しばらくお世話になった台湾東部の玉里から、午後の特急に乗って台南に向かう。
玉里→台南の席がとれなかったので、特急は途中の高雄まで。
高雄駅で17時40分発の各停に乗り換え、台南駅には19時すぎに到着した。
駅前のホテルへ直行。
コンビニで買ったカップ麺などを食べて、その日は寝るのみ。
(台南。光華街という細い曲がりくねった道を歩いていたら、偶然出くわした日本統治時代の台南州立農事試験場の和風宿舎。現在は展示スペースなどに改装されているようだ。2023年9月撮影、以下の写真も同様。)
台南に来たのには、もちろん学術的な理由がある。
1937年に出された菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻第10号)の巻末の施設名簿に、「精神病者収容所」として掲載されている「台南愛護寮」の痕跡を探そうと考えた。
台南愛護寮は、1929年に台南商工業協会会長・王開運らが「乞食並に貧困者の収容保護」を目的に開設した。
王は同年に組織した台南愛護会の副会長になっている。
台湾南部地方には精神病者収容施設がないことから、公的な援助を得て1936年に「精神病室」を竣工した。
ただ、菅修の論文で調査時点とされている1935年には、台南愛護寮の精神病者の収容定員が15人と書かれている。
「精神病室」の設置前から、すでに精神病者の収容実績はあったのだろう。
また、台南愛護寮の代表者は王汝禎で、住所は「臺南市東門町69番地」とある。
その「精神病室」と思われるのが、下の写真である。
しかし、これを掲載している『昭和十二年三月刊行 台南州社会事業要覧』(1937年)では、台南愛護会(台南愛護「寮」ではなく)の所在地は「臺南市臺町二丁目一七七番地」となっている。
この住所は「・・・会」の所在地で、「・・・寮」と違うのかもしれない。
もし違うとすれば、写真は菅修が言及している東門町の「・・・寮」の建物なのか。
それとも、「会」も「寮」も所在地は同一であって、菅修の調査時点以降に東門町から臺町に引っ越し、臺町に建てられた「精神病室」なのか。
よくわからない。
さらに、『昭和十九年三月刊行 台南州厚生事業要覧』(1944年)には「台南愛護寮精神病舎」の名が掲載されており、菅修論文にも出ていた王汝禎が代表者なのだが、所在地が「臺南市竹篙厝六三〇」になっている。
またもや、引っ越したのだろうか・・・
(「台南愛護会精神病舎」。台南愛護「会」となっているが、台南愛護「寮」の精神病舎のことだろう。写真は『昭和十二年三月刊行 台南州社会事業要覧』より。)
東門町なのか臺町なのか、はたまた竹篙厝なのかよくわからず、ともかくかつての東門町に行くことにした。
現在は東門を中心とする「東門路」といわれるあたりに違いない(下の写真・左)。
しかし、十分に地理的な下調べができておらず、現地でなにか手がかりがあるわけでもなく、街の雰囲気を確かめるだけで終わった。
台南愛護寮の学術的な成果とは、こんなものである。
東門あたり、光華街という細い曲がりくねった道を歩いていたら、和風の家が立ち並んでいる場所に来た(冒頭の写真)。
日本統治時代の台南州立農事試験場の宿舎だった建物である。
現在は展示スペースなどに改装されているようだ。
その光華街沿いに、桑原商店という和風の店もあった(下の写真・右)。
この商店の由来は知らない(誰か検索してください)。
日本から来たと思われる3人組の女性が、その前で写真を撮っていた。
(台南。左:東門路一段の標識、右:桑原商店。)
この日のお昼過ぎ、高鐵(新幹線)で台北にもどった。
台北→玉里→(高雄)→台南→台北という鉄道のルートで、台湾を一周したことになる。
台北では確かめておきたい場所があった。
螢橋國小(台北市蛍橋国民小学校)である。
この小学校で起きた事件が、1990年に制定された台湾の精神衛生法に一定の影響を与えたという。
その事件とは、1984年3月30日、螢橋國小に侵入した精神障害者に43人の生徒が硫酸をかけられたというものである。
数日後の台湾省議会(1984年4月3日 臺灣省議會/第七屆/第五次定期大會/第四次會議)で、ある議員から「螢橋國小での精神分裂病のケースのように、衛生部側がもっと研究しなければ学校の安全は維持できない」という発言がなされている 。
いまの螢橋國小に行って、何がわかるというわけではないが、現場に立ってみることにした。
だが、小学校の下校時刻と重なって、何人かの親たちが子どもを校門のまえで待っている。
部外者が校門あたりでウロウロして、正門のところで写真などを撮っていれば、それこそ「不審者」と思われかねない。
仕方なく、さらっと学校の周囲を一周し、学校の裏手あたりでこっそりと写真を撮ったのが、下の一連の画像である。
少なくとも外側からは、「事件」の爪跡は見えなかった。
(台北。螢橋國小の周辺。左:「台北市螢橋國民小學後側」、右・上:右が小学校、右・下:民家の塀に貼られた小学校の案内)
その翌日は帰国日だった。
夕方に桃園国際空港から出る便まで時間があったので、二二八和平公園、国立台湾博物館、中正紀念堂などを見学。
国立台湾博物館は見ごたえがあった。
台湾の自然を紹介するコーナーで、センザンコウ(穿山甲)の剥製を見つけた(下の写真)。
呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(1918年)の中の「精神病ノ民間薬並ニ迷信薬」で、記述されているのが「穿山甲ノ粉末」である。
当時は日本統治下にあった台湾から、この手の薬種がもたらされたのかもしれないと思った。
(台北の二二八和平公園内にある国立台湾博物館にて)
ふ〜う。
これで、8、9月に撮りためた旅行写真の整理に一応のケリがついた。
台湾話はここまでである。