近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
日治時期台北精神病學史2 中村譲と養浩堂医院

精神医学者の中村譲は、少し謎めいた人物である。

1877年に新潟県に生まれ、京都で育ったようだ。

1905年に東京帝国大学医科大学を卒業し、呉秀三が主宰する精神病学教室へ。

当時の東大精神病学教室は東京府巣鴨病院内にあったが、中村はそこで1914年まで在職していた。

この間、1909年12月末から翌1910年2月にかけて、「クレチニスム調査」のために呉秀三の台湾旅行に同行している。

1910年から1916年にかけて、呉は東大精神病学教室のスタッフを動員して、日本各地の私宅監置調査を実施したが、中村は参加していない。

 

中村は、1914年に巣鴨病院を辞したあと、東京の私立王子脳病院の院長を経て、1916年に台湾に渡る。

台湾では、台湾総督府が各地に設置していた医院(台湾では「医院」は「病院」の意味)のひとつである基隆医院の院長として1929年まで勤務、同時期に台湾総督府医学専門学校教授なども兼任した。

1925年から2年間、マールブルク(Otto Marburg)が所長をつとめるウィーン大学神経学研究所に留学した(この研究所は、マールブルクの前任者のオーバーシュタイナーの時代から、日本人留学生を多く受け入れており、呉秀三、今村新吉、三宅鑛一、齋藤茂吉なども含まれる)。

 

ところが、基隆医院を辞したあと、私財を投じて台北市内に台湾で最初となる精神病院、養浩堂医院を開院する。

終戦までこの病院を経営し、引き揚げ後は京都に住み、大阪の浜寺病院で院長として勤務したようだ。

 

(中村譲。台湾総督府医学専門学校教授時代か。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

このような経歴について、風祭元は次のように評している。

 

「東京帝國大學の卒業生が、大学で精神病學の臨床を勉強し、欧州に研究留学して帰国するというのは、明治以来、わが国で醫科大學・醫學専門学校の教授となる標準的なコースで、彼もおそらくそのつもりで留学したと思われるが、彼が帰国後に短期間で醫學専門学校教授の職を辞し、自力で民間立の精神科病院を設立した理由は、いまになっては分からない。」(風祭元「太平洋戦争終結以前の台湾の精神医学・医療」『精神医学史研究』10(1): 57-66, 2006)

 

このような経歴が、冒頭で私が「少し謎めいた人物」と書いた理由のひとつである。

しかし、謎といえば、中村譲が設立した養浩堂医院についてもよくわからないことが多い。

そこで、前回のブログ記事「日治時期台北精神病學史1」と同様に、台北の歴史に詳しいリン(林)さんの全面的な協力(資料提供や現地案内などなど)のおかげでわかったことを紹介したい。

 

そもそも、養浩堂医院はどこにあったのか?

このブログでもしばしば登場してきた菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者竝ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻、1937年)では、この病院の住所は「台北市宮前町297番地」となっている。

「戦前と現在の住居表示の対照表がどこかにあるだろうから、探すのなんて簡単、簡単」、と思われるかもしれない(と私も思っていた)。

ところが、違うのである。

正確な場所を割り出すのは大変で、その土地にまつわる歴史を追うことではじめて明るみになる性質のものという言うべきか…

リンさんのブログではじめて知ったのだが、「宮前町297番地」はもともと神学校があった場所である。

この神学校設立の源流は、カナダ長老教会の宣教師マッカイ(George Leslie Mackay)にある。

台北市の中心部にある、マッカイの名を冠した馬偕紀念醫院(Mackay Memorial Hospital)を知る人も多いだろう。

1870年代から台湾北部で布教をはじめたマッカイは、淡水を拠点にして医療活動を行い、学舎を設けて教育にも力を入れた。

彼自身は1901年に亡くなったが、その後、長老教会は1914年に台北に神学校を設置した(『詩美の郷・淡水』1930年)。

その場所が上記の「宮前町297番地」なのである。

 

(宮前町297番地にあった台北神学校。年代不詳。写真はリンさん提供。)

 

ところが、台北の神学校の経営はあまりうまくいかなかったらしい。

「生徒が十六名で到底自力では立行かず」、台南神学校に合併することになり、生徒は台南へ転校することになったという(『台湾日日新報』、1925年1月22日 )。
2年後に帰北(台湾北部にもどってきたということ)したが、校舎は台北ではなく淡水に移転した。

しかし、『詩美の郷・淡水』(1930年)によれば、1928年6月12日、私立台北神学校の名前で台湾総督府の認可を得たということなので、この時までには台北で神学校が復活したようだ。

 

ところが、である。

認可から1年たらずの1929年4月7日の『台湾日日新報』に、中村譲が1916年以来勤務していた台湾総督府立の基隆医院の院長を辞し、宮前町に私立養浩堂医院を経営することになったという記事が掲載されている。

中村は、養浩堂医院を開院するにあたって、生徒減により経営が悪化した神学校を借り受けた(あるいは購入した?)ということらしい。

建物全体を借りたのか(台北は全面閉鎖して、再び淡水に移転して神学校を続けた?)、それとも一部の建物は神学校として使われ続けていたのか、リンさんにもわからないという。

ちなみに、養浩堂医院が宮前町から引っ越したあとの1941年の『台北市学事一覧』によれば、台北神学校の住所は「宮前町297番地」となっている。

 

養浩堂医院の開院からもうすぐ1年を迎えるという1930年3月、悲劇が訪れた。
入院していた女性患者が病院に放火し、入院患者5名が焼死したのである(『漢文台湾日日新報』、1930年3月21日)。

この火事に関連して、「官設の脳病院が欲しい 養浩堂医院側の談」という見出しで、以下のような記事が書かれている。

「養浩堂医院側の談」というのは、おそらく中村自身の考えを反映したものだろう。

 

 「世間を騒がせて誠に申わけない事です、本来なら此の際やめてお詫びすべきですが失火の当時は二十六人の入院者もありその跡始末もありどうしたら宜いかと考へております 中村当院長は大正八年以来総督府へ官立精神病院の設立を陳情してをりますが未だその運びに至らず補助金も未だ頂いてゐません 台湾で此の種の長く入院を要する病院の経営は非常に困難であつて一箇月も入院してゐると当然癒るものゝ様に考へて無理に出て了ふので結果は自然よくなく随分骨が折れます 此の点から言つても官立のものが是非とも必要ではないかと考へられます」(『台湾日日新聞』、1930年3月23日)

 

つまり、火事を出してしまい、閉院してお詫びするところだが、入院を要する患者がいてそれもできない(注:この時点では台湾で唯一の精神病院)、個人病院の経営は困難で、ぜひとも官立精神病院を設立して欲しい、ということである。

この官立の精神病院は、前回のブログで紹介した1934年設立の養神院を待たねばならなかったが、一方で中村は喧騒に満ちた宮前町を離れて病院の新築移転を考えていた。

 

ここで、宮前町の養浩堂医院跡を見ておきたい。

かつての宮前町297番地に、現在はセメント会社のビル(台泥大楼)が建っている。

下のグーグルマップで赤色の印がある場所である。

MRT雙連站(雙連駅)が最寄りで、上述の馬偕紀念醫院にも近い。

 

(地図上の「台泥資訊股彬有限公司」の場所に、かつて養浩堂医院があった。)

 

下の写真が現在の様子である。

中央のビルが建っているところが、かつての宮前町297番地。

向かって右隣の敷地には、長老教会がある。

リンさんによれば、ここは台北神学校の運動場だったという。

 

(養浩堂医院跡にはセメント会社のビルが建っている。向かって右隣には長老教会がある。)

 

さて、既に述べたように、養浩堂は宮前町を離れて、台北市内の下内埔324番地に新築移転した。

廃業も考えた病院火災から7年以上が経過した、1937年11月のことである(林吉崇の著書[1997年]、およびこれを引用していると考えられる風祭元の論文[2006年]で、養浩堂医院の下内埔への移転を「昭和7年」としているのは誤りである。)

 

1937年11月4日の『台湾日日新報』には「養浩堂医院成る」と題する記事があり、「市内下内埔三二四(帝大理農学部附属農場東隣)へ敷地を求め新築中、この程落成したので中村院長は四日午後一時から(…)関係者知友を招き養浩堂医院を観覧させる由」とある。
また、病院の建物については、1937年12月1日の『台衛新報』で「棟数は六箇に分れてゐるが各棟廊下を以て連結され、そのうち四棟が病室に充てられ三十九室に分割し収容人員六十名を定員としてある、監禁室は六箇を有し鉄格子と二重扉の頑丈なものである」と報告されている。

下の写真が下内埔324番地に新築移転した養浩堂医院である。

 

(下内埔の養浩堂医院。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

かつての下内埔324番地には、現在「国立台湾大学農学院附設動物医院」が建っている。

下の地図で赤色の印がある「台大動物医院」がそれである。

高架道路をはさんで目の前が、大学の広大なキャンパス。

さらにその下の写真が、動物医院を正面から撮ったもの。

 

(かつての養浩堂医院の敷地に、台大動物医院が建っている。)

 

(台大動物医院)

 

中村譲と養浩堂医院の話はここまで。

なお、中村の経歴については、岡本重慶『忘れられた森田療法』(2015年)も参考になる。

 

以下はおまけ。

動物医院に行ったついでに、隣接する国立台湾大学のキャンパスに立ち寄った。

最寄りの門から入ると、農場が広がっていた。

しばらく歩くと、「磯永吉小屋」という歴史を感じさせる木造平屋建てがあったので、中に入ってみた。

展示の説明要員もいて、日本人とわかるや、日本語のパンフレットを手渡してくれた。

 

磯永吉(いそ えいきち)は農学者で台北帝国大学教授、「蓬莱米の父」として稲作をはじめとする台湾の農業に貢献したようだ。

1925年に建てられた「磯永吉小屋」は、旧・台北高等農林学校実習農場のなかで最も古い建物のひとつだという。

見学コースができていて、ゆかりの品々など展示されている。

 

(磯永吉、台湾蓬莱米之父)

 

台北の精神医療史の話はまだつづく。

また次回。

| フリートーク | 14:45 | comments(0) | - | pookmark |
日治時期台北精神病學史1 養神院

日本統治下の台湾でも、本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年から施行されたことが知られている。

旧外地のなかで、ふたつの法律が施行されたのは、台湾だけである。

 

その事実だけでも興味深いが、法律施行の背景と運用の実際を知りたいと考えた。

そこで、まず国内で手に入る限りの書籍や復刻資料に目を通した。

台北にも足をはこび、研究機関をたずねて台湾総督府にまつわる行政文書を大量にコピーした。

その結果、当時の台湾の精神医療状況はある程度把握できたつもり。

どうやら、日本の本土並み(本土でも決してうまく機能した制度ではなかったが)、というわけにはいかなかったようだ。

とくに台湾の貧しい地方財政が、深く影響を及ぼしていることが推察された。

これらに関わるネタで、学会で発表もしたし、論文も書いた。

しかし、まだまだ台湾でのリサーチが足りない。

全然、足りない。

 

足りないといえば、研究費も足りない。

台湾をふくむ近代日本の周縁部の精神医療史に関することで、いくつかの外部資金組織に研究費を申請したが、相手にもされない。

IoTとかAIとかiPSとか「頭文字」系の、先端を走っているような、儲かりそうな研究とは対照的に、こういうことは、要するに、瑣末なこと、どうでもいいこと、研究する価値もないことと、思われているに違いない。

それに敢えて反論はしない。

 

そういう慢性的な閉塞感にとらわれていた折、「台湾、行きません?」とテレビ・ディレクターの原さんから連絡があった。

台湾でも精神病者監護法が施行されていたことに興味をもったようだった。

彼が制作した沖縄の私宅監置に関する番組を、NHKのEテレで見た人も多いだろう。

私自身は、文献探索にはもはや限界も感じていたので、ともかく、台湾の人たちに会って、日本統治下の私宅監置や精神病者についての記憶を語ってもらうという、という方針を共有して、台湾行きを決めた。

 

大学の夏休みももう終ろうかという時期の、ごく短い日程で台北とその周辺で「ぶっつけ本番」的な調査を敢行したが、今回は「日治時期台北精神病學史」(日本統治下の台北の精神医学史)の「1」として、 養神院に関するあれこれを紹介したい。

 

養神院とは1934年に設立された台湾総督府立精神病院のことである。

日本統治下の台湾における、唯一の公立単科精神病院ということになる。

1937年に刊行された病院の『昭和九、十年度 年報』から、いくつかの情報を抜き出しておきたい。

「沿革」によれば、以前から識者は台湾における精神病問題に注目していたが、1929年に時の総督・石塚英蔵が本院の創設を決意し、台北市の東方郊外の台北州七星郡松山庄五分歩埔372番地に、収容定員100名の精神病院建設計画に着手し、1932年7月に起工、1934年10月に竣工した。

実際に患者が入院したのは、翌1935年2月1日から。

発足直後のスタッフは、院長事務取扱・高橋秀人(法学士)、医長・中脩三(医学博士・医学士、台北医学専門学校教授兼務)、医官補・分島俊(医学士)、嘱託・中村譲(医学博士・医学士)などである。

これ以上の養神院の歴史はいくつかの文献にも書かれているので、それらを参照していただきたい(とはいえ、詳細な記述はあまりないかもしれない)。

 

(艋舺のスターバックスで林さんを囲んで打ち合わせ。店内はレトロな雰囲気。1935年に建てられた「萬華林宅」を利用している。以下の文を参照。)

 

今回の調査では、調査対象に到達できずに、しばしば「これじゃ何も収穫がない…次はどうするか」と呆然とする場面が多かった。

そんなときに浮上したアイディアが、「養神院の跡地でもさがしてみるか…」である。

上記の「台北州七星郡松山庄五分歩埔372番地」の現在の住所を探せばいいのだが、これがそう簡単ではない。

私が知る限り、学術的な文献には現在の住所などは書かれていない。

が、たまたま「林小昇之米克斯拼盤」というブログに、養神院の新旧対照に関する記事があることを発見。

現在の住所も書かれている。

しかも、このブログ、養神院だけではなく、日本統治下の台北に建てられたさまざまな公的施設(とその土地)の過去と現在とを詳細に対比している。

ブログの開設者は「ただ者」ではなさそうだ。

 

台北3日目の夕食時、これは絶対に会う価値がある人だ、という話で盛り上がり、急遽連絡。

奇跡的なことだが、その翌朝、MRT龍山寺駅の近くのスタバで、そのブログの開設者の林さんに会えた。

林さんの専門は土木工学。

あくまで趣味で台北市内をめぐり、それをブログにアップしているということだった。

台北の昔の資料や地図の探し方をたっぷり聞いたあと、林さんの案内で養神院の跡地に向かった。

養神院の跡地は、MRTの永春駅からすぐだという。

 

(MRTの永春駅)

 

養神院の跡地を紹介する前に、『昭和九、十年度 年報』に掲載されている当時の敷地の図面を見ておきたい。

敷地はやや変形した台形をしている。

病院は風光明媚な場所に建てられ、周囲は田んぼだったようだ。

下の図にある「サ」の守衛室の近くが正門だろう。

 

(養神院の『昭和九、十年度 年報』より)

 

さて、下はグーグル・マップで見る、現在のMRT永春駅(図中では Yongchun Station)付近である。

中央の赤い枠で囲った部分が、かつての病院の敷地にあたる。

現在は、9棟のビルからなる住宅団地になっている。

案内役の林さんは、奇妙に斜めに曲がった道で囲まれている、この一角が気になったのだという。

これは何の痕跡なのか?

それを調べていくうちに、この場所に養神院あったという事実に行き着いた。

養神院跡の探索からはじめた我々とは、まったく逆である。

 

(かつての養神院の敷地は赤い枠で囲った部分)

 

永春駅から地上に出ると、雑然とした街並みが広がっていた(下の写真)。

かつては、一面の田んぼだったのではなかろうか。

養神院の跡地はもうすぐらしい。

 

(MRT永春駅近くの虎林街を歩く。目的地はもうすぐ。)

 

ここで再び昔の様子を確認しておきたい。

下の写真は開設当時の養神院の正門である。

すぐ向こうに本館が見える。

 

(写真は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』から)

 

上の写真とおそらく同じ位置から、だいたい同じ方向に向かって写したのが下の現在の写真である。

はるか奥の、突き当たりの建物(台北市立松山高級工農職業學校)までが、かつての敷地。

この住宅団地は1980年代に建てられた。

それまでは、ここに養神院を引き継いだ精神科の松山療養院があったという。

そのためか、かつての台北の人にとって、この付近のイメージといえば、狂気を連想させるような、あまりよくないものだったらしい。

 

(養神院の跡地は住宅団地になり、この「敷地の形」だけが当時の痕跡である。)

 

敷地の境界に沿って、住宅団地を一周することにした。

途中で住宅の配置を示した看板を見つけた(下の写真)。

ここにある「海華九福名人社區」は、かつての養神院の敷地に一致する。

「九福」とあるように、「福」の名前を冠した9つの棟がある。

 

(看板「海華九福名人社區」)

 

養神院の話はここまでにしよう。

旧跡はめぐりは、まだまだ続く。

次の記事をご覧あれ。

| フリートーク | 17:07 | comments(0) | - | pookmark |
学会ふたつ 鹿児島と藤沢

去る6月にふたつの学会に行った。

学会開催からはだいぶ時間がたってしまったが、精神医療史にかかわること(かかわらないこと)などをダラダラ書き連ねたい。

 

(徒歩で城山を登り、展望エリアから桜島をのぞむ。)

 

ひとつめは、鹿児島で行われた日本医史学会である。

学会自体は土・日の2日間だが、金曜日に役員の集まりがあり、日曜日が私の演題発表だったから、必然的に2泊3日の旅となった。

その演題は「明治初期の宗教政策と精神病者収容施設」というもの。

だが、近年この学会では「精神」関係の演者がほとんどおらず、発表中はどうも場違い感が漂っていた(という気もした)。

 

ま、それはともかく、戦前の精神病者収容施設については、これまでややこだわりをもって調査してきた。

「精神病者収容施設」は、広義には精神病院から私宅監置室まで、すべての施設(設備)を含むだろう。

が、ここでは精神病院でも私宅監置室でもない、公立または民間による精神病者を収容する施設としておく。

 

鹿児島の精神病者収容施設といえば、「下御領精神病者収容所」である。

菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻第10号、1937年)の附録では、「精神病者収容所」としてリストアップされている。

設立は大正12(1923)年3月、住所は鹿児島市草牟田町4220番地(上記論文には誤植があり、「草年田」になっている)、代表者は下御領義威とある。

鹿児島大学医学部の精神科教授だった佐藤幹正は、この収容所について「市内草牟田の城山に通じる歩道の傍には、私宅に監置の余地のない家庭の患者のために、数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所が建っていた」と回想している(鹿児島県立鹿児島保養院『創立五十周年記念誌』1982年)。

 

実は2006年2月に、この収容所の跡地を訪ねたことがある。

また、鹿児島県立図書館で収容所を含む当地の精神医療史の文献調査もした。

その時のことは、鹿児島県の精神医療史に関する他の文献から引用したこの収容所の記述もふくめて、拙著『精神病者と私宅監置』(六花出版、2011年、pp.113-116あたり)で紹介している。

 

ただ、まだ調べ足りないこともあった。

それは、下御領精神病者収容所を経営していた、下御領義威および下御領家のことである。

前回の調査では、代表者・下御領義威の弟・下御領義盛は地元では名の知れた歌人で、「兄が経営していた精神病院を引き継ぎ、戦後は山を売って暮らした」(『郷土人系 下』南日本新聞社、1970年)ということまではわかった。

彼が引き継いだ収容所は、地元では「精神病院」と認識されていたらしい。

ただ、兄・義威のことは不明。

 

 竹柄杓つくりて病養へる人の言い値にて山の竹売る

 

これは、弟・義盛が病人との一場面を歌いこんだもののようである。

 

(もうすぐ午前9時、鹿児島県立図書館で開館を待つ。)

 

今回、学会の合間に再び鹿児島県立図書館を訪れ、『下御領義盛歌集』(日本文芸社、1964年)を閲覧した。

下御領義盛の甥にあたる桃北好澄という人物が書いた巻末の説明によると、

 

下御領義盛(1901−1963)は、鹿児島県日置郡伊集院町に生まれ、のちに鹿児島市草牟田町に転住、ここで生を終った。(…)体躯が堂々としていた割に、病気勝ちであったので、しばらく小学校の代用教員などを勤めたほかは、社会の表面にあって立ち働らくということができなかった。もっとも、昭和のはじめ家業の精神病院をついだので、生活的には何の不自由もなかったわけであり(…)

 

というように、ここでも「精神病院」と記述されている。

が、戦後まもなくこの家業を廃し(おそらく、精神病院などの施設以外への患者収容を禁じた、1950年の精神衛生法の影響が大きかっただろう)、「もっぱら作歌と囲碁を楽しんで過ごした」という。

上記の佐藤幹正が書く「数個の監置室を設けた、私設の精神病患者の預り所」と、桃北が書く「生活的には何の不自由もなかった」「家業の精神病院」とでは、両者のイメージがだいぶ違う。

おもに貧困精神病者を預かっていたと思われる下御領家の「家業の精神病院」が、そんなに儲かっていたとは思えないが…

いずれにせよ、兄・義威のことはわからないままである。

 

ところで、鹿児島県立図書館あたりをぶらぶらしていたら、「向田邦子居住跡地」という観光案内があったので見に行くことにした。

鹿児島市による案内板の説明は次のとおり。

 

向田邦子は1929(昭和4)年、東京に生まれました。29歳で初めてテレビ台本を執筆。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などホームドラマの傑作を次々と生み出し、人気シナリオライターとなりました。その後、46歳のとき、エッセイ『父の詫び状』を執筆したのをきっかけに小説も手がけ、1980(昭和55)年、連作短編小説『思い出トランプ』の中の「かわうそ」など3編により直木賞を受賞しました。しかし、翌年、台湾を旅行中の飛行機事故により、51歳で突然この世を去りました。

向田は父の転勤により、10歳のときに一家でこの地に移り住み、思い出深い2年余りを過ごしました。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」(「鹿児島感傷旅行」『眠る盃』)とエッセイに書き残しています。

 

なるほど。

居住とはいえ、2年余りか…

とは思ったが、明治維新に関わる志士らゆかりの史跡なら山ほどあるなかで、異彩を放つスポットと評価するべきか。

 

(居住跡地というより、墓標に見えるが。)

 

話変わって、ふたつめの藤沢の学会。

「精神医療とは、そもそも何なのか」というシンポジウムが、日本社会臨床学会で行われるという。

この学会の会員ではないが、事前に関係者から今回の学会の冊子をもらっていた。

その一節には、あるシンポジストの「…私はフロイトやクレペリン、日本では呉秀三等、社会病理を個人病理にする精神医学の無力さ、犯罪性を知ったのである。だからといって私は反精神医学派ではない」という文言があった。

呉秀三の「犯罪性」を語る人は、あまりいないんじゃないのか。

これは面白そうだ。

しかも、会場はお寺の中らしい。

行くしかないだろう。

 

上記シンポジウムは午後からで、午前中は鎌倉へ。

ちょうど、あじさいの季節で、気がついたら明月院をめざしていた。

だが、北鎌倉駅で下車した直後から、いやな予感がした。

というのは、すでに駅のホームから人の渋滞がはじまっており、明月院まで延々と人の列がつづいた(自分もその構成員のひとりなのだが)。

やっと入口付近まで到達。

拝観料を払う手前で、中に入るのをあっさりとあきらめた。

あじさい鑑賞どころではない。

あじさいの数よりも、人の頭の数のほうが多そうだった。

 

(北鎌倉の明月院の入口付近。人の流れに逆らって、もどる。)

 

北鎌倉でもうひとつ確かめたい場所があった。

明月院の入口手前から、左手の道を365歩進めばたどり着くという喫茶店がある。

北鎌倉駅から明月院までの喧騒が、まったくうそのような静かな場所にある。

 

(明月院から365歩の喫茶店)

 

たしか大学院生の頃、1980年代の後半に来たのが最後。

その店がいまはどうなっているのかを確かめたかった。

あいにくこの日は閉まっていたが、店主はご健在のようだ。

 

こうして、北鎌倉に用はなくなったので、藤沢に向かった。

来る前は、この街の印象はとても薄かったが、実際に駅を下りればいろいろ発見がある。

とくに、「旧東海道・藤沢宿」という視点からは、イメージが広がる。

広重の東海道五十三次「藤澤」には、手前に鳥居、その後ろに橋、さらに奥に大きな寺が描かれている(興味のある方は、検索して「藤澤」をご覧あれ)。

鳥居は江の島弁財天への入口で、江の島道への分かれ道(下の写真は江の島への道標に関する案内である)。

橋は大鋸橋(だいぎりばし)。

そして、この「藤澤」に描かれた寺こそ、学会の会場である遊行寺(ゆぎょうじ)だったのである。

 

(「江の島道・江の島弁財天道標」に関する案内板)

 

上の写真の案内を通り過ぎて、さらに進むと橋があり、その先に時宗総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)の総門があった。

ここが、通称・遊行寺である。

 

(時宗総本山の清浄光寺の総門、通称は遊行寺。)

 

総門をくぐりぬけて、ゆるい坂を登って行くと本堂があり、一遍上人の像も建っている。

だんだん雨も激しくなってきた。

学会の会場は、本堂に向かって左手奥の大書院。

 

(遊行寺内の会場案内に従って、大書院へと進む。)

 

会場の大書院は、当然ながら畳敷き。

机と椅子も少しはあったが、多くの人は座布団席である。

登壇者席と客席とは一体化し、「村の寄り合い」のような状況でシンポジウム「精神医療とは、そもそも何なのか」が始まった。

ごく大雑把にまとめてしまうと、近現代の精神医学/精神医療が内包している諸問題が提起され、それに対する批判的な検討が行われたということだろう。

精神医療批判「原理主義」的な話になるのかもしれないと、やや身構えていた(期待していた)のだが、シンポジウムの内容はむしろ正統な精神医療批判ではなかったかと思う。

後半の、フロアも交えた討論には出られなかったのは、残念であった。

| フリートーク | 09:48 | comments(0) | - | pookmark |
ドキュメンタリー映画『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』の試写会に参加して

きのう東京の新橋駅近くのスペースFS汐留で、『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』の試写会があった。

会場は満席(というか満席以上)。

自分としては、最前列で完成した映画をただ見ればいいのだから、これほど気楽なことはない。

と、思っていたら、上映前に関係者による壇上でのスピーチ・タイムがあるという。

え?聞いてないぞ…

つまり、試写会の何たるかをまるで理解していなかった、ということなのだろうが。

 

(会場で配られた冊子やチラシ)

 

とりあえず、6月2日(土)〜8日(金)に、アップリンク渋谷で緊急特別上映が決定したという。

ただし、タイムテーブルは、5月下旬に劇場HPにアップされるようだ。

内容については見ていただくほかないし、映画だから見てもらわなければ意味がない。

これから各地で上映会を開かれることになると思う。

| フリートーク | 17:27 | comments(0) | - | pookmark |
那覇で開催された私宅監置写真展をふりかえる

すでに旧聞に属する話かもしれない。

メディアでも、SNS上でもかなり話題になっていた、沖縄の私宅監置の写真展。

先月、4月21日、那覇の沖縄県立博物館・美術館で開かれていた同展を見に行った。

翌22日には、同会場の講堂で開かれた「シンポジウム&映像上映」にも参加した。

 

(4月22日の沖縄県立博物館・美術館。この日は雷雨になった。)

 

4月21日、名古屋から沖縄へ。

那覇空港からゆいレール。

旭橋駅近くのホテルにチェックインをして、会場まで徒歩で行く。

1時間弱。

会場は撮影禁止だったので、残念ながら当日の様子の写真はない。

ただ、入口で配られていた小さなパンフレットには、展示写真の一部が掲載されており、コンパクトな解説がつけられている。

それによると、「これらの写真の多くは、1964年に東京から派遣医として沖縄に来ていた岡庭武氏が撮影したもの」である。

当時の写真と並べて、現在の様子を撮影した写真もいくつかあったが、わずかに残骸が確認できる程度である。

 

しかし、現存する監置小屋もある(これについては、このブログでも紹介した)。

展示室の中央に、この監置小屋のレプリカ(原寸の80%大)が設置してあり、見学者は中に入ることができる。

なかなかおもしろいアイディアである。

沖縄県立芸術大学の学生が製作したものだという。

素材はベニヤ板だが、表面がグレーに塗られ、ブロックづくりの監置小屋の雰囲気がよくでている。

 

レプリカの周りには、何枚かの写真と説明書きが貼られていた。

この監置小屋に1952年から1966年まで監置されていた、Tさんに関わるものである。

Tさんが財布のなかに大事にしまっていたという発病前の10代のセルフ・ポートレートや、かつて自分が入っていた監置小屋をバックに写されたもの、晩年にサンタクロースの衣装をまとって撮影された写真もあった。

そのTさんは昨年夏に89歳で亡くなった。

 

会場でうろうろしていたら、沖縄の知り合いの人に誘われて、夕方から飲みに行くことになった。

 

(地元の人に連れられて、ゆいレールの安里駅にほど近い栄町の飲み屋街へ。まさにディープな那覇。)

 

4月22日。

午後から「シンポジウム&映像上映」。

映像上映とは、1972年5月15日の沖縄復帰にあわせて放映されたという TBS の番組の一部である。

日本各地で私宅監置の資料や遺構をあれこれ探してきたが、患者やその家族の様子をカラー映像で見たのはもちろん初めてだ。

衝撃的だった。

また、今回の企画のために、元・公衆衛生看護婦(現在の保健師にあたる)の方が、記憶をたどってかつて私宅監置室があった場所を尋ねる、という興味深い映像もあった。

 

シンポジウムでは、さまざまな背景をもつ登壇者たちが、私宅監置あるいは私宅監置から想起される精神医療の過去と現在について語った。

帰りの飛行機の時間の関係で、最後まで聞けなかったのが心残りである。

ただ、数日後に、この企画を詳細に報じてきた地元紙・沖縄タイムスの記事(連載「『座敷牢』の闇で 私宅監置を考える」など)を同社の記者の方から送ってもらった。

その記事で「私宅監置シンポ詳細」を確認するとともに、私宅監置をめぐる沖縄の受けとめられ方の一旦を知ることができた、と思う。

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