近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
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『富山』 その3<新シリーズ・小林靖彦資料 11>

ふたたび小林靖彦資料アルバム『富山』の続きである。


(つづき)

富山脳病院


 大正5年(1916)11月5日、医師福田美明(明治41年11月、金沢医学専門学校卒、明治42年10月、松原三郎教授によって神経精神科が創設されるに当り、内科教室より転じ、初代助手として精神病学を専攻、明治44年、郷里富山市にて開業)は、加納景成と共同で婦負(ねい)郡東呉羽村字藤子に、「富山脳病院」を開設。敷地1089坪、建坪114坪、収容定員22名、医員2名、看護人4名にして、院長は福田美明であった。

 当時は、精神障害者に対する一般の理解は極めて浅く且つ治療の施設も皆無であったが、精神科医療のために是非入院収容施設の必要を痛感し病院設立を決意した。ところが当時は、精神病院の設立は地域の住民から当然反対をうけ、たまたま病院敷地が、当時の陸軍衛戍病院に隣接していたことから、病院長に設立の阻止を依頼に赴いた人々に対し、精神病院を開設しようとはまことに奇特なことだ大いに協力せよとの一声で一挙に問題は解決した。

 開設当時は、施設も貧弱で治療の方法も主として隔離の程度であったが、逐年精神病に対する認識の向上と医療の進展とに相俟って、精神病院の存在価値も重要視され、使命達成への道が開けた。昭和9年(1934)国道8号線の改修を機に病院の全般的改築を計画し準備中に、一収容患者が着衣の襟にかくしていたマッチで放火、病院の一部を焼失したため、直ちに改築工事に着手し、仝年新築なり面目を一新した。

 昭和10年(1935)5月11日、富山県代用精神病院に指定され、更に昭和16年(1941)4月、富山警察署長の提唱により、当時市街を放浪徘徊する精神障害者を収容する富山市精神病浮浪者収容所が、警察後援会によって隣接地に附設。その管理を委託された。

 その後の増設により、昭和18年(1943)には一応完成の域に達し、内庭600坪をとりかこみ管理棟と5ヶ病棟を方形に配置し、他に伝染病棟、静養室棟、炊事、作業室等と城山野外作業場との設備を有するに至った。

 しかし、昭和20年(1945)8月1日夜半、富山市空襲の際、被災。瞬時にして全病院施設を焼失した。当時約130名の入院患者を収容していたが、空襲の開始と共に全患者を一応避難させたが、時間の経過と共に若干の患者が再び病院内に立ち戻り5名の患者が死亡した。

 その後、一時病院を休止していたが、昭和26年(1951)春頃より復興を計画し、仝年9月、美明長男福田博が開設許可をうけ、仝年11月30日再開使用許可された。

 当初57床であったが、その後、5回の増改築を重ね、現在収容定数は175床(内指定病床70床)となった。

 昭和27年(1952)6月25日、精神衛生法第五条による指定病院となる。

 昭和39年(1964)7月15日、県よりの要望により富山脳病院の院名を「福田病院」と改称。

 昭和45年(1970)末の調査では、
 福田病院 富山市五福町483 175床 福田博院長 となっている。


福田美明(M.19.1.2)は、昭和35年(1960)5月12日、逝去、享年76才









(つづく)

なお、富山脳病院については、『近代日本精神医療史研究会通信』の第5号(2005年)にも記事がある。

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