2011.02.27 Sunday
島根県の精神医療史 続・鷺湯精神病院
少し前、「島根県の精神医療史 鷺湯精神病院」という記事を書いたが、その続編である。
今年の1月末の島根調査でやり残したこと、新たに湧いた疑問を解決すべく、2月下旬に再び安来と松江を訪れた。
試験監督が当たっている、国公立大学の前期日程二次試験が始まる直前のことである。
今回は、呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)にも創立者として名前が出てくる、医師・中原清の末裔の方に会うことができた。
詳しい経歴は省略するが、一時は東京帝国大学精神病学教室に所属していた中原は、郷里に戻って鷺湯精神病院を開く。
明治44(1911)年のことである。
全国的にも精神病院が珍しかった当時、島根県の山あいで開業したことは驚異的なことだったかもしれない。
中原はのちに県会議員や飯梨村(現在の安来市の一部)村長なども務めた、文字どおり郷土の名士であった。
その肖像写真が『飯梨郷土誌』に第八代村長として掲載されている(と末裔の方に教えてもらった)。
(中原 清 1878-1941)
[出典:飯梨公民館『飯梨郷土誌』、1994年]
前回訪れた時にも、鷺湯精神病院の跡地を確認したが、よくわからないことがあった。
それは、下の「日本精神医学風土記 島根県」の写真と、現在跡地と推察される場所との対応関係である。
正面に見えているのは、母屋(院長宅と炊事場)とわかっているが、手前の「つり橋」のようなものは、いったい何だろうか?
川などないはずだが。
(往時の鷺湯精神病院)
[出典:杉原寛一郎「日本精神医学風土記 島根県」『臨床精神医学』、1986年]
末裔のお宅であれこれ検討。
その結果、上の写真の赤い枠で囲った小屋だけが現在残っているものだとわかった。
下の写真は現在のものだが、真ん中の電柱の左にある小屋のことである。
この小屋は穀類を貯蔵していたもので、座敷もあったという。
「つり橋」に見えたのは、刈り取った稲を掛ける「はぜ」だろうということになった。
現在は駐車場になっているが、以前はこの一体は田んぼだったという。
(「日本精神医学風土記 島根県」の写真とほぼ同じ角度から撮った写真)
[橋本、2011年2月撮影]
今回の報告は以上である。
単に場所の新旧を比較しただけのことだが、パズルが解けたようなスッキリとした気分だった。
とはいえ、末裔のお宅で(決して皮肉ではなく)「昔の病院のことを調べて、何になるんですか?」とまじめに聞かれて、一瞬うろたえた。
学問的な説明はいくらでもできるだろうが、ここでそんなことを言ってもはじまらない。
「何って・・・とにかく、面白いんです」と答えるほかなかった。
でも、これが偽らざる気持ちかもしれない。
[出典:杉原寛一郎「日本精神医学風土記 島根県」『臨床精神医学』、1986年]
末裔のお宅であれこれ検討。
その結果、上の写真の赤い枠で囲った小屋だけが現在残っているものだとわかった。
下の写真は現在のものだが、真ん中の電柱の左にある小屋のことである。
この小屋は穀類を貯蔵していたもので、座敷もあったという。
「つり橋」に見えたのは、刈り取った稲を掛ける「はぜ」だろうということになった。
現在は駐車場になっているが、以前はこの一体は田んぼだったという。
(「日本精神医学風土記 島根県」の写真とほぼ同じ角度から撮った写真)
[橋本、2011年2月撮影]
今回の報告は以上である。
単に場所の新旧を比較しただけのことだが、パズルが解けたようなスッキリとした気分だった。
とはいえ、末裔のお宅で(決して皮肉ではなく)「昔の病院のことを調べて、何になるんですか?」とまじめに聞かれて、一瞬うろたえた。
学問的な説明はいくらでもできるだろうが、ここでそんなことを言ってもはじまらない。
「何って・・・とにかく、面白いんです」と答えるほかなかった。
でも、これが偽らざる気持ちかもしれない。