近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
中村古峡記念病院にて

感染症騒動がまさに大きくなりはじめた2月中旬、千葉市にある中村古峡記念病院を訪れた。

まえのブログでも紹介した「中村古峡資料群と近代の〈異常心理〉に関する総合的研究 」という科研費研究の一環で、現地で資料調査を行うためである。

私は療養日誌の写真撮影を担当し、2日間、朝から夕方まで黙々と作業に没頭。

 

(丘のへりに建つ中村古峡記念病院)

 

中村古峡記念病院を訪れるのははじめてだ。

文書資料に加えて、そもそも戦前の中村古峡療養所がどのような病院だったのか、にも興味があった。

戦前の建物はもう残っていないようだが、現場に足を運び、病院の立地とか周囲の雰囲気を確かめるのが歴史研究の鉄則だ、などと思う。

 

(病院の入り口には「中村古峡碑」があった。)

 

病院の正面にまわると、来訪者を迎えるように「中村古峡碑」が建っていた。

コンパクトに古峡が紹介されているので、それを書き出しておきたい。

読みやすいように、適宜改行している。

 

中村古峡碑

 

文学士 医学博士 中村古峡 本名 蓊(しげる)

明治十四年二月二十日 源三 シフの長男として奈良縣生駒郡有里に生る

中村家は江戸時代末期まで代々庄屋をつとめ 源三は南生駒村の初代村長 後 大阪府議会議員となる

古峡は郷里の先輩杉村楚人冠を頼って上京 旧制第一高等学校を経 東京帝国大学文学部に於て心理学を専攻 また夏目漱石の門下に入り文学活動を行う

大正六年 品川御殿山に日本精神医学會を組織 学術書の翻訳 紹介 月刊「變態心理」の版行などの他催眠術を主とする心理療法にあたる

大正十五年石川琴と結婚 四十余才にして東京醫學専門學校に学び 医師免許を取得

昭和四年 千葉市千葉寺町に中村古峡診療所を 同八年に診療所 [療養所とすべき?] を開設 主として神経質患者の診療に従事 あわせて執筆 著作 講演等を行うほか 県公安委員を務む

琴 夫の意図をよく理解し 施設の開設 運営に力を尽す

 

昭和五十八年八月二十九日

医療法人中村病院院長

中村民男 撰文書

淺見喜舟 題字書

 

と、以上である。

 

さて、今回の調査の「本業」は、上述したように資料撮影だが、作業現場でもある院内の資料室には気になるものがたくさんあり、ついついそちらにも目が行ってしまう。

それらの一部を紹介したい。

 

下の写真は学位記。

昔の学位記はサイズは大きく、堂々としている。

学位論文「精神病質者ニ実験的ニ施シタル諸種作業ノ治療的効果」は、1942年2月20日発行の『名古屋医学会雑誌』第55巻第2号に掲載されたものである。

指導教授は、杉田直樹。

学位記が立てかけられている棚の近くに、この論文の別刷がおかれていた。

 

(名古屋帝国大学から中村古峡(蓊)に授与された学位記)

 

資料室には、まだまだ興味を引くものがある。

1939年発行の『中村古峡療養所案内』を見つけた。

これは、2019年11月に東京で開かれた日本近代文学会・昭和文学会・日本社会文学会合同国際研究集会の発表の際に参照した、同名の案内(ただし発行年代不詳。以下、「旧案内」と略称)とは、少々内容が異なっている。

以下に、新たに見いだされた案内(以下、「新案内」と略称)の「入院手続案内」のところをすべて書き出した。

注目すべきは入院料である。

 

入院手続案内

 

一、入院はいつでも出来ます。御希望によっては当所より出迎の者を差出します。

一、入院の際は、成るべく監護義務者及び御本人の症状をよく熟知せられる方の

  御同伴を願ひます。

一、入院料は、特別室(専用室、副室付) 一日金五円 

  普通室(治療費食費一切を含む) 一日金参円

  右入院料は十日分宛前納の事。計算日は毎月十日、廿日、月末日。

  但し注射処置、特別療法、高価薬、並に専属附添を要する場合等は、別に料金を

  申し受けます。

一、入院必要品は、夜具(夏季は蚊帳も)座敷団、作業服、その他日用手廻品などです。

 

ここまでが、「入院手続案内」である。

「旧案内」では療養費は1日3円だったが、「新案内」の入院料については、1日3円の普通室に加えて、1日5円の特別室が登場している。

また、「新事実」として、入院料は10日分を前納するというシステムだったことがわかる。

 

ここで気になるのが、中村古峡療養所の療養費なり入院料なりの、3円とか、5円とかが、高かったのか、安かったのかということである。

上述の日本近代文学会(・・・)研究集会の発表でも触れたことだが、この療養所での治療プログラムは1クール・8週間を基本にしているので、1日3円で計算すると計168円(3円×7日×8週間)になる。

総務省のデータによると、1939年の1世帯あたりの1か月平均収入は、労働者:111.63円、給与生活者:122.35円だった。

そうすると、168円というのは、当時の世帯平均収入の1.3〜1.5か月となるので、決して安くはないだろう。

当然ながら、1日5円の特別室は、さらに負担が大きくなる。

 

そもそも、戦前の精神病院の入院費はどれくらいだったのだろうか。

たとえば、東京府の資料を見てみよう。

東京府の「精神病院法に依り徴収すべき入院者の入院費」(東京府令・1937年・第24号)によれば;

 

特等病者  金6円(1人・1日、以下同様)

1等病者  金4円

2等甲病者 金2円

2等乙病者 金1円20銭

3等病者  金98銭

 

もちろん、すべての精神病者が精神病院法の下で入院したわけではないが、入院費のだいたいの目安になる。

公費で入院する場合は3等であり、自費で入院する場合は2等以上と決められていた。

この3等病者の1日約1円(正確には98銭だが)を基準にすれば、中村古峡療養所の1日3円(あるいは5円)という金額は、やはりそれなりの資産のある患者向けということだろう。

 

入院費の話が出たついでにいうと、資料室の書類のなかに「精神病者収容患者調査票」というのがあった。

これは千葉県に提出した書類の下書きらしい。

数年分の書類があるのだが、1942年のものに注目したい。

その内容をまとめて、下のような表を作った。

 

(中村古峡療養所の昭和17年度の「精神病者収容患者調査票」をもとに作成。)

 

まず、ここから読み取れることは、1942年末には72人が入院していたことである。

病院の性格から、ほとんどが自費で入院している、ある程度裕福な患者と思ってきたのだが、費用区分を見ると人数は相対的に少ないが公費患者(精神病院法+精神病者監護法による入院)もいることがわかる。

上述の東京府の基準では公費患者は1日約1円で入院していたが、中村古峡療養所の費用は最低でも1日3円ということなので、公費患者の待遇はどうなっていたのだろうか?

自費患者と同じように、公費患者にも1クール・8週間のプログラムを適用したのか?

そこらへんが、これまでの調査ではわからない。

 

そもそも、中村古峡療養所に、あまり裕福ではない公費患者が入院している理由は何だろう。

それは、(たぶん)1941(昭和16)年に千葉県の代用精神病院に指定されて以降の現象だろう、という仮説をたてた。

精神病院法に規定する代用精神病院というのは、公立精神病院の「代用」となる私立の精神病院という意味で、病院全体の何床かを「代用病床」に指定して、公費(県費+国庫補助)で患者を入院させる制度である(現行の精神保健福祉法にある指定病院も、もともとは同じ発想でつくられた制度である)。

 

ところが、厚生省の『衛生年報』によれば、中村古峡療養所は、代用精神病院に指定される前から公費患者を受け入れていることがわかった。

下の表で示したように、1939(昭和14)年および1940(昭和15)年には、数名の公費患者が入院している(これらは、精神病者監護法によって市町村長から公費で監置委託された者だろう)。

繰り返しになるが、これら患者に関しては、公費で1日3円も支払われたとは考えにくいので、病院はどのように治療を行っていたのだろうか。

患者の支払額にかかわらず、同じ治療内容だったのかもしれない(だとすれば、良心的な病院だったということになるだろう)。

 

参考までに、以下に比較の意味で、地元千葉県の「老舗」の私立病院で代用精神病院でもある中山脳病院と、公立精神病院の代表である東京府立松沢病院(当時の千葉県には公立精神病院はなかった)の統計も併記した。

これを見ると、中村古峡療養所は、入院患者全体に占める自費患者の割合は相対的に高く、つまり比較的豊かな患者が入院する、こじんまりとした病院だったといえよう。

逆に松沢病院の場合は、患者数の多さ、公費患者の多さが際立っており、個々の患者の治療や看護という点でどの程度目が行き届いていたのかと心配になってくる。

 

(中山脳病院については、この記事も参照されたい。)

 

数字が多くて、疲れてきた。

気分を入れかえて、下の絵をご覧いただきたい。

これも資料室で発見したものである。

作者はわからない。

入院患者かもしれない。

戦前の中村古峡療養所の病棟だろう。

背後に描かれた丘の下の街の先に、海岸があるはずである(が、別向きかも。確信はない)。

 

(資料室に無造作におかれていた絵。)

 

2日間の調査で、2日とも病院のすぐ下にある中華料理店で昼食となった。

近所にめぼしい店がないというのが主たる理由だが、両日ともチャーハンをおいしくいただいた。

 

(病院の近所にある唯一?の店。昼ごはんは必然的にここで食べることになった。)

 

店内のテレビでは、千葉で感染症患者が出たとのニュース。

それでも、この時は、ここまで世界的に蔓延するとは思わなかった。

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戦後日本とアルコール依存症(5) 断酒か節酒か

1959年に東京で開催された日本医学会総会で、抗酒剤の開発者であるデンマークのヤコブソン(Erik Jacobsen)が講演し、「今日アルコール依存症患者の唯一可能な治療法とは、断酒させることであり、その断酒を生涯にわたって継続させること」だと述べたことは、以前のブログでも紹介した。

これまで話題にしてきたわが国の断酒会は、まさにヤコブソンの路線を堅持しているわけである。

だが、アルコール依存症からの回復には本当に断酒しかないのか、断酒がすべてなのか?

という疑義も当然あるだろう。

 

わが国でおなじみの抗酒剤シアナマイド(Cyanamide)の開発者である向笠寛は、1962年に発表した論文で、断酒(向笠は「断酒」ではなく「禁酒」という言葉を使っている)ではなく、抗酒剤を利用した節酒療法の有効性に言及している。

それによると、シアナマイド(以下、Cy)の量を何段階かに変えて服用させ、そのあと清酒を摂取した患者のアルコール反応(血圧、脈拍、皮膚温度をふくむ体調の変化)を計366回観察した結果、少量の Cy を投与した場合は、「ゆっくり飲酒させると、酒の味を損なうことなく、少量の飲酒を楽しませることができ」る、しかも「Cy は少量でもある程度あたえてさえおれば、病的酩酊があらわれなくなることは大きな利点」だと述べる。

つまり、Cy を大量に投与した場合には飲酒による身体反応は激烈となり、患者への負担も大きくなるが、Cy が少量ならば飲酒による身体反応は軽度で、かつ軽く身体反応があるため飲みすぎは抑制され、結果として少量であっても飲酒も楽しむことができるようになる、という理屈らしい。

 

途中の詳細は省くが、向笠はこの論文の終わりのほうで、上述のヤコブソンによる断酒が唯一の治療法であるという主張を紹介しつつ、それに反論する形で、「しかし、酒精中毒者たちにとって禁酒がいかに困難であるかは周知のとおりであり、これに常人並の飲酒を許し、それで充分満足できるように、酒精に対する耐量をさげてやることは、もっとも合理的な方法」だとする。

そして最後に、「Cy による節酒療法の治療成績は、記述の如く社会的治癒率76%がえられ、中毒者から飲酒のたのしみをうばうことがないので、苦痛がすくなく、実施が容易であることを考えれば、禁酒よりも節酒を目標にした本治療法のほうがまさっている」と、抗酒剤の開発者らしく、Cy を利用したもっとも効果的と考えられるアルコール依存症の治療法を提唱するのである。

 

その後、向笠は1988年の論文でも「私は節酒療法を提唱し、いまなおその立場をかえていない」と述べている。

背景には、抗酒剤を中心とするアルコール依存症の薬物的な治療が十分に評価されてこなかったという認識もあるようだ。

向笠は同論文で「嫌酒療法を熱心にやればやるほど、がっかりさせられる。抗酒剤としていかにすぐれていても、アルコール依存者たちが薬を嫌って飲まなくなってしまえばその先どうしようもない。このような理由から治療者(医師)の熱意はどこへやら、抗酒剤療法にはもはや期待がもてないとして断酒会への働きかけを強調する」と苦言を呈している。

まるで、薬物療法から断酒会へと重点を移していった、わが国のアルコール依存症治療のパイオニア、下司孝麿(以前のブログ参照)を念頭に置いているかのような発言である。

 

同類の、いわば断酒会への傾斜を牽制する言説は向笠以外にも散見される。

たとえば、「薬物療法の発展が不充分である」と考えていた精神科医の津久江一郎は、1969年の論文のなかで、「今日、欧米はもちろん、日本においても薬物療法に対しては、なお諦め的慣習が踏襲されてか、積極的な関心が少ないのに反し、社会適応性を直接重視しての断酒会などを通じての働きかけが、極めて盛んとなってきている」と述べているし、以前のブログでも登場した斎藤学は1985年の著書のなかで、「アルコール医療に対する治療的ニヒリズムはわが国の精神科医療全般を覆って」いるとしたうえで、この道の専門家であっても「断酒会やAA(Alcoholics Anonymous)を紹介する以上のことが(・・・)可能であろうか。もし専門家が断酒会依存に陥っているとしたら、それは断酒会自体にとって危険であり不幸である」と指摘している。

 

結局、向笠が提唱した節酒療法は日の目を浴びることもなく、断酒継続が日本のアルコール依存症の中心的な治療方針であったと思われる。

このあたりの動向について、2006年の心光世津子の記述を引用すれば、わが国の「アルコール医療は、はじめから断酒継続を目標に据えた治療をしていた。ジェリネック [注: E. Morton Jellinek, 1890-1963, アメリカのアルコール依存症研究者] の主張と同様に、アルコール依存症は進行性に飲酒に対するコントロールを喪失する疾患であり、節酒はきわめて困難という立場をとった。その後、海外の研究者らの中に、大規模な調査からコントロール喪失説に異議を唱える者が現れ、節酒プログラムも提供されるようになったが、わが国においては、現在も治療方針は変わっていない」という。

 

昨今では飲酒欲求そのものを抑制するという「飲酒量低減薬」ナルメフェン(Nalmefene)が開発され、わが国でも少し前に製造販売が認められたという。

唯一の治療法が断酒継続であり、節酒は困難と言われた時代から見れば、アルコール依存症の治療は新たな段階を迎えたということだろうか。

だからといって、集団精神療法や断酒会をはじめとする自助組織がこれまで担ってきた、心理社会的な治療アプローチの重要性が今後増大することはあっても、減少していくことはないだろう。

 

「戦後日本とアルコール依存症」というタイトルで語るべきことは、まだまだある。

断酒会以外に、日本における AA の展開も興味深いし、いわゆる内観療法とアルコール依存症治療との関わりも捨てがたい。

しかしながら、これらの話題はまた別の機会に譲りたいと思う。

 

<参考文献など>

・北村正樹「飲酒前に服用する国内初の飲酒量低減薬」『日経メディカル』2019年2月22日(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/series/drug/update/201902/559874.html)

・向笠寛「Cyanamide (H2NCN) の生体アルコール反応におよぼす影響ならびに治療的応用」『精神神経学雑誌』64(5): 469-491 (1962).

・向笠寛「嫌酒療法」、大原健士郎・渡辺昌祐編『精神科・治療の発見』星和書店 (1988), pp. 277-289.

・斎藤学『アルコール依存症の精神病理』金剛出版 (1985).

・心光世津子「アルコール依存症と医療化」、森田洋司・進藤雄三編『医療化のポリティクス―近代医療の地平を問う』学文社 (2006), pp. 115-127.

・津久江一郎「アルコール中毒とくにアルコール嗜癖者の治療ならびに問題点」『広島医学』22(9): 794-802 (1969).

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旭川での私宅監置展 附 旭山動物園へ

今月のこと、2月9日に 旭川市市民活動センターCoCoDe で映画『夜明け前―呉秀三と無名の精神障害者の100年』の上映会があり、合わせて「私宅監置と日本の精神医療史」パネル展が開かれた。

主催は旭川精神障害者家族連合会であり、全国障害者問題研究会旭川サークルの協力もあって実現した企画である。

旭川でこの映画を上映するのは3回目(試写会を含めれば4回目?)だという。

 

なにぶん遠方であるので、私の手元にある展示パネルを旭川にお送りし、名古屋からこの会の成功を見守るということだった、最初は。

だが、年度末になって研究費をかき集め、なんとか旅費を捻出できたので、頼まれもしないのに旭川まで「押しかけ」ることにした。

展示して見てもらうだけでは伝わらないところを、現地まで行って説明したいという気持ちが強くあった。

 

(2020年2月9日、早朝のJR旭川駅)

 

旭川入りしたのは前日の8日である。

主催者の方々が空港まで迎えにきてくれて、パネルを展示している「ときわ市民ホール」に案内してくれた。

ここでの展示は、夕方には撤収。

翌9日は上記の CoCoDe に会場を移し、朝9時ごろからパネルの展示準備を行った。

この日は快晴で、朝の気温はマイナス22度!

ふつうのスニーカーで来たので、「足元には気をつけて」とまわりの人たちからは何度も心配された。 

 

(レトロな雰囲気の 旭川市市民活動センターCoCoDe)

 

(CoCoDe のホールで、上映会と展示会などの準備中)

 

開場はお昼。

来場者には展示パネルを自由に見てもらって、午後1時半から映画上映。

休憩をはさんで午後2時40分くらいから4時まで、映画や展示に関する「質問と交流」が行われた。

会場に「押しかけ」た私にも、解説の時間を用意してくれていた。

精神医療史の一般的な話になってしまった感があり、北海道らしい話題を事前にもっと予習してくればよかったとやや反省。

このイベントには70人弱くらいの人が集まった。

旭川から結構離れたところから来た人もいたようで、需要があるならどこででも展示会を開催したいと思った。

展示は夕方に撤収し、会場をもとにもどしたあと、関係者で居酒屋へ。

北海道らしい食事を堪能した。

ともかく、イベントの企画と実施に関わった人たちに、ひたすら感謝の2日間だった。

 

ところで、翌10日のこと。

せっかく旭川に来たし、帰りの名古屋便が発つまでにはだいぶ時間があり、動物園ウォッチャーとしては旭山動物園を訪れないわけにはいかない。

いろいろ評判になっている催しものなどがあるようだが、ここでの動物の暮らしぶりを静かに見て歩きたい。

朝9時すぎ、JR旭川駅前にある動物園行きの6番のバス停に行くと、すでに長蛇の列。

1台目のバスには乗れず、2台目に乗る。

動物園に着いたが、開園は10時30分ということで、正門前で20分くらい待つことになった。

昨日よりはだいぶ気温はあがったが、それでもマイナス10度くらい。

寒さが身にしみる。

 

(旭山動物園の正門からのアプローチ。開園とともに、正門付近にたまっていた入園者がぞろぞろと奥へ。)

 

あまり難しい話をするつもりはないが、そもそも「動物園はどうあるべきか」について考えたりする。

旭川までの飛行機のなかで、『動物園から未来を変える―ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』(川端裕人・本田公夫著、亜紀書房、2019年)という本を読んでいて、いろいろ刺激を受けた。

副題にあるように、ブロンクス動物園を中心に書かれてはいるが、欧米において動物園の役割や機能がどのように変化してきたか、最近のトレンドはどこにあるかが、分かりやすく整理されている。

 

旭山動物園のなかを歩くまえに、上記の本に全面的に依拠して、ここ数十年の動物園のトレンドをざっとまとめておきたい。

まず、動物園は「種の箱舟」であるという主張が伝統的にある。

絶滅のおそれがある種を飼育し、繁殖させ、種を保存すること、やがては野生に復帰させることも視野に入る。

が、現実的には難しい問題を含んでいる。

 

また、動物園は来園者を念頭に置いているわけだから、展示方法も重要になってくる。

ここで登場するのが、ランドスケープイマージョンという概念である。

檻や金網などを極力さけて、可能な限りその動物が生息している景観をつくり、自然にみえる展示を演出するだけではなく、「動物がいる空間と来園者の空間をひとつの連続した景観としてデザインする」、という壮大なものである。

 

他方、環境エンリッチメントという考え方もある。

飼育下の動物の環境を豊かなものにする、いわは動物福祉的な実践である。

たとえば、動物園での暮らしをなるべく単調なものにしないために、工夫しないと餌が簡単には取れないようにしたり、プラスチック製の遊具などを展示空間に入れたりするものである。

ただ、遊具などの人工物があると展示効果が削がれるという意味で、自然景観にこだわるランドスケープイマージョンとは対立する面がある。

 

さらに、動物園での飼育自体を悪とするアニマルライツという立場もある。

 

アニマルライツはさておき、動物園の未来を考えたとき、上述したような、種の保存としての役割、ランドスケープイマージョン/自然な展示、エンリッチメント/動物福祉、をいかに融和させていくかが鍵となる。

そして動物園は、次世代の人たちが自然活動や環境保全への行動を起こすためのゲートウェイでありたい、と述べられている。

 

これらすべての点で、日本の動物園は厳しく評価されねばならないかもしれない。

などと、やや頭でっかちになって入園するわけだが、獣舎をめぐるあいだ、そんなことはだいたい忘れている。

 

旭山動物園では、北国の動物たちがとくに元気のようだっだ。

ゴマフアザラシの一群がいて、その泳ぎをさまざまな角度から観察できる(私の「ホーム」である名古屋の東山動物園には1頭のみ。おかげで余裕で泳ぎ回っているが)。

シロクマも活発に動き回っている。

シンリンオオカミはここでも(東山動物園と同じように)寝ていたが。

北国らしさといえば、下の写真にある「北海道産動物舎」も地味ではあるが、なかなかいい雰囲気を出している。

 

(北海道産動物舎。フクロウ、ワシ、タカなどがいる。)

 

ただ、寒いのは苦手と思われる動物、たとえばチンパンジーは、いまひとつ元気がないように見えた。

この地方では、厳冬には室内の暖かい環境に閉じこもるほかあるまい(ちなみに東山動物園のチンパンジーは、真冬でも、雪の日でも外に出ており、積もった雪を珍しそうに食べるものもいた。もっとも、気温は氷点下にはなっていないはず)。

下の写真にあるように、果物や野菜が床に撒かれ、壁にそってふんだんに置かれているが、簡単に手を伸ばせば食べ放題という点で、「環境エンリッチメント」的にはマイナスかもしれない(私が見えないところで、工夫がされている可能性は大きいが)。

 

(ちんぱんじー館では、上からもチンパンジーを観察できる。)

 

動物園ブログではないので、旭山の話題は「こまい」の展示でそろそろ終わる。

この展示は、たしか、ほっきょくぐま館の階下あたりにあった。

昨夜、今回のイベントでお世話になった人たちと居酒屋に行った際、「こまい」の料理があったので急に親近感をもったのである。

 

(「こまい」の展示)

 

これで本当に最後、一言だけ。

日本の動物園における展示デザインの貧困問題が指摘されることがある。

この点について、『動物園から未来を変える―ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』の記述は以下のように手厳しい。

 

今ではかなりの動物園で、やる気のある飼育員が独自のコンテンツを手書きやら、あるいはパソコンでプリントアウトして、さらにラミネート加工などして展示している。手作り感満載で、素晴らしい出来栄えのものもある。でも、サインを作るプロとして雇用されているわけではないから、個々人がたまたま持っている能力や、費やすことができる時間によっても、出来栄えは大きく左右される。そもそも、クオリティをコントロールできる人がいないことがあり、その場合は、見栄えではなく内容が本当に妥当かも心配だ。現状、学校の壁新聞レベルのものを、飼育員の「独自調べ」で掲示していると言われても仕方がない。

 

上の写真の「こまい」の展示サインはどうだろうか。

飼育員の人がつくったかどうかは不明だが、「手作り感満載」といえばそうかもしれない一方、親しみがもてる出来栄えである。

あえてそのようにデザインしたのかもしれない。

旭山動物園全体の展示デザインは、こうした雰囲気に統一されおり、むしろ評価できる点ではなかろうか。

 

さて、お昼過ぎに動物園から旭川駅にもどり、隣接するイオンのフードコートで昼食をとる。

そのあと、泊まったホテルのまえで家族会の方々と待ち合わせ、車で空港まで送っていただいたうえに、お土産まで。

空港までの、高低差はあっても、ひたすらまっすぐの道が、北海道らしいと思った。

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戦後日本とアルコール依存症(4) 「家族の病」としてのアルコール依存症?

1980年代なかばに私が見学させてもらった東京都内の断酒会例会の雰囲気は、昨今の断酒会にも引き継がれているのだろうか。

当時、例会参加者の多くが男性の酒害者(患者/元患者)とその妻という構成で、前者が飲酒にまつわる体験談(主として失敗談、後悔、悔恨)を順々に話す一方、後者は会場の一角でお茶の係をしながらそれらの話を静かに聞いている、という感じだった(ただし、当時から女性酒害者専用の例会も存在していたので、そこでの雰囲気は違っていたと思われる)。

 

下の写真は、1987年12月の東京断酒新生会の例会の会場および日程の一覧である。

各区、各市、各病院などで開かれる例会の会場とその最寄り駅、(写真では見えないが)代表者の氏名と連絡先の電話番号が記入されている。

「日」のみは、月が変わるたびに手書きで記入される。

「時」は開始時間で、,18時30分からを意味している。

18時、13時、10時の開始時間もあるのだが、ほとんどの例会が,任△襦

これは仕事帰りに例会に立ち寄ることを考えたスケジュールだろう。

各会場の開催は月1回だが、日々都内のどこかの会場で例会が開かれていることになるので、例会めぐりをする熱心な会員も少なくないようだった。

「夕方、赤提灯ではなく例会に顔を出すことで、断酒を続けられるのです」と、聞いた。

ちなみに、一覧によれば女性専用の例会会場は都内に3か所あるが、いずれもスケジュールの13時からの開始である。

女性は日中の時間帯は家にいることを前提としていたのだろう。

 

(「東京断酒新生会(12月)例会 相談、病院、保健所、家族会 日程表」より)

 

ところで、わが国の断酒会はアメリカ発の AA に起源があることは以前の記事で述べた。

AA とは、アルコール依存症患者のためのセルフヘルプグループ Alcoholics Anonymous の略称であり、上記の東京断酒新生会はこの AA を参考にして1957年に結成されている。

だが、アメリカとは社会的な背景がずいぶん異なる日本で展開していった断酒会は、独自の道を歩んでいく。

そのため AA と断酒会との比較は、関係者のあいだでしばしば言及され、社会学や人類学に関わる研究者の格好の研究テーマにもなっている。

 

21世紀にはいってからの比較的新しい研究としては、メルボルン大学の Chenhall らによる、日本各地の断酒会を対象としたフィールドワークがある。

それによると、断酒会には「断酒誓約」が、AA には「12のステップ」という、いわば回復の指針があるのは共通だが、後者はそのなかで God や greater power への言及がある一方、前者では宗教的な概念は登場しない。

AA が依拠しているキリスト教的な原理が、日本的な文脈のなかでは理解されにくい、ということのようだ。

そして、もっとも大きな違いは、AA が匿名(anonymous)で運用されているのに対して、断酒会の活動は非匿名性にもとづいている点である。

ある断酒会の会員は、「侍は敵のまえで自分の名を叫んだ。かつて侍がそうしたように、断酒会のメンバーは例会で自分の名を言うことになっている」と語ったという。

Chenhall らは、日本のいわゆる「恥の文化」論と「断酒会で自分が何者であるかを隠すのは恥である」という思考との関連に思いをはせている。

また組織について、AA はメンバーが横でつながる構造(a flat organization structure)であるのに対して、断酒会の意思決定はトップダウンで、会員同士の関係は垂直的である(vertically)と述べる。

そして、断酒会におけるアルコール依存からの回復とは、患者個人の道のり(journey)ではなく、その治療過程において家族が包含されること(inclusion of the family in the therapeutic process)と密接に関わっていると結論づける。

 

(断酒会の例会で配られた紙片。いつ、どこで開かれた例会だったかは、記憶にない。)

 

どんな病気であれ、回復していくのは患者個人であるが、家族がその治療過程に関わっていくことは自然と思う。

だが、Chenhall らの指摘どおり、断酒会が発行した印刷物を拾い読みするかぎり、患者だけがアルコール依存症にかかっているのではない、これは患者の「個人の病」ではなく「家族の病」でもあるので、患者(おもに夫)への家族(おもに妻)の関わり方を変えることで、回復への道をたどることができる、というモデルが中心に置かれているようだ。

 

ある患者の妻が書いた手記の一部を、断酒会の会報(『東京断酒』第215号、1987年)から紹介したい。

「家族の病」という視点が関係者のあいだで共有されていることを示す一例といえよう。

手記のタイトルは「愚妻愚母」である。

この妻が夫の入院手続きのために病院を訪れ、主治医と面談する場面が次のように書かれている(一部は伏字にしている)。

 

昭和〇〇年〇月〇日、二度目の〇〇病院に入院、入院の手続きをすませ、主人を病室に送った後での〇〇先生との面談の時です。

「奥さんあなたもアル中です、すぐに断酒会に入会しなさい。」

「あの、私、お酒を飲みませんが?」

「奥さん、あなたもアル中なの、飲まないアル中。とにかく断酒会に入りなさい。(・・・)」

「ハイ。」何んの事やらさっぱりわかりません。どうして私がアル中なのか、でも、先生の言う事ですから逆う訳にもいかず納得出来ないまま、〇〇支部長 [断酒会の役員] の家に電話しました。

(・・・)

断酒会に出席していても、子供達の事が気になるし、私は本人ではないと言う考えが先行して皆様のお話が少しも頭に入りません。主人の代りに出席していると言う考えでおりました。

そして、何時の頃か、例会出席を重ねる中に、ふと、自分のして来た努力がまるでムダな事、逆に主人を悪い方へと追いつめていた事に気付きました。

“愚妻愚母” まったくその通りでした。

 

「“良妻賢母” 私もこの言葉の末席に入れるものと信じて、一生懸命努力してき」た結果、断酒会の例会出席を重ねるうちに“愚妻愚母”だったという認識に至ったという。

手記によれば、その後に退院した夫は断酒会に入会し、4年間断酒が続いているということで、この時点ではハッピーな展開になっている。

妻は断酒会に感謝の言葉を述べている。

私はこの家族の回復過程について評価を行う立場にはないし、するつもりもない。

ただ、妻をこのような認識に至らしめたものは、何だったのかと思う。

それは、繰り返しになるが、「家族の病」という考え方ではなかろうか。

この考え方は、酒害者とその家族から、内発的に出てきたものではないだろう。

 

振りかえれば、前回のブログで引用した足立区の父親殺害事件は、酒害者である父親個人の問題行動に(のみ)焦点が当てられていた。

妻子はあくまで犠牲者という位置づけだったのではなかろうか。

ところが、時代は移り変わり、飲酒問題における「家族の病」説が台頭してきたのである。

 

 

(東京都立精神衛生センター『アルコール“家族教育プログラム”テキスト』より。“アルコール依存症は『家族病』”と書かれたページ。私は1987年にこのプログラムに参加させてもらった。)

 

久里浜病院での勤務経験もある精神科医の斎藤学は、1985年に出版された著書『アルコール依存症の精神病理』のなかで、「今や、「アルコール依存症は“家族病”である」との認識が、この疾患への対応に必須のものとなりつつある」と述べている。

そして、家族の中でも、酒害をめぐる夫婦関係に多くのページを割いている。

それによると、「成熟した男と女の人間関係」の成立に失敗している夫婦関係は、「互いに親とみたててこれに依存しようとする一種の競合関係に陥」り、「夫婦の一方が何らかの理由で“ケアを与える成人”の役割を受容するようになると、関係は次第に親子のそれへと転化してい」き、「こうした退行に向かう夫婦過程の途上に登場」するのが飲酒問題だという。

そのうえで、「飲酒問題の影響のみを取り上げたり、配偶者の人格傾向のみに注目しようとしたりといった片寄った態度は誤った結論を導きやすい」し、「“妻のパーソナリティが夫を飲ませるのか、夫の飲酒によるストレスが妻を混乱させるのか”という二者択一的態度ではなく、“妻のパーソナリティも夫の飲酒問題によるストレスも”念頭に置きながら両者の相関を検討していくという、複眼的分析方法が必要とされ」ると述べ、「家族の病」という視点を強調しているようである。

 

斎藤の飲酒問題と夫婦関係の言説は、彼の著書で紹介されているジャクソン J. K. Jackson(1954年)によるアルコール依存症の進行にともなう配偶者(妻)の対応過程の「七段階説」にヒントがあるのかもしれない。

ジャクソンはアルコール依存症患者の妻らに面接調査を行い、「夫の飲酒問題の発展に反応して、妻と家族成員の態度」は、次のような7段階の変化をするという。

 

〆覆眤召硫搬伽員も夫のアルコホリズムを否認しようとする。

⊆匆颪らの孤立、疎外に直面してこれを無視しようとする一方、妻は不全感にさらされる。

「解体期」で、妻は夫の飲酒問題を永久的につづくものと受けとめるようになり、事態の建設的な処理を放棄するようになる。

げ搬欧虜胴柔がはじまる。妻は夫の行動を恐れるよりは、むしろあわれむようになり、従来夫の義務と考えられてきたようなさまざまな役割を自分で果たすようになる。

ヌ簑蠅らの逃避に努力が集中し、可能であれば別居する。

ι廚鮟いた家族成員間で一種の再構成が行われる。

夫のアルコホリズムが回復し、今度は夫をまじえた形で家族の再々編成が行われる時期である。妻はそれまで引き受けていた種々の責任のうち、元来夫に返すべきであったものを返す。

 

ここで示されているのは回復へのプロセスであるが、妻が肩代わりしてきた夫の役割を、最終的には夫に返す、というところがポイントである。

「本来の」家族の役割がもとにもどって、はじめて「家族の病」からの回復が完結する、ということである。

これに関連して、断酒会が出したパンフレット(『奥さん、あなたにもできることがあります!』東京断酒新生会、年代不詳、おそらく1980年代)からの引用で終わりたい。

 

家庭の主人の座を、早く夫に返しましょう。

アル中の夫を持ちますと、生活の必要上、いつの間にやら家庭の主人の座に妻が収まっていることに気付きます。夫が恢復に向かったら、なるべく早く夫に主人の座を返すことです。

私が若い頃読みましたスティーブンソンの“妻”という小説の中に「男というものは、家に妻と子供という人生の可愛いお荷物があるから、元気に働くものだ」という一節がありますが、私達も着なれぬヨロイを脱いで、妻らしい装いで夫の可愛いお荷物になってみましょう。夫に愛される妻になりましょう。その方がきっと私達には似つかわしいと思います。

 

どうだろうか。

今日的な視点からは、違和感とツッコミどころ満載の記述かもしれない。

「家族の病」をめぐる昨今の議論はどうなっているのだろうか。

十分に調べられる余裕がないのだが、気にはなる。

 

<参考文献>

・Chenhall RD, Oka T: An initial view of self-help groups for Japanese alcoholics: Danshukai in its historical, social, and cultural contexts. International Journal of Self Help and Self Care, 5: 2 (2006/2007), 111-152.

・斎藤学『アルコール依存症の精神病理』金剛出版 (1985).

 

(つづく)

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戦後日本とアルコール依存症(3) 紅露みつ、酔っぱらい規制法、久里浜病院

まずは引用から。

 

「今後わが国がいわゆる酔っぱらい天国なる汚名を返上して真の文明国として国際社会に伍していこうとするためには、現行法の規定ではすでに種々の点で不十分であると思われますし、とりわけ、わが国において開催予定の次回オリンピック大会を目前に控えているといった事情などを考慮しますと、その点を特に痛感するものであります。」

 

ここでいう「次回オリンピック」とは、1964年の東京オリンピックである。

オリンピックの開催が、社会の大小さまざまなしくみを変えることへのある種のエクスキューズとされるのは、2020年の東京大会でも同じかもしれない。

それはともかく、上記の引用は「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」の提案理由として説明されたものの一部である。

 

この法律の制定に尽力したのが、日本初の女性国会議員の紅露みつ(1893-1980)だった。

上記の「今後わが国がいわゆる酔っぱらい天国なる汚名を返上して・・・」は当時参議院議員だった彼女が、1961年4月18日の参議院地方行政委員会で発言したものだ。

さらに紅露は同委員会で、「年末年始や花見どきはいうに及ばず、盛り場、街頭、汽車、電車などの公共の場所や乗物において目にあまるめいてい者を日本ほど多く見かける国はない」と指摘する一方、女性議員らしいと言ったら語弊があるだろうが「酒乱に基づく家庭悲劇も一向に跡を絶たないのが実情であ」るとも述べている。

 

「家庭悲劇」に関して、衆参両院の女性議員に「酩酊者の行為を規制するための立法についての検討の決意を促したものは(・・・)東京都足立区に起こった、未成年の姉妹による酒乱の父親殺し事件」だったという(外勤警察研究会、1961年)。

1958年に起きたこの事件を、当時の新聞記事(朝日新聞、1958年6月16日)は「酒と貧しさ・父の日の悲劇 姉妹二人で絞殺す “父さえおらねば幸せ”と」という見出しで、次のように報じている(なお、テキストの一部は伏字等にしている)。

 

十五日の午後、酒のみで働く気のない父親を娘二人が絞め殺すという事件が東京足立区であった。「酒と貧しさが生んだ悲劇だ」と取調べた警官はいっている。父に感謝しようという十五日の“父の日”―その日に起った悲しい父親殺しだった。

 

同日午後二時半ごろ〇〇署に「父ちゃんを殺しました」と弟の手を引いた姉妹が泣きながら入ってきた。足立区〇〇バタ屋Aさん(四四)の長女、女店員(一六)次女(一三)で、事情をきいた署員がAさん宅にかけつけると、Aさんは首にヘコ帯をまきつけたまま死んでいた。姉妹の話では、Aさんは大酒飲みで一日家にゴロゴロしており、酒をきらすことがなかった。飲むと妻のBさん(四五)を殴りつけた。“エントツ長屋”といわれる間口一間、奥行二間のバラックに父を置いたまま、母娘三人が働きに出ていた。このほか男の子三人がいるが、ほとんど家によりつかなかったという。母親は日雇い人夫になって毎日三百七十円をかせぎ、長女は〇〇のソウザイ屋に住み込んで、給料三千五百円をそっくり家に差出していた。中学二年の次女まで女中になって働いた。この付近に多い長欠児童の一人で“モグリ就職”が見つかるたびに勤め先を変えていた。こうしたなけなしの生活費まで父親は飲んでしまったという。

 

と、記事はまだ続くのだが、ある朝妻のBさんは「父ちゃんには愛想がつきた」と、「労務手帳に三百円をはさんで家に置いたまま」夜になってももどらない。

Aさんは「この金までショウチュウ代にかえてしまった」だけでなく、長女をつかまえて「お前たちもグルになって母ちゃんを隠しているんだろう」とどなりつけ、酒を飲んで寝てしまう。

翌朝、Aさんと娘たちはBさんを探しに山谷(さんや)に行くのだが、Aさんは酔って「歩けない」と言い出す。

子供たちがAさんをかつぐようにして家にもどるのだが、この時に次女が姉に「父ちゃんを殺そう。みんな幸せになれる」と話したという。

 

以上の事件を背景に、紅露みつをはじめとする超党派の婦人議員懇談会は、1960年5月には「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」をつくり、第35回通常国会で提案すべく準備を進めていた。

日米安保条約改定をめぐって国会が紛糾し、この年には法案の提出には至らなかったものの、翌1961年の第38回国会に発議され、同年5月19日に「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」として成立、同年6月1日に公布された。

「酩酊者規制法」あるいは「酔っぱらい規制法」などと略称される現行法である。

 

条文のなかで、以下の第6条の警察官が酩酊者の住居に立ち入ることを可能にする、立入権の規定については議論があった(下線部を参照)。

 

第六条 警察官は、酩酊者がその者の住居内で同居の親族等に暴行をしようとする等当該親族等の生命、身体又は財産に危害を加えようとしている場合において、諸般の状況から判断して必要があると認めるときは、警察官職務執行法(昭和二十三年法律第百三十六号)第六条第一項の規定に基づき、当該住居内に立ち入ることができる

 

ここで示されている警察官の立入権は、警察官職務執行法第6条の規定によるとされている。

もちろん警察官職務執行法は立ち入り全般を規定したもので、酩酊者の家庭にターゲットを絞っているわけではない。

「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律案」の審議の過程では、現行法である警察官職務執行法第6条の規定によって警察官の住居内への立入りも可能であるのだから、わざわざ酩酊者の法案のなかに重ねてこのような規定を設ける必要はないのではないかといった意見もあったが、「家庭悲劇の発生を防止したい」という婦人議員懇談会の「切なる希望」があってこの規定が入ることになった(小堀旭、1961年)。

 

紅露は1961年5月18日の衆議院地方行政委員会で、酩酊者規制法の第6条について次のように述べている。

 

「六条の立ち入りにつきましては、いろいろ立案の途上に意見が出まして(・・・)立案を思いつきました動機が、家庭の婦人や子供を、悪い癖のある酩酊者、飲酒者から守ろうという意図で出発したものでございますから、この点は特に深い関心を持って立案に当たったのでございます(・・・)」

 

と、第6条の意義を強調しているが、

 

「家庭の方までそのようにきびしくここに打ち出すということになりますと、何か必要以上に飲酒家に刺激を与えるのではないかということをおそれたわけでございまして(・・・)」

 

というそれに続く発言は、「飲酒家」への「配慮」なのだろうか。

 

ところで、1961年6月に公布された「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」には、附帯決議が付されている。

まず参議院からは、「酩酊者の保護施設及びアルコール慢性中毒者の治療、収容施設に対する諸措置は不十分と認められるので、政府はできうる限り速やかにこれが予算措置を講じ、本法の実効を期すること。」(第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第19号、1961年4月27日)という付帯決議が、そして衆議院からは、ほぼ同じ内容の「酩酊者の保護、収容、治療等の施設を拡充、完備するため、できうる限りすみやかに予算措置を講ずること。」という附帯決議が出された(第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第32号、1961年5月19日)。[細かいことだが、参議院のほうは「地方行政委員会会議録」、衆議院のほうは「地方行政委員会議録」となっていて、「会」をめぐる表記が異なっている。単なる誤植ではないようで、これは衆参で異なる慣習なのか?]

 

(国立療養所久里浜病院の全景 [撮影年代不詳] 出典: 国立療養所史研究会編『国立療養所史(精神編)』財団法人厚生問題研究会、1976年)

 

上記の附帯決議にもとづいて、1963年にわが国最初のアルコール専門病棟が国立療養所久里浜病院に開設された(上の写真)。[これも細かいことだが、1963年に開設されたことは確実と思われるものの、開設月の記述が文献でバラバラである。「1963年8月」(田中孝雄、1977年)、「1963年10月15日」(『社会保険旬報』、1963年)、「1963年11月」(国立療養所史研究会、1976年)など。また開設時のベッド数の記述もまちまちで、設立時の正確なところが不明のままである。そんなに大昔の話ではないと思われるが、歴史は軽視されているということか。]

この病院は、現在は独立行政法人国立病院機構 久里浜医療センターとなっているが、出発点は1941年に設立された横須賀海軍病院野比分院である。

戦後は国立療養所となり、結核療養所として機能していた時代があった。

しかし、結核患者の減少にともなって、病棟を転換することが求められていたようだ。

1963年4月、まだ完成していないアルコール専門病棟に、慶応義塾大学の精神科医局から河野裕明と なだいなだ のペンネームで知られる堀内秀が着任した。

 

なだ によれば、「博士論文も提出し、そろそろ人生の方向を決めねばならぬと思い始め」ていたところ、「ある日教授に呼び出され、突然久里浜病院に行け」といわれた。

絵に描いたような医学部人事の一幕であるが、教授からは「アルコールを専門にやるなら、外国留学もさせてくれるそうだ。フランスにまた行きたいだろう。だからお前、久里浜に行け」とも。

留学が「抱き合わせ」になった「おいしい話」に、なだ は「ちょっぴり食指が動いた」が、「あのみんなが嫌がるアルコール中毒の患者を、以後ずっと世話をしなければなら」ない「アルコール中毒の専門家になるという考えがブレーキをかけた」という。

なだ は、自分のアルコール依存に関する不勉強を理由に久里浜行きを断ろうとしていたが、教授からは「おまえで、かまわん。アルコール中毒は治らんよ。誰がやっても、同じだ。不勉強のおまえがやろうと、勉強した別の誰がやろうと、結果は同じだ。不勉強など心配せんでいい。堂々と専門医の看板を掲げろ」といわれ、「さすがの私も参った。答えようがなかった」と述べている。

“アルコール中毒 物語風”というタイトルの本に収められた文章であるので、教授とのやりとりのくだりには、多少の脚色はあるかもしれない。

いずれにせよ、アルコール依存を専門的に学ぶためにヨーロッパに留学した なだ であるが、久里浜病院で応用できそうな、「これだ」と思える治療モデルには出会えず、「すべて白紙から出発しなければならない」という思いで帰国した。

 

河野と なだ がはじめた、その「白紙から出発」したという治療スタイルは、「久里浜方式」として知られることになる。

それはどんなものなのか、男性患者専用の「東六病棟」―通称・東六(とうろく)―の『入院される皆様へ』というパンフレット(下の写真)から一部の記述を拾ってみたい(私が1980年代に久里浜でもらったものなので、当初のプログラムとは異なる部分もあるかもしれない)。

 

(国立療養所久里浜病院(アルコール科)東六病棟『入院される皆様へ』の最初のページから)

 

■東六病棟について■

・アルコール依存症の、第一期治療(内科的)と、第二期治療(リハビリテーション)を併用した男性だけの病棟です。

ヽ放病棟で自由入院という形をとっています。

⊇乎沈鎖昔屠,基盤となり、そのうえに個人精神療法あるいは生活療法、その他が行なわれています。

集団生活を行なう上で治療の効果をあげるために、全入院患者により患者自治会というものが組織されています。

て院期間は3ヶ月です(但し、西下及び他病棟からの転入に関しては、この限りではありません)。

 

などと説明され、「日課表」、「週間予定表」、さらに「月間予定表」(下の写真)が、掲げられている。

このうち、「久里浜方式」の特徴的なものとしてしばしば言及されてきた、「月間予定表」のなかの「行軍」に注目したい。

行軍について『入院される皆様へ』では、次のように説明されている。

・心身の鍛錬を目的とし、参加することに意義があります。

・苦しい事もつらい事も、皆と一緒にやれば案外できるものです。(お互い助けあいながら)

・何キロかの行程を歩きながら、何かをつかみとって下さい。

・間近に詳しい説明を行います。(参加の有無は、医師の指示に従って下さい。)

 

(国立療養所久里浜病院(アルコール科)東六病棟『入院される皆様へ』のなかに記載されている「月間予定表」。毎月第3水曜日に「全員参加」の行軍が入っている。)

 

この行軍をプログラムに入れたのは、なだ のアディアだったという。

なだ によれば、「折角ヨーロッパまで行かせてもらったというのに、その成果らしいものをぜんぜん示さないのでは、一年間何をしていたのだ、いわれかねない。ただ遊んできたわけではないことを、なんとか示さねばならな」かったので、「まずイギリスやチェコで行われていた、集団精神療法のまね事を、週一回行うことにした」のである。

さらに、「チェコのスカラ博士のまねをして、患者を歩かせることにした」のだと。

「スカラ博士」とは、チェコの精神科医でアルコール依存症治療の専門家 Jaroslav Skála (1916-2007) と思われる。

ネットで検索する限りでは、この精神科医に関する記事はチェコ語のものがほとんどのようである(Wikipedia の英語版で彼のおおまかな年譜はわかるが)。

このスカラ博士は、プラハ郊外の病院周辺の野山で「患者を、毎日十五キロから二十五キロ歩かせ」た。

「自然や空気や森の緑には、強い治癒力があると、自然愛好家スカラ先生は、信じ」ていたためらしい。

ただ、なだ 自身は「体力の点でとうていまねができそうにないから、月一回に減らさせてもらった」のであった。

行軍と呼んだのは、「まだ軍隊経験者も多い時代だった」ためであり、「行軍がどうして治療につながるのかと質問されたら、きっと答えるのに往生した」だろうが、「少々の雨の中でも行軍なら我慢して出かける」こともできるという事情もあったようだ。

なだ によれば、行軍はとても評判がよく、「患者たちは、この行軍を素直に喜び、まるで遠足に興奮した少年時代にかえったかのように、前日から弁当を準備してはしゃいだ」と回想している。

 

なだ の著書のなかで、彼が(前回のブログで紹介した)松村春繁にはじめて会うくだりも面白い。

なだ がまだ断酒会についてよく知らなかったころ、松村が断酒会を広める全国行脚の一環で久里浜病院を訪れた。

松村は なだ に入院患者の前で話をさせてくれと頼む。

「土佐なまりのこの痩せこけた小男の正体をつかみかねて」いた なだ は、「変な話をされて、病棟をかき回されても困るな」というためらいもあったが、「ともかく彼に話をさせ、どんな話をするか、聞いてみよう」ということになった。

松村はひたすら自分がひどい酒飲みで、ダメな人間であったかをさらけ出した。

すると「出席していた患者の間に、稲妻のようなものが走」り、なだ は「彼のど迫力に圧倒され、しばらく黙っていた」。

その後、松村は、ごく自然に、久里浜を定期的に訪れる客人になったという。

 

なだ は久里浜での数々のエピソードを、あえて諧謔的な言葉を選んで表現しているようにみえる。

ともすればアルコール依存症の入院患者たちの病気や回復にまつわる物語を、暗く、深刻で、悲愴で、ときにはお涙頂戴的なトーンで覆いつくしてしまいがちな社会や人々の反応に対して、静かに抵抗を試みているということか。

他方、ルポルタージュというジャンルは、われわれの気持ちを煽ることで存在感を示す、という面があるだろう。

2006年にある雑誌に掲載された「只いま入院患者36名!国立久里浜病院「東六号病棟」の”悔悟”と”希望”」という記事は、「”異常飲酒”の果てに、この病棟へ”辿りついた”患者達の、苦汁に満ちた「過去」と、明日のためにその清算を目指す彼らが、ここで送る生活の「実状」をルポ―。」というリードではじまり、「規律を重視する”軍隊式”日課」をこなす久里浜病院での3ヶ月の入院生活を追っている。

記事によれば、東六での入院生活の苦しさを紛らわせるためか、全部で9番まである「東六エレジー」なるものが歌い継がれてきたという。

たとえば、

 

お酒の為といいながら

人も嫌がる久里浜で

三月(みつき)をおくる離れ部屋

可愛いカアちゃん淋しかろう

 

夢に出てきた下の子が

父ちゃん頑張れお願いと

目覚めて聞こえる波の音

思わずほろりと一しずく

 

やっと退院の声聞いて

やるぞ見ていろこの俺も

酒とこの世はさようなら

可愛いカアちゃんの瞳が浮かぶ

 

といったものだが、アル中の夫・支える妻・親思いの子ども、という、ある時代のステレオタイプが表現されているようだ。

東六という男子病棟固有の状況を反映していることは確かではあるものの、こうした家族のありようが、黎明期の断酒会組織を維持・発展させてきた構造と深く関わっていたともいえるし、また、アルコール依存症は「家族の病」であるという言説にリアリティをあたえる土台がここらへんにあるのではないかと思わせるのだが、これらの話題は別の機会に述べることにしたい。

 

<参考文献など>

・第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第15号、1961年4月18日.

・第38回国会 参議院 地方行政委員会会議録第19号、1961年4月27日.

・第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第31号、1961年5月18日.

・第38回国会 衆議院 地方行政委員会議録第32号、1961年5月19日.

・外勤警察研究会編『酔っぱらい規制法:酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律』(日刊労働通信社, 1961).

・小堀旭「酩酊者規制法に規定された警察官の職務権限について」『警察学論集』14(7): 77-96 (1961).

・「国立久里浜病院にアル中専門病棟」『社会保険旬報』773: 20 (1963).

・国立療養所史研究会編『国立療養所史(精神編)』財団法人厚生問題研究会 (1976).

・なだいなだ『新装版 アルコール中毒 物語風』五月書房 (1996).

・諏訪勝「只いま入院患者36名!国立久里浜病院「東六号病棟」の”悔悟”と”希望”」『財界展望』臨時増刊 26(9): 194-200 (2006).

・田中孝雄「久里浜病院アルコール症病棟―その治療と限界―」『月刊福祉』60(7): 40-43 (1977).

 

(つづく)

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