近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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学会ふたつ 鹿児島と藤沢

去る6月にふたつの学会に行った。

学会開催からはだいぶ時間がたってしまったが、精神医療史にかかわること(かかわらないこと)などをダラダラ書き連ねたい。

 

(徒歩で城山を登り、展望エリアから桜島をのぞむ。)

 

ひとつめは、鹿児島で行われた日本医史学会である。

学会自体は土・日の2日間だが、金曜日に役員の集まりがあり、日曜日が私の演題発表だったから、必然的に2泊3日の旅となった。

その演題は「明治初期の宗教政策と精神病者収容施設」というもの。

だが、近年この学会では「精神」関係の演者がほとんどおらず、発表中はどうも場違い感が漂っていた(という気もした)。

 

ま、それはともかく、戦前の精神病者収容施設については、これまでややこだわりをもって調査してきた。

「精神病者収容施設」は、広義には精神病院から私宅監置室まで、すべての施設(設備)を含むだろう。

が、ここでは精神病院でも私宅監置室でもない、公立または民間による精神病者を収容する施設としておく。

 

鹿児島の精神病者収容施設といえば、「下御領精神病者収容所」である。

菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻第10号、1937年)の附録では、「精神病者収容所」としてリストアップされている。

設立は大正12(1923)年3月、住所は鹿児島市草牟田町4220番地(上記論文には誤植があり、「草年田」になっている)、代表者は下御領義威とある。

鹿児島大学医学部の精神科教授だった佐藤幹正は、この収容所について「市内草牟田の城山に通じる歩道の傍には、私宅に監置の余地のない家庭の患者のために、数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所が建っていた」と回想している(鹿児島県立鹿児島保養院『創立五十周年記念誌』1982年)。

 

実は2006年2月に、この収容所の跡地を訪ねたことがある。

また、鹿児島県立図書館で収容所を含む当地の精神医療史の文献調査もした。

その時のことは、鹿児島県の精神医療史に関する他の文献から引用したこの収容所の記述もふくめて、拙著『精神病者と私宅監置』(六花出版、2011年、pp.113-116あたり)で紹介している。

 

ただ、まだ調べ足りないこともあった。

それは、下御領精神病者収容所を経営していた、下御領義威および下御領家のことである。

前回の調査では、代表者・下御領義威の弟・下御領義盛は地元では名の知れた歌人で、「兄が経営していた精神病院を引き継ぎ、戦後は山を売って暮らした」(『郷土人系 下』南日本新聞社、1970年)ということまではわかった。

彼が引き継いだ収容所は、地元では「精神病院」と認識されていたらしい。

ただ、兄・義威のことは不明。

 

 竹柄杓つくりて病養へる人の言い値にて山の竹売る

 

これは、弟・義盛が病人との一場面を歌いこんだもののようである。

 

(もうすぐ午前9時、鹿児島県立図書館で開館を待つ。)

 

今回、学会の合間に再び鹿児島県立図書館を訪れ、『下御領義盛歌集』(日本文芸社、1964年)を閲覧した。

下御領義盛の甥にあたる桃北好澄という人物が書いた巻末の説明によると、

 

下御領義盛(1901−1963)は、鹿児島県日置郡伊集院町に生まれ、のちに鹿児島市草牟田町に転住、ここで生を終った。(…)体躯が堂々としていた割に、病気勝ちであったので、しばらく小学校の代用教員などを勤めたほかは、社会の表面にあって立ち働らくということができなかった。もっとも、昭和のはじめ家業の精神病院をついだので、生活的には何の不自由もなかったわけであり(…)

 

というように、ここでも「精神病院」と記述されている。

が、戦後まもなくこの家業を廃し(おそらく、精神病院などの施設以外への患者収容を禁じた、1950年の精神衛生法の影響が大きかっただろう)、「もっぱら作歌と囲碁を楽しんで過ごした」という。

上記の佐藤幹正が書く「数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所」と、桃北が書く「生活的には何の不自由もなかった」「家業の精神病院」とでは、両者のイメージがだいぶ違う。

おもに貧困精神病者を預かっていたと思われる下御領家の「家業の精神病院」が、そんなに儲かっていたとは思えないが…

いずれにせよ、兄・義威のことはわからないままである。

 

ところで、鹿児島県立図書館あたりをぶらぶらしていたら、「向田邦子居住跡地」という観光案内があったので見に行くことにした。

鹿児島市による案内板の説明は次のとおり。

 

向田邦子は1929(昭和4)年、東京に生まれました。29歳で初めてテレビ台本を執筆。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などホームドラマの傑作を次々と生み出し、人気シナリオライターとなりました。その後、46歳のとき、エッセイ『父の詫び状』を執筆したのをきっかけに小説も手がけ、1980(昭和55)年、連作短編小説『思い出トランプ』の中の「かわうそ」など3編により直木賞を受賞しました。しかし、翌年、台湾を旅行中の飛行機事故により、51歳で突然この世を去りました。

向田は父の転勤により、10歳のときに一家でこの地に移り住み、思い出深い2年余りを過ごしました。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」(「鹿児島感傷旅行」『眠る盃』)とエッセイに書き残しています。

 

なるほど。

居住とはいえ、2年余りか…

とは思ったが、明治維新に関わる志士らゆかりの史跡なら山ほどあるなかで、異彩を放つスポットと評価するべきか。

 

(居住跡地というより、墓標に見えるが。)

 

話変わって、ふたつめの藤沢の学会。

「精神医療とは、そもそも何なのか」というシンポジウムが、日本社会臨床学会で行われるという。

この学会の会員ではないが、事前に関係者から今回の学会の冊子をもらっていた。

その一節には、あるシンポジストの「…私はフロイトやクレペリン、日本では呉秀三等、社会病理を個人病理にする精神医学の無力さ、犯罪性を知ったのである。だからといって私は反精神医学派ではない」という文言があった。

呉秀三の「犯罪性」を語る人は、あまりいないんじゃないのか。

これは面白そうだ。

しかも、会場はお寺の中らしい。

行くしかないだろう。

 

上記シンポジウムは午後からで、午前中は鎌倉へ。

ちょうど、あじさいの季節で、気がついたら明月院をめざしていた。

だが、北鎌倉駅で下車した直後から、いやな予感がした。

というのは、すでに駅のホームから人の渋滞がはじまっており、明月院まで延々と人の列がつづいた(自分もその構成員のひとりなのだが)。

やっと入口付近まで到達。

拝観料を払う手前で、中に入るのをあっさりとあきらめた。

あじさい鑑賞どころではない。

あじさいの数よりも、人の頭の数のほうが多そうだった。

 

(北鎌倉の明月院の入口付近。人の流れに逆らって、もどる。)

 

北鎌倉でもうひとつ確かめたい場所があった。

明月院の入口手前から、左手の道を365歩進めばたどり着くという喫茶店がある。

北鎌倉駅から明月院までの喧騒が、まったくうそのような静かな場所にある。

 

(明月院から365歩の喫茶店)

 

たしか大学院生の頃、1980年代の後半に来たのが最後。

その店がいまはどうなっているのかを確かめたかった。

あいにくこの日は閉まっていたが、店主はご健在のようだ。

 

こうして、北鎌倉に用はなくなったので、藤沢に向かった。

来る前は、この街の印象はとても薄かったが、実際に駅を下りればいろいろ発見がある。

とくに、「旧東海道・藤沢宿」という視点からは、イメージが広がる。

広重の東海道五十三次「藤澤」には、手前に鳥居、その後ろに橋、さらに奥に大きな寺が描かれている(興味のある方は、検索して「藤澤」をご覧あれ)。

鳥居は江の島弁財天への入口で、江の島道への分かれ道(下の写真は江の島への道標に関する案内である)。

橋は大鋸橋(だいぎりばし)。

そして、この「藤澤」に描かれた寺こそ、学会の会場である遊行寺(ゆぎょうじ)だったのである。

 

(「江の島道・江の島弁財天道標」に関する案内板)

 

上の写真の案内を通り過ぎて、さらに進むと橋があり、その先に時宗総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)の総門があった。

ここが、通称・遊行寺である。

 

(時宗総本山の清浄光寺の総門、通称は遊行寺。)

 

総門をくぐりぬけて、ゆるい坂を登って行くと本堂があり、一遍上人の像も建っている。

だんだん雨も激しくなってきた。

学会の会場は、本堂に向かって左手奥の大書院。

 

(遊行寺内の会場案内に従って、大書院へと進む。)

 

会場の大書院は、当然ながら畳敷き。

机と椅子も少しはあったが、多くの人は座布団席である。

登壇者席と客席とは一体化し、「村の寄り合い」のような状況でシンポジウム「精神医療とは、そもそも何なのか」が始まった。

ごく大雑把にまとめてしまうと、近現代の精神医学/精神医療が内包している諸問題が提起され、それに対する批判的な検討が行われたということだろう。

精神医療批判「原理主義」的な話になるのかもしれないと、やや身構えていた(期待していた)のだが、シンポジウムの内容はむしろ正統な精神医療批判ではなかったかと思う。

後半の、フロアも交えた討論には出られなかったのは、残念であった。

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