近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
台湾高雄見聞録 その4

今回は、龍發堂を訪れた際にもらった資料のなかから、その一部の内容を紹介したい。

閉鎖に追い込まれた精神障害者の入所施設について、龍發堂としての見解が示されている。

日本語に訳されている部分もある。

これは日本人研究者が来るということで、急遽書き加えられたものなのだろうか。

おそらくネット上の自動翻訳機能が使われたためか、日本語として違和感のある表現が散見されるものの、言わんとするところはほぼ了解できる。

 

(『龍發堂モデルー慢性精神疾患患者の治療及びリハビリ』と題された資料と龍發堂のパンフレットの各表紙)

 

上の写真にある『龍發堂モデルー慢性精神疾患患者の治療及びリハビリ』という冊子がいつ作られたかは不明だが、記述内容から少なくとも2014年以降であることは間違いない。

この冊子は、「壱、龍發堂の創建及び発展過程」「貮、龍發堂のリハビリ管理モデル」「参、龍發堂モデルの三つのメリット」「肆、永遠の龍發堂」「伍、龍發堂の永遠的な存在−上開下豊法師」、という5つから構成されている。

このなかから、「壱、龍發堂の創建及び発展過程」に書かれた日本語のテキストの一部をそのまま紹介したい。

 

1970年、偶然の機縁で、ある婦人から法師を弟子入りする息子がいた。住所を訪ねたところ、精神疾患の患者だった。「長期に渡って、土の部屋の中にロックされ、生活している。しかも、患者の生活習慣が悪くて、全身汚れだった」

当時、法師は彼を同情するので、連れて帰った。自ら彼をシャワーし着かえた。さらに、一緒に生活し、ダブル患者をケアし、世話する。

彼のお母さん 、この人には放火の行為がある 。当時の龍發堂は、草の家だったので、管理しやすくするために、法師は細いストローロープを用意した。そのロープで二人を繋がり、「感情のチェーン」と名付けた。当初、この方は非常に極端的で暴力も振るった。法師はあきらめずに、彼のために世渡りのすべを教えた。後日、この患者は少しずつ合わせるようになった。異常な行為がなかった。そして、法師はお互いに繋がる細いロープを解けて、自由に行動させる。また、彼に「力の及ぶ限り」の仕事を教えた。そのため、患者と法師の関係はますます深くなる。しかも、心の奥から人に愛された温かみと人としての尊厳を体験できた。

その後、家族たちがお見舞いに来たら、すっかり別人のように変化した。家族のみんなは、とても驚いたし、非常に感謝でした。たくさんの賞賛を与えた。

またその後、法師の弟子入りの人が多くなって、みずから患者を世話する弟子も出てきた。しかも、養殖の場所及び縫製工場を建てるようになった。このようにして、龍發堂はより精神的に弱い人たちを世話するようになった。患者の生活に基本的な保障があるようになった。

 

ということである(よくわからない日本語もあるだろう)。

龍發堂の「誕生秘話」ということだろうか。

患者を鎖で拘束することについては、龍發堂的には歴史的な意味づけがされているらしい。

また、当初から「法師と弟子」という関係が重視されてきたようだ。

 

他方、「貮、龍發堂のリハビリ管理モデル」では、「私たち50年間に蓄積された経験に基づいて、龍發堂のユニークで効果的なリハビリ管理モデルを形成」したとして、「開放管理、患者を自由に活動させる」「愛と指導に焦点を当てる」「ソーシャルの機能を重視」の3つの柱を建てている。

 

最後に「伍、龍發堂の永遠的な存在−上開下豊法師」のところで、「法師は涅槃に入ったにもかかわらず、精神疾患の患者を世話する使命は龍發堂全体の天職である。この使命は永遠に続く」などと書かれている。

 

下の写真は別の資料である。

『龍發堂の存在』と題されたこの冊子は、パワーポイント・ファイルにもとづいて作成されている。

確かどこかの会議で発表した際のものと教えられたが、会議の名称は思い出せない。

全体的に政治色が強い内容だ。

「衛生局の名ばかりの防疫は実は龍發堂を消すため?」の「防疫」とは、収容施設が閉鎖に追い込まれる直接の原因となったという、入所者の間で蔓延した「赤痢アメーバ症」に関わることである。

冊子では、当局の「防疫」が政治的な理由で行われたのではないかという疑義を提示している。

 

(『龍發堂の存在』の表紙)

 

冊子を開くと、しばらくは当局への不満が表明され、続いて龍發堂の歴史と龍發堂の存在意義が説明されている。

そのひとつが、以下の「龍發堂安置理由」と書かれたページである。

つまり、なぜ人は患者を龍發堂に預けるのかといえば、「台湾の各コミュニティ」では、「■一般人は精神障害者を怖がっている ■家族の方は負担できない ■政府は対応できない」からと(日本語でも)説明されている。

完璧な精神保健医療福祉サービス(などというものは、そもそも幻想だろう)が、少なくとも過去50年の台湾では望めなかった状況があり、龍發堂もひとつの選択だという主張があったとしても、それをを頭から否定できないところに、「龍發堂安置理由」を述べうる余地があるのかもしれない。

 

(『龍發堂の存在』)

 

これらの資料が興味深いのは、龍發堂が自らを宗教的な施設と位置づけながらも、世界標準となっている精神障害者への支援理論にはある程度融和的な態度を示している一方、2018年の行政による強制的な施設閉鎖に対しては、徹底的に異議を唱え、政治的な不当な圧力があったと主張している点である。

| プチ調査 | 22:23 | comments(0) | - | pookmark |
台湾高雄見聞録 その3

前回の記事に書いたように、龍發堂の敷地内にある7階建ての精神障害者収容施設は違法建築であり、精神障害者を鎖で拘束しているといった処遇の問題が批判がされ続けてきたのだが、なかなか事態は改善しなかった。

背景には、台湾内部の政治状況があるようだった。

このあたり事情を、前回も紹介した文先生のニューヨークの学会でのポスター・セッション のテキストは、次のように説明している。

 

「対立する政党間の政治的な争いが、合法化の過程に関わっていた。合法化は2018年2月まで引き延ばされ、この時に龍發堂の患者は7階建ての施設から退去した。」

 

ここで言う「合法化(legalization)」とは、龍發堂の収容施設を1990年に制定された精神保健法で取り締まること、具体的には違法な収容を停止させ、施設を廃止させることである。

この精神保健法について龍發堂側は、収容施設に制裁を加えるために周到に作られたのだと批判している。

しかし、このような批判とは別の次元、つまり合法化の作業が「対立する政党間の政治的な争い(Political struggles between opposite parties)」によって、進まなかったということがポイントとなる。

それは外交および内政問題で対立し、両党の力が拮抗するという台湾的な状況で生じているものだろう。

つまり、行政を主導する与党が、収容施設を違法であるとしてその合法化を強力に進めようとすると、その施設の存続を主張する人々が支持する野党勢力からの反発を生むという構図があり、ひいては人々の次期の選挙行動に影響を及ぼす懸念がある。

精神保健法の実施が徹底されなかったとすれば、その理由のひとつがまさに「対立する政党間の政治的な争い」にあるようだ。

文先生のレクチャーで気づかされたのは、龍發堂のスキャンダルは、単に精神障害者の人権問題といったものに帰着できないということである。

そこには、ややこしい政治的な事情が絡んでいる。

 

さて、そもそも龍發堂見学の打診はスムーズにはいかなかった。

2018年2月に収容施設は行政命令で閉鎖されたばかりなので、部外者に対する警戒感は相当あるだろう。

台湾の人を介して、何度も連絡をしてもらったが、連絡がつかない。

だが、日本から台湾に行く直前になって見学話が急展開し、訪問はOKになったのである。

私のような人物は、台湾内部の利害関係とは無関係の、本当の部外者だからなのだろうか。

 

高雄市郊外にある龍發堂に行く前に、本日の案内をしてくれるJさんを訪ねて市内中心部のとあるマンションへ。

エレベーターで指定された上層階まで昇る。

そこは会社の事務所のようだった。

軽く龍發堂のレクチャーがあった。

いったんは龍發堂から退去し、精神病院などに移った患者のうちの一部は、ふたたび龍發堂に戻っているとのことだった。

10分くらい話を聞いてから、用意してくれた車で現地へ向う。

 

同じ高雄市内とはいえ、目的地までは結構距離があり、車で50分くらいは走っただろうか。

工場、住宅、畑が点在する、これといって何ら特徴を見出すことができない、台湾の都市郊外のごく普通の風景のなかから、写真で見たことがある龍發堂の建物が突如姿を現した、という感じである。

 

(龍發堂の駐車場で。)

 

車を降りると、太鼓と音と拍手で迎えられた。

寺の僧侶や入所者と思われる人たち、総勢30人くらいの人たちからの歓迎セレモニーである。

予期せぬ展開に、こちらとしては、かなりうろたえた。

 

(龍發堂のカラフルな「本堂」正面。)

 

本堂(と言ってよいかわからないが)を入ると、どこからともなく線香が回ってきて、すでに亡くなっている開祖へのお参りとなった。

こちらの所作に、皆が注目しているので、やりにくい。

その後、本堂の一角にあるガラス張りの部屋に通された。

部屋には十数人の龍發堂のサポーターがすでに控えており、名刺交換がはじまった。

やがて、案内人のJさんから、龍發堂のレクチャーが行われた。

かなりの勢いとスピードがある話で、通訳が追いつかない感じだったので要点だけになるが、強調されていたのは、龍發堂はいまでも必要とされていること、龍發堂での生活に入所者はとても満足しているということである。

どうしても聞いておきたいことがあった。

2018年に収容施設が閉鎖に追い込まれたことについて、龍發堂側としてはどう思っているのだろうか。

それを質問をしたところ、閉鎖は不当であるとのことだった。

 

話が一段落したところで、施設を案内してもらうことになった。

レクチャーが行われたガラス張りの部屋を見回すと、開祖の写真やさまざまな置物、キャラクター・グッズなどがところ狭しと並んでいた。

 

(レクチャーが行われた部屋のなかで。)

 

現在は使われていない7階建ての旧収容施設も見学した。

 

(7階建ての旧収容施設)

 

1階は食堂スペースだった。

何もなく、ガラ〜ンとしていた。

急階段で2階に上がると、鉄格子で囲まれた広いベッド・ルームがあった。

 

(建物の2階部分。どうしても、鉄格子が気になる。)

 

下の写真は共同の水道スペースにある歯磨き置き場。

あちこちに入所者の生活の跡が感じられる。

 

 

7階建ての旧収容施設から外に出ると、「カラオケ大会」がはじまっていた。

これは、見学者を意識して行われているのだろうし、上述した「龍發堂での生活に入所者はとても満足している」ことを見てもらいたいということだろう。

実際、写真撮影を躊躇していたところ、むしろこの場面を撮って、多くの人たちに知らせてほしいと言われた。

 

(「カラオケ大会」では、日本人歌手の歌が中心だった。)

 

昼になったので、龍發堂のサポーターらとともに、近くの食堂でご飯を食べることになった。

地元の人が行く店はやはりおいしい。

カエル料理もはじめて食べた。

帰りは高速鉄道の台南駅まで車で送ってもらった。

謝謝。

 

(車の座席横に鎮座する開祖ゆかりの服を入れたリュック。龍發堂の現在の「総監」は、開祖の服をもって移動するのが常だという。)

 

実は龍發堂見学のときに、ある地元新聞社の記者が同行し、記事を書くつもりのようだった。

後日、高雄で通訳をしてもらった人が、記事になったものを送ってくれた。

内容の詳細はわからないが、要するにわたしが龍發堂を持ち上げるような発言をしたことになっているらしい。

龍發堂の現在について、批判する発言もしていないし、擁護する発言もしていない。

迷惑な話である。

 

(つづき、があるかもしれない。)

| プチ調査 | 13:28 | comments(0) | - | pookmark |
台湾高雄見聞録 その2

「台湾高雄見聞録 その1」を書いてから、ずいぶん時間が経ってしまった。

前回は、高雄市内で精神科クリニックを開業している文榮光氏(以下、文先生と呼ぶ)を訪ねて、これから龍發堂に関するレクチャーを受ける、というところまでだった。

その続きから。

 

文先生のクリニックの訪問は、診療が終る午後1時の約束だった。

昼ごはんを食べながら話をしましょう、ご馳走します、ということで、事前にイタリア料理のメニューがメールで送られてきていた。

各種パスタ、各種リゾットなどなど、、、たくさんあって決めがたい。

迷いに迷ったあげく、メインをサーモンのリゾットでお願いした。

クリニックのすぐ隣がイタリアン・レストランで、そこから出前してもらうという仕組みだった。

 

クリニックの2階の部屋にはスクリーンが用意してあって、文先生はパワポで説明をはじめた。

聴衆は、私のほかに、高雄調査での通訳をお願いしている台湾人学生、それに文先生のアシスタントである。

ゆったりとした雰囲気のなか、3時間半以上はお話を伺った。

ほぼ英語による説明である(文先生は、ハーバード大学の人類学者クラインマン  [Arthur Kleinman] のもとで研究されたこともある)。

最後のほうでは、お疲れになったのか中国語の部分もあったので、そこは通訳の学生に日本語に訳してもらった。

 

文先生はわざわざ資料を用意してくれていた。

それは、昨年(2018年)ニューヨークで開かれた国際会議(5th World Congress of Cultural Psychiatry)のポスター・セッションで発表したものがベースになっている。

タイトルは、"The Hall of Dragon Metamorphoses Tragedy: Life and Death in An indigenous Mental Asylum in Taiwan 1983-2018" である(The Hall of Dragon Metamorphoses は、龍發堂のことである)。

前回のブログで言及した、文先生の論文" The Hall of Dragon Metamorphoses: A Unique, Indigenous Asylum for Chronic Mental Patients in Taiwan" は1990年に発表されたものなので、今回の資料は龍發堂のその後、2018年までをカバーしているわけだ。

 

写真の説明

上左:文先生にご馳走になったリゾット。

上右:文先生のクリニックでの約束時間前に、近くのファミリー・マートで休憩。

下左:文先生が用意してくれた龍發堂や台湾の精神医療に関する資料。

下右:クリニックでのレクチャーのあと、みんなで市内の中心部へ行った。

 

そもそも龍發堂は、次のようにはじまったという。

いまから40年以上前のこと、1970年代はじめに、ひとりで修行していた僧(Mr. L. 、1930年生 - 2004年没、ニックネームが "龍")のところに、ある女性が精神病の息子を連れてきた。

Mr. L. は、請われて彼を預かることになった。

だが、放火の危険があったので、その患者を紐でしばって拘束することになった。

そのころは、とても粗末な小屋で患者と一緒に暮らしていたらしい。

ところが、首尾よく患者をおとなしくさせることができ、その成功体験に自信を深めたのか、次々に精神病の患者を預かるようになったようだ。

 

1980年、高雄郊外に建てられた初期の龍發堂は仏教や道教の寺院というよりは、ニワトリ小屋のように見え、しかも違法建造物だった。

Mr. L は龍發堂の開祖として信者にとっては絶大なるカリスマ的存在になっていたが、1984年に詐欺事件に絡んで逮捕・投獄された。

6ヵ月後、出所する当日には、何百人という信者が歓迎のために刑務所の入口に詰めかけたという。

1987年には、患者を収容するために作られた7階建てのビルが違法だとして、地方政府(高雄市か)が現地調査に踏み切る。

しかし、ビルを取り囲んで集まる収容患者の集団に阻止されて、調査はできなかった。

 

1990年代には、収容患者は800人以上に達する(このあたりが、患者数のピーク)。

龍發堂の僧侶たちは、「治療」の目的で鉄の鎖(「慈悲の鎖」と呼ばれていた)を使って患者を拘束していた。

この患者の拘束は国際的にも知られることになる。

1998年に台湾出身の写真家・張乾(Chien-Chi Chang)が Magnum Photos で発表した一連の写真の影響が大きい(webで検索すれば、簡単に見られる)。

2000年6月2日の NEWSWEEK にも "Escape to Freedom" という記事で、龍發堂の患者拘束が写真入で紹介されている。

 

2017年以降、龍發堂の収容施設内での感染症の蔓延が明るみにされ、徐々に患者は精神病院などに移されていく。

2018年8月の時点では、感染しておらず病状が深刻でない39人の患者が龍發堂に残ることを主張し、そのほかの464人の患者は公立・私立の精神医療施設に移送されたという。

 

以上が、文先生の資料をもとにまとめた、龍發堂の簡単な歴史である。

 

(文先生のクリニックでの話は、つづく。)

| プチ調査 | 15:19 | comments(0) | - | pookmark |
台湾高雄見聞録 その1

龍發堂という台湾のお寺の名前を聞いたことがあるだろうか。

その名前を聞いたのは、ドキュメンタリー映画『夜明け前―呉秀三と無名の精神障害者の100年』でお世話になった監督の今井友樹氏からである。

2019年5月に台南芸術大学でこの映画の英語字幕版を上映した際に、龍發堂のことが話題になったという。

そのお寺には精神障害者の収容施設があったが、入所者の処遇が劣悪であるとの批判にさらされ、昨年閉鎖に追い込まれたらしい。

今井氏はそのことを私にメールで知らせてくれた。

実をいえば、それ以前にもこのお寺の噂を何人かの研究者から聞いてはいたが、寺の名前を確かめることもなく、そのままになっていた。

しかし、今回はいろいろな人とのさまざまなやりとりがあって、9月上旬に台湾の高雄にある龍發堂を訪れることになった。

 

名古屋から高雄への直行便はなく、まずは台北で1泊することにした。

この日はかなり激しく雨が降っていた。

 

(台北市内のMRT西門駅近くのホテルの部屋から)

 

翌朝、簡単な調べものがあったので、まずは台北市の東部にある中央研究院へ。

その仕事を1時間程度で終えて、中央研究院から比較的近い台湾高速鉄道(いわゆる台湾新幹線)の北の始発駅である南港駅から列車に乗り、台湾南部の終点・左営駅に向う。

左営駅は、MRT(地下鉄)で高雄駅に接続している。

 

(台湾高速鉄道の南港駅。ここから終点の左営駅に向う。)

 

いくつかの駅を通過するタイプの列車だったので、南港駅から2時間弱で左営駅に着いた。

とても近い感じがした。

乗り心地は日本の新幹線とほぼ同じ。

 

(高雄駅の昔の駅舎。歴史的な建造物として保存しているらしい。)

 

実は龍發堂に行くまえに、その事情に詳しい精神科医の文榮光氏のレクチャーを受けることになっていた。

氏は1980年代にこのお寺で、文化精神医学的な視点からフィールドワークを行っている。

その成果は以下の論文にまとめられた。

Jung-Kwang Wen: The Hall of Dragon Metamorphoses: A Unique, Indigenous Asylum for Chronic Mental Patients in Taiwan. Culture, Medicine and Psychiatry 14: 1-19 (1990).

 

高雄に到着した翌日、市内の精神科クリニックに文氏を訪ねた。

 

(文榮光氏の精神科クリニック「文心診所」)

 

(つづく)

| プチ調査 | 16:55 | comments(0) | - | pookmark |
インドネシア「爪哇バイテンツオルグ癲狂院」への旅

1897年8月8日、東京帝国大学の呉秀三は精神病学を学ぶべく、欧州留学にむけて横浜から出航した。

上海、香港、サイゴン(ホーチミン)、シンガポールを経て、同年8月27日に爪哇(ジャワ)島のバタヴィア(ジャカルタ)に到着。

そして、同29日、バタヴィア近郊の“バイテンツオルグ癲狂院”を訪れている。

 

バイテンツオルグ癲狂院とは、オランダが1882年に設立した Krankzinnigengesticht Buitenzorg のことである。

この精神病院の設立を含めたオランダ支配下のインドネシアの精神医療史は、Nathan Porath: The naturalization of psychiatry in Indonesia and its interaction with indigenous therapeutics. Bijdragen tot de Taal, Land- en Volkenkunde (BKI) 164-4 (2008): 500-528 などに詳しく書かれている。

 

航海途上、呉秀三はこの時の病院見学を伝える手紙を日本に送った。
送り先は、いわば呉の留守を守る形で、東大精神病学講座の教授を兼ねていた法医学教授・片山國嘉である。

その手紙には、開放的で広大な敷地をもつ病院の様子や、患者が実施しているさまざまな作業(療法)などが紹介され、「此の如き病院は、まだ見ぬ事ながら西洋にも少なかるへしと存しられ候」とある(呉秀三「爪哇バイテンツオルグ癲狂院概況」『国家医学会雑誌』第127号、524頁、1897年)。

彼自身、西洋の病院はいまだ見たことがないものの、これほどのものはないだろうと絶賛しているわけである。

 

Buitenzorg はオランダ語の旧称で、いまは Bogor(ボゴール)。

ボゴールの病院は、その後どうなったのか?

 

言及すべきは、ドイツの精神医学の泰斗クレペリン(Emil Kraepelin)が、比較精神医学(Vergleichende Psychiatrie)研究のために、20世紀初頭にこの病院を訪れ、1904年にその研究成果を論文として発表したことだろう。

クレペリン論文によれば、「これまでの比較精神医学的な研究のほとんどすべてが、同一民族内での集団に限られていた(…)それゆえ、私はジャワのバイテンツオルグ癲狂院(Irrenanstalt Buitenzorg)でみずからそのような [比較精神医学的な] 研究を行うことにした」(*) のだという。

 

 (*)原文 [Bisher haben sich fast alle vergleichend psychiatrischen Untersuchungen auf die Gruppenbildung innerhalb desselben Volkes beschränkt. (...) Ich habe mich daher entschlossen, selbt eine derartige Untersuchung in der Irrenanstalt Buitenzorg auf Java durchzuführen (...)] aus Emil Kraepelin: Vergleichende Psychiatrie. Centralblatt für Nervenheilkunde und Psychiatrie, 27 (1904): 433-437.

 

精神科医の中井久夫もこの病院を訪れたようで、そのときの様子を以下に引用したい。

なお、訪問の時期は1980年前後と思われ、「国立ボゴール精神病院(R.S.J.= Rumah Sakit Jiwa Bogor)」として紹介している。

 

500床余の病院で、1880年代にオランダが創立したままを正確に修復しつづけて、19世紀後半の西欧パヴィヨン式病院のあとをとどめている。京大精神科病棟も同じであるが、敷地ははるかに広大であり、8割は開放であった。1日3回水浴する清潔好きの民族のけば立つほど洗ったシーツはくたびれていても白く、患者は七輪のようなものでトリ料理を煮ていた。(…)院長は日本の精神病院医のあるタイプに近く、シャツにサンダルばきで、遠くから患者が「おーい先生」と呼ぶと手を挙げて「やーあ、何とかかんとか」と答えている。この情景は欧米から遠い治療文化だ。(…)患者は門を出たり入ったりしていて(この市は山中でなく、ジャカルタから来るこの国唯一の国電(日本製)の終点である)、私に「何人(なにじん)」と聞き「日本人(オラン・ジュパング)」と答えると大きく納得の身ぶりをした。

(出典:中井久夫「概説―文化精神医学と治療文化論―」『精神の科学 8 治療と文化』岩波書店、1983年)

 

だいぶ前置きが長くなってしまった。

このようにボゴールの「名所」にまつわる文献はいくつかあるのだが、ここを訪れる機会など、あろうはずもない…と思っていた。

ところが、ジャカルタで某学会が開かれるという情報があった。

学会のついでに、ボゴールまで足をのばせるかもしれない。

 

(ジャカルタ市内をバジャイで移動中。)

 

その学会とは、2018年6月27〜30日の日程でインドネシア国立図書館を会場として開かれた第9回アジア医学史学会(東南アジア医学史学会との合同学会)である。

知り合いの日本人研究者2人に声をかけて、“Medicine and Diversity in Modern Japan”というパネルを組んだ。

6月28日の午後に発表があり、翌29日にその2人を誘ってボゴールに行くことになった。

だが、準備不足は否めないどころか、無謀な小旅行である。

前日までボゴール行きを迷っていたので、病院の正式名称や場所があいまいなままだったし、そもそも、まったくのアポなしで現地に突撃しようというのだから。

 

朝8時半過ぎ、ジャカルタ中心部のゴンダンディア(Gondangdia)駅からボゴール行きの電車に乗った。

上記の中井久夫が訪問した時期から30数年以上は経過しているが、当時と同じようにこの路線では日本製の電車が使用されていた(下の写真参照)。

つり革、ドア、窓、座席を見ながら、東京近郊あたりを走る車内にいるかのような錯覚におちいった。

(ちなみに、呉秀三は「バタヴィアを午後四時発汽車にて出発し一時間許にして当地に着」と記載している。当時から鉄道はあったようだ。もちろん、列車は日本製ではなかっただろうが。)

 

(ジャカルタ中心部から近郊のボゴールへ向かう車内で日本を感じる。)

 

終点のボゴール駅から、頼りない地図を頼りに、かつてのバイテンツオルグ癲狂院をめざして歩き出す。

さすがに日差しが強く、帽子とサングラスで防御。

途中、地元の市場の近くを通る。

大量のバナナをトラックから下ろす作業をしている。

面白い光景なのでカメラを向けたら、それに反応してくれた(下の写真)。

 

(バナナの荷おろし作業)

 

洪水のように迫ってくる車やバイクの隙間をぬい、ほとんど命がけで道を横断すること何度か。

なんとか、病院までたどり着くことができた。

現在の病院名称は、Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のようだ。

"rumah sakit" はインドネシア語で病院の意味。

上記の中井久夫の記述にある Rumah Sakit Jiwa Bogor の "jiwa" は、「魂」とか「精神」の意味らしいので、かつては「ボゴール精神病院」と称していたのだろう。

 

(Rumah Sakit dr. H. Marzoeki Mahdi Bogor のゲート)

 

病院構内への出入りは自由だったので、ともかく病棟らしき建物を外側からでも見学することにした。

敷地をうろついているわれわれを不審に思ったのか、病院の職員と思われる人から声をかけられた。

とっさに、上記の Nathan Porath の論文に掲載されている、1885年ころに撮影された2枚の病棟写真を見せて、「この建物はどこにありますか?」と聞いた。

少し考えてから、1つは残っているということで、その建物まで案内してくれた。

 

(各病棟はこのような廊下でつながっている。病棟は平屋建てが基本。)

 

案内された建物(下の写真)は、創立当初から使われているもので、Nathan Porath の論文の写真では「おとなしい現地人患者のための病棟(ward for peaceful indigenous patients [inlanders])」と説明されている(ちなみに、論文のもうひとつの写真は、「ヨーロッパ人患者のための病棟」で、いまは当時の形では残っていない)。

 

(創設時から残る建物。かつては現地人患者の病棟として使われたようだ。)

 

この建物は、現在は男性患者用の40人定員の病棟である。

急性期の病棟は別にあるので、ここは退院に向けての準備をする病棟という位置づけだろう。

ナースステーションに通されて、われわれの病院見学の意図などについて質問されたが、英語でのコミュニケーションがかなり難しい。

すれ違いの会話がしばらく続いた。

やがて、英語ができる看護スタッフが来て、各病棟を案内してくれることになった。

 

すると、患者たちが病棟に集団で入ってきた。

別の建物で行われていた治療プログラムが終ったようで、病室にもどってきたのである。

患者の病室はナースステーションに隣接し、病室の入口は鉄格子の扉で、通常は鍵が掛けられている。

天井が高く、窓(格子窓)も大きく、部屋全体が明るく、風通しもいいせいか、圧迫感や閉鎖的な雰囲気はない。

そこにベッドが整然と並んでいる。

ほかに余計なものは置かれていない。

病室に戻った患者たちは鉄格子越しに、あれこれこちらに親しげに話しかけてくる。

看護スタッフの話では、患者の入院期間は平均すれば1ヶ月くらいだという。

 

下の写真は、病室ではなく、リハビリ活動をするための部屋である。

病室の構造と基本的には同じといえる。

 

(リハビリ活動をするための部屋)

 

患者による絵画や粘土細工が置かれた工房のような建物や、急性期の女性病棟、そこに設置された保護室なども見学した。

最後に、もっと歴史的なことについて知りたければ病院の管理部門に案内すると言われたが、もうお昼になっていたので断った。

もし本格的に病院の歴史を調べるとすれば、下調べを徹底してから、日を改めて来訪しなければならないだろう。

それにしても、突然やってきた日本からの珍客に、十分すぎるくらいの対応をしてくれた病院スタッフに感謝である。

 

昼ごはんは病院内の食堂(下の写真)で食べた。

 

(いくつか店舗が並ぶ病院内の食堂。各店舗で提供するメニューはいろいろ。)

 

インドネシアの定番だが、無難と思われるナシゴレン(下の写真)にした。

結局、この食堂で午後2時半くらいまでねばる。

われわれが延々と話し込む様子を見てか、店の人がお茶をサービスしてくれたのはうれしい。

 

(病院内の食堂でナシゴレンを注文。美味だった。)

 

来た道をもどり、ジャカルタのゴンダンディア駅に着いたのは夕方。

その後、ショッピングモール(Grand Indonesia Mall)へ。

この中で夕飯を食べることになり、ご飯ものもあるコーヒー店に入る。

メニューの最初に出てくる Kopi Luwak がどうしても気になった。

ジャコウネコの糞から採取したコーヒー豆を焙煎したという「高級品」である。

1杯 89,000ルピア(ただし日本円では800円弱か)と、ほかの料理と比べてもかなり高値だが、せっかくなので注文することにした。

 

(店のメニューの最初に出てくる Kopi Luwak)

 

やがて、店の人がうやうやしくコーヒーカップなど一式を運んできた。

本体のコーヒーは金色の袋に入った粉末だった。

店の人が目の前でその袋をはさみでカットし、粉をカップに入れ、最後にお湯を注いでくれた。

そして「2分後に飲め」と。

コーヒーの粉末は沈殿し、その上澄みを飲むという感じになる。

これが「高級品」なのかどうか、にわかには判断できなかった。

 

(コーヒーのできあがりを待つ。)

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