近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
東京・有楽町マリオンでの展示会などを終えて

おととい(3月3日)、呉秀三・樫田五郎による私宅監置論文が刊行されてからちょうど100年が経つのを記念して、東京の有楽町マリオン(11Fの朝日ホールおよび朝日スクエアA)で記念行事が行われた。

そもそもこの行事の主催者である公益財団法人日本精神衛生会の源流は、呉秀三の主唱により1902年に設立された精神病者慈善救治会にある。

したがって、日本精神衛生会がこの記念行事を行うのは自然の流れだったというべきかもしれない。

呉秀三の孫にあたる、ふたりの呉さんも参加された。

驚くほど気さくな方々だった。

 

さて、わたしに与えられたミッションはふたつ。

ひとつは、午前中に朝日ホールで行われた岡田靖雄先生との対談「日本の精神科医療における呉秀三先生の業績」である。

お互い、相手の手の内はだいたいわかっているつもりであり(わたしの勝手な思い込みかもしれないが)、事前に内容と時間の調整もしたのだが、いざ話をはじめてみるとなかなかシナリオどおりにはいかない。

対談の内容は、いずれ日本精神衛生会の機関誌『心と社会』にまとめられるだろうから、ここでは省略したい。

 

さて、もうひとつのミッションが、朝日スクエアAでの展示会「精神病者私宅監置と日本の精神医療史」である。

わたしのなかの位置づけでは、2014年のソウルからはじめた移動展示「私宅監置展」の続きで、これが10回目にあたる。

2015年に開催したワセダ・ギャラリーでの展示会に来られた日本精神衛生会の役員の方の提案で、今回の展示会につながった。

 

以下が展示会場の写真である。

会場に入ると、いきなり拘束衣をまとったマネキンが出迎えてくれる。

前後から見られるように、部屋の真ん中に配置した。

部屋の壁沿にあるパネルは、リバティおおさか(大阪人権博物館)での展示会で使用したものを再利用している。

 

(朝日スクエアAでの展示会の様子。中央に拘束衣をまとったマネキン。)

 

今回の展示会のために、東京都立松沢病院が所蔵している昔の物品を借りることができた。

これまでは、いわば「門外不出」だっただろうから、画期的なことといわねばならない。

上の写真にある拘束衣も松沢物品のひとつである(ただし、いつごろ使われていたものかは、はっきりしない)。

下の写真にある拘束具も同様に松沢物品である。

 

呉秀三が、松沢病院の前身である東京府巣鴨病院で手枷・足枷などの拘束具の使用を撤廃したことはよく知られている。

呉は著書『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)のなかで、さまざまな種類の拘束具を写真で紹介している。

これらはみな「諸方面より蒐集したるもの」(p.145、原文は漢字カナ文)と述べているから、すべてが巣鴨病院に由来するものではないようだ。

そこで紹介されている拘束具の一部は下の写真とよく似ている。

おそらく当時集められたものが、松沢病院で受け継がれてきたということだろう。

 

(東京都立松沢病院所蔵の拘束具)

 

さらに、今回の展示では岡田靖雄先生および小峰研究所の所蔵品も出品された。

呉秀三に関わるものだけではなく、明治期より前の「お宝」資料も展示された。

 

(手前から陶山尚迪『人狐辨惑談』[1818年]、土田獻『癲癇狂経験編』[1819年]、いずれも岡田靖雄氏蔵)

 

ところで、松沢病院から借り受けた拘束衣をマネキンにどう着せるかで、すこし紆余曲折があった。

最初は、下の写真のように、ごく普通に着せてみた。

 

 

だが、拘束衣らしい着せ方のほうがいいのでは、ということで試行錯誤がつづく。

やはり、手がすっぽり入る長い袖を後ろで縛るのではないかと、下の写真のように着せてみた。

 

 

だが、ネットで調べてみると、襟(えり)を合わせるのは前ではなくて、後ろ、つまり背中のほうで合わせるのが普通らしい。

また、両腕は後ろではなくて、前、つまりお腹のほうで縛るようだった。

そこで、襟を背中で合わせて、両腕を前で拘束したのが下の写真である。

 

 

たぶん、こういう形だっただろうということで、この記事の最初に示した写真のようなポーズをとって、来訪者を迎えることになった。

あとから調べてみたところ、呉の『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)にも拘束衣の着せ方の記述があった。

それによると「縛衣と称して厚き布を以て製し、袖を長くしたる短衣あり。之を患者をして穿たしめ腰辺りに縫付たる双紐を以て腹部を締め、猶両長袖手より先へ一尺二尺も延びたるを其侭體軀幹に纏ひ結びたる」(p.137、原文は漢字カナ文、句読点を加えた)とある。

なかなか読みづらいが、「腹部を締め」とあるので、両腕を前にする形で固定するように読めるのだが、どうだろうか。

| フリートーク | 15:15 | comments(0) | - | pookmark |
韓国の法律家と日本の精神医療法制について語り合う。

2014年11月にソウルで行った「私宅監置と日本の精神医療史」展の来訪者の一人、S先生が通訳をともなって私の大学研究室を訪れた。

韓国の研究財団から研究費をもらって日本を訪れた目的は、何人かの研究者と会って精神医療や患者の人権などについて意見交換をすることだという。

訪問前にメールで送られてきた「質問内容」は、私の研究内容を徹底的に調査して、周到に作り上げられたものという印象を受けた。

ただし、1950年の精神衛生法の制定経緯に関する質問は、正直なところ私の盲点だったから、あらたな文献的調査が必要だった。

 

学部レベルの教科書的な話になるが、1950年に制定された精神衛生法とは、その後、精神保健法、精神保健福祉法と名前が変わったが、改変を重ねて現在も生きている法律である。

「生きている」どころか、現在の日本の精神保健医療福祉制度の根幹をなしている。

しかし、その制定経緯については、精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が廃止され、私宅監置も廃止され、精神衛生法が制定された、などと簡単な説明でおわることが多い。

私も授業でそんな説明をしてきた。

 

というわけで、S先生来訪に備えてあらためて制定経緯を調べてみた。

とはいえ、二次的な文献が中心なので、この領域に詳しい人には目新しいことは何もないだろうが。

 

まず、岡田靖雄氏による「精神衛生法」(『現代精神医学体系 第5巻 C 精神科治療III』、中山書店、1977年)によれば、精神衛生法案が作られていく過程について「青木案--金子案−精神衛生法案という流れがたどられ、この青木案が現行法の最初の原案であったろうとも推察される」とある。

同氏の『日本精神科医療史』(医学書院、2002年)にも、「青木案、金子案、精神衛生法案とをよみくらべると、入手できた資料の範囲では、青木案…金子案−精神衛生法案という流れがたどれる」と書かれている。

 

この「青木案」とは何か?

それは、1948年当時に国立国府台病院に勤務していた青木義治が「村松(常雄)院長からの指示によってどうやらつくったもの」で、「米国の一部の州で行われているものなどを参考にして、私の乏しい知識から原案をつくってみた」という(青木義治「私が昭和23年当初つくった精神衛生法粗案をめぐって」『千葉県精神衛生』第8号、1965年)。

たとえば、第一条は以下のようなものである。

 

第一条 この法律は、国民の精神的健康の保持及び向上を図るとともに精神障害の予防、治療ならびに保護をおこなうことを目的とする。

 

では、岡田氏の推察によれば、青木案に影響を受けたと考えられる金子案は?

金子とは(言うまでもなく、と言うべきか)、日本精神病院協会の理事長などを歴任した金子凖二である。

金子案の第一条は、次のようになっている(『二十年:社団法人日本精神病院協会』1971年)。

 

第一条 この法律は、精神障害の予防並びに患者の医療及び保護を行い、国民の精神的健康の保持及び向上を図ることを目的とする。

 

一目で分かるのは、両者のあいだで、国民の精神的健康と治療/医療・保護との順序が逆になっていることである。

そして、1950年4月5日に衆議院(厚生委員会)に出された精神衛生法案は、確かに金子案に近いもので、その第一条が、

 

第一条 この法律は、精神障害者の医療及び保護を行い、且つ、その発生の予防に努めることによって、国民の精神的健康の保持及び向上を図ることを目的とする。

 

となっている。

ちなみに、上の国会に出された法案の第一条は、本案にそのまま採用されている。

 

また、青木は「米国の一部の州で行われているものなどを参考にして」と書いているが、衆議院(厚生委員会)の議論のなかで中原参議院法制局参事が「この法案をつくります際に、アメリカにおけるカリフォルニア州の精神衛生法それからその運用を参照いたしたのであります」と答弁している(「第七回国会衆議院 厚生委員会議録第二十三号」)。

 

ところで、S先生は日本の精神衛生法に、1838年のフランスの精神病関連法規の影響があるのではないかと、事前のメールで書いてきた。

だが、その時私は条件反射的に、1950年の精神衛生法制定の際に、フランスの影響があるとは到底考えられないと思った。

そして、上で述べたように、実際にはフランスではなく、アメリカの直接・間接的な影響があったことは明らかである。

当日の話し合いでも、集めた資料をS先生に手渡して、私の見立てを説明した。

 

だが、いま思い返してみると、私の考えは浅いものだったかもしれない。

S先生は過去のローマ法の精神障害への認識を引き合いに出していたので、言いたかったことは恐らくこういうことではないか。

つまり、強制的な入院制度というものは、ローマ法における精神障害への認識にさかのぼるもので、それが近代、現代にまで一貫した思想である。

19世紀のフランスの近代的な法律にもそれを確認することができ、それは措置入院をはじめて規定した1950年の精神衛生法にも引き継がれているのではなかろうか、と。

まあ、通訳を介しての議論なので、お互いニュアンスを伝えられなかったということか。

| フリートーク | 17:53 | comments(0) | - | pookmark |
居ても立っても居られず、沖縄。

沖縄は4度目だ。

今回の旅の目的は、のちほど述べたい。

 

まずは観光(というか街を放浪)的な話から。

県庁近くのホテルをチェックアウトして、県立博物館・美術館へ行こうと思い立つ。

ゆいレール(モノレール)の高架に沿って歩いていくと、鬱蒼とした緑の塊りのような場所があった。

崇元寺公園である。

その塊りはガジュマルの巨木だった。

 

(那覇市の崇元寺公園にあるガジュマル。「都市景観資源」に指定されている。)

 

さらにズンズン進んでいくと県立博物館・美術館に着いた。

開館まで少し時間がある。

近くのマックでコーヒーを片手に、Google Map を検索しているうちに、守礼門という文字に気持ちが動いた。

懐かしい。

切手収集に、それこそ全身全霊をかけていた子どものころ、琉球政府発行の記念切手の値段がとても高かった記憶がある。

投機の対象になったこともあったかもしれない。

守礼門をデザインした切手がその代表格である。

 

博物館・美術館はもういいや、守礼門へ行くしかない、と思った。

マックから歩いて45分くらいで着けそうだった。

何も知らなかったが、守礼門は首里城に通じる道の手前にあるらしい。

ともかく、Google Map を頼りに、首里城方面に向かえばいい。

 

那覇はけっこう坂道が多い。

首里城に通じる坂道を登りきる途中に、首里観音堂というのがあった。

門の脇で密生しているカンノンチクの緑に目を奪われた。

自分の実家にも鉢植えのカンノンチクがあったっけ。

 

(首里観音堂のカンノンチク。「観音竹」の名称はここが発祥という。)

 

坂道をさらに進むと守礼門に到達。

あたりは、観光客、とくに中国からの団体ツアー客(のみ?)で大いに賑わっていた。

守礼門を越えれば、もう首里城である。

城の無料見学エリアだけを散策したが、朱塗りの立派な建物があちこちに。

世界文化遺産というだけのことはある。

 

(世界文化遺産・首里城から海をのぞむ。)

 

さて、ここからが本題である。

沖縄訪問の目的は、「私宅監置施設の保存に関する懇談会」に出席するためであった。

ヤンバルの私宅監置小屋を残していくために、関係者がさまざまな取り組みをしているのだが、その経過報告と今後について話し合うという会である。

 

その会場へは、首里城から再び徒歩。

坂道を下り、サトウキビの畑道も抜けて、50分くらいは歩いたか。

 

数年前にその私宅監置小屋の存在を知ったときの衝撃は、いまでも忘れられない。

その建築物としての価値は計り知れないが、保存には多くの課題があり、壊されてしまう可能性も高い。

そういう危機感が関係者の間にはあり、それがこの会合の開催につながった、と私は認識している。

会合の知らせを受けて、あわてて航空券を手配し、まさに「居ても立っても居られず、沖縄」に来たというわけである。

 

関係者からの報告やフリーディスカッションが3時間以上は続いた。

「負の遺産」などという言葉はいくらでも思いつくし、首里城以上に世界文化遺産にふさわしいと確信しているが、地元の住民や家族の立場を思うと、事情もよくわかっていない「ヤマト」の人間の私が、あれこれ言う立場にはない…と寡黙になるしかなかった。

これから、どのようにこの問題が展開していくのか、精神医療史の研究者の立場から見守っていきたいと思う。

| フリートーク | 17:24 | comments(0) | - | pookmark |
トリップ・トゥー・ピッツバーグ

先月の9月28日と29日にアメリカ・ペンシルベニア州にあるピッツバーグ大学で、"From Madness to Medicine in Japanese Culture" をテーマにした小さな研究集会が開かれた。

せっかく「なにか話してもらえませんか」と声をかけてもらったし、テーマは私の関心領域そのものなので、万難を排して参加することに決めた。

ただ、勤務先大学の大学院入試の日程と近接し、かなりタイトなスケジュールだった。

 

(ピッツバーグ大学の Cathedral of Learning。ピッツバーグのシンボルのような存在。)

 

研究集会の日までは、2、3日あったので、史跡を探訪。

アメリカの州立精神病院の歴史には興味があるが、自分には未開拓の領域である。

そこで、ピッツバーグ近郊の Dixmont State Hospital の遺構を訪れた。

今回の集会のホスト役である、ピッツバーグ大学の Clark さんが車で案内してくれたのは助かった。

その際、この病院の歴史を紹介する参考文献("Dixmont State Hospital"、以下の写真)も借りてきてくれた。

 

(Mark Benton:Dixmont State Hospital, Arcadia Publishing, 2006 の表紙)

 

この "Dixmont State Hospital" および "The Institutional Care of the Insane in the United States and Canada, vol. III" (1916, reprint 1973) の記述から、この病院の歴史を拾い上げてみたい。

 

そもそも Dixmont State Hospital は、1853年にオープンした Western Pennsylvania Hospital の Department of the Insane に遡る。

しかし、この Department of the Insane の患者が増加したため、ピッツバーグの郊外に全面移転するにことになった。

精神医療改革者として知られる Dorothea Lynde Dix の提案にもとづき、オハイオ川をのぞむ小高い丘の上が病院用地に選ばれ、1862年に Western Pennsylvania Hospital for the Insane として開院した。

その名称は、Dixmont Hospital for the Insane(1907年)、Dixmont Hospital(1921年)、Dixmont State Hospital(1945年)と変更されている。

 

初代院長の Joseph Allison Reed(1884年、院長として在職時に死去) は、患者の作業活動を推し進め、病院の美化に努めることを信条としていた。

その後も、州からの病院予算が年々削られていくなかで、Reed の精神は病院スタッフやボランティアに引き継がれていく。

1966年に Robert Weimer が4代目の院長すると、「ディックスモント・ルネサンス(Dixmont's Renaissance)」として知られる時代が始まった。

病棟の窓から鉄格子が廃止されるなど病院の開放化が進み、地域の人々が病院の諸活動に積極的に関わるようになった。

 

しかし、州当局は、維持費がかさむ病院の閉鎖を考え始めていた。

1960年代はじめには、病院側がさらなる資金援助と病院の改修を盛んに州に求めていたが、実現しなかった。

そして1972年、州は Dixmont State Hospital の閉鎖計画を発表。

市民から抗議の声があがり、いったんはその計画も見直されたが、結局は1984年に閉鎖となった。

1940年末の在院患者は1200人以上だったが、1967年末には745人、1977年末には362人にまで減少していた。

閉鎖時点で残留していた患者177人は、別の2ヵ所の州立精神病院(Woodville and Mayview State Hospitals)に移された。

閉鎖後もしばらくは建物は残されていたようだが、2006年までにはほぼすべてが解体され、敷地は更地となり、現在に至る。

 

以上がおおまかな歴史である。

つまり、歴史的な建物は全く残されていない(厳密にいえば1971年に建てられたという The Cammarata Building はいまも存在し、その一部が子ども関係の通所施設に転用されているようだった)。

 

というわけで、下の写真が病院が建っていた丘である。

 

(かつて病院があった場所)

 

また、病院敷地のすぐ脇を Route 65 が走り、この Route 65 に平行して鉄道が走っている。

さらに、鉄道の向こうにはオハイオ川が流れている。

 

下の写真は、線路と背後のオハイオ川を写したもの。

写真を写したのとは正反対の方向(つまり撮影している私の背中の方向)が、病院の敷地となる。

かつては鉄道の駅(Dixmont Station)もあったので、便利な立地だったといえよう。

 

(鉄道とオハイオ川)

 

ところで、病院敷地の丘の上には、患者を埋葬した墓地が残っているというので行ってみることにした。

ただ、車で行くには、かなりわかりにくい場所にあり、運転していたClark さんにはかなり手間をかけてしまったかもしれない。

やっとたどりついた墓地に入口に、"DIXMONT STATE HOSPITAL CEMETERY" の碑が立っていた。

 

(墓地の入口に立つ追悼碑)

 

追悼碑の側面には墓地の由来が書かれていた。

下の写真にあるように、1863年から1937年にかけて、ここに1,300人以上の患者が埋葬されたという。

 

(追悼碑の側面に書かれている墓地の由来。碑文には1937年3月8日までの埋葬患者とあり、第二次世界大戦の veterans も含まれるとあるが、時期的に合わない気がするのだが…)

 

森の中のあちこちに、墓標が立っていた。

そこには、個人の名前はなく、ただ数字だけが彫られていた。

 

(点在する墓標)

 

森の中は静まり返っていて、落ち葉が地面に着地するときの、カサッ、カサッという、妙に乾いた音だけが響いていた。

その音に聞き入りながら、しばらく時間が経つのを忘れて、放心状態(単に時差ぼけか)。

 

最後に、本来の目的であった、研究集会 "From Madness to Medicine in Japanese Culture" について。

とても小さな集まりなのに、当日会場にいくと立派なプログラム冊子が用意されていた(下の写真)。

 

 

プログラムに書かれている登壇者のテーマを書き写して、内容紹介に代えたいと思う(なお、実際の発表時には、テーマ・タイトルに多少の変更はあった)。

 

Thursday September 28, 2017

 

Neither Religion nor Medicine: Knowledge from Experience - A New Dimension of Treatment and Care for Mental Patients in Modern Japan

HASHIMOTO AKIRA  Aichi Precfectural University

 

A Literary Marketplace for Hysteria in Japan, 1910s - 1920s

YUMI KIM  Johns Hopkins University

 

Beyond Iwakura: From Madness and Monasteries to Insanity and Mental Institutions

JAMES ROBSON  Harvard University

 

The Soma Incident: Medicine, Madness, and the Problem of Rights in Meiji Japan

SUSAN L. BURNS  University of Chicago

 

Curing Shinkei Suijaku (Nervous Exhaustion) in Late Meiji and Taisho

HIROSHI NARA  University of Pittsburgh

 

Writing Madness in Early Showa Fiction

NATHEN CLERICI  State University of New York, New Paltz

 

Friday September 29, 2017

 

Shigehira: Remembering the Burning of Nara on the Noh Stage

ELIZABETH OYLER  University of Pittsburgh

 

Observing Mental Affliction in Pre-Modern Japan

ANDREW GOBLE  University of Oregon

 

One Hundred Years of Melancholy in 20th Century Japanese Literature

CHARLES EXLEY  University of Pittsburgh

 

From Buddhist Practice to Psychiatric Intervention: How Naikan Meditation Came to be Used in Japanese Mental Hospitals

CLARK CHILSON  University of Pittsburgh

 

以上である。

冒頭で述べたように、勤務先大学の入試業務があったので、プログラムの途中で退散しなくてはならなかったのは、なんとも残念だった。

 

おまけ。

最後の最後、last but not least.

ある時から動物園巡りに凝りだしたのだが、ピッツバーグにも動物園があることがわかり、是が非でも行かねばと考えた。

ピッツバーグ大学近くの Fifth Avenue からバスに乗り、終点の Highland Park で下車。

ここまで来れば「獣の臭いがする」と聞かされていたので(それは確かだった)、場所はすぐわかると思っていた。

が、標識らしきものはなく、さんざん道に迷って、最後は公園を散歩していたおばさん(偶然だが、動物園のパスを購入しているほどの事情通だった)に道を尋ね、なんとか動物園に到達。

以前のブログで言及したプラハの動物園に続いて、ピッツバーグでもゴリラ見物が主たる目的である。

下の写真にあるように、ピッツバーグ動物園のゴリラ(ローランド・ゴリラ)は5頭である。

望遠レンズをもっておらず、デジカメで写したゴリラは黒い点くらいにしか見えず、ゴリラ舎のところにあるゴリラ・クイズの画面を紹介するにとどめたい。  

 

 

| フリートーク | 09:41 | comments(0) | - | pookmark |
プラハの夏、またはチェコ精神医療史的紀行

二年に一度、夏に欧米の諸都市を巡って開催される国際学会がある。

参加費が高く、周到に組織された集まりともいえず、しかも、いつも大学の前期の授業期間に重なるので、何度か「引退」を考えた。

しかし、なぜか演題募集の時期になると、どこからともなく誘いの声がかかり、今回も発表することになってしまった。

それで、プラハの夏、ならぬ、夏のプラハにやってきたのである。

 

(会場のカレル大学 [Univerzita Karlova] の法学部。日程の最終日で、閑散としている。)

 

学会の詳細はリンクを見てもらうのが手っ取り早いだろう。

学会もいいが、チェコの精神医療史にまつわる「史跡」巡りも悪くない。

ここでは、その話をしたい。

 

プラハを中心都市とするボヘミア王国で、最初に精神病院(癲狂院 Tollhaus)が作られたのは1790年だという。

当時のボヘミアはオーストリア帝国の傘下にあり、皇帝ヨゼフ二世は帝国内の主要都市に総合病院を整備した。

プラハに総合病院が作られたとき、同じ敷地内に精神病院も開院したのである。

 

その後、1880年代にチェコの精神医学に一大変革が起こる。

ヨーロッパで最も古い大学のひとつとされるプラハのカレル大学では、講義はすべてドイツ語で行われてきた。

しかし、1881年からドイツ語とチェコ語を使う二つの大学への分離がはじまる。

カレル大学精神科のホームページによれば、チェコ語による精神医学の講義が始まったのは1885年であり、チェコ語大学の精神科病棟の始まりは1886年(11月19日)とされる。

この病棟の最初の教授が Benjamin Čumpelík (1845-1909) である。

当時から使われていたという、その歴史的な病棟を訪ねることにした。

 

(Vltava に架かる橋で)

 

宿泊先のホテルがある Anděl から東へ向かい、Vltava に架かる橋を渡る。

右に折れてしばらく歩き、Apolinářská という狭くて上り坂になっている通りを登りきり、Ke Karlovu という別の通りを左に曲がる。

やがて、Psychiatrická klinika の看板が見えてきた。

通り沿いには門はなく、誰でも自由に入れる。

下の写真が精神科の歴史的な建物である。

 

(塀の向こうに通じる入口も開いているが、部外者が入るのはどうかと思い、外側からのみの見学。)

 

(建物の裏に回ってみた。)

 

精神科に知り合いがいるわけでもなく、アポなどはもちろんとっていないから、外観や周囲の雰囲気を確認しただけだ。

周囲といえば、通りを挟んでほぼ反対側に、チェコの国民的作曲家ドヴォルザーク(ドヴォルジャーク/ドヴォジャーク Antonín Dvořák)の博物館があったが、今回はパスした。

精神医療史とはまったく無関係ではない、別の場所にどうしても行きたかったのである。

以前「プラハの精神病院とコンテンポラリーアート」という記事で、チェコのコンテンポラリー・アーティスト Eva Kotátková がプラハの精神病院(Psychiatrická nemocnice Bohnice)で行った展示とパフォーマンスについて紹介した。

以来、このアーティストが気になり、彼女の作品をいくつか所有しているらしい hunt kastner というギャラリーを訪ねることにした。

 

上記のカレル大学精神科から歩いて hunt kastner をめざす。

中央駅(hlavní nádraží)を越えてしばらく行くと、急坂になっていた。

どうもプラハには坂が多い。

Bořivojova という通りの 85番 にそのギャラリーはあった。

間口は狭く、静まり返っていて、なんとなく入りにくい。

時間を確かめてきたはずだが、本当に開いているのか…と、不安な気持ちで入口のベルを押す。

 

(hunt kastner の入口で)

 

すると、愛想のいい女性が出てきて、対応してくれた。

来訪の意図を告げると、棚に保存されているいくつかの Eva Kotátková の作品を見せてくれた。

大部なカタログがあるというので、迷わず購入。

これだけで、結構、満足、満足。

ギャラリーは中庭に通じていて、その先にも作品展示用の建物があった。

 

(hunt kastner の中庭。手すりが見えているレベルに、ギャラリー本部とは別の作品展示用建物がある。)

 

精神医療とはほとんど関係はないが、プラハから鉄道で2時間半くらい、モラヴィア地方の中心都市ブルノ(Brno)にも行きたい場所があった。

メンデルの法則で知られる Gregor Johann Mendel が在職していた修道院(英語では Old Brno Abbey)である。

 

(ブルノの中心街)

 

かつて植物学を専攻していた身としては、聖地巡礼のようなものか。

などと言いながらも、事前にろくに場所も確認せず、ブルノの街中を適当に歩いてインフォメーションを見つけ、そこで手に入れた地図を片手にうろうろ。

途中、激しい雨に降られながら、目的地にたどり着いた。

修道院の一角がメンデル博物館になっている。

 

(メンデル博物館が入っている建物。大きな木の下にメンデルの白い石像が見える。)

 

博物館の展示物はそれほど多いとは言えないが、メンデルが植物学だけに限らず、気象をはじめとするさまざまな自然現象に強い関心を持っていたことがわかった。

「観察魔」と言えるかもしれない。

 

(修道院の庭にあるメンデルのポップな肖像)

 

博物館でもらった小冊子に面白い記述があった。

ここを訪れる日本人の多くが、メンデルの養蜂について知りたがっているというのである。

それは、学校の教科書に載っているからだと。

私は知らなかったが、そういうエピソードが書かれた(理科の?)教科書もあったのだろう。

 

植物の話題が出たついでに、動物についても一言。

上で述べたプラハ大学精神科の近くで、"Richard"と書かれたゴリラの看板を見た。

プラハ動物園の広告だが、どうやらここにもイケメン・ゴリラがいるらしい。

地下鉄C線の Nádraží Holešovice 駅で降り、112番のバスに乗り換えて動物園へ。

 

(動物園の中で見つけた Richard の写真)

 

この動物園には、ゴリラ(ニシローランドゴリラ)が8頭いる。

このファミリーの中心にいるのが、Richard らしい。

 

(Richard は腕組みをして遠くにおり、撮った写真はこの程度。)

 

最後に、The National Gallery in Prague (Národní galerie v Praze)で開催中の Ai Weiwei の展覧会について。

難民をテーマにした、かなりインパクトがある展示である。

ネタバレになるかもしれないので詳細を紹介することは自粛したいが、ひとつだけ。

ギリシアの難民キャンプ(Idomeni Camp)に残された衣服や靴が大量に集められ、洗濯され、分類されたものが、展示会場いっぱいに並べられていた。

難民キャンプでの生活や、そこから強制排除されるまでの様子、さらに集められた物品をベルリンのスタジオで整理する過程を記録した映像に、来場者は釘付けになったと思う。

 

(撤去された難民キャンプに残されていた靴)

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