近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
那覇での『夜明け前』上映会とトークセッションなど

今回は沖縄の話である。

以前のブログで紹介したように、2018年12月22日から同24日まで、沖縄各地でドキュメンタリー映画『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』の上映会が行われた。

22日の那覇での上映会では、上映後のトークセッションで登壇することになっていた。

 

その前日の午後、沖縄県内の障害者関係(「精神」もふくむ)の2つの事業所を訪れた。

私の大学の院生・学生2人も一緒である。

那覇空港で落ち合った、沖縄在住のフリーTVディレクターの原義和さんが、すべて段取りを考えてくれていた(ただ、当日、原さんの車が突然動かなくなったということで、レンタカーを借りることになったのは想定外だったが)。

訪れた事業所とは、沖縄市にある「ワークプラザユニティー」(就労継続支援B型事業所)と宜野湾市の普天間にある「はぴわん」(地域活動支援センター)である。

 

「ワークプラザユニティー」では、事業所の活動などの簡単な説明を受けたあと、職員や利用者の面々と「まあ、お茶でも飲みながら、ゆんたくでもしましょうか」ということになった。

「ゆんたく」とは沖縄の言葉で、「おしゃべり」くらいの意味らしい。

それなりに真面目なことから、とりとめのないことまで、あれこれ話したあと「はぴわん」に移動した。

ここでも「ゆんたく」がはじまった。

かなり鋭い意見交換もあり、座も盛り上がったが、あっという間に時間が過ぎた。

外も暗くなり、沖縄とはいえ外気も少々冷えてきたころ、退散となった。

宿泊先の那覇への帰り道は、ひどい渋滞。

夕方の時間帯は、いつもこんな感じのようだが。

 

翌日は朝から私宅監置小屋の見学にでかけた。

案内役は「おきふくれん」(沖福連、沖縄県精神保健福祉会連合会)会長の山田圭吾さんである。

途中、地元の大学で看護学を学ぶ学生4人と合流。

目的地までの道すがら、山田さんは車中から見えるさまざまな建物、地形や地名などを指差して、ときにはスマホを取り出して資料画像を引用しながら、沖縄の過去と現在について丁寧に説明してくれた。

 

(私宅監置小屋のまえで説明する山田さん、まわりに学生たちと原さん。)

 

私にとっては、私宅監置小屋見学は3度目となる。

監置小屋とその周辺の環境は以前と変わりないように見えた。

ただし、監置小屋のさびた鉄の扉の劣化が進んでいた。

コンクリートの壁との接合部分が腐食したためか、鉄の扉が小屋本体から脱落してしまっていた。

今年になってマスコミ報道も頻繁にあり、監置小屋保存活動への理解も進んだと考えていたのだが、関係者の話を総合すると保存へのハードルはまだまだ高いということだった。

 

午後3時すこし前、沖縄県立博物館での『夜明け前』の上映開始時間までに間に合うべく、会場入り。

予想を上回る多数の来場者。

会場に入りきれず、一部の人たちには入場をお断りする事態になった。

上映終了後のトークセッションの登壇者は、この映画の企画者で、日本障害者協議会(JD)代表などをつとめる藤井克徳さん、監督の今井友樹さん、沖縄の私宅監置を取材してきた上述の原義和さん、そして私である。

『夜明け前』関連のイベントで、関係者が4人も揃ったことはなかったと思う。

 

ところで、その原さんが今回の沖縄でのイベントにあわせて(というわけでもない?)私宅監置の本を出した(下の写真)。

これまでの沖縄に加えて、台湾と西アフリカで取材した「私宅監置」に関する記述もある。

原さんはやや自嘲気味に「テレビ屋が作った本だから、こういうスタイルになった」と言うのだが、だからこそ研究者とは違う語り口で私宅監置を描くことができた秀作といえるだろう。

 

(編著・原義和/解説・高橋年男『消された精神障害者』高文研、2019年)

 

さて、『夜明け前』イベントはここまでにして、以下は沖縄の戦争遺産の話題である。

22日の夜に関係者の懇親会があり、そこで藤井さんに勧められたのが豊見城にあるという旧海軍司令部壕。

不勉強な私は、そのことを何も知らなかった。

これまで、ドイツの戦争遺産には関心があって、ベルリンなどで旧跡を訪れる機会も何度かあった。

だが、足元の、日本の戦争遺産には向き合ってこなかった。

 

というわけで、23日は夕方まで予定はなかったので、その旧海軍の壕に行くことにした。

ネットでバス路線などを調べたが、結局よくわからない。

ゆいレールに乗って赤嶺駅で降りて、そこから歩くことにした。

 

(ゆいレールの赤嶺駅は「日本最南端の駅」らしい。赤嶺駅の次が那覇空港駅である。)

 

スマホの地図をたよりに30分くらい歩いて、海軍壕公園に到達した。

公園の入口に次のような説明があった。

 

海軍壕公園は、那覇市と豊見城市の境界に位置し、那覇市中心部より南へ約3Kmの閑静な住宅地に囲まれた丘の上にあります。
ここは、太平洋戦争末期に、地下深く縦横に掘り巡らされた防空壕の中に帝国海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれた場所で、激戦の末に数千の将兵が無念の玉砕を遂げたことで知られています。
当公園は、旧海軍壕を核として戦争の悲惨さと平和の大切さを訴えていく平和学習の場として整備が進められています。

 

この公園のなかにビジターセンターがあり、そこに壕に通じる地下への入口があった。

どのくらい深く広いのだろうか。

不安と好奇心の入り混じった気持ちで、階段を下へ下へと降りていく。

 

(壕の入口付近。壁に掛けられた千羽鶴が目を引いた。)

 

階段を降りきったところからは、比較的平らな通路になっていて、信号室、作戦室、司令官室、下士官室などを巡ることができる。

幕僚室の壁には、幕僚が手榴弾で自爆したときの痕跡がなまなましく残る。

自決した司令官の大田實を紹介する短時間のナレーションが、繰り返し、繰り返し・・・壕内中で響いている。

そのナレーションに耳が完全に慣れたころ、突然、英語バージョンになった。

どうやら外国人見学者が入場したためらしい。

 

(司令官室。壁には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田實の辞世の句が掲げられている。)

 

壕内の重々しい空気から解放されて、ビジターセンター近くの見晴らしのいい丘の上で休憩(下の写真)。

園内のスピーカーは、素朴な三線の演奏を流し続けている。

すると、心地よい風が吹きぬけた。

12月の風は、地元の人には寒いと感じるのかもしれないが。

 

(ビジターセンター近くの見晴らしのいい丘の上から南方をのぞむ。)

 

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またもや台湾

12月のはじめ、また台湾に行った。

また、というのは、ブログに記事を書いたように、この9月にも訪問したので。

そういえば、9月の台湾行きの際に、台北市内のある新聞社の会議室で、大学(名誉)教授クラスの専門家たちから台湾の精神医療史をうかがう機会があった。

最近になって知ったのだが、その新聞社の記者がこのときの様子を記事している。

参考までにその記事へのリンクは「發生在20世紀的監禁與棄置 被戒嚴掩蓋的台灣精神醫學史」。

 

さて、今回は、台北の中央研究院(歴史語言研究所)で行われた"「殖民醫學再榷:本質與定義的思考」學術研討會"に招待された。

タイトルが示すように colonial/post-colonial medicine がテーマのとても小さな集まりだったが、中華料理店にあるような、文字通りの円卓を囲んで議論する、濃密な一日だった。

 

(台湾総督府立精神病院・養神院の全景写真 出典: 『台湾総督府立精神病院養神院概況』1938年)

 

ここ数年、いわゆる日本本土の精神医療史から少しはみ出して、沖縄や旧外地の精神医療史を調べているのだが、その流れで声がかかったということか。

わたしは、台湾総督府立精神病院・養神院に絡めた演題(Yōshin’in (Yang-Shen-Yuan) and Psychiatry during the Japanese Rule in Taiwan)を発表した。

養神院自体はわりと陳腐なテーマだが、日本人が台湾でその話題を語ることに一定の意義があると考えた。

また、自分なりに今一度この病院の歴史を、日本やドイツの精神病院史と比較しながら整理したいという気持ちがあった。

 

上の写真は養神院の全景である。

この精神病院については、ブログでも少し前に紹介したが、いまはその敷地にマンションが建ち、周りは繁華街。

しかし、かつては田畑に囲まれた鄙びた土地だったようだ。

 

実質的に2日間の台北滞在のうちの1日は上記の会合、もう1日は国立台湾大学の図書館(下の写真)で資料探しをすることにした。

その日が月曜日で、めぼしい図書館のなかで、ここくらいしか開館していなかった。

が、手続をすれば部外者でも簡単に入館できるのが嬉しい。

 

(国立台湾大学の「総図書館(main library)」のエントランス)

 

ところで、図書館5階の特別閲覧室で「謎の老人」に出会った。

「高齢者」では雰囲気が伝わらないので、あえて「老人」と呼ばせてもらう。

優に80歳は越えているだろう、かっぷくのいい老人。

ただ、足元がふらついて、少々歩くのも大変そうだ。

どっかりと、閲覧申し込みカウンターの椅子に座り込み、若い女性スタッフにあれこれきびしい(?)注文を出し、対応が長引いている。

日ごろからここに通い詰めている台北の地元の人に違いない。

 

カウンターが空いたので、日本で事前に検索してあった資料の閲覧を申し込んだ。

おもに養神院関係の冊子類である。

しばらくして、書庫から資料が運ばれてきた。

その資料に目を通していると、「カウンターの人に聞いたんだけど、あなた、日本から来てるんですってねえ」とそのご老人。

いきなり日本語になったので驚いたが、その人は日本人で、目下、台湾に滞在しているらしい。

中国語が堪能なのは、かつて貿易関係の仕事していて、中国語圏を渡り歩いたからのようだった。

だが、今日は、ギリシア語の聖書を見にきたのだという。

 

資料は全コピーしようと思った。

が、カウンターで依頼した文献複写は、明日にならないとできないという。

明日は帰国しなければならない。

で、結局、そのご老人が、後日わたしの代わりに完成したコピーを図書館で受け取り、日本のわたしの大学に送ってくれるということになった。

ありがたいと同時に、多少不安にもなったが、ここは任せるしかない。

帰り際に、「また、台北にきたら、連絡してください。その時は、ビールでも」といって、紙切れに名前と電話番号を書いて渡してくれた。

 

台北滞在中は、中央研究院のなかにある学術活動中心(下の写真)に宿泊していた。

ゲストハウスのようなものである。

中央研究院に行ったことがある人なら、「あーあそこ」と、うなずくに違いない。

日中の最高気温が30度くらいあったから、全館冷房がガンガンと。

部屋のエアコンを切っても、廊下から冷気が入ってくるのだろうか、わたしには寒すぎる。

夜はフリースの上着を着て寝た。

 

(中央研究院の学術活動中心)

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日治時期台北精神病學史3 精神病者監護と台北愛々寮

今回の台北訪問の主要な目的は、日本統治下台湾の精神病者監護の痕跡をたどることだった。

その核心は、日本本土と同じように施行された、精神病者監護法下の私宅監置の実状だ。

戦前の台湾における精神病者監護は、以下のふたりの医学者による記述からある程度はわかる。

 

「本島には未だ精神病者監護法の制定がない、従って監置を要する精神病者は財団法人台北仁済院(収容人員四十五名)及私立養浩堂医院(収容人員約三十名)に入院加療の者を除いては孰れも私宅監置に附せられ。家人より獣畜の如くに取扱はれ、永久に救はれる途がない。」(下條久馬一「精神病者監護施設に就て」『社会事業の友』第20号、1930年)

 

「台湾における私宅監置の方法は、患者を綱で縛り、鉄鎖を以て繋ぐのは、極めて普通のことで、(…)監置室は不潔で、光線の射入無く、空気の流通も乏しいのみならず、其取扱も過酷で医療を加えられない者も甚だ多い。」(竹内八和太「狂人を語る」『社会事業の友』第20号、1930年)

 

上記は、台湾で精神病者監護法が施行された1936年より前の記述だから、「私宅監置」といってもまだ法的な手続が存在しないころの処置(不法監禁というか無法状態というか)ということになる。

いずれにしても、私宅での監置は一般的だったことが推察される。

それならば、私宅監置の詳しい資料はないのか?

とりわけ法が施行された後であれば、私宅監置をふくむ精神病者監護の許可手続などが、患者家族と行政との間で交わされたはずである。

公文書は?関係資料は残っていないのか?

 

だが、やはり、日本本土での資料調査と同様に、簡単には見つけられない。

ひとつだけ、参照できそうな資料があった。

旧・台北州の精神病者監護に関わるもので、1940年代前半の文書である。

ある家族が、恐らく自らの家族の一員である精神病者の監護を「愛々寮」に委託したい、という内容。

この精神病者が、それまで私宅に監置されていたかどうかは不明であるが、何らかの理由で自宅では面倒を見られなくなったのだろう。

「愛々寮」というのは台北市内の救貧施設であるが、多くの精神病者も受け入れていた。

ちなみに、菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者竝ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻、1937年)では、「精神病者収容所」というカテゴリーのなかに「台北愛々寮」として登場し、定員は50名、住所は「台北市緑町5丁目16番地」とある。

この施設は後ほど説明する。

 

上記の旧・台北州の資料には、愛々寮に監護を委託した家族の住所が記されている。

現地を訪ねれば、当時の状況を話してくれる人がいるかもしれない。

しかし事前の調査では、日本統治時代の住所と現在の住所との対応関係を正確に割り出すことは、きわめてむずかしいことがわかった。

ただ、少なくとも、現在の新北市樹林區内のある一角であることは確からしい。

とても心もとない情報をたずさえて、ともかく現地に向かうことにした。

 

(タクシーを一日貸切にして、台北市内から隣接する新北市へ向かう。)

 

まずは、新北市樹林區のある里長の辦率公室(事務所)をたずねた。

地域の事情なら里長に聞くのが一番いいらしい。

日本の町内の世話役などと性格は似ているようにみえるが、台湾の里長は選挙で選ばれるのだという。

 

(里長を訪ねたが留守だったので、電話で連絡して辦率公室まで来てもらうことにした。)

 

里長に旧・台湾州の文書を見せたが、そこに記載されている家のことは知らないという。

文書に書かれた戦前の住所はこのあたりだが、正確な場所はわからない。

このあたりは人の入れ替わりが激しく、昔から住んでいる人はほとんどいないのではないか。

近くに高齢者のデイケアがあるので、そこに通ってくる人に話を聞くのもいいのでは、と里長。

それで、デイケアにも行ってみた。

カラオケで日本語の歌を熱唱している高齢者が何人がいたので、戦前の事情を聞けるかと思ったが、収穫はなし。

また、里長の辦率公室のまえで、あーだこーだ話していると、通りすがりの高齢者が日本語で話しかけてくる。

その人によれば、この旧・台湾州の文書にある戦前の住所は、もっと遠くだと言うので、それに振り回されて、タクシーで移動しながら右往左往。

やっぱり、旧・台湾州の文書にある戦前の住所が現在のどこになるのか、正確な情報をまず確認する必要があるのではないかということになり、樹林區の戸政事務所をたずねた。

だが、日本からネットで得られた事前の調査結果以上の情報は得られず。

結局、最初に訪れた里長の辦率公室付近で間違いないようだ。

 

(新北市樹林區戸政事務所をたずねたものの…)

 

つまり、何の収穫もない。

戦前の住所が特定できない、当時のことを知っている人がいない…

次第にイライラが募ってきたが、どうしようもない。

この日の探索は終わり。

 

日を改めて、再び朝から新北市樹林區へ。

今度は台北市内から鉄道で樹林へ。

 

(樹林の駅で。)

 

先日歩き回った場所付近で聞き込みを開始。

ターゲットは高齢者、しかも日本語の教育を受けた世代。

 

(樹林の駅周辺の路地。)

 

高齢者を求めて歩いていると、長壽親子公園というところに到達。

確かに高齢者が集まっている。

高齢者のなかでもより高齢と思われる人たちに次々に声をかけた。

公園だけではなく、通りを歩く高齢者にも話を聞いてみた。

「知らなくて、すみません」という日本語は聞けても、昔からこの付近に住んでいる人に出会うことはできなかった。

 

(公園でストレッチをしている高齢者に話を聞いてみると、かつて香港から移住してきたという。だから、日本語は知らないと。)

 

旧・台北州の精神病者監護に関わる書類もとに行ったフィールドワークの一部始終である。

なんとも煮え切らないが、この件はそのままになっている。

 

さて、次は精神病者を受け入れていた愛々寮(下の写真参照)の話である。

上述したように、菅修の論文では「台北愛々寮」として「精神病者収容所」のひとつに分類されている(「収容所」とは、「病院」ではないという意味)。

ちなみに日本本土については、(甲府市立の)伊勢療養所や(長崎市立の)長崎救護所などが「精神病者収容所」として挙げられている。

 

(「愛々寮全景」、出典は『昭和四年六月一日現在 愛愛寮概況』。)

 

愛々寮は、台湾人エリートとして期待されていた施乾(1899-1944)が、台湾総督府の職を辞し、私財を投じて1922年に創立/1923年から事業開始した窮民救護施設である。

施乾は1933年に最初の妻・謝惜を亡くし、1934年に日本人・清水照子と結婚。

前妻との間には長女、次女(施美代、以下で触れる)、照子との間には三女、四女、五女、長男(施武靖、以下で触れる)が生まれた。

施乾が1944年に亡くなったあと、照子が二代目として施設の運営を引き継いだ。

現在は、財団法人台北市私立愛愛院として継続し、長男・施武靖が三代目となっている。

(以上の記述は、栃本千鶴『社会事業家施乾の「乞食」救済事業の展開と継承』愛知淑徳大学・博士論文、2010年を参照している。)

 

樹林調査ではほぼ空振りだったが、現在の愛愛院を訪問し、次女の施美代さんに戦前の精神病者に関するお話を伺うことができた。

美代さんはご高齢(1929年生まれ)だが、記憶はとても確かで、日本語での会話もまったく支障がなかった。

 

(現在の財団法人台北市私立愛愛院。)

 

美代さんは、小学生の頃、父(施乾)のあとをついて病棟をまわったという。

昔の精神病棟は今はないが、同じ場所にある建物の1Fの構造はよく似ている。

今より少し広い通路があって、両側は病室。

おとなしい患者は相部屋、あばれる患者は一人部屋。

病棟の廊下を歩いていると、糞を投げつけられるような場面もあったらしい。

 

ところで、愛々院の近くには台北仁済院があった(以前のブログでも紹介したことがある)。

台北仁済院は、1899年に台湾総督府により窮民救護の施設として設立され、台湾における最初の精神病者収容施設でもあるとされ、1923年には財団法人へと転換した。

総督府は内地人(日本人)の救護を優先させたため、本省人(台湾人)にまで手が回らない。

本省人(台湾人)については愛々寮が引き受けていたようである。

したがって入所者数は、仁済院では「内地人>本省人」、愛々寮では「内地人<本省人」という構成だった(これらの記述は、上記の栃本千鶴論文などによる)。

 

美代さんのお話によれば、愛々寮に入所していた日本人は日当たりのいい部屋をあてがわれていた。

日本人は(台湾人よりも)一段上に見られていたという。

 

(愛愛院の1Fロビーにある歴史展示。施乾と清水照子。)

 

(かつての愛々寮。愛愛院の1Fロビーにある歴史展示より。)

 

(中庭から撮影した現在の愛愛院。かつてこのあたりに精神病棟があったという。)

 

(愛愛院の中庭に立つ「施乾先生紀念碑」。)

 

研究上からは愛々寮の資料の所在が気になったが、戦前の資料は1950年の洪水被害でほとんど残っていない、という。

愛愛院を調査で訪れるのは日本人ばかりで、台湾人はいないと。

 

会議室での美代さんへのインタビューのあと、かつて精神病棟があった場所にある建物の中を案内してもらう。

現在は高齢者のデイサービスを行う部屋が並んでいる。

そのあと、中庭に立つ「施乾先生紀念碑」のまえでみんなで記念撮影(この写真はアップしていない)をしてから、ホテルへの帰路につく。

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日治時期台北精神病學史2 中村譲と養浩堂医院

精神医学者の中村譲は、少し謎めいた人物である。

1877年に新潟県に生まれ、京都で育ったようだ。

1905年に東京帝国大学医科大学を卒業し、呉秀三が主宰する精神病学教室へ。

当時の東大精神病学教室は東京府巣鴨病院内にあったが、中村はそこで1914年まで在職していた。

この間、1909年12月末から翌1910年2月にかけて、「クレチニスム調査」のために呉秀三の台湾旅行に同行している。

1910年から1916年にかけて、呉は東大精神病学教室のスタッフを動員して、日本各地の私宅監置調査を実施したが、中村は参加していない。

 

中村は、1914年に巣鴨病院を辞したあと、東京の私立王子脳病院の院長を経て、1916年に台湾に渡る。

台湾では、台湾総督府が各地に設置していた医院(台湾では「医院」は「病院」の意味)のひとつである基隆医院の院長として1929年まで勤務、同時期に台湾総督府医学専門学校教授なども兼任した。

1925年から2年間、マールブルク(Otto Marburg)が所長をつとめるウィーン大学神経学研究所に留学した(この研究所は、マールブルクの前任者のオーバーシュタイナーの時代から、日本人留学生を多く受け入れており、呉秀三、今村新吉、三宅鑛一、齋藤茂吉なども含まれる)。

 

ところが、基隆医院を辞したあと、私財を投じて台北市内に台湾で最初となる精神病院、養浩堂医院を開院する。

終戦までこの病院を経営し、引き揚げ後は京都に住み、大阪の浜寺病院で院長として勤務したようだ。

 

(中村譲。台湾総督府医学専門学校教授時代か。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

このような経歴について、風祭元は次のように評している。

 

「東京帝國大學の卒業生が、大学で精神病學の臨床を勉強し、欧州に研究留学して帰国するというのは、明治以来、わが国で醫科大學・醫學専門学校の教授となる標準的なコースで、彼もおそらくそのつもりで留学したと思われるが、彼が帰国後に短期間で醫學専門学校教授の職を辞し、自力で民間立の精神科病院を設立した理由は、いまになっては分からない。」(風祭元「太平洋戦争終結以前の台湾の精神医学・医療」『精神医学史研究』10(1): 57-66, 2006)

 

このような経歴が、冒頭で私が「少し謎めいた人物」と書いた理由のひとつである。

しかし、謎といえば、中村譲が設立した養浩堂医院についてもよくわからないことが多い。

そこで、前回のブログ記事「日治時期台北精神病學史1」と同様に、台北の歴史に詳しいリン(林)さんの全面的な協力(資料提供や現地案内などなど)のおかげでわかったことを紹介したい。

 

そもそも、養浩堂医院はどこにあったのか?

このブログでもしばしば登場してきた菅修の論文「本邦ニ於ケル精神病者竝ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」(『精神神経学雑誌』第41巻、1937年)では、この病院の住所は「台北市宮前町297番地」となっている。

「戦前と現在の住居表示の対照表がどこかにあるだろうから、探すのなんて簡単、簡単」、と思われるかもしれない(と私も思っていた)。

ところが、違うのである。

正確な場所を割り出すのは大変で、その土地にまつわる歴史を追うことではじめて明るみになる性質のものという言うべきか…

リンさんのブログではじめて知ったのだが、「宮前町297番地」はもともと神学校があった場所である。

この神学校設立の源流は、カナダ長老教会の宣教師マッカイ(George Leslie Mackay)にある。

台北市の中心部にある、マッカイの名を冠した馬偕紀念醫院(Mackay Memorial Hospital)を知る人も多いだろう。

1870年代から台湾北部で布教をはじめたマッカイは、淡水を拠点にして医療活動を行い、学舎を設けて教育にも力を入れた。

彼自身は1901年に亡くなったが、その後、長老教会は1914年に台北に神学校を設置した(『詩美の郷・淡水』1930年)。

その場所が上記の「宮前町297番地」なのである。

 

(宮前町297番地にあった台北神学校。年代不詳。写真はリンさん提供。)

 

ところが、台北の神学校の経営はあまりうまくいかなかったらしい。

「生徒が十六名で到底自力では立行かず」、台南神学校に合併することになり、生徒は台南へ転校することになったという(『台湾日日新報』、1925年1月22日 )。
2年後に帰北(台湾北部にもどってきたということ)したが、校舎は台北ではなく淡水に移転した。

しかし、『詩美の郷・淡水』(1930年)によれば、1928年6月12日、私立台北神学校の名前で台湾総督府の認可を得たということなので、この時までには台北で神学校が復活したようだ。

 

ところが、である。

認可から1年たらずの1929年4月7日の『台湾日日新報』に、中村譲が1916年以来勤務していた台湾総督府立の基隆医院の院長を辞し、宮前町に私立養浩堂医院を経営することになったという記事が掲載されている。

中村は、養浩堂医院を開院するにあたって、生徒減により経営が悪化した神学校を借り受けた(あるいは購入した?)ということらしい。

建物全体を借りたのか(台北は全面閉鎖して、再び淡水に移転して神学校を続けた?)、それとも一部の建物は神学校として使われ続けていたのか、リンさんにもわからないという。

ちなみに、養浩堂医院が宮前町から引っ越したあとの1941年の『台北市学事一覧』によれば、台北神学校の住所は「宮前町297番地」となっている。

 

養浩堂医院の開院からもうすぐ1年を迎えるという1930年3月、悲劇が訪れた。
入院していた女性患者が病院に放火し、入院患者5名が焼死したのである(『漢文台湾日日新報』、1930年3月21日)。

この火事に関連して、「官設の脳病院が欲しい 養浩堂医院側の談」という見出しで、以下のような記事が書かれている。

「養浩堂医院側の談」というのは、おそらく中村自身の考えを反映したものだろう。

 

 「世間を騒がせて誠に申わけない事です、本来なら此の際やめてお詫びすべきですが失火の当時は二十六人の入院者もありその跡始末もありどうしたら宜いかと考へております 中村当院長は大正八年以来総督府へ官立精神病院の設立を陳情してをりますが未だその運びに至らず補助金も未だ頂いてゐません 台湾で此の種の長く入院を要する病院の経営は非常に困難であつて一箇月も入院してゐると当然癒るものゝ様に考へて無理に出て了ふので結果は自然よくなく随分骨が折れます 此の点から言つても官立のものが是非とも必要ではないかと考へられます」(『台湾日日新聞』、1930年3月23日)

 

つまり、火事を出してしまい、閉院してお詫びするところだが、入院を要する患者がいてそれもできない(注:この時点では台湾で唯一の精神病院)、個人病院の経営は困難で、ぜひとも官立精神病院を設立して欲しい、ということである。

この官立の精神病院は、前回のブログで紹介した1934年設立の養神院を待たねばならなかったが、一方で中村は喧騒に満ちた宮前町を離れて病院の新築移転を考えていた。

 

ここで、宮前町の養浩堂医院跡を見ておきたい。

かつての宮前町297番地に、現在はセメント会社のビル(台泥大楼)が建っている。

下のグーグルマップで赤色の印がある場所である。

MRT雙連站(雙連駅)が最寄りで、上述の馬偕紀念醫院にも近い。

 

(地図上の「台泥資訊股彬有限公司」の場所に、かつて養浩堂医院があった。)

 

下の写真が現在の様子である。

中央のビルが建っているところが、かつての宮前町297番地。

向かって右隣の敷地には、長老教会がある。

リンさんによれば、ここは台北神学校の運動場だったという。

 

(養浩堂医院跡にはセメント会社のビルが建っている。向かって右隣には長老教会がある。)

 

さて、既に述べたように、養浩堂は宮前町を離れて、台北市内の下内埔324番地に新築移転した。

廃業も考えた病院火災から7年以上が経過した、1937年11月のことである(林吉崇の著書[1997年]、およびこれを引用していると考えられる風祭元の論文[2006年]で、養浩堂医院の下内埔への移転を「昭和7年」としているのは誤りである。)

 

1937年11月4日の『台湾日日新報』には「養浩堂医院成る」と題する記事があり、「市内下内埔三二四(帝大理農学部附属農場東隣)へ敷地を求め新築中、この程落成したので中村院長は四日午後一時から(…)関係者知友を招き養浩堂医院を観覧させる由」とある。
また、病院の建物については、1937年12月1日の『台衛新報』で「棟数は六箇に分れてゐるが各棟廊下を以て連結され、そのうち四棟が病室に充てられ三十九室に分割し収容人員六十名を定員としてある、監禁室は六箇を有し鉄格子と二重扉の頑丈なものである」と報告されている。

下の写真が下内埔324番地に新築移転した養浩堂医院である。

 

(下内埔の養浩堂医院。写真の出典は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』、1997年。)

 

かつての下内埔324番地には、現在「国立台湾大学農学院附設動物医院」が建っている。

下の地図で赤色の印がある「台大動物医院」がそれである。

高架道路をはさんで目の前が、大学の広大なキャンパス。

さらにその下の写真が、動物医院を正面から撮ったもの。

 

(かつての養浩堂医院の敷地に、台大動物医院が建っている。)

 

(台大動物医院)

 

中村譲と養浩堂医院の話はここまで。

なお、中村の経歴については、岡本重慶『忘れられた森田療法』(2015年)も参考になる。

 

以下はおまけ。

動物医院に行ったついでに、隣接する国立台湾大学のキャンパスに立ち寄った。

最寄りの門から入ると、農場が広がっていた。

しばらく歩くと、「磯永吉小屋」という歴史を感じさせる木造平屋建てがあったので、中に入ってみた。

展示の説明要員もいて、日本人とわかるや、日本語のパンフレットを手渡してくれた。

 

磯永吉(いそ えいきち)は農学者で台北帝国大学教授、「蓬莱米の父」として稲作をはじめとする台湾の農業に貢献したようだ。

1925年に建てられた「磯永吉小屋」は、旧・台北高等農林学校実習農場のなかで最も古い建物のひとつだという。

見学コースができていて、ゆかりの品々など展示されている。

 

(磯永吉、台湾蓬莱米之父)

 

台北の精神医療史の話はまだつづく。

また次回。

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日治時期台北精神病學史1 養神院

日本統治下の台湾でも、本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年から施行されたことが知られている。

旧外地のなかで、ふたつの法律が施行されたのは、台湾だけである。

 

その事実だけでも興味深いが、法律施行の背景と運用の実際を知りたいと考えた。

そこで、まず国内で手に入る限りの書籍や復刻資料に目を通した。

台北にも足をはこび、研究機関をたずねて台湾総督府にまつわる行政文書を大量にコピーした。

その結果、当時の台湾の精神医療状況はある程度把握できたつもり。

どうやら、日本の本土並み(本土でも決してうまく機能した制度ではなかったが)、というわけにはいかなかったようだ。

とくに台湾の貧しい地方財政が、深く影響を及ぼしていることが推察された。

これらに関わるネタで、学会で発表もしたし、論文も書いた。

しかし、まだまだ台湾でのリサーチが足りない。

全然、足りない。

 

足りないといえば、研究費も足りない。

台湾をふくむ近代日本の周縁部の精神医療史に関することで、いくつかの外部資金組織に研究費を申請したが、相手にもされない。

IoTとかAIとかiPSとか「頭文字」系の、先端を走っているような、儲かりそうな研究とは対照的に、こういうことは、要するに、瑣末なこと、どうでもいいこと、研究する価値もないことと、思われているに違いない。

それに敢えて反論はしない。

 

そういう慢性的な閉塞感にとらわれていた折、「台湾、行きません?」とテレビ・ディレクターの原さんから連絡があった。

台湾でも精神病者監護法が施行されていたことに興味をもったようだった。

彼が制作した沖縄の私宅監置に関する番組を、NHKのEテレで見た人も多いだろう。

私自身は、文献探索にはもはや限界も感じていたので、ともかく、台湾の人たちに会って、日本統治下の私宅監置や精神病者についての記憶を語ってもらうという、という方針を共有して、台湾行きを決めた。

 

大学の夏休みももう終ろうかという時期の、ごく短い日程で台北とその周辺で「ぶっつけ本番」的な調査を敢行したが、今回は「日治時期台北精神病學史」(日本統治下の台北の精神医学史)の「1」として、 養神院に関するあれこれを紹介したい。

 

養神院とは1934年に設立された台湾総督府立精神病院のことである。

日本統治下の台湾における、唯一の公立単科精神病院ということになる。

1937年に刊行された病院の『昭和九、十年度 年報』から、いくつかの情報を抜き出しておきたい。

「沿革」によれば、以前から識者は台湾における精神病問題に注目していたが、1929年に時の総督・石塚英蔵が本院の創設を決意し、台北市の東方郊外の台北州七星郡松山庄五分埔372番地に、収容定員100名の精神病院建設計画に着手し、1932年7月に起工、1934年10月に竣工した。

実際に患者が入院したのは、翌1935年2月1日から。

発足直後のスタッフは、院長事務取扱・高橋秀人(法学士)、医長・中脩三(医学博士・医学士、台北医学専門学校教授兼務)、医官補・分島俊(医学士)、嘱託・中村譲(医学博士・医学士)などである。

これ以上の養神院の歴史はいくつかの文献にも書かれているので、それらを参照していただきたい(とはいえ、詳細な記述はあまりないかもしれない)。

 

(艋舺のスターバックスで林さんを囲んで打ち合わせ。店内はレトロな雰囲気。1935年に建てられた「萬華林宅」を利用している。以下の文を参照。)

 

今回の調査では、調査対象に到達できずに、しばしば「これじゃ何も収穫がない…次はどうするか」と呆然とする場面が多かった。

そんなときに浮上したアイディアが、「養神院の跡地でもさがしてみるか…」である。

上記の「台北州七星郡松山庄五分歩埔372番地」の現在の住所を探せばいいのだが、これがそう簡単ではない。

私が知る限り、学術的な文献には現在の住所などは書かれていない。

が、たまたま「林小昇之米克斯拼盤」というブログに、養神院の新旧対照に関する記事があることを発見。

現在の住所も書かれている。

しかも、このブログ、養神院だけではなく、日本統治下の台北に建てられたさまざまな公的施設(とその土地)の過去と現在とを詳細に対比している。

ブログの開設者は「ただ者」ではなさそうだ。

 

台北3日目の夕食時、これは絶対に会う価値がある人だ、という話で盛り上がり、急遽連絡。

奇跡的なことだが、その翌朝、MRT龍山寺駅の近くのスタバで、そのブログの開設者の林さんに会えた。

林さんの専門は土木工学。

あくまで趣味で台北市内をめぐり、それをブログにアップしているということだった。

台北の昔の資料や地図の探し方をたっぷり聞いたあと、林さんの案内で養神院の跡地に向かった。

養神院の跡地は、MRTの永春駅からすぐだという。

 

(MRTの永春駅)

 

養神院の跡地を紹介する前に、『昭和九、十年度 年報』に掲載されている当時の敷地の図面を見ておきたい。

敷地はやや変形した台形をしている。

病院は風光明媚な場所に建てられ、周囲は田んぼだったようだ。

下の図にある「サ」の守衛室の近くが正門だろう。

 

(養神院の『昭和九、十年度 年報』より)

 

さて、下はグーグル・マップで見る、現在のMRT永春駅(図中では Yongchun Station)付近である。

中央の赤い枠で囲った部分が、かつての病院の敷地にあたる。

現在は、9棟のビルからなる住宅団地になっている。

案内役の林さんは、奇妙に斜めに曲がった道で囲まれている、この一角が気になったのだという。

これは何の痕跡なのか?

それを調べていくうちに、この場所に養神院あったという事実に行き着いた。

養神院跡の探索からはじめた我々とは、まったく逆である。

 

(かつての養神院の敷地は赤い枠で囲った部分)

 

永春駅から地上に出ると、雑然とした街並みが広がっていた(下の写真)。

かつては、一面の田んぼだったのではなかろうか。

養神院の跡地はもうすぐらしい。

 

(MRT永春駅近くの虎林街を歩く。目的地はもうすぐ。)

 

ここで再び昔の様子を確認しておきたい。

下の写真は開設当時の養神院の正門である。

すぐ向こうに本館が見える。

 

(写真は、林吉崇『台大醫學院百年院史(上)』から)

 

上の写真とおそらく同じ位置から、だいたい同じ方向に向かって写したのが下の現在の写真である。

はるか奥の、突き当たりの建物(台北市立松山高級工農職業學校)までが、かつての敷地。

この住宅団地は1980年代に建てられた。

それまでは、ここに養神院を引き継いだ精神科の松山療養院があったという。

そのためか、かつての台北の人にとって、この付近のイメージといえば、狂気を連想させるような、あまりよくないものだったらしい。

 

(養神院の跡地は住宅団地になり、この「敷地の形」だけが当時の痕跡である。)

 

敷地の境界に沿って、住宅団地を一周することにした。

途中で住宅の配置を示した看板を見つけた(下の写真)。

ここにある「海華九福名人社區」は、かつての養神院の敷地に一致する。

「九福」とあるように、「福」の名前を冠した9つの棟がある。

 

(看板「海華九福名人社區」)

 

養神院の話はここまでにしよう。

旧跡はめぐりは、まだまだ続く。

次の記事をご覧あれ。

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