近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
インドネシア「爪哇バイテンツオルグ癲狂院」への旅

1897年8月8日、東京帝国大学の呉秀三は精神病学を学ぶべく、欧州留学にむけて横浜から出航した。

上海、香港、サイゴン(ホーチミン)、シンガポールを経て、同年8月27日に爪哇(ジャワ)島のバタヴィア(ジャカルタ)に到着。

そして、同29日、バタヴィア近郊の“バイテンツオルグ癲狂院”を訪れている。

 

バイテンツオルグ癲狂院とは、オランダが1882年に設立した Krankzinnigengesticht Buitenzorg のことである。

この精神病院の設立を含めたオランダ支配下のインドネシアの精神医療史は、Nathan Porath: The naturalization of psychiatry in Indonesia and its interaction with indigenous therapeutics. Bijdragen tot de Taal, Land- en Volkenkunde (BKI) 164-4 (2008): 500-528 などに詳しく書かれている。

 

航海途上、呉秀三はこの時の病院見学を伝える手紙を日本に送った。
送り先は、いわば呉の留守を守る形で、東大精神病学講座の教授を兼ねていた法医学教授・片山國嘉である。

その手紙には、開放的で広大な敷地をもつ病院の様子や、患者が実施しているさまざまな作業(療法)などが紹介され、「此の如き病院は、まだ見ぬ事ながら西洋にも少なかるへしと存しられ候」とある(呉秀三「爪哇バイテンツオルグ癲狂院概況」『国家医学会雑誌』第127号、524頁、1897年)。

彼自身、西洋の病院はいまだ見たことがないものの、これほどのものはないだろうと絶賛しているわけである。

 

Buitenzorg はオランダ語の旧称で、いまは Bogor(ボゴール)。

ボゴールの病院は、その後どうなったのか?

 

言及すべきは、ドイツの精神医学の泰斗クレペリン(Emil Kraepelin)が、比較精神医学(Vergleichende Psychiatrie)研究のために、20世紀初頭にこの病院を訪れ、1904年にその研究成果を論文として発表したことだろう。

クレペリン論文によれば、「これまでの比較精神医学的な研究のほとんどすべてが、同一民族内での集団に限られていた(…)それゆえ、私はジャワのバイテンツオルグ癲狂院(Irrenanstalt Buitenzorg)でみずからそのような [比較精神医学的な] 研究を行うことにした」(*) のだという。

 

 (*)原文 [Bisher haben sich fast alle vergleichend psychiatrischen Untersuchungen auf die Gruppenbildung innerhalb desselben Volkes beschränkt. (...) Ich habe mich daher entschlossen, selbt eine derartige Untersuchung in der Irrenanstalt Buitenzorg auf Java durchzuführen (...)] aus Emil Kraepelin: Vergleichende Psychiatrie. Centralblatt für Nervenheilkunde und Psychiatrie, 27 (1904): 433-437.

 

精神科医の中井久夫もこの病院を訪れたようで、そのときの様子を以下に引用したい。

なお、訪問の時期は1980年前後と思われ、「国立ボゴール精神病院(R.S.J.= Rumah Sakit Jiwa Bogor)」として紹介している。

 

500床余の病院で、1880年代にオランダが創立したままを正確に修復しつづけて、19世紀後半の西欧パヴィヨン式病院のあとをとどめている。京大精神科病棟も同じであるが、敷地ははるかに広大であり、8割は開放であった。1日3回水浴する清潔好きの民族のけば立つほど洗ったシーツはくたびれていても白く、患者は七輪のようなものでトリ料理を煮ていた。(…)院長は日本の精神病院医のあるタイプに近く、シャツにサンダルばきで、遠くから患者が「おーい先生」と呼ぶと手を挙げて「やーあ、何とかかんとか」と答えている。この情景は欧米から遠い治療文化だ。(…)患者は門を出たり入ったりしていて(この市は山中でなく、ジャカルタから来るこの国唯一の国電(日本製)の終点である)、私に「何人(なにじん)」と聞き「日本人(オラン・ジュパング)」と答えると大きく納得の身ぶりをした。

(出典:中井久夫「概説―文化精神医学と治療文化論―」『精神の科学 8 治療と文化』岩波書店、1983年)

 

だいぶ前置きが長くなってしまった。

このようにボゴールの「名所」にまつわる文献はいくつかあるのだが、ここを訪れる機会など、あろうはずもない…と思っていた。

ところが、ジャカルタで某学会が開かれるという情報があった。

学会のついでに、ボゴールまで足をのばせるかもしれない。

 

(ジャカルタ市内をバジャイで移動中。)

 

その学会とは、2018年6月27〜30日の日程でインドネシア国立図書館を会場として開かれた第9回アジア医学史学会(東南アジア医学史学会との合同学会)である。

知り合いの日本人研究者2人に声をかけて、“Medicine and Diversity in Modern Japan”というパネルを組んだ。

6月28日の午後に発表があり、翌29日にその2人を誘ってボゴールに行くことになった。

だが、準備不足は否めないどころか、無謀な小旅行である。

前日までボゴール行きを迷っていたので、病院の正式名称や場所があいまいなままだったし、そもそも、まったくのアポなしで現地に突撃しようというのだから。

 

朝8時半過ぎ、ジャカルタ中心部のゴンダンディア(Gondangdia)駅からボゴール行きの電車に乗った。

上記の中井久夫が訪問した時期から30数年以上は経過しているが、当時と同じようにこの路線では日本製の電車が使用されていた(下の写真参照)。

つり革、ドア、窓、座席を見ながら、東京近郊あたりを走る車内にいるかのような錯覚におちいった。

(ちなみに、呉秀三は「バタヴィアを午後四時発汽車にて出発し一時間許にして当地に着」と記載している。当時から鉄道はあったようだ。もちろん、列車は日本製ではなかっただろうが。)

 

(ジャカルタ中心部から近郊のボゴールへ向かう車内で日本を感じる。)

 

終点のボゴール駅から、頼りない地図を頼りに、かつてのバイテンツオルグ癲狂院をめざして歩き出す。

さすがに日差しが強く、帽子とサングラスで防御。

途中、地元の市場の近くを通る。

大量のバナナをトラックから下ろす作業をしている。

面白い光景なのでカメラを向けたら、それに反応してくれた(下の写真)。

 

(バナナの荷おろし作業)

 

洪水のように迫ってくる車やバイクの隙間をぬい、ほとんど命がけで道を横断すること何度か。

なんとか、病院までたどり着くことができた。

現在の病院名称は、Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のようだ。

"rumah sakit" はインドネシア語で病院の意味。

上記の中井久夫の記述にある Rumah Sakit Jiwa Bogor の "jiwa" は、「魂」とか「精神」の意味らしいので、かつては「ボゴール精神病院」と称していたのだろう。

 

(Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のゲート)

 

病院構内への出入りは自由だったので、ともかく病棟らしき建物を外側からでも見学することにした。

敷地をうろついているわれわれを不審に思ったのか、病院の職員と思われる人から声をかけられた。

とっさに、上記の Nathan Porath の論文に掲載されている、1885年ころに撮影された2枚の病棟写真を見せて、「この建物はどこにありますか?」と聞いた。

少し考えてから、1つは残っているということで、その建物まで案内してくれた。

 

(各病棟はこのような廊下でつながっている。病棟は平屋建てが基本。)

 

案内された建物(下の写真)は、創立当初から使われているもので、Nathan Porath の論文の写真では「おとなしい現地人患者のための病棟(ward for peaceful indigenous patients [inlanders])」と説明されている(ちなみに、論文のもうひとつの写真は、「ヨーロッパ人患者のための病棟」で、いまは当時の形では残っていない)。

 

(創設時から残る建物。かつては現地人患者の病棟として使われたようだ。)

 

この建物は、現在は男性患者用の40人定員の病棟である。

急性期の病棟は別にあるので、ここは退院に向けての準備をする病棟という位置づけだろう。

ナースステーションに通されて、われわれの病院見学の意図などについて質問されたが、英語でのコミュニケーションがかなり難しい。

すれ違いの会話がしばらく続いた。

やがて、英語ができる看護スタッフが来て、各病棟を案内してくれることになった。

 

すると、患者たちが病棟に集団で入ってきた。

別の建物で行われていた治療プログラムが終ったようで、病室にもどってきたのである。

患者の病室はナースステーションに隣接し、病室の入口は鉄格子の扉で、通常は鍵が掛けられている。

天井が高く、窓(格子窓)も大きく、部屋全体が明るく、風通しもいいせいか、圧迫感や閉鎖的な雰囲気はない。

そこにベッドが整然と並んでいる。

ほかに余計なものは置かれていない。

病室に戻った患者たちは鉄格子越しに、あれこれこちらに親しげに話しかけてくる。

看護スタッフの話では、患者の入院期間は平均すれば1ヶ月くらいだという。

 

下の写真は、病室ではなく、リハビリ活動をするための部屋である。

病室の構造と基本的には同じといえる。

 

(リハビリ活動をするための部屋)

 

患者による絵画や粘土細工が置かれた工房のような建物や、急性期の女性病棟、そこに設置された保護室なども見学した。

最後に、もっと歴史的なことについて知りたければ病院の管理部門に案内すると言われたが、もうお昼になっていたので断った。

もし本格的に病院の歴史を調べるとすれば、下調べを徹底してから、日を改めて来訪しなければならないだろう。

それにしても、突然やってきた日本からの珍客に、十分すぎるくらいの対応をしてくれた病院スタッフに感謝である。

 

昼ごはんは病院内の食堂(下の写真)で食べた。

 

(いくつか店舗が並ぶ病院内の食堂。各店舗で提供するメニューはいろいろ。)

 

インドネシアの定番だが、無難と思われるナシゴレン(下の写真)にした。

結局、この食堂で午後2時半くらいまでねばる。

われわれが延々と話し込む様子を見てか、店の人がお茶をサービスしてくれたのはうれしい。

 

(病院内の食堂でナシゴレンを注文。美味だった。)

 

来た道をもどり、ジャカルタのゴンダンディア駅に着いたのは夕方。

その後、ショッピングモール(Grand Indonesia Mall)へ。

この中で夕飯を食べることになり、ご飯ものもあるコーヒー店に入る。

メニューの最初に出てくる Kopi Luwak がどうしても気になった。

ジャコウネコの糞から採取したコーヒー豆を焙煎したという「高級品」である。

1杯 89,000ルピア(ただし日本円では800円弱か)と、ほかの料理と比べてもかなり高値だが、せっかくなので注文することにした。

 

(店のメニューの最初に出てくる Kopi Luwak)

 

やがて、店の人がうやうやしくコーヒーカップなど一式を運んできた。

本体のコーヒーは金色の袋に入った粉末だった。

店の人が目の前でその袋をはさみでカットし、粉をカップに入れ、最後にお湯を注いでくれた。

そして「2分後に飲め」と。

コーヒーの粉末は沈殿し、その上澄みを飲むという感じになる。

これが「高級品」なのかどうか、にわかには判断できなかった。

 

(コーヒーのできあがりを待つ。)

| プチ調査 | 10:24 | comments(0) | - | pookmark |
沖縄私宅監置紀行

このブログでもしばしば宣伝している「私宅監置と日本の精神医療史」展で使っている一枚の写真がある。

2013年に沖縄本島北部で撮影されたという私宅監置室の写真である。

もともと沖縄県精神保健福祉協会の55周年記念誌に掲載されたもので、文献を渉猟しているうちにたまたま見つけた。

そのときの衝撃は忘れられない。

もちろん今は使われていない私宅監置室だが、その構造自体が残っているとしたら、そのこと自体が21世紀の日本の奇跡だと思った。

冗談抜きに、ル・コルビュジエの建築物どころではない。

 

この2年間あまり「私宅監置と日本の精神医療史」展を各地で開催しながら、「この沖縄の監置室の写真は、データを送ってもらったもので、自分では見たことはないです。ほんとに見ることができたらすごいけど」などと来場者に言い続けてきた。

とは言っても、「ほんとに」見るのは無理だろうなあ、あり得ないだろうなあ、と内心では思っていた。

 

ところがあるとき、「センセイ、沖縄で私宅監置室、見られるかもしれませんよ」と知り合いの人から連絡があった。

ええっ!?

ホントか、ウソか、わからないけれど、とにかくセントレアから那覇までの航空券をすぐに予約した。

その知り合いの人の沖縄での講演会の日程に合わせていくのだが、それは夏休み期間だから、予約にもたついていると券は取れなくなるだろうと考えた。

 

ただ、その連絡があってから、2、3ヶ月間は音信が途絶えた。

詳細がわからず、じわじわと不安は募る。

あれは、本当だったのか・・・

そして、集合時間と見学場所が判明したのは、沖縄行きの前日(!)だった。

 

那覇空港の到着出口に、迎えの人たちが待っていた。

空港からマイクロバスで北へ、目的地に向かう。

ある公民館の駐車場に車を止めて、強い日差しの中を歩く。

パパイヤやバショウを横に見ながら、一本道を10分くらい進み、道が二手に分かれている地点で山側に向かうと、茂みのなかに、私宅監置室はあった。

これは、まさに「私宅監置と日本の精神医療史」展で紹介してきた、あの監置室ではないか!

 

(監置室は植物に覆われつつあった。)

 

(監置室内の窓から外を見る。)

 

(小川をはさんで、道沿いから撮影。そこからは、監置室はあまりよく見えない。)

 

監置室は朽ち果てつつあった。

ただ、シンプルな構造と、周辺の緑の雰囲気から、以前訪れたことがある南フランスのカップ・マルタンにあるル・コルビュジエの別荘を思い出した。

不謹慎かもしれないが。

 

この監置室からあまり離れていないところで、もうひとつの元・監置室を見ることができた。

最初の監置室とよく似た構造をしている。

 

(もうひとつの私宅監置室)

 

私宅監置室を見た後に、何人かで役場に行った。

目的は「精神保健医療福祉の歴史遺構の保存に関する要望書」を、首長あてに提出するためである。

「歴史遺構」として私宅監置室を考えている。

この要望を行政が真摯に受け止めてくれればと思う。

 

次の日、沖縄県公文書館に行った。

今回の「私宅監置調査」が空振りになった場合を想定して、資料調査の準備もしてきたのである。

監置室見学ができたので目的は果たしたわけだが、せっかくなので公文書館も訪れた。

ただし、帰りの飛行機の関係で、あまりゆっくりできず、中途半端な調査になってしまった。

再訪したいと思う。

 

(沖縄県公文書館近くの那覇バス・新川営業所内の「沖縄そば」の店)

 

(「沖縄そば」の店のカウンターで。この「雨 御万人ぬ 上にん 降ゆん」(誰の上にも同じように降る、雨と同じように物事も公平であるべき・・・)というカレンダーではないが、この日の午後、スコールのような大雨に降られた。)

| プチ調査 | 17:59 | comments(0) | - | pookmark |
鎌倉・称名寺を訪ねて

鎌倉には学部学生の頃、友だちとよく来た。
東京から日帰り旅行をするにはちょうどいい距離。

その後、仕事の関係で、国内外を転々と移り住むするうちに鎌倉のことなど全く忘れ、かなりの年月が経った。
ところが、精神医療の歴史を調べるようになって、再び鎌倉に出会う。
北鎌倉の称名寺の境内に、かつて「今泉山静養所」という精神病者保養所があったという。
確か、最初に知ったのは、「日本精神医学風土記 神奈川県」(『臨床精神医学』第14巻第12号、1985年)からだったと思う。

この施設が設立された1915(大正4)年11月に、神奈川県内にあった精神病院は、1909(明治42)年に「神脳院」として発足した横浜脳病院(後に紫雲会横浜病院)のみ。
また、社会事業史的な観点から付け加えれば、1902(明治35)年に設立された横浜救護所も精神病者の収容に関わっていた。
とにかく、県内の精神病者関連施設はごく限られていたせいか、今泉山静養所の名はいろいろな文献に顔を出す。
内務省/厚生省の精神病者収容施設調の常連であるし、当然ながら菅修の1937年の論文(精神病者関連施設のリスト)にも登場している。
だが、それほど詳しい記述があるわけでもない。

従来の話をまとめると、称名寺の住職・成實随翁がフランスのピネル(精神病者を鉄鎖から解放したという「神話」的な人物)に共感して今泉山静養所を創設した。
1940(昭和15)年までに入所した患者延べ数は、9万9千人にあまりに達したが、戦後は精神病院で治療を受ける患者が増えて、入所者は減り、1970年代はじめまでには在所者はいなくなったようだ(日本医史学会神奈川地方会ほか編『神奈川県北西・湘南地方の医史跡めぐり』2000年などによる)。

ただ、中西直樹『仏教と医療・福祉の近代史』(法蔵館、2004年)には気になる記述がある。
それによると、1933(昭和8)年に「神奈川県が精神病院取締規則を施行し、この種の療養所を許可しない方針を打ち出したため、施設を改築し嘱託医の定期診察を行うこととして存続が図られた」という。

そこで、中西が引用している当時の『中外日報』をみると、「診療所規則違反で浄土宗今泉山静養所が純然たる病院に改革」という記事があった。

それによると、この静養所は内務省や神奈川県などから補助金を受ける「私設社会事業団体」として運営されてきたが、1933(昭和8)年の神奈川県の精神病院取締規則、および内務省による診療所規則によって、「この種の静養所は許可しないこととなったので(...)補助金の交附も中止され、規則違反として処罰される情勢となったので止むなく規則に従ひ病院を増設して渡邊鍵太郎博士を医務長に(...)置いて正式に精神病院を組織し、近くその筋から許可を得ることとなった」とある。

神奈川県の「精神病院取締規則」が何なのか、調べきれていない。
が、内務省の診療所規則(正しくは診療所取締規則だろう)にもとづいて神奈川県が定めた「診療所取締規則施行細則(昭和8年10月28日)」なら手元に資料があった。
その施行細則(第15条)をまとめれば、つまり今泉山静養所のような(病院ではないが多くの患者を収容している)施設も、病院に準じて知事に開設許可を願い出ねばならない、ということである。
今泉山静養所は既存の施設だが、この手続きを踏んでいないとみなされたのだろうか。

また、記事中の「渡邊鍵太郎博士」とは、1925(大正14)年に愛知医学専門学校を卒業し、1926(大正15)年に浜松で三方原脳病院を開設した人物である。
しかし、1933(昭和8)年ころに、今泉山静養所から、設立すべき精神病院の医務長としてのオファーが渡邊にあったのだろう。
同年10月24日からは、朝山種光が三方原脳病院の院長に就任している(このブログのこの記事を参照)。

だが、結局、今泉山静養所は「精神病院」にはならなかったようだ。
渡邊は1935(昭和10)年の春には、東京武蔵野病院の副院長に、翌年には院長に就任している(『東京の私立精神病院史』牧野出版、1978年)。
三方原脳病院から東京武蔵野病院へ異動する間の1年間(くらい?)、渡邊はどこでなにをしていたのか、これも調べきれていない。
今泉山静養所の精神病院設立の仕事に忙殺されていたのだろうか。

というわけで、鎌倉・称名寺訪問は念願だったが、その機会が訪れた。
2014年6月26日に、パシフィコ横浜で開かれた日本精神神経学会のシンポジウムで登壇することになった。
そこで、ついでに鎌倉に行こうと思い立ったのである。
そのシンポジウムのコーディネーターだった金川英雄先生は、翌日(6月27日)の同学会で称名寺の演題を発表されたのだが、私は聞けなかったのでその内容はわからない。
もしかして、上で書いたことと重複しているかもしれない。

ともかく、6月28日、大船駅からバスで称名寺に向かった。
「今泉不動」という停留所で降りて、徒歩数分で称名寺に着いた。



ちょうど、寺では法事が行われているようだった。
関係者のお話を伺えればよかったが、仕方がない。
境内を歩きまわって、滝のあたりで写真をとりまくる。



下の写真は、上で述べた「日本精神医学風土記 神奈川県」からとったものである。
かつての今泉山静養所における滝治療の様子(年代不詳)で、私の写真とほぼ同じ位置でとられたと思われる。
ただ、ひとつ気になることがある。
二つの写真を比べると、滝の背後にみえる地層の傾きがかなり違う(ような気がする)。
滝の流れ方からして、少し違う角度から写しているんだろうが。
過去数十年のあいだに地殻変動でもあったのだろうか・・・


(出典:石川罅崙本精神医学風土記 神奈川県」『臨床精神医学』14(12): 1867-1878, 1985)

| プチ調査 | 10:36 | comments(0) | - | pookmark |
尾道の古寺めぐりと精神医療史

このところ世間では、「何とか細胞」の存在の有無をめぐって騒がしい。
その手の実験には、何億円(何十億円、何百億円?)も研究費が投入されているらしい。
それに比べたら、当方の研究費など、電子顕微鏡でも確認があやしい塵のようなものである。
その、なけなしの2万円余りの今年度執行残をすべて(!)投入し、尾道へプチ調査に出かけた。

名古屋から「のぞみ」で福山、福山から山陽本線で尾道まで。
尾道は初めてだ。
瀬戸内海に面した坂の多いレトロな街、というイメージくらいしかなかった。

私の精神医療史の情報源は、だいたいいつも同じである。
今回も、以前の木野山神社調査と同じく、内務省の『精神病者収容施設調』(昭和4年7月末日現在)である。
その「精神病者ヲ主トシテ収容スル神社・寺院・瀑布・温泉其他保養所」の広島県の欄に、「尾道市十四日町」(現在は住居表示が変更されている)の「妙宣寺」が出ている。
精神病者の「収容定員」は、「五」とある。
日蓮宗のお寺である。

プリントしてきた地図をたよりに、尾道駅から山陽本線沿いに福山方面にむかって歩く。
観光名所の類には目もくれず、一気に妙宣寺をめざす。


(JR山陽本線沿いに歩く。)

「千光寺山ロープウェイ」の山麓駅あたりで地図を確認すると、妙宣寺は近い。
「古寺めぐり」の石造りの道標にも妙宣寺がでてきたと思うと、すぐに寺の入り口があった。


(妙宣寺)

境内に入ったが、さてどうするか…
なんとなく「格式の高さ」を感じて、いきなりインターフォンを押すのがためらわれた。
しばらく、庭をうろうろし、写真を撮りながら「戦略」を考える。
すると、離れのお堂を掃除している婦人が二人。
そのうちの一人が「今日はお祭りで」と話しかけてきた。
これ幸いと、「寺の昔のことを知っている人はいませんか」と切り出す。
結局、その人からはじまって、二、三人を経由して、この寺の直接の関係者に話を伺うことになった。

かつては、精神病者が(おそらく家族を伴って)治療のために寺に「お籠り」していたということである。
精神病者の滞在は戦後もしばらく続いており、戦後の一時期は、戦争引揚者にも部屋を提供していたという。
患者の多くは、日蓮宗信者の人づてで広島県下から集まってきたらしい。
家族は患者を精神病院に入れるよりも、寺に預けることを望んだようである。

(ちなみに、妙宣寺とはまったく無関係だが、広島精神衛生協会編『広島県精神衛生鑑定報告』昭和26年7月には、興味のある鑑定例として、「発病当時家族は気が変な様だと思ったが精神病院へ入れるのは可愛相だと近所の寺に預けた処…」という記述がある。当時の精神病院と寺との関係が伝わってくる。)

この寺の開基は14世紀の半ばと言われるが、患者を盛んに預かりはじめたのは恐らく近代以降ではないかと推察する。
確たる根拠はないが、日蓮宗寺院における精神病治療については、明治20年頃から精神病者の参籠が増えだしたという千葉県の原木山妙行寺、明治33年から精神病者の収容を始めたという東京・芝の長久寺、明治39年に山梨県・身延の大善坊に設立された身延山功徳会、などを思い浮かべるからである。

尾道の「古寺めぐり」は多くの寺院(神社もある)で構成されているが、日蓮宗は妙宣寺くらいのようである。
しかも、それ以外の寺院における精神病治療の形跡は(少なくとも文献上は)ない。
以前このブログで、精神病の二大治療法(つまり滝か、修法・加持祈祷か)に宗派の違いはあまり関係がないのでは、と書いた。

しかし、病気治療に対する「意気込み」は、宗派によって異なりそうだ。
こと日蓮宗については、病気治療に積極的に関わろうというポリシーが見える。
そのポリシーに沿って、各地の日蓮宗寺院は精神病者の治療を少なからず引き受けていたと言えるかもしれない。
その背景として信者獲得という戦略も考えられるが、今後の研究課題として提起するにとどめたい。

さて、調査の話はこれまで。
妙宣寺を後にして、せっかく尾道に来たのだから「古寺めぐり」をすることにした。
下の地図にあるように、「古寺めぐり」のルートはよく整備されている。


(「古寺めぐり」地図の一部)


(天寧寺附近から向島を望む。尾道は猫の撮影スポットらしい。)

| プチ調査 | 15:42 | comments(0) | - | pookmark |
ぼっけえ、きょうてえ岡山県の精神医療史―木野山神社調査

「虎将軍に勝つのは狼さん、か。一ぺん役場で木野山神社まで詣るかのう」
「しゃあけど木野山神社は上房郡だか川上郡だかじゃで。そねぇな遠くまで行くんか」
 虎列刺の別名が虎将軍で、高梁の木野山神社が使い神を狼としているのは弘三も知っていたが、その後に彼らが妙な笑いとともに口にした女の名前は知らなかった。

   岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店、1999年)所収の「密告函」より

いきなり小説の引用からはじまった。
著者の岩井志麻子は岡山県出身で、短編「ぼっけえ、きょうてえ」(「とても、怖い」を意味する岡山の方言)で第6回日本ホラー小説大賞を受賞している。
この小説を含む同名の短編集『ぼっけえ、きょうてえ』に収められた「密告函」の一節に、上記のごとく木野山神社が登場し、それが今回のブログの舞台なのである。

木野山神社とは何なのか。
まずは、神社(奥宮)境内に設置された看板をご覧あれ。


(2014年2月28日、橋本撮影)

ここで注目したいのが、効能として病気平癒、「特に流行病、精神病」という記述である。

さて、私が最初にこの神社の名前を知ったのは、内務省衛生局『精神病者収容施設調』(昭和4年7月末現在)である。
この中の「精神病者ヲ主トシテ収容スル神社・寺院・瀑布・温泉其他保養所」というカテゴリーの、岡山県のところに「上房郡津川村 木野山神社」が掲載されている。

ちなみに、私も編者の一人として関わっている『精神障害者問題資料集成 戦前編』(六花出版、2011年)の第8巻には、内務省/厚生省が大正・昭和期に行った7つの『精神病者収容施設調』が復刻されている。
だが、木野山神社を挙げている「昭和4年7月末現在」のものが、なぜか欠落してしまっている。
これ以外の『精神病者収容施設調』には、この神社は載っていないのである。

ネットで調べた限りでは、精神病治療に関係があるらしいことはわかったが、精神医療史的には全く未踏の神社と言ってよい。
今年の研究費はまだ少しあり、しかも会計年度末も近い。
岡山県の精神医療史は、自分にとってはまだ手薄感ある。
そんなわけで、とるものもとりあえず岡山へ。

JR伯備線の木野山駅から歩いて数分で、木野山神社に到着。
下の写真は木野山のふもとにある木野山神社の「里宮」である。
山頂には「奥宮」がある。
大正時代の伯備線の開通にともなって「里宮」がつくられ、その後は「里宮」がメインになったようだ。


(木野山神社の参道)

その「奥宮」が気になったので、「里宮」の脇から山頂に通じる山道を歩く。
2kmあまりの行程のようだから大したこともなかろう、と最初は余裕だった。


(木野山神社の「奥宮」へ向かう道)

ところが、これが、そう楽でもない。
結構苦しくなったところで、前方を歩く集団が。
幼稚園の先生と園児の散歩らしい。
軽々と山を登る子供らには負けられないと、気持ちだけは立て直す。
園児は途中までで引き返すようで、
「どうして山を歩いているんですか?」という園児の質問を浴びながら、
私一人山頂をめざす。


(だいぶ標高も上がってきたが、「奥宮」はまだまだ)

下の方から聞こえていた「ヤッホー」「ヤッホー」という園児の絶叫も途絶え、
なおも、歩いて、歩いて、汗だくになり、山頂の「奥宮」に到着。
社殿以外に更地が多いが、かつては建物があったに違いない。

境内には狼の像が何体もあった。
岡山に限らず、精神病治療と狼信仰とは深い関係にある。


(「奥宮」では狼の像が向かい合っていた)

少し休んで、下山する。
もう一度、木野山神社の「里宮」に行き、宮司さんからお話を伺った。
明治初年にこの地方でコレラが流行し、それをまぬがれんとする参拝者であふれた、というのが病気平癒に効能ありとされた由来らしい。
加えて、狼を祀っていることも関係がある。
冒頭の『ぼっけえ、きょうてえ』は宮司さんのお勧めなのだが、コレラを象徴する虎を退治するのは狼であった。
精神病についても、狼は重要である。
狐憑きの「狐」の「大敵」が狼なのである。
狐憑きの発祥は山陰地方と言われている。
木野山神社は地理的に「裏日本」と直結している。
かつては「奥宮」の参籠所に多くの精神病患者が宿泊し、加持祈祷が行われていたという。

| プチ調査 | 15:59 | comments(0) | - | pookmark |
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