近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
小林靖彦ネットワーク

きのうのこと。
小林靖彦の孫娘にあたる紗弥香さんが、遠路はるばる九州から愛知県立大学の私の研究室にやってきた。
ちょうど名古屋で用事があるとのこと。
第15回精神医学史学会(2011年10月29・30日、於:愛知県立大学・長久手キャンパス)で開催予定の「小林靖彦回顧展」の情報をキャッチしたが、当日は来られないということで。
私の研究室で保存しているアルバムや資料を見ながら、小林靖彦の「ひととなり」について話が弾んだ。
小林靖彦が想像もしていなかっただろう未来が、こうして展開しているのだと考えるだけでおもしろい。

| 小林靖彦資料 | 09:28 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(50) 「精神病者治療所」(新潟)

今回をもって、小林の資料「精神病者治療所」の紹介は完結する。

新潟の記述部分には写真が添付されていたはずだが、原稿用紙から無残にも剥がされている。
しばらくの間、小林の別の資料の中から、その写真を探索していた。
なので、このBlogに新潟の記事を書けないでいた。

しかし、小林が大量に残したポジ・フィルムの中に、剥がされたのと同じものと推察される写真をついに発見した。
そこで、フィルム・スキャナーで取り込んだのである。
ともかく、以下が新潟の記述である。


5.新潟

1)鵜ノ森狂疾院(新潟県加茂市鵜ノ森)

 昔、下越に属し、後、南蒲原郡須田村鵜ノ森と称せる地は、町村合併により加茂市に編入され、新潟港に注ぐ信濃川の上流にあり、堤の下の田圃の中に竹藪を中心に点在する部落であります。

 永井家は、永井家系図によれば、桓武天皇に始まり、平家となり、次いで北條家となりしものより分れ、永井の姓を名のり、越後中蒲原郡に在りて、農業に従事す。慈徳院寂照宗祐居士(元禄4年8月28日歿、1691)に至り、浄土真宗大谷派に属する永井山順行寺を開き、次の誠心院密巌茲玄居士(延享5年5月21日歿、1748)の時より、分家独立して永井慈現と号し、代々医業をなす。


[小林のポジ・フィルムから探した「永井山順行寺」の写真。フィルムが変色している。]

 実際に精神病者を収容せる鵜ノ森狂疾院の創立は、安永年間(1772〜1781)と云う。

 狂疾院の治療は、漢方薬にして、一時50〜60名を収容し、一般に「ばか病院」と通称されたと云う。

 明治27年(1894)、6代永井慈現は、組織をあらためて永井精神病院を設立す。敷地三百坪、建坪五十六坪、収容定員20名の小規模なものでありました。

 大正12年(1923)後継者なきため廃止。


[永井医院。小林のポジ・フィルムより。]

 現在(昭和38年11月5日、1963)、本家なる永井山順行寺は「順行寺さん」と呼ばれて、村の信仰の中心であり、境内に永井家の墓があります。


[旧病舎。小林のポジ・フィルムには、「民家になっている旧病舎」という説明がついている。]



[旧病舎。小林のポジ・フィルムには、「民家の土蔵となっている」との説明がついている。]

 分家の当主は、13代永井慈現(東京医専卒)は、加茂市大字加茂1038の地にて永井医院を開き、耳鼻科を専攻しており、病院は他家のものとなり、その家の主家と土蔵になっており、窓の柵に昔を偲ばせ、「主家となっている方に上等の患者さんが収容されていた」と古老語る。

 13代慈現の父、潔は東大医科4年の時、3人の子を残して死亡、祖父房之助(12代慈現)が、大正12年(1923)死亡し、ために精神病院は廃止されました。

 当主は、幼名を博と云い、文夫(京城医専在学中死亡)と滋(慈恵医専卒、東京にて開業)の弟あり、13代慈現を継ぎ、最近、脳出血を起こし半身不随となり、医院も寂れ、北大を卒業し、慶大の大学院(外科)に在学中の長男の成長を期待しています。


2)新潟脳病院
(西蒲原郡坂井輪村大字平島162)

 明治44年(1911)7月1日、医学士長谷川寛治が創立し、大成潔(元東大助手)病院長として赴任す。収容定員は60名であった。

 大正2年(1913)、新潟脳病院は、慈恵的救療の事実あるを以て、県より特に金一千円の補助金交付せらる。而して公費委託患者は普通入院患者の半額を以て収容することとし、又、同病院長は県下精神病者の視察を嘱託せられ、年々三百円以内の出張旅費を支給せらるるとある。

 大正3年(1914)8月、大成潔院長辞職し、東大助手栗原清一之に代る。

 大正7年(1918)2月、栗原清一院長辞職し、医学士谷口本事之に代る。

 大正8年(1919)5月、元福岡脳病院長医学士伊藤勘助、谷口本事に代りて院長に就職す。

 大正10年(1921)1月4日、伊藤院長辞職し、金森五郎院長となる。
 
 昭和28年(1953)、新潟精神病院と改称されて、今日に至る。
(新潟市上新栄町5827、450床)


3)新潟大学医学部精神医学教室

 大正3年(1914)官立新潟医学専門学校に精神病学講座が設置され、中村隆治教授赴任す。仝年、市立新潟病院を改修して病室を設く。

 大正11年(1922)大学に昇格し、大正13年(1924)教室および病室が学内に新築されました。


(新潟の記述は以上。小林資料「精神病者治療所」の紹介は、今回で完結。) 

| 小林靖彦資料 | 15:58 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(49) 「精神病者治療所」(鳥取)、(愛媛)、(香川)、(岡山)、(熊本)

小林靖彦の資料「精神病者治療所」も終わりに近づいてきた。
今回は、鳥取、愛媛、香川、岡山、そして熊本である。
いずれも少ない記述なので、まとめて紹介したい。


28.鳥取

1)鳥取市精神病者監置室(鳥取市西町290)

 大正5年(1916)4月、設立。木造平屋建一棟。(13坪50)

 昭和26年(1951)、木造トタン葺平屋一棟。(15坪75)となり「監置小屋」と呼ばれました。

 昭和27年(1952)、廃止。


29.愛媛

1)松山市精神病者監置室(松山市出淵町1丁目)

 明治41年(1908)設立。其の後、不詳。

 昭和12年(1937)頃廃止。


30.香川

1)高松監護院
(高松市八幡丁22)

 明治26年(1893)頃より白井愛蔵が、精神病者を保護収容していたのを、大正7年(1918)11月、木田吉勝、妹尾多一が加わり共同経営にて開院。敷地三百坪、建坪五十九坪五合で、監置室12、静養室5あり、委託患者の外は、自費患者をも収容して治療した。看護人は8名あり。


31.岡山

1)岡山大学医学部精神医学教室

 明治28年(1895)4月2日、荒木蒼太郎が、岡山医学校教授に任ぜられ、教室創立され、精神病学を講義しました。

 大正11年(1922)大学に昇格、病棟落成。


32.熊本

1)熊本大学医学部精神医学教室

 明治37年(1904)私立熊本医学専門学校に精神神経科が設けられ、三角恂講義を始む。

 明治42年(1909)、病棟落成。


(以上で小林の資料「精神病者治療所」の記述は終わる。ただし、途中で「新潟」の記述をスキップしたので、次回はそれを紹介する。)

| 小林靖彦資料 | 15:29 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(48) 「精神病者治療所」(長野4)

長野のつづき。


7)鶴賀脳病院(鶴賀病院)

 医師轟太三郎(東京済生学舎卒)が、昭和5年(1930)7月10日、長野市鶴賀居町1750に、病床100の「鶴賀脳病院」を創設した。開設と同時に県立代用病院の指定を受けた。


(轟太三郎)

 轟太三郎は、長野県医師会長時代(大正11年11月より昭和5年10月まで)、昭和4年(1929)精神病院設立に関する件を可決し、県当局に要望し、県は「長野、松本、上田の三市にある救護所を増改築して収容施設を作る」と答弁した。

 古く精神病院と云っていたが、新しい感覚がするといって「脳病院」というのがよく使われていた。

 開設と同時に、代用病院に指定されたのは設備が良かったからと常に自慢していた。

 昭和26年(1951)7月、轟太三郎逝去に伴い、仝年9月、三男轟章院長に就任、「鶴賀病院」と改称。

 昭和43年(1968)10月11日、医療法人となり、現在に至る。病床は497である(文献:長野県医師会:長野県医師会史.昭和41年(1966).)


(鶴賀病院)

 この地方では、古くから「糸魚川の猿の頭の黒焼きが精神病に効く」と云われ、今日でも入院患者に食べさせてくれと親類のものが持って来ると云う。


8)松本脳病院(松本精神病院、松岡病院)

 昭和7年(1932)6月7日に、東筑摩郡寿村百花園に、病床29の「松本脳病院」が開設された。

 倉田均が院長に就任したが、昭和9年(1934)倉田院長、独立開業のため退職、松岡文七郎院長に就任。


(松岡文七郎)

 昭和32年(1957)1月、「松本精神病院」と改称。病床100となる。

 昭和46年(1971)、「松岡病院」と改称さる。

 現在、松本市大字寿白瀬渕89にあり、病床188、院長は松岡義忠(阪市医専、昭和15年卒)である。


(松岡病院)


9)倉田病院

 株式組織の松本脳病院(昭和7年6月7日設立。東筑摩郡寿村百花園、29床)の経営に参加していた松本脳病院長倉田均(明治44年、京都府立医学専門学校卒)は、小規模でも、医療を中心とした病院をつくろうと、妻、医師倉田みね子(明治44年、医師試験合格)と協同して、昭和9年(1934)4月、東筑摩郡寿村白瀬渕に、14床をもって、精神科倉田病院を開設した。

 昭和10年(1935)6月、倉田均死去し、倉田みね子が、院長に就任。

 昭和24年(1949)、患者の失火により焼失。当時の入院患者70名、うち1名焼死した。患者を松本脳病院に移し、閉院。

 昭和25年(1950)2月、再建。倉田吉清(昭和20年、日本大学専門部医科卒業、昭和23年、倉田みね子の養嗣子となる)が院長となり、今日に及んでいる。

 現在、松本市寿白瀬渕1674にあり、敷地7,893.61屐建坪2,768.84屬砲靴董病床146床を有す。


(倉田病院)



(長野の記述は以上)

| 小林靖彦資料 | 14:34 | comments(0) | - | pookmark |
小林靖彦資料紹介(47) 「精神病者治療所」(長野3)

長野のつづき。


5)飯田病院精神科

 明治36年(1903)9月1日、医師原耕太郎が、本町4丁目に「私立飯田病院」を創設した。




 原耕太郎は、明治32年(1899)4月、医術開業試験に及第、仝年12月東京帝大国家医学科卒業、内科、外科、産婦人科、皮膚泌尿器科、精神病科等を修めて帰郷。内科、外科、小児科を中心に飯田病院を開設。50床位であったと云う。

 大正3年(1914)から大正5年(1916)にかけて、資を郡下有志数百名に呼びかけ、現在地(上飯田15番地)に、大病院を完成し開院した。




 大正7年(1918)ごろより病院に監置室を設け精神病者を収容し、ムスビの中に薬を入れて服ましたりしていたが、大正14年(1925)8月22日精神科を併設した。

 大正15年(1926)、飯田病院看護婦養成所を併設す。

 昭和7年(1932)4月14日、原耕太郎院長急死。享年61才。養子原農夫(長女琴の婿)院長に就任。



 昭和10年(1935)末の菅修の調査によれば、飯田病院精神病科(下伊那郡上飯田町15番地)定員は25床となっている。

 昭和26年(1951)、設備の完全なるは全国に冠たりと誇っていた伝染病科を廃止。

 昭和27年(1952)、併設の看護婦養成所の経営を医師会に委譲。

 昭和31年(1956)、2代院長原農夫死亡し、「医療法人財団栗山会飯田病院」に改組。

 昭和41年(1966)、精神病棟4階建完成。
 
 昭和46年(1971)、一般病棟5階建完成。

 昭和49年(1974)、管理棟一部2階建完成。

 一般病床104、精神病床352、結核病床15、計471床の大病院となっている。院長は3代院長原享二(耕太郎の二男、耕太郎跡相続)である。





[小林が撮影したと思われる飯田病院]


6)長野脳病院

 内科医菅野萬平が、昭和5年(1930)1月25日に、長野市中越142番地に、定員50床の「長野脳病院」を設立した。

 菅野医師死亡後、未亡人が管理者となり、関九一郎(耳鼻科医)を雇い入れ、院長とした。

 昭和18年(1943)3月2日、関院長が急死し、患者も減っていたので、病院を閉鎖した。



(長野の記述はつづく)

| 小林靖彦資料 | 14:05 | comments(0) | - | pookmark |
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