近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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『静岡』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 34>

さて、今回は浜松。


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浜松病院。


 明治6年(1873)3月、引佐郡気賀半十郎、長上郡平野又十郎、豊田郡青山徹、青山宙平らが資金を出し合い、浜松県から五百円を無利息七ヶ年年賦で借り、計三千円にて、会社病院「浜松病院」を開設。初めの医師は荻生汀と小川清済らであったが、間もなく県立に発展。場所は、浜松紺屋町(医師会館あたり)であった。

 明治7年(1874)1月、浜松県立「浜松病院」が誕生した。

 明治7年(1874)4月、利(トギ)町に新築移転した。

 院長は、はじめきまっていなかったが、仝年途中から、太田用成が院長として来浜した。附属浜松医学校が開設され、太田院長が学校長を兼任した。副院長は中島煕、医員に奥田喬治、中西玄仙が居り、教員に柴田邵平、河合虹平が居り、9年(1876)には虎岩武(太田院長の弟子)が赴任した。

 明治11年(1878)5月、学生の便宜を計って米国ペンシルベニア大学教授ハルツホルンの原書を翻訳し、「七科約説」という医学全書の上編を浜松の開明堂から出版し、続いて、翌12年(1879)4月、上編の改訂再版と「七科約説下編同附録」を出版した。本書の翻訳には、主に虎岩が当ったが、太田、柴田、虎岩共著となっている。


(注:アルバムには説明がないが、浜松城である。)



 浜松医学校の学生は、本科生、員外生、予科生に分かれ、予科では主に英語を学び、2年目から理化学を修めて本科に進み、本科では理学、化学、解剖、生理、薬物、内科、外科のいわゆる七科目を必修して、各科目毎に試験を行ない、合格者には修業証を与え、全科目の修業証を得た者に内務省から試験問題を与えて、学校長、各教官が試験官となって考査のうえ、合格者を申請して医師開業免許を下附されるようになっていた。員外生は開業医の有志の者に聴講生として主に内科、外科を講義した(注:少し文意がわかりにくい)

 明治9年(1876)3月、浜松県は静岡県に併合され、病院は静岡県立となり、明治13年(1880)県の方針によって医学教育は、県下一ヶ所にまとめて静岡病院で行なうことになり、浜松医学校は廃止となった。

 太田院長も、明治12年(1879)に辞職し、福島豊策(長崎医学校出身の外科医)が院長に就任した。

 明治15年(1882)浜松病院は郡立となり、明治20年(1887)福島院長辞職し、太田用成が再び院長となったが、明治24年(1891)ついに経営困難のため廃院された。

 太田用成は、信州飯田の人、横浜の米人医師、江戸の医学所で学び、飯田に帰り多くの子弟を教育した。明治6年(1873)県立飯田病院の副院長となり(院長は江馬元齢)、天龍病院長を経て、浜松病院長となり、その後、掛川病院長となり、浜松の大工町で開業、明治45年(1912)7月、69才で死去。浜松市鹿谷町松林寺の墓地に、キリスト教式の墓がある。





(つづく)


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