近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
プラハの夏、またはチェコ精神医療史的紀行

二年に一度、夏に欧米の諸都市を巡って開催される国際学会がある。

参加費が高く、周到に組織された集まりともいえず、しかも、いつも大学の前期の授業期間に重なるので、何度か「引退」を考えた。

しかし、なぜか演題募集の時期になると、どこからともなく誘いの声がかかり、今回も発表することになってしまった。

それで、プラハの夏、ならぬ、夏のプラハにやってきたのである。

 

(会場のカレル大学 [Univerzita Karlova] の法学部。日程の最終日で、閑散としている。)

 

学会の詳細はリンクを見てもらうのが手っ取り早いだろう。

学会もいいが、チェコの精神医療史にまつわる「史跡」巡りも悪くない。

ここでは、その話をしたい。

 

プラハを中心都市とするボヘミア王国で、最初に精神病院(癲狂院 Tollhaus)が作られたのは1790年だという。

当時のボヘミアはオーストリア帝国の傘下にあり、皇帝ヨゼフ二世は帝国内の主要都市に総合病院を整備した。

プラハに総合病院が作られたとき、同じ敷地内に精神病院も開院したのである。

 

その後、1880年代にチェコの精神医学に一大変革が起こる。

ヨーロッパで最も古い大学のひとつとされるプラハのカレル大学では、講義はすべてドイツ語で行われてきた。

しかし、1881年からドイツ語とチェコ語を使う二つの大学への分離がはじまる。

カレル大学精神科のホームページによれば、チェコ語による精神医学の講義が始まったのは1885年であり、チェコ語大学の精神科病棟の始まりは1886年(11月19日)とされる。

この病棟の最初の教授が Benjamin Čumpelík (1845-1909) である。

当時から使われていたという、その歴史的な病棟を訪ねることにした。

 

(Vltava に架かる橋で)

 

宿泊先のホテルがある Anděl から東へ向かい、Vltava に架かる橋を渡る。

右に折れてしばらく歩き、Apolinářská という狭くて上り坂になっている通りを登りきり、Ke Karlovu という別の通りを左に曲がる。

やがて、Psychiatrická klinika の看板が見えてきた。

通り沿いには門はなく、誰でも自由に入れる。

下の写真が精神科の歴史的な建物である。

 

(塀の向こうに通じる入口も開いているが、部外者が入るのはどうかと思い、外側からのみの見学。)

 

(建物の裏に回ってみた。)

 

精神科に知り合いがいるわけでもなく、アポなどはもちろんとっていないから、外観や周囲の雰囲気を確認しただけだ。

周囲といえば、通りを挟んでほぼ反対側に、チェコの国民的作曲家ドヴォルザーク(ドヴォルジャーク/ドヴォジャーク Antonín Dvořák)の博物館があったが、今回はパスした。

精神医療史とはまったく無関係ではない、別の場所にどうしても行きたかったのである。

以前「プラハの精神病院とコンテンポラリーアート」という記事で、チェコのコンテンポラリー・アーティスト Eva Kotátková がプラハの精神病院(Psychiatrická nemocnice Bohnice)で行った展示とパフォーマンスについて紹介した。

以来、このアーティストが気になり、彼女の作品をいくつか所有しているらしい hunt kastner というギャラリーを訪ねることにした。

 

上記のカレル大学精神科から歩いて hunt kastner をめざす。

中央駅(hlavní nádraží)を越えてしばらく行くと、急坂になっていた。

どうもプラハには坂が多い。

Bořivojova という通りの 85番 にそのギャラリーはあった。

間口は狭く、静まり返っていて、なんとなく入りにくい。

時間を確かめてきたはずだが、本当に開いているのか…と、不安な気持ちで入口のベルを押す。

 

(hunt kastner の入口で)

 

すると、愛想のいい女性が出てきて、対応してくれた。

来訪の意図を告げると、棚に保存されているいくつかの Eva Kotátková の作品を見せてくれた。

大部なカタログがあるというので、迷わず購入。

これだけで、結構、満足、満足。

ギャラリーは中庭に通じていて、その先にも作品展示用の建物があった。

 

(hunt kastner の中庭。手すりが見えているレベルに、ギャラリー本部とは別の作品展示用建物がある。)

 

精神医療とはほとんど関係はないが、プラハから鉄道で2時間半くらい、モラヴィア地方の中心都市ブルノ(Brno)にも行きたい場所があった。

メンデルの法則で知られる Gregor Johann Mendel が在職していた修道院(英語では Old Brno Abbey)である。

 

(ブルノの中心街)

 

かつて植物学を専攻していた身としては、聖地巡礼のようなものか。

などと言いながらも、事前にろくに場所も確認せず、ブルノの街中を適当に歩いてインフォメーションを見つけ、そこで手に入れた地図を片手にうろうろ。

途中、激しい雨に降られながら、目的地にたどり着いた。

修道院の一角がメンデル博物館になっている。

 

(メンデル博物館が入っている建物。大きな木の下にメンデルの白い石像が見える。)

 

博物館の展示物はそれほど多いとは言えないが、メンデルが植物学だけに限らず、気象をはじめとするさまざまな自然現象に強い関心を持っていたことがわかった。

「観察魔」と言えるかもしれない。

 

(修道院の庭にあるメンデルのポップな肖像)

 

博物館でもらった小冊子に面白い記述があった。

ここを訪れる日本人の多くが、メンデルの養蜂について知りたがっているというのである。

それは、学校の教科書に載っているからだと。

私は知らなかったが、そういうエピソードが書かれた(理科の?)教科書もあったのだろう。

 

植物の話題が出たついでに、動物についても一言。

上で述べたプラハ大学精神科の近くで、"Richard"と書かれたゴリラの看板を見た。

プラハ動物園の広告だが、どうやらここにもイケメン・ゴリラがいるらしい。

地下鉄C線の Nádraží Holešovice 駅で降り、112番のバスに乗り換えて動物園へ。

 

(動物園の中で見つけた Richard の写真)

 

この動物園には、ゴリラ(ニシローランドゴリラ)が8頭いる。

このファミリーの中心にいるのが、Richard らしい。

 

(Richard は腕組みをして遠くにおり、撮った写真はこの程度。)

 

最後に、The National Gallery in Prague (Národní galerie v Praze)で開催中の Ai Weiwei の展覧会について。

難民をテーマにした、かなりインパクトがある展示である。

ネタバレになるかもしれないので詳細を紹介することは自粛したいが、ひとつだけ。

ギリシアの難民キャンプ(Idomeni Camp)に残された衣服や靴が大量に集められ、洗濯され、分類されたものが、展示会場いっぱいに並べられていた。

難民キャンプでの生活や、そこから強制排除されるまでの様子、さらに集められた物品をベルリンのスタジオで整理する過程を記録した映像に、来場者は釘付けになったと思う。

 

(撤去された難民キャンプに残されていた靴)

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オックスフォードの研究会 “Alcohol, Psychiatry and Society”

以前このブログでオックスフォードの記事を書いた。

その時と同じ場所(St Anne's College, Oxford)で、この6月29日・30日に小さな研究会があった。

テーマは、"Alcohol, Psychiatry and Society"である。

 

(会場のセミナールーム)

 

「アルコール依存の歴史や文化に関する演題があったら抄録を送って」という主催者のメールに応えて、とにかく何かを送ることにした。

それが2ヶ月くらいまえのこと。

かなり昔のことだが、グループワーカーなどという怪しげな立場で、東京23区内の某保健所が定期的に開催する「断酒教室」のお手伝いをしたことがある。

また、毎夜毎夜、都内のどこかで、必ずや開かれている断酒会の例会を、(研究上の目的で)1ヶ月間にわたって転々と巡ったこともある。

だから、アルコールのネタがないわけではない。

 

当初は、きわめて日本的なセルフヘルプグループと考えられる断酒会、およびそれに先立つ明治・大正期の啓蒙的な禁酒運動(いわゆるtemperance movement)などをつなげて抄録を作った。

が、主催者より、もっと医学的な治療を前面に出してほしいとの要望があり、結局、第二次世界大戦後の薬物治療や精神病院での社会復帰プログラムの歴史を加味したものへと変更することになった。

 

他の登壇者のタイトルについては、かなり直前になって届いたプログラムで知ったわけだが、その中で自分の扱う時代が一番新しいようだった。

また、研究会当日の発表を聞いて、アルコール依存の医学的理解(medicalization)に関する歴史的文脈、アルコール問題と国家や政治あるいはコロニアリズムとの関わり、などについての内容が多かったと感じた。

他方、わたしの日本における薬物治療の話は、いったいどう受けとめられたのか……と、やや怪訝に思うのである。

 

ま、それはともかく、参考までに登壇者、所属、およびテーマは以下のとおりである(これらは事前のプログラムを参照したものであり、当日の内容には若干の変更があった)。

 

David Korostyshevsky, History of Medicine, University of Minnesota, USA

“From Aqua Vitae to Poison: The early-modern transformation of alcohol in the Anglo-phone world”

 

Aude Fauvel, History of Psychiatry, Institut universitaire d’histoire de la médecine et de la santé publique, University of Lausanne, Switzerland

“Alcoholic Beasts: Alienists and the Problem of Animal Drunkenness in Nineteenth-century France”

 

James E. Moran, History, University of Prince Edward Island, Charlottetown, Canada

“Alcohol and Alienation in New Jersey, c. 1810 to 1890”

 

Mauricio Becerra Rebolledo, History of Science, CEHIC, Universitat Autónoma de Barcelona, Spain

“From nervous food to powerful agent of degeneration: Alcoholism and alcoholic psychosis in Rio de Janeiro and Santiago de Chile (1870-1920)”

 

Jasmin Brötz, History, University of Koblenz-Landau, Germany

“Healing the Nation’s Mind. The fight against alcoholism in the public discourse on rationalisation in late nineteenth and early twentieth- century Germany”

 

Simon Heap, History, Oxford Brookes University, UK

“ ‘In the Hot and Trying Climate of Nigeria the European has a Much Stronger Temptation to Indulge in Alcohol than the Native’: Alcoholism in Nigeria, c. 1880 to 1940”

 

Iain D. Smith, Consultant Addiction Psychiatrist, NHS GGC and Researcher, Centre for History of Medicine, University of Glasgow, UK

“ ‘Finish’ Drinking and ‘Secret Cures’: A Snapshot of Alcohol, Psychiatry and Society in Scotland in 1895”

 

Konstantinos Gkotsinas, History, University of Crete, Rethymnon, Greece

“ ‘Disciples of Asclepius ‘or ‘Advocates of Hermes’? Greek psychiatrists and alcohol at the turn of the twentieth century”

 

Adéla Gjuričová, History, Institute of Contemporary History, Czech Academy of Science, Prague, Czech Republic

“A Cradle of Psychotherapy: Alcohol addiction treatment in Socialist Czechoslovakia, 1948-1989”

 

Christian Werkmeister, History, Martin Luther University, Halle Wittenberg, Germany

“ ‘Doctor, now from face to face, answer quick: Will there be a diagnosis, or rather a verdict?’ Medical, moral, and political treatment of alcoholics in late Soviet psychiatry, 1970-1991”

 

Nina Salouâ Studer, History, University of Bern, Switzerland

“Assimilation by Alcohol: The role of France’s Mission Civilisatrice in the spread of alcoholism in twentieth-century Algeria”

 

Akira Hashimoto, History of Psychiatry, Aichi Prefectural University, Japan

“Medical and Social Approaches to Alcoholism in Post-WWII Japan”

 

Thomas Mueller, History of Psychiatry, Ulm/Ravensburg, Germany

“German psychiatry and medical attitudes to alcohol consumption, c. 1820-1990”

 

以上である。

 

(St Anne's College 内にある食堂の朝食が8時からと遅いので、近くをぶらぶら散歩。ともかく、ヒースロー空港とオックスフォードをバスで往復しただけの、とても短い旅行だった。)

| フリートーク | 00:24 | comments(0) | - | pookmark |
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA を訪ねて

滋賀県の近江八幡にあるボーダレス・アートミュージアム NO-MA に行った。

このブログでは、これまでもアウトサイダー・アート/アール・ブリュット関連の記事をいくつか書いてきた。

だが、国内のミュージアムの話は、はじめてだと思う。

NO-MA はこの種のミュージアムの「草分け」のような存在だから、この領域の関係者でなくとも知る人も多いだろう。

なので、その成り立ちなどはあえて述べない。

詳細は上記のリンクを参照していただきたい。

 

(雪が舞う NO-MA の入口付近)

 

NO-MA に行くことになったのは、勤務先大学の関西方面への「学科旅行」のプログラムに組み入れられていたからである。

1台の貸し切りバスに学生と教員が乗って移動するのだが、乗り切れない教員は鉄道で現地に向かうことになった。

私はその「はみ出し組」の1人なのである。

名古屋から新幹線に乗り、米原で降り、在来線に乗り換えた。

あたりは一面の雪景色。

近江八幡駅を出たところで同僚2人と待ち合わせて、タクシーで NO-MA に行く予定だった。

ところが、私は米原で乗り換えるべき列車を間違えて、反対方向の近江塩津行きに乗り、終点まで気がつかなかった。

近江八幡方面にもどる列車は1時間に1本しかなく、集合時間に大幅に遅れるという失態。

NO-MA に着いたときには、学生も教員も次の移動先に向かうバスに乗り込む直前だった。

おかげで、ほとんど1人で見学することができた。

 

(NO-MA の建物)

 

展示スペースは、1階、2階、そして少し離れた土蔵である。

とてもコンパクトなスペースだが、和風の建物が心地よい。

受付の近くに並べられていた保坂健二朗監修『アール・ブリュット アート 日本』(平凡社、2013年)を買ったら、おまけで NO-MA が所蔵する作品のカード・セットをもらった。

ラッキーである。

 

(NO-MA の由来)

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台湾精神医療史紀行(おまけ・台北ビエンナーレ2016)

台北からもどって2週間近くがたって、いまさらながらの「台湾精神医療史紀行」の続編をアップしたい。

とはいえ、「おまけ」なので、もはや精神医療史からは逸脱し、調査と学会の合間に訪れた台北ビエンナーレのお話。

 

2014年にもこのビエンナーレを訪れており、今回が2回目。

ただ、前のブログで書いたように、台風の影響で、会場の台北市立美術館が2日間くらい閉館になったようだ。

それとも知らずに、のんきにMRT(地下鉄)を乗り継いで出かけたところ、その日が臨時閉館で、落胆して帰った。

次に日に出直した。

 

純粋にアートを楽しもうと思ったのだが、ちょっと仕事モードに引き戻される展示があった。

陳界仁 CHEN Chieh-jen の Realm of Reverberations である。

ごく簡単にいえば、台北近郊にある樂生療養院の保存運動を記録した一連の作品群である。

 

(ハンセン病関連の映像展示、台北ビエンナーレ2016)

 

樂生療養院は、日本の植民地時代の1929(昭和4)年に台湾総督府癩病療養楽生院として設立された。

いわゆるハンセン病療養所である。

多くの患者が隔離収容され、長期間にわたってそこに住むことを強いられた。

だが、1994年にMRT建設のために療養所の撤去が決まり、入所者は新病院に移されることに。

だが、慣れ親しんできた療養所以外に行き場がない、と考える入所者から、施設撤去に反対する運動が起こった。

というのが、きわめて大雑把だが、樂生療養院の保存運動の背景である(と私は理解している)。

 

ところで、―冒頭で「精神医療史からは逸脱し」などと書いたことに反するが― 台湾最初の精神病院である(私立)養浩堂医院が開設されたのは、樂生療養院と同じ1929年で、台湾総督府精神病院・養神院が発足したのが1934(昭和9)年。

法律については、行政諸法台湾施行令によって、日本本土の癩予防法が台湾で施行されたが1934年、この2年後の1936(昭和11)年には、日本本土の精神病者監護法および精神病院法が(一部修正されて)台湾でも施行されている。

こうしてみると、1920年代おわりから1930年代にかけての台湾では、ハンセン病・精神病に関する政策の大きな変化があったことになる。

 

著作権のこともあろうから、陳界仁 CHEN Chieh-jen の写真作品は掲載を控えて、樂生療養院関係のパネルの写真を下に載せておきたい。

私が一番興味深かったのは、樂生療養院の保存運動それ自体ではなく、それがビエンナーレという「現代アートの舞台」でほかの作品と同列に並んでいることである。

ごく普通に。

 

ただ、いろいろ調べてみると、樂生療養院とアートとの関係は深いようで、日本人アーティストもここでワークショップを行っている(たとえば https://jp.globalvoices.org/2009/06/20/984/)。

医療と現代アートとの関係は、ますます面白くなってきていることは確かなようだ。

 

(樂生療養院保存運動の概説パネル、台北ビエンナーレ2016)

 

(樂生療養院保存運動の概説パネル、台北ビエンナーレ2016)

 

| フリートーク | 18:46 | comments(0) | - | pookmark |
台湾精神医療史紀行

台北に来た。

学会に参加するためだが、資料収集という目的もある。

 

近代日本の精神医療史を調べてきて、日本統治下の台湾の存在を無視できなくなってきた。

日本の旧植民地のなかでも、台湾ほど精神医療の「日本化」が進められたところはない。

なにしろ台湾では、日本本土の精神病者監護法(1900年)と精神病院法(1919年)が、1936年に同時に施行されたのである。

ということは、本土並みに、病院監置/私宅監置の手続きが行われ、公立精神病院/代用精神病院の設置や認可に関わる諸々の事務作業が生じたということである。

これは面白い。

ちなみに、樺太では早くも1917年に精神病者監護法のみが施行され、朝鮮(および南洋群島と関東州)では両法律は施行されなかった。

 

1895年に台湾の日本統治が始まり、1899年に創設された「台北仁済院」が台湾における精神病者収容に関わる最初の施設だという。

この施設は、日本統治以前に存在した救恤(きゅうじゅつ)施設の養済院などの財産を引き継いで発足した。

当初は、いわば救貧施設のなかに、精神病者も混在する形で収容されていたのだろうが、1922年に正式に精神病者収容施設を設置したとみられる(菅 修「本邦ニ於ケル精神病者並ビニ之ニ近接セル精神異常者ニ関スル調査」『精神神経学雑誌』第41巻、1937年などによれば)

 

ただ、この程度のことは、日本にいても簡単に調べられる。

 

ところで、台北仁済院の建物が残っているらしいことをあるブログで偶然知り、せっかくなので行ってみることにした。

MRTの龍山寺駅から、大通りに沿って南西方向にしばらく歩くと、少し木の生い茂った公園があった。

周囲を探しても、それらしい看板はないが、園内の歴史的な建物(下の写真)がかつての仁済院に違いない。

 

(台北仁済院の旧建物)

 

恐る恐る、開いたドアから中に入ったが、天井の照明の一部しか点灯していないので、かなり暗い。

椅子と机があるくらいで、何もないように見えた。

 

(建物の内部。デジカメ画像では明るく見えるが、実際にはかなり暗い。)

 

建物の中をよく見渡すと、わずかだが台北仁済院に関する展示スペースがあった。

ただ、夕刻なのに照明がないので、よく見えない。

年表(下の写真)、書類、建物のミニチュア模型などがあったが、暗くて、やはりよく見えない。

 

(年表の1936年に、精神病者監護法と精神病院法が「施行於台湾」と書かれている。)

 

はなはだ不十分な現地調査だが、ともかく、台北仁済院の旧建物を確認したことで、一応満足。

 

さて、話は脱線。

台北は初めてではないが、いまごろになって檳榔(びんろう)の看板が街のあちこちにあることに気がついた。

そもそも、檳榔って?

ヤシ科の植物で、種子は嗜好品、噛みタバコのように使われるという。

一種の薬理効果があるらしい。

そういえば、路上で時々みかける茶色っぽい筋のような塊は、噛みつぶした檳榔の繊維質を吐き出したものなのか。

 

Wikipedia には次のような記述もあった。

 

「台湾では、露出度の高い服装をした若い女性(檳榔西施)が檳榔子を販売している光景が見られる。風紀上の問題から2002年に規制法が制定され、台北市内から規制が始まり、桃園県もこれに追従した。以降、台中市、台南市、高雄市など大都市では姿を消した。依然として高速道路のインターチェンジ付近や、地方では道端に立つ檳榔西施が見られるが、過激な服装は影を潜めるようになった。」

 

そういえば、「檳榔西施」こそ見かけなかったが、一部の檳榔の店は派手な感じで、ガラス張りになっていて、真昼間から妙な雰囲気が漂っていた。

 

(台北市に隣接する新北市内の「山本檳榔」店。チェーン店らしいが、「山本」の由来は?)

 

宿泊先のホテルは、この檳榔の店からしばらく歩いたところにある。

とりあえず歩道はあるものの(下の写真)、歩くような道ではない。

地元の人は絶対に歩かないだろう(実際、自分以外に歩いている人間を見なかった)。

車が猛スピードですぐ脇を通りすぎる。

怖い怖い道を肩をすぼませてホテルまで歩くのである。

 

(ホテルまでの狭い歩道)

 

日付がかわって、きょうは資料集めの「本丸」をめざす。

またもや上述の怖い歩道を歩いて、中央研究院へ向かう。

台風が接近しているらしく、雨が降ったり、急に晴れたり、めまぐるしく変わる天候。

 

(中央研究院に向かう途中、南港展覧館方面をのぞむ。)

 

ホテルから30分以上歩いて、中央研究院に着いた。

台湾政府の学術予算を、相当注ぎ込んだような一大研究拠点…なんだろう、これはどう見ても。

理系・文系のりっぱな研究施設がキャンパス内のあちこちに。

 

めざすは人文社会科学館の中にある台湾史研究所である。

ここに台湾総督府関係の公文書があるらしい。

 

(人文社会科学館大楼北棟の正面)

 

あらかじめ日本で検索しておいた精神医療関係の資料を次々に閲覧・印刷。

大量の紙束になった。

受付の人からもらった、派手なピンク色のショッピングバッグに資料を詰め込む。

研究院を出るときには、雨も強くなってきた。

 

また、日付が変わる。

朝から激しい雨と風。

台風が台湾を直撃するらしい。

それでも、もう一度、中央研究院に行くことにした。

まだ、すべての資料を見たわけではない。

 

ホテルを出る少し前、同じ学会で発表する日本の友人からメールが来た。

彼は中央研究院のなかの宿泊施設にいるというので、訪ねることにした。

ホテルを出るときに、すでに暴風雨。

タクシーで乗り付けた中央研究院のキャンパスを、少し歩いただけでずぶ濡れになった。

 

あちこち見て回りたい性分の友人も、きょうばかりは動けず、部屋でこもっているほかないという。

一時間くらいだべったあと、同じ敷地内の台湾史研究所に二人で行ってみることにした。

が、なんと台風で臨時休業。

というか、地元の人の話では、きょうは学校は休校、交通機関はストップ、ということらしい。

そもそもこんな日に、のこのこと外出した自分がアホである。

帰りが心配になり、急いでタクシーを呼んで、ホテルに戻ったのがまだお昼前。

 

(ホテルの部屋から。どんどん雨と風が強くなる。)

 

なんか気が抜けた。

ホテルでやることがない。

時間だけはたっぷりあるので、きのう集めた資料に目を通すことにした。

今回の台北訪問の主たる目的である、学会発表の内容に関わるものなので、読む必要もあった。

やはり、日本で集めた資料だけで組み立てた研究内容には限界があると感じた。

とはいえ、台湾史研究所で集めた資料の内容を、すぐに学会での発表内容に反映もできない。

日本で用意してきたものを、そのまま発表することになるだろう。

まあ仕方がない。

 

こんなことを書いているいまも、暴風雨はおさまる気配がない。

あすは晴れるのだろうか。

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