近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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岡山での研究会をふりかえる

以前このブログで、「ぼっけえ、きょうてえ岡山県の精神医療史―木野山神社調査」という記事をアップした。

そこにも書いたように、内務省衛生局『精神病者収容施設調』(1929年7月末現在)で木野山神社の名前を知り、現地を訪れたのである。

あれから、3年余りが経過した2017年3月22日〜23日、ふたたび木野山を訪れ、その周辺地域も含めた精神医療史調査を行った。

今回は「皇室と福祉事業研究会」の面々とご一緒し、岡山県神社庁関係者の強力なバックアップを得て、短時間に広範囲を渡り歩くことができた。

 

23日の朝、高梁市内の宿泊先ホテルから、車で木野山神社の奥宮まで移動。

奥宮は木野山(標高518m)の山頂付近にある。

南側斜面には登山道もあるが、頂上まで歩くのは相当きつい(前回経験済み)。

今回は少し大回りをして、車道が通じている北側斜面から奥宮へアプローチ。

車道とは言っても、車一台がやっと通れる細い道が続き、脱輪して一同もろとも谷底に落ちはしないかと本気で心配した。

 

(木野山の山頂付近にある木野山神社の奥宮)

 

奥宮で確認したかったのは、かつて精神病者が参籠していたという建物(参籠所)の位置である。

上記の内務省衛生局『精神病者収容施設調』では、「収容定員」は4人となっている。

4人とは、少ないと思われるかもしれない。

が、前回の調査では、参籠所には6畳の部屋が3つあり、十数名が滞在していたと聞いており、その建物は決して小さくはなかったはず。

 

奥宮調査のあと、山のふもとにある木野山神社の里宮を訪れるわけだが、そこで聞いた話などから総合的に考えると、参籠所は上の写真で狛犬が置かれているのと同じレベルに建っていたらしい。

写真からは外れてしまうが、狛犬の左方向の奥(現在は更地)にあったのではなかろうか。

写真にあるように、このレベルからもう一段あがったところが正面の社殿であり(かつて同じレベルに社務所があった。上の写真では社殿の左にあたるが、現在は更地に)、さらに一段上がった石垣の上、つまり最上レベルにご神体が祭られているのである。

このように神社は3つのレベル(,歓逝痢↓⊆凖臓深厂浬蝓↓9犬/参籠所)から成り、一番低いレベルに参籠所が配置されていたというのは、「神聖度」を考慮してということなのかもしれない。

「比較参籠所学」的にいえば、静岡・竜爪山の穂積神社にあった精神病者の参籠所も、同じように神社の3つのレベルの一番下に置かれていたことを思い出させる。

 

(木野山集会所のまえに建つ「地神」)

 

奥宮から車で下山する途中、「地神」(上の写真)を撮影するために木野山集会所あたりで駐車。

このあたりは木野山地区といわれ、奥宮からもっとも近い集落がある。

食料の調達の関係から、参籠所で自炊する人たちとの結びつきが深かったという。

 

さて、木野山から高梁市街にもどり、昼食をとることになった。

車をとめた高梁川沿いの駐車場の一角に、かつて使われていた(復元した?)高瀬舟が野外展示されていた。

下の説明書きにあるように、1928年に現在のJR伯備線が全線開通する以前、このあたりの交通の主役は水運だった。

かつては、木野山神社の参拝客の多くが高梁川の水運に頼っていたと思われる。

 

(駐車場の一角にあった高瀬舟の説明書き)

 

昼食を終え、再び木野山方面へ。

今度は、木野山のふもとにある木野山神社の里宮へ向かった。

宮司さんにお話をうかがうためである。

もともとの神社は、ふもとの里宮から少し離れた場所にあった。

大正時代に木野山の山頂に奥宮が完成すると、メインの神社機能はそちらに移された。

だが、その後、徐々に奥宮の建物がふもとに移築され、現在の里宮の形になったようである。

残念ながら、奥宮にあった参籠所の写真などの資料はないという。

 

(木野山神社の里宮)

 

里宮で1時半近くお話をうかがったあと、「吉岡稲荷」の探索に向かった。

この稲荷に関する別の角度からの予備的調査については、ブログでもすでに紹介している(記事「岡山での私宅監置写真展および精神医療史ミニ探訪」)。

そこでも述べたが、「吉岡稲荷(赤磐郡竹枝村)」が岡山県の精神病に関わる「神社瀑布等ノ保養所」として登場するのは、内務省衛生局『精神病者収容施設調』(1931年5月20日現在)である。

内務省の同様の調査は何回か行われているが、「吉岡稲荷」は1931年の調査でしか出てこない(木野山神社にしても、1929年の調査にしか出てこないが)。

内務省調査で毎回登場する「常連」の京都・岩倉の精神病者保養所とは、かなり事情が違う。

レファレンスが限られているだけに、調査の「難易度」は相当高い。

上記ブログ(記事「岡山での私宅監置写真展および精神医療史ミニ探訪」)では、この稲荷があったとされる旧・竹枝村を、現在の岡山市北区建部町の大田地区とにらみ、天降布勢神社、天津神社、日吉神社という3つの神社が関係していそうだと述べたものの、決め手がないまま話は終わっていた。

 

ところが、今回の研究会を企画するにあたって関係者と打ち合わせをする過程で、「吉岡稲荷」があったのは、旧・竹枝村を構成していた大田地区とは別の、吉田地区にあった経王寺(きょうおうじ)という日蓮宗の寺院ではないか、という説が浮上した。

かつてここには「大上の稲荷さん」と呼ばれる稲荷があり、地元ではよく知られていたという。

が、現在この寺院は廃墟になっているらしい。

稲荷は旧・竹枝村にいくつかあるものの、参籠所があるような大規模なものは「大上の稲荷さん」をおいてほかにはないということ。

だとしても、「吉岡稲荷」の「吉岡」という名称との関連はどうなっているのか?

吉田地区の「吉田」が「吉岡」になってしまったのか。

内務省の調査の単なる誤植かもしれない(よくあることである)。

 

以上のような事情で、ともかく経王寺の跡を訪ねることになった。

木野山神社のある高梁市津川町から、車で小一時間は山道を走っただろうか。

たどりついた岡山市北区建部町の経王寺跡は、国道53号線と崖とに挟まれた細長い荒れ果てた敷地にあった(下の写真)。

ここで、このあたりの事情に詳しい、地元の神社の宮司さんと合流。

 

経王寺の歴史については、『建部町史(地区誌・史料編)』(1991年)に短い記述がある。

それによれば、明治末期に日順上人を迎えて稲荷堂再興が図られ、1916年には本堂建立に至ったが、上人遷化のあとは荒廃したという。

1970年の天災で寺が倒壊し、信徒によって本堂跡に記念碑が建てられている。

だが、現地調査では、参籠所があったかどうかは確かめられなかった。

 

(かつての経王寺入口か)

 

次いで、経王寺跡の裏山に案内してもらった。

そこにもいくつかの祠があるようで、これも経王寺の続きと考えられる。

ただ、裏山といっても簡単には到達できない。

車で大回りして、中腹で駐車して、あとは徒歩で山登り。

 

まずは、「十二本木様」へ。

ここに小さな祠と石碑(下の写真)があった。

『竹枝っ子通信』(No.75、2013年12月20日、「たけえだ水辺の学校」実行委員会発行)によれば、「十二本木様」とは牛と蚕の神様だという。

かつて、ここに農耕牛を集めて、祭礼を行っていたらしい。

 

(経王寺の裏山にある十二本木様)

 

さらに頂上付近の「稲荷奥の院」(下の写真)へ。

周辺には参籠所が存在した雰囲気はなかった。

 

(経王寺の裏山にある「稲荷奥の院」)

 

最後に、竹枝小学校の北側にあったという避病所の跡(下の写真)に行った。

1898年、ここに避病所が移転してきたのだという。

いつまで避病所として存続したのかは不明だが、小学校が他所から移転してきたときに、その建物は取り壊されたらしい。

現在は小学校のプールになっている。

 

そもそも、冒頭で紹介した木野山神社は、精神病および流行病の治癒、とりわけコレラ退散で有名になったという経緯がある。

中山沃『岡山の医学』(岡山文庫、1971年)によれば、1879年には岡山県内でコレラが大流行し、「各地に患者を隔離するため避病院が設けられた」のである。

その意味で、木野山神社とこの竹枝の避病所とは一本の線でつながっている。

 

(竹枝小学校のプールあたりに、かつて避病所があったという。)

 

ところで、コレラの大流行で、人々はなすすべもなく混乱に陥ったことは容易に想像できる。

冒頭でもふれたブログ記事のタイトルは、岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店、1999年)からとったもので、ここに所収されている短編の「密告函」は、人々のコレラに対する恐怖、偏見や無知蒙昧ぶりが前提となっているようにみえる。

だが、『建部町史(通史編)』(1995年)によれば、1879年のコレラ流行の直後から、「人々は科学的治療に専念するよう啓蒙されていった」のだという。

これには、日本で最初に肝吸虫(肝臓ジストマ)を発見した倉敷の医師・石坂堅壮も関与していたようだ。

 

他方、興味深いのは、「神社が正しい情報の発信地として、科学的なコレラの予防方法について、住民の注意を喚起するとともに、啓蒙活動に努め」たことである。

たとえば、志呂神社(建部町下神目)はコレラの予防法に関する文書をつくり、管内の氏子らに配布した。

内容をみると、コレラ患者の家には近寄らないこと、家の掃除を徹底し風通しをよくすること、鮮度の落ちた魚や生魚などは食べないこと、などといった項目が並ぶ。

 

さらに、面白いのは、この予防法を監修しているのが「浜松病院」であること。

この「浜松」とは、静岡県の浜松である。

以前、このブログでも「『静岡』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 34>」で浜松病院を紹介している。

当時の院長・太田用成は、病院の同僚とともに「七科約説」という医学全書(英語文献からの翻訳)を1878年に出版した。

浜松病院の評判は岡山まで届き、コレラ予防の監修を頼まれたのだろうか。

すでにこの時代に存在しただろう「医療ネットワーク」を想像したくなる。

 

以上が「勉強」部門である。

実はこの調査の前日に、高梁市内の吹屋を訪れた。

まあ、観光である。

高梁市内といっても、JR伯備線の備中高梁駅前からバスで約1時間。

途中には車が一台しか通れないような細い道もあり、対向車が来たら定期路線バスでも戻ることになる。

 

吹屋は、ベンガラ色で外観が統一された町並みで知られている(下の写真)。

国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。

 

(ベンガラ色の吹屋の町並み)

 

吹屋とベンガラとの関係には興味深い歴史がある。

町に立っていた「高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区」という看板の説明から引用したい。

それによると;

 

吹屋は標高約550メートルの山間に位置し、近世以降、銅山で発展し、さらにベンガラで繁栄して財を成した地域です。

この地域一帯は、中世以降、銅の産出で知られ、江戸時代に入ると吉岡銅山と呼ばれるようになり、元禄期には泉屋(住友家)、享保期には地元の大塚家が経営を行っていました。明治時代になると三菱の岩崎弥太郎によって近代的経営が行われ、明治時代末期から大正時代初期には日本三大銅山の一つに数えられていました。

また江戸時代中期からはベンガラの生産が盛んとなり、銅山とともに地域独自の産業として隆盛を極めました。ベンガラは赤色顔料で経年変化に強く、古くから九谷焼、伊万里焼などの陶磁器、輪島塗などの漆器、または衣料の下染め、家屋、船舶の塗料などに使われ、吹屋は昭和40年頃までは日本有数の良質なベンガラの産地として大いに繁栄しました。

 

つまり、銅山からはじまり、次いでベンガラの生産で繁栄したということである。

地元の人の話によると、銅山採掘の副産物として(硫化)鉄鉱石があり、これをを酸化・還元させてベンガラを生産したということらしい。

現在はベンガラの生産は行われていないが、あるお店にかつてのパッケージのままベンガラが置かれていた(下の写真)。

 

(ベンガラ)

 

バスで吹屋に着いたのが午前11時過ぎで、あちころ散策しながら、昼食の店を物色。

結局、時代物の雑貨がところ狭しと置かれている、かやぶき屋根の店に入り、「ベンガラカレー」(下の写真)を食べた。

ベンガラにちなんで、赤(写真ではうまく「赤」が出ていないが、実際にはもう少しピンクがかっている)と黒のルーをかけあわせているのだという。

そのお店の人からも、吹屋の歴史的な事柄をうかがった。

 

(ベンガラカレー)

 

私は人に勧められてはじめて吹屋を訪れたのだが、それまで吹屋という名前すら知らなかった。

朝ドラ(は、よく知らないのだが)や映画などのロケで、しばしば使われる場所だというが、全国的な知名度はあまり高くないだろう。

まだまだ宣伝の余地はありそうだ。

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