近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA を訪ねて

滋賀県の近江八幡にあるボーダレス・アートミュージアム NO-MA に行った。

このブログでは、これまでもアウトサイダー・アート/アール・ブリュット関連の記事をいくつか書いてきた。

だが、国内のミュージアムの話は、はじめてだと思う。

NO-MA はこの種のミュージアムの「草分け」のような存在だから、この領域の関係者でなくとも知る人も多いだろう。

なので、その成り立ちなどはあえて述べない。

詳細は上記のリンクを参照していただきたい。

 

(雪が舞う NO-MA の入口付近)

 

NO-MA に行くことになったのは、勤務先大学の関西方面への「学科旅行」のプログラムに組み入れられていたからである。

1台の貸し切りバスに学生と教員が乗って移動するのだが、乗り切れない教員は鉄道で現地に向かうことになった。

私はその「はみ出し組」の1人なのである。

名古屋から新幹線に乗り、米原で降り、在来線に乗り換えた。

あたりは一面の雪景色。

近江八幡駅を出たところで同僚2人と待ち合わせて、タクシーで NO-MA に行く予定だった。

ところが、私は米原で乗り換えるべき列車を間違えて、反対方向の近江塩津行きに乗り、終点まで気がつかなかった。

近江八幡方面にもどる列車は1時間に1本しかなく、集合時間に大幅に遅れるという失態。

NO-MA に着いたときには、学生も教員も次の移動先に向かうバスに乗り込む直前だった。

おかげで、ほとんど1人で見学することができた。

 

(NO-MA の建物)

 

展示スペースは、1階、2階、そして少し離れた土蔵である。

とてもコンパクトなスペースだが、和風の建物が心地よい。

受付の近くに並べられていた保坂健二朗監修『アール・ブリュット アート 日本』(平凡社、2013年)を買ったら、おまけで NO-MA が所蔵する作品のカード・セットをもらった。

ラッキーである。

 

(NO-MA の由来)

| フリートーク | 14:24 | comments(0) | - | pookmark |
台湾精神医療史紀行(おまけ・台北ビエンナーレ2016)

台北からもどって2週間近くがたって、いまさらながらの「台湾精神医療史紀行」の続編をアップしたい。

とはいえ、「おまけ」なので、もはや精神医療史からは逸脱し、調査と学会の合間に訪れた台北ビエンナーレのお話。

 

2014年にもこのビエンナーレを訪れており、今回が2回目。

ただ、前のブログで書いたように、台風の影響で、会場の台北市立美術館が2日間くらい閉館になったようだ。

それとも知らずに、のんきにMRT(地下鉄)を乗り継いで出かけたところ、その日が臨時閉館で、落胆して帰った。

次に日に出直した。

 

純粋にアートを楽しもうと思ったのだが、ちょっと仕事モードに引き戻される展示があった。

陳界仁 CHEN Chieh-jen の Realm of Reverberations である。

ごく簡単にいえば、台北近郊にある樂生療養院の保存運動を記録した一連の作品群である。

 

(ハンセン病関連の映像展示、台北ビエンナーレ2016)

 

樂生療養院は、日本の植民地時代の1929(昭和4)年に台湾総督府癩病療養楽生院として設立された。

いわゆるハンセン病療養所である。

多くの患者が隔離収容され、長期間にわたってそこに住むことを強いられた。

だが、1994年にMRT建設のために療養所の撤去が決まり、入所者は新病院に移されることに。

だが、慣れ親しんできた療養所以外に行き場がない、と考える入所者から、施設撤去に反対する運動が起こった。

というのが、きわめて大雑把だが、樂生療養院の保存運動の背景である(と私は理解している)。

 

ところで、―冒頭で「精神医療史からは逸脱し」などと書いたことに反するが― 台湾最初の精神病院である(私立)養浩堂医院が開設されたのは、樂生療養院と同じ1929年で、台湾総督府精神病院・養神院が発足したのが1934(昭和9)年。

法律については、行政諸法台湾施行令によって、日本本土の癩予防法が台湾で施行されたが1934年、この2年後の1936(昭和11)年には、日本本土の精神病者監護法および精神病院法が(一部修正されて)台湾でも施行されている。

こうしてみると、1920年代おわりから1930年代にかけての台湾では、ハンセン病・精神病に関する政策の大きな変化があったことになる。

 

著作権のこともあろうから、陳界仁 CHEN Chieh-jen の写真作品は掲載を控えて、樂生療養院関係のパネルの写真を下に載せておきたい。

私が一番興味深かったのは、樂生療養院の保存運動それ自体ではなく、それがビエンナーレという「現代アートの舞台」でほかの作品と同列に並んでいることである。

ごく普通に。

 

ただ、いろいろ調べてみると、樂生療養院とアートとの関係は深いようで、日本人アーティストもここでワークショップを行っている(たとえば https://jp.globalvoices.org/2009/06/20/984/)。

医療と現代アートとの関係は、ますます面白くなってきていることは確かなようだ。

 

(樂生療養院保存運動の概説パネル、台北ビエンナーレ2016)

 

(樂生療養院保存運動の概説パネル、台北ビエンナーレ2016)

 

| フリートーク | 18:46 | comments(0) | - | pookmark |
台湾精神医療史紀行

台北に来た。

学会に参加するためだが、資料収集という目的もある。

 

近代日本の精神医療史を調べてきて、日本統治下の台湾の存在を無視できなくなってきた。

日本の旧植民地のなかでも、台湾ほど精神医療の「日本化」が進められたところはない。

なにしろ台湾では、日本本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年に同時に施行されたのである。

ということは、本土並みに、病院監置/私宅監置の手続きが行われ、公立精神病院/代用精神病院の設置や認可に関わる諸々の事務作業が生じたということである。

これは面白い。

ちなみに、樺太では早くも1917年に精神病者監護法のみが施行され、朝鮮(および南洋群島と関東州)では両法律は施行されなかった。

 

1895年に台湾の日本統治が始まり、1899年に創設された「台北仁済院」が台湾における精神病者収容に関わる最初の施設だという。

この施設は、日本統治以前に存在した救恤(きゅうじゅつ)施設の養済院などの財産を引き継いで発足した。

当初は、いわば救貧施設のなかに、精神病者も混在する形で収容されていたのだろうが、1922年に正式に精神病者収容施設を設置したとみられる(菅 修「本邦ニ於ケル精神病者並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」『精神神経学雑誌』第41巻、1937年などによれば)

 

ただ、この程度のことは、日本にいても簡単に調べられる。

 

ところで、台北仁済院の建物が残っているらしいことをあるブログで偶然知り、せっかくなので行ってみることにした。

MRTの龍山寺駅から、大通りに沿って南西方向にしばらく歩くと、少し木の生い茂った公園があった。

周囲を探しても、それらしい看板はないが、園内の歴史的な建物(下の写真)がかつての仁済院に違いない。

 

(台北仁済院の旧建物)

 

恐る恐る、開いたドアから中に入ったが、天井の照明の一部しか点灯していないので、かなり暗い。

椅子と机があるくらいで、何もないように見えた。

 

(建物の内部。デジカメ画像では明るく見えるが、実際にはかなり暗い。)

 

建物の中をよく見渡すと、わずかだが台北仁済院に関する展示スペースがあった。

ただ、夕刻なのに照明がないので、よく見えない。

年表(下の写真)、書類、建物のミニチュア模型などがあったが、暗くて、やはりよく見えない。

 

(年表の1936年に、精神病者監護法と精神病院法が「施行於台湾」と書かれている。)

 

はなはだ不十分な現地調査だが、ともかく、台北仁済院の旧建物を確認したことで、一応満足。

 

さて、話は脱線。

台北は初めてではないが、いまごろになって檳榔(びんろう)の看板が街のあちこちにあることに気がついた。

そもそも、檳榔って?

ヤシ科の植物で、種子は嗜好品、噛みタバコのように使われるという。

一種の薬理効果があるらしい。

そういえば、路上で時々みかける茶色っぽい筋のような塊は、噛みつぶした檳榔の繊維質を吐き出したものなのか。

 

Wikipedia には次のような記述もあった。

 

「台湾では、露出度の高い服装をした若い女性(檳榔西施)が檳榔子を販売している光景が見られる。風紀上の問題から2002年に規制法が制定され、台北市内から規制が始まり、桃園県もこれに追従した。以降、台中市、台南市、高雄市など大都市では姿を消した。依然として高速道路のインターチェンジ付近や、地方では道端に立つ檳榔西施が見られるが、過激な服装は影を潜めるようになった。」

 

そういえば、「檳榔西施」こそ見かけなかったが、一部の檳榔の店は派手な感じで、ガラス張りになっていて、真昼間から妙な雰囲気が漂っていた。

 

(台北市に隣接する新北市内の「山本檳榔」店。チェーン店らしいが、「山本」の由来は?)

 

宿泊先のホテルは、この檳榔の店からしばらく歩いたところにある。

とりあえず歩道はあるものの(下の写真)、歩くような道ではない。

地元の人は絶対に歩かないだろう(実際、自分以外に歩いている人間を見なかった)。

車が猛スピードですぐ脇を通りすぎる。

怖い怖い道を肩をすぼませてホテルまで歩くのである。

 

(ホテルまでの狭い歩道)

 

日付がかわって、きょうは資料集めの「本丸」をめざす。

またもや上述の怖い歩道を歩いて、中央研究院へ向かう。

台風が接近しているらしく、雨が降ったり、急に晴れたり、めまぐるしく変わる天候。

 

(中央研究院に向かう途中、南港展覧館方面をのぞむ。)

 

ホテルから30分以上歩いて、中央研究院に着いた。

台湾政府の学術予算を、相当注ぎ込んだような一大研究拠点…なんだろう、これはどう見ても。

理系・文系のりっぱな研究施設がキャンパス内のあちこちに。

 

めざすは人文社会科学館の中にある台湾史研究所である。

ここに台湾総督府関係の公文書があるらしい。

 

(人文社会科学館大楼北棟の正面)

 

あらかじめ日本で検索しておいた精神医療関係の資料を次々に閲覧・印刷。

大量の紙束になった。

受付の人からもらった、派手なピンク色のショッピングバッグに資料を詰め込む。

研究院を出るときには、雨も強くなってきた。

 

また、日付が変わる。

朝から激しい雨と風。

台風が台湾を直撃するらしい。

それでも、もう一度、中央研究院に行くことにした。

まだ、すべての資料を見たわけではない。

 

ホテルを出る少し前、同じ学会で発表する日本の友人からメールが来た。

彼は中央研究院のなかの宿泊施設にいるというので、訪ねることにした。

ホテルを出るときに、すでに暴風雨。

タクシーで乗り付けた中央研究院のキャンパスを、少し歩いただけでずぶ濡れになった。

 

あちこち見て回りたい性分の友人も、きょうばかりは動けず、部屋でこもっているほかないという。

一時間くらいだべったあと、同じ敷地内の台湾史研究所に二人で行ってみることにした。

が、なんと台風で臨時休業。

というか、地元の人の話では、きょうは学校は休校、交通機関はストップ、ということらしい。

そもそもこんな日に、のこのこと外出した自分がアホである。

帰りが心配になり、急いでタクシーを呼んで、ホテルに戻ったのがまだお昼前。

 

(ホテルの部屋から。どんどん雨と風が強くなる。)

 

なんか気が抜けた。

ホテルでやることがない。

時間だけはたっぷりあるので、きのう集めた資料に目を通すことにした。

今回の台北訪問の主たる目的である、学会発表の内容に関わるものなので、読む必要もあった。

やはり、日本で集めた資料だけで組み立てた研究内容には限界があると感じた。

とはいえ、台湾史研究所で集めた資料の内容を、すぐに学会での発表内容に反映もできない。

日本で用意してきたものを、そのまま発表することになるだろう。

まあ仕方がない。

 

こんなことを書いているいまも、暴風雨はおさまる気配がない。

あすは晴れるのだろうか。

| フリートーク | 21:57 | comments(2) | - | pookmark |
広島県・精神医療史探訪
広島で気になる場所があった。
その名を瘋癲病治療所といい、1808(文化5)年に設立された。
1900(明治33)年には武田精神病院となったが、1942(昭和17)年に廃院。
すでにこのブログでも紹介したので、詳細はこちら

この病院は、1912(大正元)年の呉秀三の論文「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」に、現存する二番目に古い私立精神病院として紹介されている。
また、1918(大正7)年の呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」では、「徳川時代に至りては寛政以降、永井・武田・石丸・本多・奈良林等の諸医家は病院又は其に類似の設備をなし以て患者の治療収容に努めたりき」(原文は漢字カタカナ文)とあり、武田家の病院に言及している。

その後、小林靖彦『日本精神医学小史』(1963)、小俣和一郎『精神病院の起源』(1998)、岡田靖雄『日本精神科医療史』(2002)などに、武田精神病院の記述が見られる。

小林によれば、癲狂人の治療を始めた初代の武田一逕の孫、つまり三代目の武田敏惠のあと武田家に医師はなく、朝鮮より武井守一医師を迎えたという。
厚生省の『精神病者収容施設調(昭和十五年一月一日現在)』に「武井精神病医院(佐伯郡宮内村)」とあるのが、武田精神病院を継承したものだろう。
小林が現地を訪れたときには「現在病院跡は中国電力株式会社の宿舎」だったという。
少なくとも、1963年以前の話だろう。

岡田の本には「武田精神病院旧病棟」の写真が掲載され、「1965年には病棟の跡が青年団の物置きとしてつかわれていた」という。

一方、小俣の本の写真は、1996年に撮影されたという病院跡のさら地。
すでにかつての病棟は取り壊されていたのである。

では、病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地 と変遷して、現在はどうなっているのか?
それを探るのが今回の目的である。
武田精神病院は、病院を開いた寺院に隣接していたらしい。
とりあえず、その寺院、南光山 専念寺 を目指すことにした。

JR広島駅から岩国行きの各駅停車に乗る。
通勤・通学時間帯にあたり、高校生の群れに囲まれながらおよそ20分。
宮内串度駅で下車。


(JR宮内串度駅の広島方面ホーム)

御手洗川に沿って歩く。
途中、山陽新幹線の高架橋の下をくぐり、なおも川沿いに進むと、専念寺の正面に出た。
犬に激しく執拗に吠えられ、門に近づくことさえ断念。
事前に目にしたあるブログでも、犬に「思いっきり鳴かれて」「境内を早々に出ていきました」と書かれていたので、これか…と思った。


(南光山 専念寺 広島県廿日市市)

ただ、「病棟→ 中国電力株式会社の宿舎→ 青年団の物置き→ さら地」と変遷した現在の場所が、なかなか特定できない。

唯一の手がかりは、小俣の本だった。
病院跡のさら地を写した写真をよく見ると、かなたに、かすかに歩道橋が写っている(小俣和一郎『精神病院の起源』p.119、図32)
この歩道橋の撮影角度と、背景の山および鉄塔の位置関係からすると、小俣が訪れたときにはさら地だった場所に、現在はマンションが建っている。

その周囲もすいぶん建て込んでおり、かつてはさら地から歩道橋を見通せたのが、現在は視界がさえぎられてしまっている。
それでなかなか場所がわからなかったのである。


(手前が御手洗川。中央に専念寺の本堂。写真右側の電柱の右奥方向に、かつての病棟があったと思われる。)

そんなわけで、場所をだいたい特定したところで満足し、JRで広島駅にもどった。
そもそも、広島に来たのは学会(日本医史学会)があったからである。
これから発表だから、どっちみち早々に戻らざるをえないのである。

会場は広島県医師会館。
入口近くに呉秀三の胸像があった。
呉家と広島とのつながりは深い。
日本医史学会の初代理事長が呉秀三だから、まさに学会会場としてはふさわしいだろう。


(呉秀三の胸像。真新しい広島県医師会館の1階ロビーに置かれている。)
| フリートーク | 12:46 | comments(0) | - | pookmark |
日本精神医学資料館(東京都立松沢病院)を訪ねて

東京都立松沢病院内に歴史の資料館があるらしいが、詳しいことがわからない。
一般の人も見学できるのか。
精神医学史関係の会合に行くと、そんな話がたびたび出てくる。

もちろん、それは存在する。
私は過去に2回訪れたことがある。
ただし、それは2011年に資料館が移転する前のこと。
移転後の資料館には行ったことがないので、エラそうなことは言えない。

ところが、都内の精神科病院に勤めている旧知のソーシャルワーカーの人から誘われて、急遽、松沢の資料館を訪ねることになった。
彼女は私の関心事をよく理解しており、また当館の館長とも知り合いという縁があってのことである。

以下は、聞いたこと、感じたことを思いつくまま。

看護学生などが団体で見学に来るが、呉秀三の「呉」を「くれ」と読める人はまずいない、ということである(「ご」と読んで、中国系の子孫と思うのだろうか。ちなみに、呉家は中国系ではなく、広島の呉にちなんで「呉」と改姓したようである)。

この資料館の「日本精神医学資料館」という名称が示すように、めざすところは「日本」の資料館であり、単に松沢の物品や資料を展示することに止まらない、という。

移転前の資料館は、一つの空間に所狭しと展示物が並んだ感じだったが、現在の資料館は空間にだいぶ余裕ができたと思う。
おもしろいのは、資料館自体がかつての「夜間救急診療室」と「保護病棟」だというところ。
つまり、鉄格子の保護室がほぼ残されていて、そこも展示スペースとして使われている。
映画『カッコーの巣の上で』に出てくるような、ナース・ステーションもそのままだ。
全国的に一時代前の精神科病院の病棟がどんどん建て替えられている。
おそらく古い保護室は、ほとんど、否、100%破壊されているという状況で、松沢の「残し方」は快挙かもしれない。
他の病院も見習ってほしい、と思う。

館長によると、最近はさまざまな分野の研究者がここの資料をめざしてやってくるのだという。
数年後には、これまであまり使われていなかった松沢資料を使った、思いもよらない研究成果が出てくるかもしれない、という予感がする。

結局、資料館には午後1時から5時すぎまで長居をしてしまった。

最後に、日本精神医学資料館の基本情報は以下のとおり:

/// 開館日および開館時間

騎館日
 …蟯開館日 毎週 月曜日・木曜日
 不定期開館日(予約見学等) 毎週 火曜日・水曜日

恭館時間
 仝畫10時〜12時
 午後1時〜4時

問い合わせ先
 〒156-0057
 東京都世田谷区上北沢2-1-1
 東京都立松沢病院庶務課庶務係
 Tel 03-3303-7211 内線1029
 Fax 03-3329-7586

以上

| フリートーク | 23:36 | comments(0) | - | pookmark |
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