近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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日治時期台北精神病學史1 養神院

日本統治下の台湾でも、本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年から施行されたことが知られている。

旧外地のなかで、ふたつの法律が施行されたのは、台湾だけである。

 

その事実だけでも興味深いが、法律施行の背景と運用の実際を知りたいと考えた。

そこで、まず国内で手に入る限りの書籍や復刻資料に目を通した。

台北にも足をはこび、研究機関をたずねて台湾総督府にまつわる行政文書を大量にコピーした。

その結果、当時の台湾の精神医療状況はある程度把握できたつもり。

どうやら、日本の本土並み(本土でも決してうまく機能した制度ではなかったが)、というわけにはいかなかったようだ。

とくに台湾の貧しい地方財政が、深く影響を及ぼしていることが推察された。

これらに関わるネタで、学会で発表もしたし、論文も書いた。

しかし、まだまだ台湾でのリサーチが足りない。

全然、足りない。

 

足りないといえば、研究費も足りない。

台湾をふくむ近代日本の周縁部の精神医療史に関することで、いくつかの外部資金組織に研究費を申請したが、相手にもされない。

IoTとかAIとかiPSとか「頭文字」系の、先端を走っているような、儲かりそうな研究とは対照的に、こういうことは、要するに、瑣末なこと、どうでもいいこと、研究する価値もないことと、思われているに違いない。

それに敢えて反論はしない。

 

そういう慢性的な閉塞感にとらわれていた折、「台湾、行きません?」とテレビ・ディレクターの原さんから連絡があった。

台湾でも精神病者監護法が施行されていたことに興味をもったようだった。

彼が制作した沖縄の私宅監置に関する番組を、NHKのEテレで見た人も多いだろう。

私自身は、文献探索にはもはや限界も感じていたので、ともかく、台湾の人たちに会って、日本統治下の私宅監置や精神病者についての記憶を語ってもらうという、という方針を共有して、台湾行きを決めた。

 

大学の夏休みももう終ろうかという時期の、ごく短い日程で台北とその周辺で「ぶっつけ本番」的な調査を敢行したが、今回は「日治時期台北精神病學史」(日本統治下の台北の精神医学史)の「1」として、 養神院に関するあれこれを紹介したい。

 

養神院とは1934年に設立された台湾総督府立精神病院のことである。

日本統治下の台湾における、唯一の公立単科精神病院ということになる。

1937年に刊行された病院の『昭和九、十年度 年報』から、いくつかの情報を抜き出しておきたい。

「沿革」によれば、以前から識者は台湾における精神病問題に注目していたが、1929年に時の総督・石塚英蔵が本院の創設を決意し、台北市の東方郊外の台北州七星郡松山庄五分埔372番地に、収容定員100名の精神病院建設計画に着手し、1932年7月に起工、1934年10月に竣工した。

実際に患者が入院したのは、翌1935年2月1日から。

発足直後のスタッフは、院長事務取扱・高橋秀人(法学士)、医長・中脩三(医学博士・医学士、台北医学専門学校教授兼務)、医官補・分島俊(医学士)、嘱託・中村譲(医学博士・医学士)などである。

これ以上の養神院の歴史はいくつかの文献にも書かれているので、それらを参照していただきたい(とはいえ、詳細な記述はあまりないかもしれない)。

 

(艋舺のスターバックスで林さんを囲んで打ち合わせ。店内はレトロな雰囲気。1935年に建てられた「萬華林宅」を利用している。以下の文を参照。)

 

今回の調査では、調査対象に到達できずに、しばしば「これじゃ何も収穫がない…次はどうするか」と呆然とする場面が多かった。

そんなときに浮上したアイディアが、「養神院の跡地でもさがしてみるか…」である。

上記の「台北州七星郡松山庄五分歩埔372番地」の現在の住所を探せばいいのだが、これがそう簡単ではない。

私が知る限り、学術的な文献には現在の住所などは書かれていない。

が、たまたま「林小昇之米克斯拼盤」というブログに、養神院の新旧対照に関する記事があることを発見。

現在の住所も書かれている。

しかも、このブログ、養神院だけではなく、日本統治下の台北に建てられたさまざまな公的施設(とその土地)の過去と現在とを詳細に対比している。

ブログの開設者は「ただ者」ではなさそうだ。

 

台北3日目の夕食時、これは絶対に会う価値がある人だ、という話で盛り上がり、急遽連絡。

奇跡的なことだが、その翌朝、MRT龍山寺駅の近くのスタバで、そのブログの開設者の林さんに会えた。

林さんの専門は土木工学。

あくまで趣味で台北市内をめぐり、それをブログにアップしているということだった。

台北の昔の資料や地図の探し方をたっぷり聞いたあと、林さんの案内で養神院の跡地に向かった。

養神院の跡地は、MRTの永春駅からすぐだという。

 

(MRTの永春駅)

 

養神院の跡地を紹介する前に、『昭和九、十年度 年報』に掲載されている当時の敷地の図面を見ておきたい。

敷地はやや変形した台形をしている。

病院は風光明媚な場所に建てられ、周囲は田んぼだったようだ。

下の図にある「サ」の守衛室の近くが正門だろう。

 

(養神院の『昭和九、十年度 年報』より)

 

さて、下はグーグル・マップで見る、現在のMRT永春駅(図中では Yongchun Station)付近である。

中央の赤い枠で囲った部分が、かつての病院の敷地にあたる。

現在は、9棟のビルからなる住宅団地になっている。

案内役の林さんは、奇妙に斜めに曲がった道で囲まれている、この一角が気になったのだという。

これは何の痕跡なのか?

それを調べていくうちに、この場所に養神院あったという事実に行き着いた。

養神院跡の探索からはじめた我々とは、まったく逆である。

 

(かつての養神院の敷地は赤い枠で囲った部分)

 

永春駅から地上に出ると、雑然とした街並みが広がっていた(下の写真)。

かつては、一面の田んぼだったのではなかろうか。

養神院の跡地はもうすぐらしい。

 

(MRT永春駅近くの虎林街を歩く。目的地はもうすぐ。)

 

ここで再び昔の様子を確認しておきたい。

下の写真は開設当時の養神院の正門である。

すぐ向こうに本館が見える。

 

(写真は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』から)

 

上の写真とおそらく同じ位置から、だいたい同じ方向に向かって写したのが下の現在の写真である。

はるか奥の、突き当たりの建物(台北市立松山高級工農職業學校)までが、かつての敷地。

この住宅団地は1980年代に建てられた。

それまでは、ここに養神院を引き継いだ精神科の松山療養院があったという。

そのためか、かつての台北の人にとって、この付近のイメージといえば、狂気を連想させるような、あまりよくないものだったらしい。

 

(養神院の跡地は住宅団地になり、この「敷地の形」だけが当時の痕跡である。)

 

敷地の境界に沿って、住宅団地を一周することにした。

途中で住宅の配置を示した看板を見つけた(下の写真)。

ここにある「海華九福名人社區」は、かつての養神院の敷地に一致する。

「九福」とあるように、「福」の名前を冠した9つの棟がある。

 

(看板「海華九福名人社區」)

 

養神院の話はここまでにしよう。

旧跡はめぐりは、まだまだ続く。

次の記事をご覧あれ。

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コメント
Thank you for your comments. I will explore the history of psychiatry in Taiwan further.
| 橋本 | 2019/04/08 9:20 AM |
Thanks very much for your detailed introduction on the history of 養神院. Now this hospital has been transformed to "Taoyuan Psychiatric Center" - a public psychiatric teaching hospital with 1000 beds. We deeply appreciate the Japanese for great contribution on Taiwanese psychiatry and other areas ~ Thank you :)
https://www.typc.mohw.gov.tw/
| Winston from Taiwan | 2019/04/07 5:31 PM |
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