | main | 2018年12月 沖縄での『夜明け前』上映会 & 写真展 & トーク >>
日治時期台北精神病學史2 中村譲と養浩堂医院

精神医学者の中村譲は、少し謎めいた人物である。

1877年に新潟県に生まれ、京都で育ったようだ。

1905年に東京帝国大学医科大学を卒業し、呉秀三が主宰する精神病学教室へ。

当時の東大精神病学教室は東京府巣鴨病院内にあったが、中村はそこで1914年まで在職していた。

この間、1909年12月末から翌1910年2月にかけて、「クレチニスム調査」のために呉秀三の台湾旅行に同行している。

1910年から1916年にかけて、呉は東大精神病学教室のスタッフを動員して、日本各地の私宅監置調査を実施したが、中村は参加していない。

 

中村は、1914年に巣鴨病院を辞したあと、東京の私立王子脳病院の院長を経て、1916年に台湾に渡る。

台湾では、台湾総督府が各地に設置していた医院(台湾では「医院」は「病院」の意味)のひとつである基隆医院の院長として1929年まで勤務、同時期に台湾総督府医学専門学校教授なども兼任した。

1925年から2年間、マールブルク(Otto Marburg)が所長をつとめるウィーン大学神経学研究所に留学した(この研究所は、マールブルクの前任者のオーバーシュタイナーの時代から、日本人留学生を多く受け入れており、呉秀三、今村新吉、三宅鑛一、齋藤茂吉なども含まれる)。

 

ところが、基隆医院を辞したあと、私財を投じて台北市内に台湾で最初となる精神病院、養浩堂医院を開院する。

終戦までこの病院を経営し、引き揚げ後は京都に住み、大阪の浜寺病院で院長として勤務したようだ。

 

(中村譲。台湾総督府医学専門学校教授時代か。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

このような経歴について、風祭元は次のように評している。

 

「東京帝國大學の卒業生が、大学で精神病學の臨床を勉強し、欧州に研究留学して帰国するというのは、明治以来、わが国で醫科大學・醫學専門学校の教授となる標準的なコースで、彼もおそらくそのつもりで留学したと思われるが、彼が帰国後に短期間で醫學専門学校教授の職を辞し、自力で民間立の精神科病院を設立した理由は、いまになっては分からない。」(風祭元「太平洋戦争終結以前の台湾の精神医学・医療」『精神医学史研究』10(1): 57-66, 2006)

 

このような経歴が、冒頭で私が「少し謎めいた人物」と書いた理由のひとつである。

しかし、謎といえば、中村譲が設立した養浩堂医院についてもよくわからないことが多い。

そこで、前回のブログ記事「日治時期台北精神病學史1」と同様に、台北の歴史に詳しいリン(林)さんの全面的な協力(資料提供や現地案内などなど)のおかげでわかったことを紹介したい。

 

そもそも、養浩堂医院はどこにあったのか?

このブログでもしばしば登場してきた菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者竝ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻、1937年)では、この病院の住所は「台北市宮前町297番地」となっている。

「戦前と現在の住居表示の対照表がどこかにあるだろうから、探すのなんて簡単、簡単」、と思われるかもしれない(と私も思っていた)。

ところが、違うのである。

正確な場所を割り出すのは大変で、その土地にまつわる歴史を追うことではじめて明るみになる性質のものという言うべきか…

リンさんのブログではじめて知ったのだが、「宮前町297番地」はもともと神学校があった場所である。

この神学校設立の源流は、カナダ長老教会の宣教師マッカイ(George Leslie Mackay)にある。

台北市の中心部にある、マッカイの名を冠した馬偕紀念醫院(Mackay Memorial Hospital)を知る人も多いだろう。

1870年代から台湾北部で布教をはじめたマッカイは、淡水を拠点にして医療活動を行い、学舎を設けて教育にも力を入れた。

彼自身は1901年に亡くなったが、その後、長老教会は1914年に台北に神学校を設置した(『詩美の郷・淡水』1930年)。

その場所が上記の「宮前町297番地」なのである。

 

(宮前町297番地にあった台北神学校。年代不詳。写真はリンさん提供。)

 

ところが、台北の神学校の経営はあまりうまくいかなかったらしい。

「生徒が十六名で到底自力では立行かず」、台南神学校に合併することになり、生徒は台南へ転校することになったという(『台湾日日新報』、1925年1月22日 )。
2年後に帰北(台湾北部にもどってきたということ)したが、校舎は台北ではなく淡水に移転した。

しかし、『詩美の郷・淡水』(1930年)によれば、1928年6月12日、私立台北神学校の名前で台湾総督府の認可を得たということなので、この時までには台北で神学校が復活したようだ。

 

ところが、である。

認可から1年たらずの1929年4月7日の『台湾日日新報』に、中村譲が1916年以来勤務していた台湾総督府立の基隆医院の院長を辞し、宮前町に私立養浩堂医院を経営することになったという記事が掲載されている。

中村は、養浩堂医院を開院するにあたって、生徒減により経営が悪化した神学校を借り受けた(あるいは購入した?)ということらしい。

建物全体を借りたのか(台北は全面閉鎖して、再び淡水に移転して神学校を続けた?)、それとも一部の建物は神学校として使われ続けていたのか、リンさんにもわからないという。

ちなみに、養浩堂医院が宮前町から引っ越したあとの1941年の『台北市学事一覧』によれば、台北神学校の住所は「宮前町297番地」となっている。

 

養浩堂医院の開院からもうすぐ1年を迎えるという1930年3月、悲劇が訪れた。
入院していた女性患者が病院に放火し、入院患者5名が焼死したのである(『漢文台湾日日新報』、1930年3月21日)。

この火事に関連して、「官設の脳病院が欲しい 養浩堂医院側の談」という見出しで、以下のような記事が書かれている。

「養浩堂医院側の談」というのは、おそらく中村自身の考えを反映したものだろう。

 

 「世間を騒がせて誠に申わけない事です、本来なら此の際やめてお詫びすべきですが失火の当時は二十六人の入院者もありその跡始末もありどうしたら宜いかと考へております 中村当院長は大正八年以来総督府へ官立精神病院の設立を陳情してをりますが未だその運びに至らず補助金も未だ頂いてゐません 台湾で此の種の長く入院を要する病院の経営は非常に困難であつて一箇月も入院してゐると当然癒るものゝ様に考へて無理に出て了ふので結果は自然よくなく随分骨が折れます 此の点から言つても官立のものが是非とも必要ではないかと考へられます」(『台湾日日新報』、1930年3月23日)

 

つまり、火事を出してしまい、閉院してお詫びするところだが、入院を要する患者がいてそれもできない(注:この時点では台湾で唯一の精神病院)、個人病院の経営は困難で、ぜひとも官立精神病院を設立して欲しい、ということである。

この官立の精神病院は、前回のブログで紹介した1934年設立の養神院を待たねばならなかったが、一方で中村は喧騒に満ちた宮前町を離れて病院の新築移転を考えていた。

 

ここで、宮前町の養浩堂医院跡を見ておきたい。

かつての宮前町297番地に、現在はセメント会社のビル(台泥大楼)が建っている。

下のグーグルマップで赤色の印がある場所である。

MRT雙連站(雙連駅)が最寄りで、上述の馬偕紀念醫院にも近い。

 

(地図上の「台泥資訊股彬有限公司」の場所に、かつて養浩堂医院があった。)

 

下の写真が現在の様子である。

中央のビルが建っているところが、かつての宮前町297番地。

向かって右隣の敷地には、長老教会がある。

リンさんによれば、ここは台北神学校の運動場だったという。

 

(養浩堂医院跡にはセメント会社のビルが建っている。向かって右隣には長老教会がある。)

 

さて、既に述べたように、養浩堂は宮前町を離れて、台北市内の下内埔324番地に新築移転した。

廃業も考えた病院火災から7年以上が経過した、1937年11月のことである(林吉崇の著書[1997年]、およびこれを引用していると考えられる風祭元の論文[2006年]で、養浩堂医院の下内埔への移転を「昭和7年」としているのは誤りである。)

 

1937年11月4日の『台湾日日新報』には「養浩堂医院成る」と題する記事があり、「市内下内埔三二四(帝大理農学部附属農場東隣)へ敷地を求め新築中、この程落成したので中村院長は四日午後一時から(…)関係者知友を招き養浩堂医院を観覧させる由」とある。
また、病院の建物については、1937年12月1日の『台衛新報』で「棟数は六箇に分れてゐるが各棟廊下を以て連結され、そのうち四棟が病室に充てられ三十九室に分割し収容人員六十名を定員としてある、監禁室は六箇を有し鉄格子と二重扉の頑丈なものである」と報告されている。

下の写真が下内埔324番地に新築移転した養浩堂医院である。

 

(下内埔の養浩堂医院。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

かつての下内埔324番地には、現在「国立台湾大学農学院附設動物医院」が建っている。

下の地図で赤色の印がある「台大動物医院」がそれである。

高架道路をはさんで目の前が、大学の広大なキャンパス。

さらにその下の写真が、動物医院を正面から撮ったもの。

 

(かつての養浩堂医院の敷地に、台大動物医院が建っている。)

 

(台大動物医院)

 

中村譲と養浩堂医院の話はここまで。

なお、中村の経歴については、岡本重慶『忘れられた森田療法』(2015年)も参考になる。

 

以下はおまけ。

動物医院に行ったついでに、隣接する国立台湾大学のキャンパスに立ち寄った。

最寄りの門から入ると、農場が広がっていた。

しばらく歩くと、「磯永吉小屋」という歴史を感じさせる木造平屋建てがあったので、中に入ってみた。

展示の説明要員もいて、日本人とわかるや、日本語のパンフレットを手渡してくれた。

 

磯永吉(いそ えいきち)は農学者で台北帝国大学教授、「蓬莱米の父」として稲作をはじめとする台湾の農業に貢献したようだ。

1925年に建てられた「磯永吉小屋」は、旧・台北高等農林学校実習農場のなかで最も古い建物のひとつだという。

見学コースができていて、ゆかりの品々など展示されている。

 

(磯永吉、台湾蓬莱米之父)

 

台北の精神医療史の話はまだつづく。

また次回。

| フリートーク | 14:45 | comments(0) | - | pookmark |
スポンサーサイト
| - | 14:45 | - | - | pookmark |
コメント
コメントする









SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE