近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
沖縄 南風原と嘉手納

(沖縄県嘉手納町の「道の駅かでな」の展望デッキから見える嘉手納空軍基地 2024年3月8日撮影)

 

ひょんなことから、薬物政策/薬物治療の歴史と現状を調べている。

調べだしたのはいいが、この分野の研究の蓄積は膨大であることがわかり、これはどうしたものかと・・・

 

とりわけ、薬物をめぐる国際的な議論の高まりを反映してか、近年の国内外の著作や論文は数知れず、また論客も多い。

国内の論調としては、日本の厳罰主義的な薬物政策は国際的な動向に逆行しているというものもあれば、いやいや、そこは慎重に考えないといけないしとして、治療的なアプローチを優先することへの懸念をしめす立場も依然として健在のようだ。

 

わたしとしては、こうした「現在進行形」の議論も参照しつつも、関心の中心はやはり薬物政策の変遷をさぐる歴史的なものに落ち着くのである。

 

そんなかんなで、まずは比較的使い慣れている沖縄県公文書館(下の写真)の資料を使って研究を進めることにした。

 

(沖縄県南風原町にある沖縄県公文書館の「裏庭」にて 2024年3月7日撮影)

 

沖縄をフィールドに選んでいる理由はほかにもある。

 

20世紀のグローバルな薬物政策をリードしてきたのはアメリカだった。

1950〜70年代のアメリカは、フランス、トルコ、タイ、メキシコなどで薬物に関する外交政策を積極的に展開している。

このあたりのことは、Helena Barop の Mohnblumenkriege: Die globale Drogenpolitik der USA 1950-1979. Wallstein (2021) などに詳しい。

 

Barop は触れていないが、戦後日本の薬物政策もアメリカの影響下にあったことは確かだろう。

 

そして、日本本土をモデルにしながらも、他方でアメリカの影響をより直接的に受けることになったのが占領期沖縄の薬物政策だった(と考えられる)。

ある意味で特殊な状況にあったといえる沖縄は、アメリカや日本の薬物政策を批判的に検討する視角を与えてくれるのではなかろうか。

 

こうした見通しをたてて、資料を調べはじめたのである。

研究のごく初期段階で、なにもまとまった成果はないのだが、少しだけその内容を記述したい。


沖縄占領初期の薬物関係法規として、米国軍政府布令第1号(1949年)のなかに関連条文がある。

しかし、これはごく簡単なものにとどまる。

 

1952年に、米国民政府(USCAR)布令第89号として出された「麻薬取締法」(Narcotics Control Law)が最初の本格的な法令といえる。

同年に発足した琉球政府は、日本本土の法律にならった「覚せい剤輸入、製造、使用等禁止法」(1953年)および「麻薬取締法」(1955年)を制定した(「覚せい剤」の「せい」には傍点がつけられている)。

 

琉球政府は、布令第89号では規制できない「覚せい剤、らん用による中毒者」が、日本本土と同様に沖縄でも蔓延するおそれがあることから「覚せい剤輸入、製造、使用等禁止法」を立法した、という経緯がある。

また、琉球政府の「麻薬取締法」では、日本本土の「麻薬取締法」とは異なり、大麻が麻薬に含まれていた。

 

1963年、沖縄で「睡眠薬遊び」が社会問題化すると、USCAR は睡眠薬を含む鎮静剤等も麻薬同様に規制する高等弁務官布令第51号を発令した。

しかし、「麻薬類と日常的な医薬品を同一の法で規制することの不自然さ」(『沖縄薬業史』、1972年)から、琉球政府は1964年に鎮静剤等のみを規制する統制薬品取締法を新たに制定した。

 

この法律は、USCAR の布令第51号の廃止を前提としていた。

ところが、(琉球政府の法律よりも上位の規定と位置づけられる)布令の廃止はすぐには行われず、当面のあいだ統制薬品取締法は施行不能状態に陥った。

その後の同法の一部改正問題を含めて、琉球政府と USCAR との間に軋轢が生じることになる。

 

1965年5月9日の『琉球新報』は、「統制薬品法 自治議論 再燃しよう」という見出しで、琉球政府の立法院で「自治権問題と関係するものとして(…)新たな角度から検討することになった」と報じている。

 

さらに、1965年7月27日に開かれた第28回議会の立法院会議録には、「布令 [第51号] は、沖縄の実情にそぐわないものであり、その廃止を望む住民の強い声を反映して、民立法 [統制薬品取締法] が制定されたにもかかわらず、いまなお、布令を廃止することなく、民立法の実施を一方的に排除することは、住民の意思を無視した布令による直接統治であり、これまで要求し続けてきた自治の拡大にももとるものであるとして強い不満の意の表明がありましたことを申し添えまして御説明を終わります。」という議員の発言が記録されている。

 

そもそも沖縄は「独立国」ではなく、国際条約で規定された麻薬の輸出入の許可監督権もない。

したがって、統制薬品取締法の議論に限らず、琉球政府とUSCARとのあいだには薬物規制をめぐる軋轢の種はころがっていたと考えられる。

 

公文書を整理しながら思うのは、少なくとも1960年代前半までは、琉球政府と USCAR とが薬物をめぐってあれこれ交渉していた時代だったということである、軋轢があったにせよ。


その後、1969年にニクソン政権が発足し、薬物戦争(war on drugs)が宣言されたあたりから、好むと好まざるとにかかわらず、沖縄はアメリカが推進する薬物政策に巻き込まれる段階に入ったようにみえる。

 

1969年には「米軍人、軍属による大麻密輸入が急増」(『沖縄薬業史』)したとされ、税関検査の徹底とともに薬物依存症の治療・リハビリ・教育プログラムが軍関係者のあいだで関心を集めていたようだ。

同時に、沖縄の薬物依存を一掃するための USCAR と琉球政府スタッフとの合同ミーティングが何度か開催された。

そこでは、密輸薬物を発見する手法を学ぶ研修なども実施された。

 

両者の協力による薬物規制の成果なのか、琉球政府の『薬事概況』を参照するかぎり、沖縄の一般市民の「麻薬中毒患者」は1971年まではごく少数である。


しかし、日本政府は復帰直前の沖縄について「麻薬事犯が多発するとともに悪質化しつつあり、強力な麻薬取り締まり体制が要請されている」(第68回国会 衆議院社会労働委員会議事録第7号 1972年3月16日)として、本土復帰にあわせて1972年に九州地区麻薬取締官事務所沖縄支所を設置した。

 

その当時、沖縄で薬物依存治療を行っていた精神科医の平良寛によれば、「ベトナムから沖縄に引揚げて来た(…)不良外人はストレス解消を求めてコザ市のバー街へと流れこんでヘロインをばらまいた」と復帰後の状況を報告している(平良寛「沖縄の麻薬中毒患者について」『九州神経精神医学』 23 (3·4), 169-171, 1977)。

 

復帰前後の沖縄における薬物問題拡大の実像はどんなものだったのか、USCAR および日本政府はどのように対応しようとしていたのか、についてはなおも解明すべき点が多い。

 

といった内容を基盤にして、秋に開催予定の某学会で発表をするつもりである。

 

(「税関検査、沖縄、嘉手納空軍基地 [Customs Inspection, Okinawa, Kadena Air Force Base​] ​撮影地: 嘉手納町 撮影日: 1972年2月」 沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真より)

 

さて、平良寛論文の「ベトナムから沖縄に引揚げて来た(…)不良外人」という言葉からすると、薬物は国外からもたされたもののようだ。

 

USCAR も、アメリカ兵が東南アジアから沖縄の基地内に薬物をもたらすことを警戒していた。

1970年代はじめには、沖縄の軍関係および一般の空港や港での荷物チェックを強化している。

 

上の写真は沖縄県公文書館が所蔵する1972年の嘉手納空軍基地における「税関検査」の様子である。

公文書からは、マリファナ探知犬(marihuana detection dog)も投入されていたことがわかる。

 

そんなことから、文献調査ばかりでは疲れるし、Kadena Air Force Base に行こうと思った。

基地のなかには入れないだろうが、遠巻きに様子をみるだけでもいい。

調べてみると、「道の駅かでな」に行けば、嘉手納の米軍基地を見渡せる場所があるらしい。

 

ゆいレールの旭橋駅近くの那覇バスターミナルから名護方面の高速バスに乗り、池武当(いけんとう)という沖縄道の停留所で降りる。

そこから一般道を走る別のバスに乗り換え、米軍施設のあいだを縫うようにしばらく走ると、嘉手納町運動公園入口という停留所に着いた。

道の駅は目の前だ。

 

道の駅には展望デッキがあって、確かに嘉手納空軍基地を見渡すことができる。

冒頭の写真がそれであり、シルエットとして写っているのは高校か中学かの修学旅行の集団である。

巨大な望遠レンズをつけたカメラをかかえて、滑走路での動きを観察し続ける、いわば航空機オタクっぽい人たちも何人か見受けられた。

 

なお、道の駅のなかには、嘉手納の歴史を紹介する展示コーナーがあって、勉強になる。

修学旅行の集団も、勉強していたようだ。

 

(左:嘉手納空軍基地との境界フェンスに掲げられた「米国空軍施設」の看板、2024年3月8日撮影、右上:嘉手納空軍基地に降り立つニクソン副大統領夫妻、1953年11月20日、右下:嘉手納空軍基地に着陸するジェット輸送機 C-5ギャラクシー機、1970年7月9日、モノクロ写真はいずれも沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真より)

 

道の駅から、嘉手納空軍基地沿いの道をトボトボ歩いて、嘉手納の街のほうまで歩く。

道すがら、基地との境界のフェンスに掲げられた「US AIR FORCE FACILITY 米国空軍施設」の看板を写す(上の写真・左)。

 

おまけとして、沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真から、嘉手納空軍基地に降り立つニクソン副大統領夫妻(上の写真・右上)、と、嘉手納空軍基地に着陸するジェット輸送機 C-5ギャラクシー機(上の写真・右下)を載せた。

 

フェンスに沿って30分くらい歩いて、嘉手納町役場のあたりまでやってきた。

役場のまえには「嘉手納駅跡地」の碑があった(下の写真・左)。

 

(左:嘉手納町役場の近くに建つ「嘉手納駅跡地」の碑、右:「道の駅かでな」から、嘉手納空軍基地沿いを歩いて嘉手納町役場方面に向かう 2024年3月8日撮影)

 

かつて、嘉手納は那覇と鉄道で結ばれていたのである。

「嘉手納駅跡地」には修学旅行生は来ないのだろうが、碑に刻まれていることは勉強になりそうだ。

以下はその全文である(読みやすさを考えて、改行の部分で1行あけている)。

 


沖縄県営鉄道嘉手納線は1922(大正11)年3月28日に営業を開始し、那覇駅から嘉手納駅まで総延長約23.6Km 沖縄県営鉄道の3路線で最も長い路線でした。

 

嘉手納地域は嘉手納駅を利用して、沖縄本島中北部地域の農産物等を那覇に輸送する中継地として栄え、嘉手納駅を中心として比謝橋近くまで続く嘉手納大通りでは、本屋・文具店・理髪店・食堂・医院などが軒を連ね賑わいました。

 

また嘉手納駅には、サトウキビを越来・美里・具志川などからトロッコで、読谷山の比謝・伊良皆などからは荷馬車で運び入れ、そこから側線を使用し沖縄県内最大の製糖工場である沖縄製糖株式会社嘉手納工場へと搬入していました。嘉手納駅の開業により、それまで船による海上輸送であった砂糖製品の運搬が鉄道による陸上輸送に変わるなど、沖縄本島中部地域の産業の発展に大きく寄与しました。

 

しかし、1945(昭和20)年の沖縄戦により鉄道設備が破壊され、戦後は多くの土地が米軍施設として接収されたため、沖縄県営鉄道は廃線となりました。

 

2011年2月吉日 沖縄県嘉手納町


 

今回は以上である。

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式場隆三郎と山下清をめぐる小さな旅 + [付記]

東京・新宿のSOMPO美術館で開かれていた山下清展に行った。

2023年の盛夏のころである。

閉館の1時間くらいまえに会場に着いたが、入場券を買い求めて並ぶ長蛇の列に圧倒された。

自分の番が来る前に、閉館時間になってしまうのではないかとも思った。

 

(山下清展が開かれていたSOMPO美術館 2023年8月27日撮影)

 

まとまった数の山下清の作品をじかに見るのは、これがはじめてだったと思う。

ただ、混雑する会場では、二重、三重の人の列のうしろから作品を遠望するという感じで、美術鑑賞的にはよい環境ではない。

なので、カタログを買って、あとからゆっくり作品をふりかえることにした(カタログを買うのにも、かなりの時間待つことになったのだが)。

 

会場での展示の手法(?)として気がついたのは、作品の背景や制作過程の解説などに式場隆三郎への言及がほぼ(まったく?)なかったことである。

いわば、山下のパトロン的な存在としての式場は、あらゆる場面で山下とセットで語られることがきわめて多い。

 

この展覧会では、陳腐な語りに陥ることを回避すべく、式場を意図的に外したのか、あるいは、山下の作品自体に着目した結果、式場との接点を語る必要がなくなったのか。

いずれにしても、新鮮な感じではあった。

 

購入したカタログ(『生誕100年 山下清展 百年目の大回想』)を見ていて気づいたこともある。

精神医療史に関心がない人たちにとっては、どうでもいいことかもしれない。

 

カタログの p.195 に次のような記述がある。

 

「山下は甲府駅での悪ふざけが原因で、1950(昭和25)年7月8日から11月2日まで甲府市内の精神科病院(伊勢療養所)に強制収容された。」

 

山下清は「強制収容」させられたという場所を、「田舎の精神病院」という作品に描いている。

だが、このブログでも紹介しているように、伊勢療養所は精神病院ではない。

 

とはいえ山下は、伊勢療養所が精神病院であるか否かを知る由もなかっただろうし、当時の甲府の市民もこれを「精神病院」と言い慣わしていたとしても不思議ではない。

 

もうひとつ、「強制収容」というのも引っかかる。

 

山下が「強制収容」される少し前の1950年5月1日に精神衛生法が施行された。

この法律では、強制的な収容(入院)である措置入院が規定された。

しかし、そもそも精神病院ではない伊勢療養所に「強制収容」されることは法的にはありえない。

何をもって「強制収容」が可能になっているのか(本当に「強制収容」だったのか)、真相はよくわからない。

 

以上が、盛夏に訪れた山下清展に関わることである。

 

季節が変わり、秋も終わり、そろそろ本格的な冬が来るといわれていた12月17日に、千葉県の我孫子に行った。

我孫子市白樺文学館で開催されている「式場隆三郎展」がおもな目的である。

その翌日、東京都立松沢病院の「日本精神医学資料館」に大学院生とともに見学に行くことになっており、「ついでの我孫子」という意味もあったが、それなりの収穫もあった。

 

我孫子という場所は、白樺派の中心人物である柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤らが住んでいた「文学者の多い鎌倉と並び称される文士村」だったという(我孫子市白樺文学館のパンフより)。

 

JR我孫子駅から白樺文学館への道すがら、式場隆三郎も深く関わっていた民藝運動のゆかりの場所があった。

嘉納治五郎の別荘跡が公園になっており、そのすぐまえに嘉納の甥にあたる柳宗悦の旧宅(三樹荘)がある。

この嘉納と柳の旧宅の間にある道は、曲がりくねった細い下り坂(天神坂)へとつながっている。

これらの家が、手賀沼を見下ろす小高い丘の上にあったことに気づかされる。

 

(天神坂を降り切った場所に、我孫子市白樺文学館などへの案内板があった(左)。天神坂の上にある、嘉納治五郎別荘跡に立つ案内板(右) 2023年12月17日撮影、以下も同様)

 

なおも白樺文学館方面に歩いていくと、またもや小高い丘があって、楚人冠公園という名前がついている。

なぜか、我孫子駅からキャリーバッグを引きずってきており、それを抱え込んで丘に登ると、木々の間から手賀沼がわずかに見渡せた(下の写真では、手賀沼はわかりにくいが)。

 

(楚人冠公園から手賀沼方面を見渡す。)

 

楚人冠公園は、明治・大正・昭和と活躍したジャーナリストの杉村楚人冠の邸宅の一部だった場所らしい。

すぐ近くには杉村楚人冠記念館もあるようだ。

 

道草をしながら、白樺文学館にたどりついた。

中に入ると、ピアノの生演奏に迎えられた。

外観はそれほど大きくはないが、地階、1階、2階もあって、展示スペースは多い。

 

今回の式場隆三郎展では、おもに日本点字図書館創立(および視覚障害者の福祉全般)に尽力する式場の活躍に焦点を当てたものである。

このテーマに限らないが、式場の軽妙なフットワークを改めて感じた。

 

(上:我孫子市白樺文学館、下:手賀沼)

 

白樺文学館には1時間くらいいただろうか。

途中、バーナード・リーチの記念碑を見たあと、手賀沼に行った(上の写真)。

 

千葉といえば、我孫子のほかに行きたい場所があった。

山下清が入所していた市川の八幡学園である。

 

とくにアポをとっているわけではないので、とにかく「現場」を確認したいというだけである。

常磐線、武蔵野線と乗り継いで、船橋法典駅で降り、あとは徒歩。

途中に中山競馬場があって、休日のせいか賑わっていた。

 

駅から20分くらいで八幡学園の前に着いた。

現在は 社会福祉法人 春濤会 八幡学園 となっている。

 

とくに趣のある建物とはいえないかもしれないが、写真だけは撮った(下の写真)。

門の横にある掲示板には、山下清関係の記事が何枚か貼られていた。

施設前では、わりと人の出入りがある。

キャリーバックを引きずりながら、門の付近でうろついている「不審人物」的な私なので、早々に退散した。

 

(左:八幡学園を示す標識、右:八幡学園の入口付近)

 

最後は、式場隆三郎も注目していた「ニ笑亭」の話題である。

これは、渡辺金蔵なる人物の手によって建てられた「奇怪な邸宅」(椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』)として、知る人も多かろう。

したがって、ニ笑亭についての説明は省略する。

 

ここで注目するのは、ただ1点。

すでに失われたこの建物の跡地はどうなっているのか、ということである。

そこで、八幡学園から再び船橋法典駅へ、そこから西船橋駅へ、さらに地下鉄東西線で門前仲町駅まで移動。

 

この「跡地」情報はネット上にもあふれているが、上記の椹木野衣の著作には現在の住所まで書いてくれている(「東京都江東区門前仲町2-4-10」だという)。

ストリートビューでも見ることはできるが、やはり「現場」に足を運び、この目で確認したい。

 

それを確認したのが、以下の写真である。

赤い車が止まっている背後のビルの位置に「ニ笑亭」があったようだが、現在は1階がイタリアンの店になっていた。

向かって左が「から好し」、右が「コージーコーナー」である。

 

(門前仲町二丁目。赤い車が止まっている背後のビルの位置に「ニ笑亭」があったようだ。)

 

朝から動き回って疲れたが、このあと門前仲町から、日本橋を経由し、八重洲地下街に入って、東京駅まで歩いた。

 


[付記](2024/3/13)

 

上のブログ本文で『生誕100年 山下清展 百年目の大回想』のカタログに言及した。

そして、そのカタログの p.195 に書かれている、次のような記述(以下では「引用文」と表記する)を紹介した。

 

「山下は甲府駅での悪ふざけが原因で、1950(昭和25)年7月8日から11月2日まで甲府市内の精神科病院(伊勢療養所)に強制収容された。」(この記述は服部正「100年目の山下清」、同カタログ pp.192-199より)。

 

上のブログ本文では、伊勢療養所は精神病院ではないことを強調したが、この「引用文」について別の疑問が生じた。

 

「引用文」の周辺の記述から、この「引用文」は小沢信男『裸の大将一代記 山下清の見た夢』(筑摩書房、2000年)あるいは『裸の大将放浪記』(ノーベル書房、1979年)に依拠していると思われる。

 

ところが、小沢信男は『裸の大将一代記 山下清の見た夢』のなかで、「甲府災難」としてこの「精神病院」のことを記述しているものの、「伊勢療養所」という名前を明記してはいない。
むしろ小沢は、同書の後のほうにある式場隆三郎に関する記述のなかで、山下清が収容されたのが「山梨脳病院」であったことを示唆している。

 

また、『裸の大将放浪記』の第4巻の巻末にある「山下清年譜」では、清が「強制入院」させられたのが「山梨脳病院」であったと書かれている。

 

当然ながら、山梨脳病院は伊勢療養所とはまったく別物である。

山下清の日記からは、その収容先は医師が常駐していた精神病院、つまり山梨脳病院であったとは考えにくい。

山梨脳病院については、このブログの記事(私説・日本精神医療風土記(その 9) 山梨県(山梨脳病院/山角病院など))などを参照。

 

とすれば、いったい、いつ、どこで、山下清の収容先が「山梨脳病院 → 伊勢療養所」という事実認識の転換/修正が起きたのか、なぜ『生誕100年 山下清展 百年目の大回想』のカタログでは、「伊勢療養所」と書くことが可能になったのだろうか・・・

 

管見の限り、確証はないものの、山下清の甲府での収容先を「伊勢療養所」と記述し、公表した最初(かつ唯一)は、どうやらこのブログ(『山梨』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 19>)と思われる。

 

少なくとも、ブログのネタになっている小林靖彦の資料は、私の大学研究室にしか存在しない。

小林は1970年代に山梨県に調査に行っており、伊勢療養所についても詳しく調べている。

その際に関係者から伊勢療養所と山下清との関係を聞いたものと推察する。

 

とすれば、『生誕100年 山下清展 百年目の大回想』のカタログの記述は、このブログから「伊勢療養所」というタームを取得した可能性が高いのだが・・・

しかし、カタログには URL などの典拠が明記されていない。

この私の見立てが正しいとしたら、研究成果が少しは活かされたことは嬉しいものの、無断引用?された気がして、ちょっと残念だ。

ブログなど、軽く見られているということか・・・

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ドイツ紀行 4

ニュルンベルクといえば、ニュルンベルク裁判を連想するのではなかろうか。

言うまでもなく、これはドイツの第二次世界大戦における戦争犯罪を裁く目的で、連合国によって行われた国際軍事裁判である。

 

ニュルンベルクで借りたアパートから歩いて20分くらいのところに、この裁判に関する記念館があった(下の写真)。

Memorium Nürnberger Prozesse (ニュルンベルク裁判メモリアム )というのが、正式の名称である。

 

(ニュルンベルク裁判メモリアム Memorium Nürnberger Prozesse)

 

案内板の説明によると、1868年にバイエルンで最初の刑務所がこの場所に建てられた。

それまでの地下牢などでの監禁にかわり、受刑者を個別の独房に入れる処遇は、近代的な刑の執行形態の先駆けだったようだ。

その後、バイエルンの議会はこの刑務所の隣に司法関係の中央庁舎(Justizpalast)の設置を決め、第一次世界大戦中の1916年に竣工した。

 

庁舎にある最大の裁判場は Saal 600(600番ホール、と訳すべきか)と呼ばれ、殺人などの重大犯罪の裁判で使われた。

ニュルンベルク裁判も、そのためにわざわざ改修された Saal 600 が使われている。

上の写真で、3つの大きな窓が写っているところが Saal 600 である。

 

ここがメモリアムとして整備されたのは、それほど前のことではないらしい。

web 上の情報をまとめると、2000年にはじめて Saal 600 の見学ツアーが行われた。

見学者が増えて、見学者の需要に応えるべく、2010年からは Saal 600 の階上に常設展示がつくられた。

その間にも Saal 600 は実際の裁判で使われていたが、2020年にはその裁判機能を終了し、常設展示に統合されたのである。

 

メモリアムのHPによれば、いつの時点から数えているのかわからないものの(2010年の常設展示オープンからか)、2023年7月31日に入場者が100万人に達したという。

ニュルンベルク市長が、100万人目となったアメリカからの見学者に花束を贈呈している。

もう少し前に訪れていたら、自分だったかもしれない。

 

さて、建物の説明はともかく、中に入ってみよう。

入口でチケットを買って、階上へ(下の写真)。

踊り場を越えた先には何があるのか。

 

(ニュルンベルク裁判メモリアム の建物を入って、裁判場 Saal 600 へ向かう。)

 

階段をのぼりきると、Saal 600 がある階に到達した。

このホールに入るドアの前あたりに、いくつかの展示があった。

そのひとつが下の写真である。

ニュルンベルク裁判当時と思われる写真と、現在の Saal 600 の写真が並べられている。

部屋のだいたいの雰囲気は残されているようだ。

 

(裁判当時と思われる Saal 600 と現在の様子を比べた写真パネル)

 

実際に Saal 600 に入ってみると(下の写真)、意外に狭い感じがした。

もっとも、ニュルンベルク裁判が行われた際には、この写真の撮影者(わたし)の背後のほうにも席がもっとあったようなので、実際にも狭くなったのだろう。

ただ、横幅、つまり、窓から反対側の壁までの距離は変わらないはずだ。

 

(見学者用に整備された Saal 600 の現在)

 

Saal 600 を出て、うろうろしていると、映画の上映があるという。

再び入室して、とりあえず傍聴人(というか見学者)席にすわった。

すると、最前列の席あたりの天井から、背後が透けて見えるスクリーンがスルスルと降りてきて、映画がはじまった。

 

映画の大部分は、このホールで行われた当時の裁判の映像と音声で構成されている。

映像と現在のホールとが、連続しているかのような錯覚とともに、あの裁判に立ち会っているような臨場感に襲われる。

 

映画を見たあと、さらに階上の展示コーナーに進む。

ニュルンベルク裁判の歴史やその意義、あるいは批判的な検討も視野に入れた見ごたえのある展示である。

 

ニュルンベルク裁判をモデルとした、東京裁判の展示もあった(下の写真)。

日本国内には、この裁判を公正に検証して、人びとにわかりやすい形で示す展示は存在しているのか。

そのことが気になった。

 

(東京裁判の展示の一部)

 

ニュルンベルク裁判のあとにアメリカ軍が行った、12の裁判についての展示もあった。

そのうち医師裁判 Ärzteprozess についてのみ言及したい。

下の写真は、医師裁判の展示の一部である。

 

このブログ的に注目すべきは、Karl Brandt に関する記載である。

写真の中の説明「4」によれば、写真「4」のカール・ブラント(Karl Brandt)は障害者・患者の「安楽死計画」の主要なる責任者として、死刑判決を受け、1948年に絞首刑が執行されたとある。

 

(ニュルンベルク医師裁判 Ärzteprozess の展示の一部)

 

ここから雰囲気がガラリと変わり、観光的な話となる。

 

前回のブログで書いたが、ニュルンベルクとその近郊の交通費および博物館などの入場料がすべて含まれているという、48時間有効のパスを購入したため、これを有効に使いたい。

そんな義務感にかられたわけではないが、このパスを使って訪れたニュルンベルクの別のミュージアムの一部を紹介したい。

 

ドイツのルネサンス期に活躍した画家(だけではないが)のデューラー(Albrecht Dürer)は、ニュルンベルクの出身ということで、デューラーの家(Albrecht-Dürer-Haus)が観光名所になっている(下の写真)。

デューラーは15〜16世紀の人なので、住人は何人も入れ替わり、改装が重ねられて、当時の家がそのまま残っているというわけではない。

デューラーのほとんどの作品はニュルンベルクから流出し、ヨーロッパの主要な美術館に所蔵されているらしい。

この家で所蔵しているものの多くは、後世の画家による模写のようだったが、オリジナルの版画も少数ながら展示されていた。

 

(左:デューラーの家 Albrecht-Dürer-Haus の正面、右:デューラーの家の窓からニュルンベルク城方面を見る。)

 

モダンな建物に魅かれてノイエス・ミュージアム Neues Museum: Staatliches Museum für Kunst und Design Nürnberg に行き(下の写真の上2つ)、さらにゲルマン国立博物館 Germanisches Nationalmuseum にも足をのばした(下の写真の下2つ)。

 

とくに、ゲルマン…のほうは展示が多くて、短時間ではとても見切れない。

医学史関係だけを取り上げると、写真にあるのは昔の薬局に関するものである。

左は、1750年ころの薬局のユニコーン型の看板。

ユニコーンには治癒力が備わっているとされ、人気があったようだ。

右が Die Hirschapotheke zu Öhringen (エーリンゲンのヒルシュ薬局)である。

写真は昔の店先を再現したものだが、まるで絵画に描いたように整っている。

現在でもこの薬局は続いているようだ。 

 

(上の2つ:ノイエス・ミュージアム、下の2つ:ゲルマン国立博物館 )

 

紹介したいことはまだまだあるが、まとめきれず、とりあえず「ドイツ紀行」はここまでとしたい。

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ドイツ紀行 3

ニュルンベルクにも行った。

なにか明確な目的があったわけではない。

これまで訪れたことがない街だというくらいの理由。

 

だが、この街にもナチスの「遺構」があるという点で、前回の話とつながってくる。

しかも、かなり強烈なのである。

 

ニュルンベルク中央駅から3つ目に、ドゥツェントタイヒ(Dutzendteich)という駅がある。

タイヒ(Teich 池)というくらいだから、あたりに池か湖がある風光明媚な場所だろうと想像した。

 

ここはナチスの党大会が開かれていた場所で知られている。

一帯に壮大な建造物群を配置することで、ナチスの権力を誇示し、ナチスにとっての聖地のような場所を目指したのかもしれない。

その建築物の一部が残されているという。

行くしかない。

 

(ニュルンベルク中央駅。これからドゥツェントタイヒ Dutzendteich 駅へ向かう。)

 

到着した小さな駅をから「遺構」をめざす。

この日も暑い日で、カンカン照りのなか、歩くのはややつらい。

しばらく行くと、ドゥツェントタイヒという名前の池(むしろ湖だが)があり、その先になにやら巨大な物体が見えてきた(下の写真)。

これがナチスの会議場(Kongresshalle)として建てられたものである。

 

計画では、天井までの高さが 70m に達する 5万人収容の巨大な建物で、ローマのコロセウムの 2倍の規模になるはずだった。

しかし、第二次世界大戦中に建設は中断され、未完のまま放置されてきた。

 

(Dutzendteich という名前の池(むしろ湖)のかなたに巨大な建物が出現)

 

ともかく、この会議場跡を目指して歩く。

標識に導かれるままに進むと、ミュージアムがあったので入ることにした。

涼しい場所で、やっと一息つけた。

 

下の地図でいうと、ドキュメント・センター(Dokumentationszentrum)と書かれたところが、このミュージアムである。

どうやら、センターは目下リニューアル中で、このミュージアムも仮の展示ということらしい。

 

(ドゥツェントタイヒ地区のナチスの建造物群を示す地図)

 

ミュージアムの展示は、ナチスというひとつのマイナーな政党が、ニュルンベルク周辺で徐々に力を蓄え、やがてドイツ全体にまで勢力を広げていく過程がわかるようになっている。

そんなに広くはないものの、ひとつひとつの説明を丁寧に読んでいくと、途方もなく時間がかかりそうだった。

しかも、最初は涼しくて助かったが、次第に効きすぎた冷房が体にこたえてきた。

暑いことは確実だが、はやく外に脱出して、会議場跡を見てみよう。

 

(政党としてのナチスやドゥツェントタイヒのナチスの建造物群の歴史などを展示しているミュージアム)

 

ミュージアムを出て右に曲がり、やや狭いゲートを抜けると、半円形の巨大なレンガの壁に囲まれた、荒れた空き地が広がっていた。

ここが会議場跡である。

この空間の雰囲気を下の一枚の写真では伝えることができず、もどかしい。

 

日差しが強く暑さに耐えかねてか、ほとんどの見学者は半円形の構造をチラ見して、さっさと退散していたようだ。

が、わたしはこの建物が気になって仕方がなかったので、立ち入り禁止のフェンスのギリギリまで近づき、半円形の建物に沿ってゆっくり一周してみた。

この大きさに圧倒される。

 

(未完のままのナチスの会議場跡)

 

これだけでは、ナチスの権力を示す「遺構」めぐりは終わらない。

上に示した、「ドゥツェントタイヒ地区のナチスの建造物群を示す地図」にある、大通り(Große Straße)が次なる目標である。

この地図では、会議場跡からたいした距離もないようにみえるが、実際にはかなり歩く。

しかも、炎天下…日陰で休み休み行かないと。

熱中症、という言葉が頭をよぎった、マズいぞ、これは。

 

案内板によると、この一直線の大通りは幅 60m で、計画では 2km になる予定だったが、1.5km だけが実現した。

神聖ローマ帝国の帝国会議が開かれたニュルンベルク(旧市街)と、ナチス党大会が開かれたニュルンベルク郊外のドゥツェントタイヒを結ぶ、象徴的な意味も持たせていたらしい。

 

(大通り)

 

繰り言で申しわけないが、暑さは相変わらずきびしい。

だが、ナチスの「遺構」めぐりはまだ続く。

炎天下での歩行は、ここからが本番だった。

 

上の「ドゥツェントタイヒ地区のナチスの建造物群を示す地図」にある、ツェッペリン・トリビューネ(Zeppelintribüne)を見逃すわけにはいかない。

ナチスの党大会でこの演壇から演説をぶつヒトラーのイメージが頭から離れない。

 

ツェッペリン・トリビューネは、威圧感をもって聳え立っていた。

見学者は石段をのぼり、かつての演壇に立たずにはいられない。

 

(見学者はみな、ツェッペリン・トリビューネの演壇をめざす。)

 

さて、以上の3つの「遺構」を、それぞれの現場に立っていた案内板の写真と対比したのが下の図である。

 

(上)会議場。左は建物内部の完成予想モデルである。

(中)大通り。左は1938年の写真。

(下)ツェッペリン・トリビューネ。左は1938年ころの写真。

 

 

重たい話のあとは、ちょっと息抜き。

といっても、ナチスと関りがないことはない。

 

ナチスがドゥツェントタイヒの整備をすすめていく段階で、引っ越しを余儀なくされたのがニュルンベルクの動物園だった。

現在の動物園(下の写真)は1939年に引っ越してきた時と同じ場所にあるが、第二次世界大戦中には空襲でほぼ破壊され、1950年代おわりまで閉鎖されていたという。

 

(ニュルンベルク動物園 Tiergarten Nürnberg の入口)

 

ニュルンベルクとその近郊の交通費および博物館などの入場料がすべて含まれているという、48時間有効のパスを買った(買ってしまった)。

せっかくのパスを無駄なく使うべく、動物園にも行ってみた。

 

ニュルンベルクにはゴリラもいるようだ。

国内外の動物園でゴリラを観察することがひとつの目標のようになっているわたしであるので、一目散に向かったのがゴリラ舎である。

下の左の写真が、ゴリラが生息する場所である。

木々に囲まれた環境は好感がもてる。

かろうじて1頭が写っている。

 

たいていの動物園では、それらしく命名された個々のゴリラを、「家族」関係とともに写真入りで紹介する案内板などが備えられているが、ここにはそれがない。

 

ついでにシロクマの居る場所も注目したい(下の右の写真)。

北極をイメージした白々と着色した無機質な場所に、シロクマを追いやっているように見える動物園もあると思うが、ここではふつうに緑の風景のなかで暮らしている。

 

(左はゴリラ、右はシロクマ)

 

ゴリラにしても、シロクマにしても、無理はさせず、立地の環境に合わせて、自然体で飼育しているように思った。

 

(つづく)

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ドイツ紀行 2

前回のつづき。

 

滞在先のデュッセルドルフの病院から、Gerresheim(ゲレスハイム)地区の商店街は近い。

Gerresheim のメインストリートは、市電が走る Benderstr.(ベンダーシュトラーセ、ベンダー通り)。

パン屋、肉屋、床屋、スーパーマーケットなどなど、いろいろな店が並んでいる。

 

以前なら、買い物に来るくらいだったが、今回の Gerresheim 散策にはある目的があった。

それは、この地区の Stolperstein(シュトパーシュタイン、邦訳は「躓きの石」となっているだろうか)を自分の目で確認することである。

 

Stolperstein とは、1992年にアーティストの Gunter Demnig によってはじめられた、ナチスの犠牲者・被害者を記憶にとどめるための、いわば一大プロジェクトである。

彼らの運命をごく簡潔に刻んだ金属板が、かつて彼らが住んでいた家の前の舗道に埋め込まれている。

それがドイツ全域および近隣諸国に数多く設置されているという。

 

最初に向かったのは、Dreherstr.(ドレーアー通り)である。

下の写真に通りの名前を示す標識が立っており、背後が公園になっている。

公園もなつかしい場所ではあるが、以前はこの Dreherstr. あたりに Stolperstein は設置されていなかったと思う。

Wikipedia などの情報によれば、2019年に作られたようだ。

開始されてからずいぶん息の長いプロジェクトだ。 

 

(Dreherstrasse の標識)

 

Stolperstein が設置されている Dreherstr. 14(ドレーアー通り14番地)に、かつて住んでいた Dirks 家の歴史を見ておきたい。

これは Wikipedia を参照してまとめたものだが、ここまでの情報がアップされていることに驚いている。

 


<Dirks 家の歴史>

 

Berta Dirks(1892年11月5日、デュッセルドルフ Gerresheim 生まれ)は、Elise(旧姓 Moser)と肉屋の Lehmann Wolf との間に生まれた6人の子供のうちのひとり。Berta は非・ユダヤ人の大工 Heinrich Dirks と結婚、息子 Walter(1921年生まれ)はプロテスタントの洗礼を受けた。1939年、Heinrich Dirks はおそらくナチス当局の圧力により妻 Berta と別居し、1942年に離婚。これにより、Berta はいわゆる「特権的な混血結婚(“privilegierten Mischehe”)」の保護を受けられなくなった。1942年7月21日、Berta は Theresienstadt(テレージエンシュタット)のゲットーに、1944年5月15日には KZ Auschwitz-Birkenau(アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所)に強制送還され、そこで殺害された。息子の Walter は、母親の Berta が強制送還された直後、いわゆる「人種的穢れ(“Rassenschande”)」で糾弾され、逮捕され、1943年2月22日にやはり Auschwitz で殺害された。骨壷はGerresheim に埋葬された。


 

さて、この家族のうち、Berta と Walter の経歴が Stolperstein に刻まれている。

下の写真は、かつて Dirks 家が住んでいた番地にある建物と、建物の前の舗道に埋め込まれた Stolperstein である。

 

(左:かつて Dirks 家が住んでいた番地にある建物、右:建物の前の舗道に埋め込まれた Stolperstein)

 

写真では判読しがたいが、左側の Stolperstein には、

 


Hier wohnte
Berta Dirks
geb. Wolf
Jg. 1892
deportiert 1942 Theresienstadt
ermordet in Auschwitz


 

と書かれ、右側には、

 


Hier wohnte
Walter Dirks
Jg. 1921
verhaftet
deportiert
ermordet 22.02.1943 in Auschwitz


 

と書かれている。

上記の<Dirks 家の歴史>のダイジェストである。

 

別の Stolperstein を見てみよう。

番地は、Friedingstr. 4(フリーディング通り4番地)である。

 

まずは、ここに住んでいた Heidenheim 家の歴史から。

これも Wikipedia からの抜粋である。

 


<Heidenheim 家の歴史>

 

Hans Alexander Heidenheim は、1887年4月10日、工場主 Gustav Heidenheim(1850-1899)と Rosalie Ernestine Oppenheim(1863-1937)の第三子としてChemnitz(ケムニッツ)に生まれた。映画好きで、自ら小さな映画会社を作ったがうまくいかず、1927年に Babelsberg の UFA(映画会社)に入り、すぐにそこで最高のセールス・マネージャーとなった。しかし、1933年にユダヤ系であることを理由に映画業界から追い出された。
Hans は Anna Maria、旧姓 Bromme(1896-1978)と結婚。Walter(1925年4月19日生まれ)を含む4人の息子がいた。デュッセルドルフでは、一家は1940年代にFriedingstr. 4(フリーディング通り4番地)に引っ越した。

息子の Walter は理髪師だった。スイスに逃げようとしたが、1944年2月に Feldkirch(フェルトキルヒ)の国境で逮捕され、同地の刑務所に送られた。1944年6月、そこから KZ Buchenwald(ブッヘンヴァルト強制収容所)に送られ、強制労働を強いられた。1945年1月30日、1000人の強制労働者が死の行進(Todesmarsch)で KZ Bergen-Belsen(ベルゲン・ベルゼン強制収容所)に送られたが、多くの者は生き延びることができなかった。1945年1月30日、KZ Bergen-Belsenで Walter Heidenheim の死亡が記録された。

他方、父の Hans は生き延びて、1945年5月、すぐに映画の仕事を再開した。しかし、UFA(映画会社)の本部にはヒトラー時代と同じ人々がまだ居座っていた。彼らはユダヤ人の同僚を冷遇した。Hans Heidenheim は1949年11月24日にデュッセルドルフで死去した。


 

Stolperstein に刻まれているのは、父 Hans と、息子 Walter である。

下の写真は、建物の前の舗道に埋め込まれた Stolpersteinと、かつて Heidenheim 家が住んでいた番地にある建物。

 

(左:建物の前の舗道に埋め込まれた Stolperstein、右:かつて Heidenheim 家が住んでいた番地にある建物)

 

これも写真では判読しがたいが、左側の Stolperstein には、

 


Hier wohnte
Hans Heidenheim
Jg. 1887
gedemütigt / entrechtet
versteckt / überlebt


 

右側には、

 


Hier wohnte
Walter Heidenheim
Jg. 1925
Flucht 1944
Schweiz
abgeschoben
1944 Buchenwald
ermordet 1945


 

とある。

 

以上は、デュッセルドルフの Gerresheim 地区の Stolperstein であった。

実はデュッセルドルフに来る前に、ケルンでも Stolperstein を見つけてしまっていた。

フランクフルトの空港でレンタカーを借り、アウトバーン(A3)で一気にデュッセルドルフに行くつもりが、ケルンで寄り道。

 

大聖堂あたりをうろうろしていると、偶然 Stolperstein が目に入った。

それが下の写真である。

ここにもそれぞれの家族の物語があるのだろうが、画像だけにとどめたい。

 

(ケルン大聖堂近くの Stolperstein と関連建物)

 

(Stolperstein と関連建物、すぐ後ろに大聖堂)

 

さてさて、話はふたたびデュッセルドルフの Gerresheim にもどる。

商店街を抜けたあたりにカトリックの教会がある。

そのまえが広場になっていて、Alter Markt と呼ばれている。

オールド・マーケットということだが、クリスマスの時期には店が出て賑わうという。

 

その Alter Mark にこの地方の歴史をモチーフにした記念碑が立っていた。

下の写真にある「魔女の火あぶり(Hexenverbrennung)」が気になったので、写真を撮った。

 

(Gerresheim の Alter Markt にある記念碑。左:全体の様子、右:中央に火あぶりにされる魔女のレリーフ)

 

(記念碑のまえの説明。1737/38年にラインラントで最後の「魔女の火あぶり(Hexenverbrennung)」があったという。)

 

つづく。

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