近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
イタリア精神医療史紀行

先日、ローマで学会があった。

2年に1回開かれるこの学会の登録料は高いし、大学の授業期間に重なるということもあり、参加を迷っていた。

このあたりの心情・事情は、前回のプラハでの学会とまったく同様なのでこれ以上は説明しない。

今回の学会では日本の精神衛生と優生学との法制度的な関わりについて発表した。

ま、それはともかく、イタリアが舞台である。

学会の土産話として、観光的なこと、専門的なこと、を思いつくままに述べたい。

 

イタリアの精神医療といえば、なによりもまずバザーリア、トリエステ、精神病院の全面的な廃止…といったキーワードで理解される1978年以降の変革を思い浮かべる人も多いだろう。

それほど、この変革には国際的なインパクトがあったと考えられる。

 

1980年代には国際的な専門誌が盛んにイタリアの精神医療改革を特集している。

たとえば、Mollica RF(ed.): The unfinished revolution in Italian psychiatry: an international perspective. International Journal of Mental Health 14, 1985. / Perris C, Kemali D (eds.): Focus on the Italian psychiatric reform. Acta Psychiatrica Scandinavica 71, 1985. / Mangan S (ed.): The Italian psychiatric experience: the first ten years. The International Journal of Social Psychiatry 35, 1989 などがあげられる。

 

もっとも、バザーリアの思想や活動は、アングロサクソンの精神医学の専門家の一部からは精神病の否定、医学モデルや生物学的治療の拒絶、アングロサクソン流にいえば反精神医学の実践と曲解されたこともあったらしい。

ところが、バザーリア自身は精神病を否定するわけでもなく、伝統的な疾病分類を捨て去るわけでもない、薬物も使用するといったふうで、反精神医学のシナリオどおりに進んでいないところが、上記の専門家には不満の種だったようだ。

また、イタリアへのアンビバレントな感情も背景にはあるという。

ある種のエキゾティズム、地中海的なユートピアを思い描いてバザーリアに期待をかける一方で、進歩的な社会運動は常にアングロサクソンの先進国から生まれるというエスノセントリズムがあると。

だが、脱施設化政策が必ずしも成功したとはいえないこれらの国にしてみれば、準・周縁地域(semi-periphery)に過ぎないイタリアの精神医療改革は、そのエスノセントリズムを揺るがしかねないと…(このあたりの主張は、最後にあげた Ramon や Scheper-Hughes らの文献による)。

 

いずれにせよ、イタリアの精神医療改革は日本にも影響を与え、その影響は持続している。

今日もなお、日本からのトリエステへの「聖地巡礼」は続いているようだ。

だが、1978年以降の(おもにトリエステの)精神医療改革とその現状が多く語られるほどには、それ以前のイタリアの精神医療史に関心が寄せられてはいないのではなかろうか。

 

そこらへんの、ニッチな部分を語りたいとは思うのだが、まずは観光的なことから。

ホテルがバチカン市国の近くにあったので、ある日の朝にサンピエトロ広場まで歩く。

荷物検査場を通過して、広場の中にはいり、さらに大聖堂へ。

とにかく広い。

大聖堂を出ててから、ヴェネチア広場、コロッセオ方面へと歩く。

どこに行っても観光客だらけ。

しかも、日差しは強く、暑い。

 

(バチカンのサンピエトロ広場)

 

そういえば、フィレンツェにも足をのばした。

ローマのテルミネ駅から特急で1時間半くらい。

ウッフィツィ美術館には行きたかった。

ガイドブックには、当日のチケットを買うのに長蛇の列といった脅し文句が書かれていたが、30分くらい並んで入館できた。

ボッティチェッリをはじめ有名どころの作品のまえは人だかり。

 

(フィレンツェのウッフィツィ美術館。当然ながら「ヴィーナスの誕生」は大人気。)

 

ウッフィツィ美術館のすぐ近くにヴェッキオ橋がある。

窓からよく見える場所があったので、橋の写真を撮った。

橋にも行ったが、ここも人、人…

 

(ウッフィツィ美術館からヴェッキオ橋を見おろす。)

 

観光地めぐりは楽しいが、思い出すと気分もヘトヘトになるので、ここらへんから医学史的な話題へ。

今回の旅の友は、George Mora によるイタリア精神医療史を概説した論文(1975年)である。

このブログの一番最後に文献としてあげている。

ある程度読み応えのある内容が、英語で書かれているのはとても助かる。

この論文のはじめあたりに出てくるのが、ティベリーナ島である。

伝説によれば、紀元前293年にローマにひどい疫病が蔓延し、市民の代表がギリシアに派遣され、治癒神として知られるアスクレピオスの神殿に向い、そこで慈悲を請うた。

ローマにもどる船に乗っていたアスクレピオスのシンボルとされる1匹の蛇が、ティベリーナ島で降りた。

そこに神殿が建てられ、精神病をふくむ治療の場所となったという。

 

そういう由緒があるならと、まずはティベリーナ島をめざすことにした。

炎天下、バチカンあたりからテヴェレ川に沿ってひたすら歩く。

下の写真がティベリーナ島で、地形的には川の中州ということだろう。

小さな島だが、現在も病院や薬局がある。

ただし精神病治療に特化したものではなさそうだった。

 

(ローマのテヴェレの中洲の島、ティベリーナ島)

 

話はかわって、イタリアに行く前に web 上で見つけた、ローマ近郊にあるという精神医学博物館 Museo Laboratorio della Mente には是非とも行かねばならない、と思っていた。

どうやら、かつての精神病院の敷地のなかにあるらしい。

 

そもそも、1978年にイタリアで成立した法180号は、公立精神病院への新たな入院を禁じるなど、思いきった政策として関係者から注目された。

歴史をさかのぼれば、イタリア統一後に制定された精神医療に関する法規として、1904年のもの(Legge 14 febbraio 1904, n. 36. Disposizioni sui manicomi e sugli alienati)がある。

この法はフランスの1838年法の影響を受けたもので、内容的には似ている。

患者の治療よりも社会秩序の維持が目的であり、入院形態は強制的な入院のみである。

規定により各県(provincia)は精神病院を建設しなければならなかった。

が、他県と病院を共有することもでき、私立病院にも委託することができたので、法成立から70年以上が経過した1978年の時点でも、55%の県しか精神病院を設置していなかったという(日本の精神病院法 [1919-1950年] の時代における、公立精神病院と民間の代用精神病院との関係や、公立精神病院設置の遅れなどと、状況がとてもよく似ている)。

公立精神病院での在院患者の動向に注目すれば、1926年に約6万人だったのが、1940年には約10万人に達した。

第二次世界大戦中は激減したが、戦後は徐々に増加し、1950年から1963年までに24%の増加をみた。

この1963年に在院患者数が、約92,000人でピークとなり、その後は減少していく。

他方、私立精神病院の在院患者数のピークは1972年で、2万人あまりである。

こうしてみると、法180号成立以前の、1960年代、70年代から、すでにイタリアの脱施設化(脱入院化)は進行していたことがわかる。

 

さて、ティベリーナ島に行ったのとは別の日に、バチカン近くのホテルから路線バスに揺られて(運転が乱暴で、文字通り揺られどおしだったので、少し気分が悪くなった)およそ30分、Santa Maria della Pietà という広場で降りた。

正面の建物の上部にはManicomio Provincia と書かれ、ここが公立精神病院だったことがわかる(下の写真、解像度の関係で文字までは読めないと思うが)。

上述したように、1978年の法律で公立精神病院の廃止が決められたが、直ちに閉鎖されたわけではないようだ。

Santa Maria della Pietà の精神病院では、徐々に患者が減らされて(博物館のHPによれば、1970年に1,900人以上いた患者は、1980年には約1,100人に、1990年には約480人に減少している)、最終的に閉鎖されたのは1999年12月だったという。

 

(ローマ近郊の Santa Maria della Pietà のかつての精神病院)

 

その閉鎖された病院の建物のひとつが Museo Laboratorio della Mente として使われている(下の写真)。

ところが、行ってびっくり。

しばらくの間、閉館だという。

ガックリ…

事前のチェックが甘かったのが悪いのだが、最初から閉館とわかっていたらここまで来なかったかもしれない。

ここに来たおかげで、かつての病院の雰囲気を味わえるのだと、気を取り直す。

 

(敷地内の Museo Laboratorio della Mente)

 

敷地をぶらつくと、閉鎖されてかなり時間がたったと思われる建物があちこちに。

下の写真はたぶんかつての病棟と思われるが、ガラスが割られて荒れ果てている。

 

(使われていない建物。かつての病棟だろうか。)

 

正面入口に近づくと、鍵で閉じられていた(下の写真)。

かつては中から外へ出られなかったのかもしれないが、いまでは外から中に入れない。

格子の隙間から中をのぞいてみたが、荷物置き場のようになっていた。

 

(入り口は鍵で閉じられていた。)

 

次はローマから少し離れた、フィレンツェの話である。

上述したウッフィツィ美術館訪問と同じ日のこと。

が、そのまえにイタリア精神医学小史を語る必要がある。

イタリア精神医学の伝統は生物学的な研究にあったが、その研究は西欧の他国に比べると停滞していた。

が、19世紀後半の犯罪人類学的な分野では国際的な名声を得ることになる。

ロンブローゾ(Cesare Lombroso)の研究がその代表格である。

しかし、犯罪人類学に退潮の兆しが見えはじめるとともに、第一次世界大戦とファシズムの時代に突入したイタリアは、科学研究において孤立し、精神医学の発展も大いに阻害された。

 

だが、生物学的な伝統のなかで、異彩を放っている人物がいる。

18世紀後半のフィレンツェで、精神病患者の人道的治療を実践したキアルジ(Vincenzo Chiarugi)である。

1788年、フィレンツェで約120人の患者を収容してはじまった精神病院(Ospedale di Bonifacio)の院長となったキアルジは、精神病患者に人道的なケアを施し、拘束は最低限におさえ、医師は毎日病棟を訪問し、慰労や作業を導入すべきことなどを主張した。

キアルジ自身は病院での患者処遇の改革よりも、組織解剖学的な研究に関心があったようだが、結果的に精神病患者の人道主義的治療の先鞭をつけたとされるフランスのピネル(Philippe Pinel)に先んじて改革の実績を残したことになる。

だが、キアルジの改革的な遺志をつぐ者はいなかったとみえ、ピネルや無拘束運動で知られるイギリスのコノリー(John Conolly)ほどには注目されることはなく、歴史のなかに埋もれてしまった印象がある。

 

フィレンツェ行きの目的のひとつが、上記のキアルジにまつわる「聖地巡礼」だった。

ウッフィツィ美術館からそれほど遠くない、Via San Gallo という通りにかつての Ospedale di Bonifacio があるらしい。

通りの両側を丹念に見ながら進むと、それはあった(下の写真)。

 

(フィレンツェの Ospedale di Bonifacio だった建物)

 

建物の壁には下の写真のように記念碑が掲げられていた。

現在は警察署として使われているようだ。

 

(Ospedale di Bonifacio の碑)

 

(フィレンツェの Ospedale di Bonifacio だった建物)

 

さて、イタリアの話はそろそろ終わりである。

今回一番落ち着くことができたのは、ローマの国立近代美術館だった。

 

(国立近代美術館、 ローマ)

 

その最大の理由は、人の少なさである。

しかも、自分にとって馴染みのある作品、自分好みの作品が多くあったこともある。

Fontana の作品は各国の美術館などでもよく見かけるものだろうが、「あ〜、ここにもいたか」という親近感を覚え、ホッとした。

 

(Licio Fontana: Concetto spaziale - Atiese, 1959 の部分)

 

最後になったが、以上のイタリア精神医療史に関する記述は以下の文献を参照している、やや古いものしかないのだが。

・De Girolamo G: Italian psychiatry and reform law: a review of the international literature. The International Journal of Social Psychiatry 35: 21-37 (1989).

・Jetter D (山本俊一訳): 西洋医学史ハンドブック. 朝倉書店 (1996).

・Lemkau PV, De Sanctis C: A survey of Italian psychiatry, 1949. American Journal of Psychiatry 170: 401-408 (1950).

・Mangen S: The politics of reform: origins and enactment of the Italian 'experience'. The International Journal of Social Psychiatry 35: 7-19 (1989).

・Mora G: Italy. In Howells JG (ed.): World History of Psychiatry. Baillière Tindall. London (1975). pp. 39-89.

・Ramon S: The impact of the Italian psychiatric reforms on North American and British professionals. The International Journal of Social Psychiatry 35: 120-127 (1989).

・Scheper-Hughes N, Lovell AM: Breaking the circuit of social control: lessons in public psychiatry from Italy and Franco Basaglia. Social Science and Medicine 23: 159-178 (1986).

・Tansella M, De Salvia D, Williams P: The Italian psychiatric reform: some quantitative evidence. Social Psychiatry 22: 37-48 (1987).

| フリートーク | 14:13 | comments(0) | - | pookmark |
新潟 精神医療史 幻想行

白樺派を代表する武者小路実篤が提唱した「新しき村」は、「人間らしく生きる」「自己を生かす」社会の実現を目指して、1918(大正7)年に宮崎県児湯郡木城村に誕生した(一般財団法人新しき村のHPより)。

この「新しき村」は、思わぬところにも影響を与えている。

「思わぬところ」とは精神医療のことである。

否、「思わぬ」というよりも、むしろ必然かもしれない。

「新しき村」のイメージは、理想郷としての「精神病者のコロニー」に通じるところがある。

さらに「精神病者のコロニー」といえば、ベルギーのゲール(Geel)を語らねばならない。

ゲールといえば・・・と、連想ゲームはどこまでも続く。

が、今回は新潟の話である。

では、新潟が「新しき村」とどう関係があるのか…

 

先日、新潟市の朱鷺メッセで開催された、第115回日本精神神経学会学術総会に参加した。

わたしの役割は、特別ポスター会場に行って「日本精神医学史学会の魅力とその活動」というポスターを貼り(もちろん、そのまえのポスター作成の作業もあった)、しかるべき時間帯に「店番」をし、質疑があれば応じる、ということである。

「店番」は2日目の夕刻だったが、ポスターのまえで足を止める人はあまりなく、ひたすら我慢の時間帯が続いた。

 

(学会会場のひとつ、朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンターのポスター会場)

 

ポスター運び係り(プラス・アルファ)だけで新潟に来るのはもったいないと、当地の精神医療史に関わるもので、訪れるべき価値のあるところはないかと考えた。

有名どころでは慈光寺と「鵜の森」があるが、すでに訪れている。

慈光寺は呉秀三の『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)に登場する程度だが、「新潟県における突撃的調査」で紹介した。

一方、「鵜の森」は、「鵜の森の狂疾院」として「わが国最初の精神病院」とされるもので、やはり「続・新潟県における突撃的調査」で紹介済み。

そんなわけで、精神医療史には直接関係はなさそうだが、まずは学会会場からわりと近くにある新潟大学医学部(旭町キャンパス)に行ってみることにした。

 

(朱鷺メッセから歩いて新潟大学医学部をめざす。信濃川をわたる。高層の建物は万代島ビル。)

 

新潟大学医学部の前身は1910(明治43)年に開校した官立の新潟医学専門学校である。

ただし、明治初年には県立新潟病院医学所があった。

この医学所は、県立新潟医学校、県立甲種新潟医学校と名称を変えて存続してきたが、1888(明治21)に閉校。

上述の新潟医学専門学校は大学令の施行により、1922(大正11)年に専門学校から医科大学へと昇格し、新潟医科大学となった。

さらに国立学校設置法により、1949(昭和24)年に新潟大学医学部となり現在に至る。

以上の新潟を含む全国の大学医学部の設立については、坂井建雄編『日本の医学教育史』(東北大学出版会、2012年)に詳しい。

 

他方、呉秀三『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)には、新潟医学専門学校の記述はあるものの、「其教課には精神病科を独立せしめたるも是は創立後日猶ほ浅ければ未だ開講に至らず」(原文は漢字カナ文)とだけ書かれている。

新潟大学医学部精神医学教室のサイトによれば、新潟医学専門学校に精神病学が開講されたのは1914(大正3)年で、中村隆治が講師として赴任、1916(大正5)年に精神病学講座の初代教授に就任した。

中村隆治といえば、1910(明治43)年から1916年にかけて呉秀三が主宰する東京帝国大学精神病学教室が行った、私宅監置調査の視察者のひとりである。

調査のまとめとして1918(大正7)年に出された呉秀三・樫田五郎の論文(上述のように、同じ年に武者小路の「新しき村」が誕生したわけだが)によれば、中村は1913(大正2)年に千葉県内の22の私宅監置室を視察している。

 

さて、朱鷺メッセを右手に見ながら信濃川を渡ったあと、スマホの地図をたよりに20、30分くらい歩いただろうか、途中に商店街があって、工事中の鉄板の塀に新潟市の歴史を紹介するパネルが貼られていた。

その中に「新潟医科大学(明治43年)」というのがあったので、思わず撮影した(下の写真)。

説明によれば、写真にある赤い門はいまもあるらしい。

ただし、上述の新潟大学医学部の歴史によれば、「明治43年」の時点では医科大学ではなく医学専門学校だったので、写真の「新潟医科大学」は間違いだろう。

また、「明治43年」も間違いかもしれない。

下で述べる大学キャンパス周辺で、この門の説明書きを読んだが、レンガ塀は1911(明治44)年に、門は1914(大正3)年につくられた、と書かれていたからである。

以上を総合すると、下の写真のキャプションは、「新潟医学専門学校(大正3年)」くらいが正しいのではないか。

もっとも、この写真は、後年に(つまり新潟医科大学に昇格した1922年以降に)過去のモノクロ写真にカラー着色してつくられた絵葉書(?)に由来するとも想像される。

つまり、この写真が作られた当時はすでに新潟医科大学という名称になっており、新潟医科大学の創立当時はこんな感じだったよ、ということを伝えたかったのではなかろうか(だが、繰り返すように、この写真にはすでに赤い門が存在するので、1910年の新潟医学専門学校の創立当時ではなく、創立から少し時間がたった1914年以降というわけだ)。

そして、この写真に付されていた説明をそのまま採用してパネルにしたのが、商店街の工事現場に掲げられていたというが真相ではないか。

 

(商店街でみつけた「新潟医科大学」の写真。モノクロに着色?)

 

商店街からしばらく歩くと、新潟大学医歯学総合病院の駐車場にたどりついた。

歴史的な建造物はなさそうだったが、キャンパスの周辺に沿って進むとレンガ造りの門があった(下の写真)。

これが、昔からある赤い門に違いない。

とはいえ、車を通すなどのために、門柱と門柱との間隔は広げただろうが。

向かって左側の門柱に「新潟大学脳研究所」という看板がかかっている。

「脳研究所」という名称にどこか歴史的な趣きを感じさせるが、現役の組織のようである。

 

(新潟大学医学部表門、通称「赤門」。国の登録有形文化財に指定されている。)

 

「赤門」から入り、医学部キャンパスを進むと、「ヒポクラテスの木」の碑があった(下の写真)。

説明には「この親木の下で医師ヒポクラテスが講義をしたといわれる。蒲原宏氏地中海のコス島より種子を持ちかえり寄贈す。」とある。

以前からこの木の存在を聞いていたので、実際に見ることができてちょっとうれしい。

たしか、東京・本郷の東京大学医学図書館のまえにも「ヒポクラテスの木」があった思う。

 

(「ヒポクラテスの木」の碑と説明書き。)

 

下の写真は、「ヒポクラテスの木」を少し遠景から撮ったもの。

プラタナスの大樹である。

横のビルは医歯学総合病院。

 

(「ヒポクラテスの木」と新潟大学医歯学総合病院)

 

新潟大学医学部散歩は以上である。

あまり精神医療史に絡めることができなかった。

結局、「新しき村」の話も全然出てこないじゃないかと怒られるかもしれない。

 

次は1911(明治44)年創立の新潟脳病院の話。

ここに「新しき村」との接点がある。

が、そのまえに、新潟脳病院についての呉秀三『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1912年)の記述を紹介したい。

以下のように書かれている。

 

新潟脳病院(新潟県西蒲原郡板[ママ]井輪村大字平島)は、明治四十四年七月医師長谷川寛治の設立にかかり、其敷地三千余坪、西洋造二階建一棟、平屋造四棟、病室三十個、収容定員六十人(男三十、女三十)、現収容数二十一(男十六、女五)、職員医員二、薬局員二、事務員一、看護人八なり。管理者医学士長谷川寛治(明治十七東京大学医学部卒業、同年石川県甲種医学校教諭兼金沢病院内科医長、幾なく新潟医学校教諭兼附属病院長、二十年新潟医学校長、二十一年新潟区病院長、二十三年私立長谷川病院設立、現在新潟県医師会長たり)にして、医長は医学士大成潔(明治十八年生。明治四十二年東京帝国大学医科大学卒業、四十三年二月同医科大学副手兼東京府巣鴨病院医員嘱托[ママ]、四十四年七月本院院長となる)なり。[原文は漢字カナ文、句点・読点を補っている。]

 

新潟脳病院が設立されたころ、全国的にみて精神医療施設はまだとても少なかったはずである。

当時の様子を、この病院の『創立70周年記念誌』(医療法人青山信愛会、1983年)からピック・アップしたい。

創設者の長谷川寛治は新潟に医学専門学校が開校したこと、さらに県内各地に病院が存在することを評価していたが、「完全なる精神病者収容治療に対する設備を欠缺せる」は「遺憾に堪えざる」ということで、精神病院の設立を思い立ったようだ。

そして、1910(明治43)年3月に上京した際に呉秀三に会い、精神病院構想を話したところ、賛同を得て、将来の協力も約束されたという。

長谷川は東京府巣鴨病院をはじめ、府下の私立精神病院を視察し、病院建設のイメージをふくらませた。

同年10月には、「遂に新潟市を去る南に一里、西蒲原郡坂井輪村大字平島174番地、通称青山」の土地を病院敷地として買収した。

当時の「青山」は、人里離れた、静まり返った未開の地である。

病院建設の際には、「伐木の音丁々として林間に響き、轢々たる車声と交わる叱佞寮射Δ泙靴」と工事にともなう喧騒が伝えられている。

しかし開院式には、「今や工成りて、土木の喧騒その響きを絶ち、乾坤再び静かにして、松翠の間、純白の洋館は信江を控えて堂々たり、実に斯界の権威たらずんばあらざるなり」と。

堂々たる病棟が完成したあとは、「青山」本来の静けさを取り戻したようだ。

「信江を控えて」の「信江」とは信濃川のことだろうか。

 

(新潟脳病院。設立当初からの洋風の本館と思われる。出典:『創立70周年記念誌』)

 

1920(大正9)年、初代院主の長谷川寛治の後を継いで、長男の長谷川寛が2代目の院主となった。

寛は東京帝国大学でドイツ法学を学んだ弁護士であり、医師ではない立場で病院経営に携わる。

同じころ、1921 (大正10) 年、二笑亭やゴッホに関する著作、山下清をサポートしたことでも知られる式場隆三郎が、新潟医学専門学校を卒業し、同校精神病学教室教授の中村隆治のもとで助手をつとめていた。

そして、白樺派に傾倒していた式場らが「新しき村」の新潟支部をつくり、武者小路らを招いて懇談会を開いたりしたが、その場に中村も顔を出していたという。

中村は東京帝国大学出身の文学士で、のちに医科に転じて呉秀三のもとで精神病学を学んだという経歴をもっている。

もともと文学に関心を持っていた教授・中村と助手・式場とは、意気投合するところがあったのかもしれない。

一方、中村と長谷川(2代目の寛)は旧制新潟中学の先輩・後輩の関係である。

長谷川は、東京で組織されていた同中学出身者による同門会を通じて中村に私淑し、新潟においても病院運営に関して特別な関わりを持ったという。

こうした人脈を背景に、やがて精神障害者の「新しき村」構想が浮上したと考えられる。

 

長谷川寛らの「新しき村」のまえに、ひとつ説明しておきたいことがある。

先代の長谷川寛治の時代、1913(大正2)年に「新潟精神病者慈仁会」が設立された。

これは、呉秀三が1902(明治35)年に創設した精神病者慈善救治会にならってつくられたもので、(新潟脳病院の)貧困入院患者に経済的な援助や慰安事業などを行う組織である。

この救治会・新潟バージョンともいうべき「新潟精神病者慈仁会」が、やがて「新しき村」構想の主たる推進組織となり、さらに後年の「新潟県更生慈仁会(現在の更生慈仁会)」へとつながっていった、と考えてよかろう。

 

「新しき村」の実現に向けて、1938(昭和13)年11月に、西蒲原郡内野町大字五十嵐浜字川下(現在は新潟市西区上新栄町)の原野10万坪の土地が入手される。

この土地は新潟脳病院の将来的な移転先としても考えられていたようだ。

ちなみに、新潟脳病院があった「青山」は、現在のJR越後線の関屋駅と青山駅の中間くらいの地点であり、「新しき村」構想の五十嵐浜字川下の場所は同線の寺尾駅が最寄り駅である。

新潟駅から順に駅の名前をあげると、新潟→白山→関屋→青山→小針→寺尾という順番だから、新潟脳病院と「新しき村」構想地とはそれほど離れているわけではない。

 

次いで、1942(昭和17)年には「上新栄町の地に精神障害者コロニー建設を企画、新大中村教授を中心に精薄施設々置を計画」した。

別の記述によれば、「昭和17年、新大を定年退職された中村教授はかねてからの念願、精薄児保護事業に提身されることになった。施設の建設・運営費を募金するため、院主[注: 長谷川]も式場隆三郎氏らとともにこれを推進」した。

以上から、白樺派の「新しき村」から出発したものの、長谷川らの考える「新しき村」の内容は、19世紀後半から欧米の精神障害者・知的障害者施設で盛んに導入されていた農作業を中心にする作業療法施設(農業コロニー、村落療法など呼び名はさまざま)を整備することにあったようだ。

が、翌1943(昭和18)年4月に「中村教授死去され、上記計画中断」、集められた募金約6万円は、寄付者に返却された。

「新しき村」などのために購入した五十嵐浜字川下(現在の上新栄町)土地は、「昭和20年の敗戦後、諸制度の大変革のあおりを(…)受けた。すなわち、不在地主の土地ということで、下手の半分以上が、外地引揚者の開拓地として提供させられ」た。

 

1950(昭和25)年、大正時代に組織された新潟精神病者慈仁会から発展する形で、「財団法人新潟県更生慈仁会」が新潟脳病院内に設立された。

当時の院主・長谷川寛は「それまでの[新潟脳病院の]作業部門に属する資材を病院から分離、寄付行為によって財団を設立することとした」のである。

財団が保有することになったのは、「青山」の病院の「第1慈仁農場」と、戦前に「新しき村」構想で入手していた五十嵐浜字川下(現在の上新栄町)の「第2慈仁農場」。

この「第2農場に小集落を作り、寛解者を入殖させ、農耕、牧畜を行」った。

「戦前にあった構想 [注:「新しき村」あるいは「精神障害者コロニー」の構想だろう] が、30年を経て実現することになるのである」と評されている。

「財団法人新潟県更生慈仁会」は1952(昭和27)年に社会福祉法人に改組され、1973(昭和48)年には「社会福祉法人更生慈仁会」に改称されてている。

 

さて、新潟脳病院の話にもどる。

1953(昭和28)年には、「医療法人青山信愛会」が設立され、病院は個人経営から法人経営に移行すると同時に、「新潟精神病院」へと改称された。

1969(昭和44)年には、病院は全面的に上新栄町に移転する(繰り返すが、上新栄町は戦前の「新しき村」構想で手に入れた土地である)。

信濃川の関屋分水の工事にともない、病院も移転対象家屋に含まれたからである。

下の写真は、分水工事で住宅の移転が進んでいるころのものだろう。

写真下部の病院の間近まで、整地が迫っている。

現在、旧病院敷地あたりは川になっているということだろう。

上新栄町に移転した後、1982(昭和57)年に「新潟信愛病院」に改称され、現在に至る。

 

(信濃川の関屋分水工事が進んでいるころの新潟精神病院。出典:『創立70周年記念誌』)

 

病院の歴史はこれで終わる。

ひとつの病院の歴史だが、さまざまな要素が絡んできて、少々長く、くどい説明になってしまった。

短期集中的に文献をあれこれひっくり返し、記述をつなぎ合わせたので、事実誤認のまま記載している部分もあるかもしれない。

詳しくは、『創立70周年記念誌』(医療法人青山信愛会、1983年)などを参照されたい。

 

さて、次からはこの病院の現地調査である。

調査といっても、建物を外から見た程度のものだが、知らない土地で鉄道に乗ったり、道に迷いながら、これといって観光地でもない場所をぶらついたりするのは、最高に楽しい。

 

上述したが、新潟信愛病院の最寄り駅はJR越後線の寺尾駅。

新潟駅から5つ目の駅である。

地図で調べると、社会福祉法人更生慈仁会の関連施設は、新潟信愛病院に隣接している。

そのあたり一帯が、1920年代以降に精神障害者の「新しき村」として構想された土地だろう。

 

(JR越後線・寺尾駅。隣の新潟大学前駅の新潟大学は、医学部のある旭町キャンパスとは別である。)

 

寺尾駅を降りて、海のほうに向かって20分くらい歩く。

寺尾地蔵尊を通り越すとすぐに「新潟信愛病院」と「更生慈仁会総合施設」の看板があった。

一般道なのか施設内の私道なのか、よくわからないまま看板の矢印に誘導されるように中へ。

 

(「新潟信愛病院」と「更生慈仁会総合施設」の看板。更生慈仁会は多様な施設を持っているようだ。)

 

病院の歴史は終わりと述べたが、ひとつだけ昔の写真を見ておきたい。

下の写真は、1969(昭和44)年に病院が上新栄町に移転したころのものだろう。

写真の中央が病院で、病棟などが見える。

病院の左側にある複数の建物は、更生慈仁会の福祉施設と思われる。

写真上には日本海。

海岸線は病院からとても近い。

 

(1969年に上新栄町に移転したころの新潟精神病院、現在の新潟信愛病院。出典:『創立70周年記念誌』)

 

上の写真では複数の病棟が見られるが、現在は下の写真のようにひとつの建物にスッキリとまとめられていた。

左は、更生慈仁会の運営する「十字園」で、障害者総合支援法に規定する障害福祉サービスを提供している。

 

(現在の新潟信愛病院 [右] と 更生慈仁会・十字園 [左]

 

上の写真の道を奥に進むと松林があり、それを抜けるとすぐに海岸道路に出た。

病院の敷地がどこからどこまでなのか、結局わからなかった。

海辺に行こうと思ったが、砂防のフェンスが延々と続いていた(下の写真)。

 

(海岸線には延々と砂防のフェンスが建てられていた。)

 

釣り人用なのか、フェンスの切れ目が1ヵ所だけあった。

下の写真は、フェンスの中から病院を眺めた図である。

まわりは低層の建物ばかりなので、病院は遠くからでも目立つ。

 

(砂防フェンス、そしてコンビニ越しに新潟信愛病院を見る。)


病院周辺をひとわたり見学したので、新潟駅にもどることにした。

寺尾駅まで歩く途中に、松林の美しい寺尾中央公園に立ち寄る。

小高い公園から海岸方面に目をやると、ここからも病院が見えた(下の写真)。

寺尾駅に着く直前に、激しく雨が降ってきた。

 

(寺尾中央公園から新潟信愛病院を見る。)

 

新潟行きの列車が、新潟駅のひとつ手前の白山駅に到着したとき、衝動的に降りてしまった。

宿泊していたホテルのロビーで、たまたま新潟市美術館で開催中の「インポッシブル・アーキテクチャー」展のチラシを見つけ、なんとなく気になっていた。

つまり、計画はされたが実現はしなかったという、インポッシブルな建築の展示会である。

途中で挫折した(と完全に言えるのかどうかは判断の分かれるところだろうが)精神障害者の「新しき村」構想ともどこか重なる部分もあるのではと思った。

もちろん、純粋にアート的なものに飢えていた、ということのほうが大きいが。

 

この展示会を企画した建畠哲は、図録の解説で次のように述べている。

「実現を前提としない建築のプランならではの豊穣なる想像力の世界に魅せられていたということもあるが、それを単なるファンタジーの世界ではなく、もうひとつの建築のストーリーとして構想することはできないだろうか、非在の建築をより積極的に捉える視点がありえないだろうかと思いあぐねていた時に、ふとインポッシブル・アーキテクチャーという言葉が浮かんだのである。(…)ベンヤミンは『歴史哲学テーゼ』で文化財の歴史を勝利者の歴史と呼び、それを支配してきた権力の野蛮を肯定的に捉える歴史主義を鋭く批判したが、インポッシブル・アーキテクチャーとはそのような意味での継承の論理が支配しえない領域であり、私たちの想像力を注ぐことによってのみ立ち上がる反歴史主義的なコンテクストというものでなければなるまい。インポッシブルは不可避的にポッシブルに対する批評的なオリタナティヴをなしているのである。」(『 IMPOSSIBLE ARCHITECTURE インポッシブル・アーキテクチャー』平凡社、2019年)

 

さて、とてもあいまいな情報から、この展示会が行われている新潟市美術館の最寄りは白山駅だと信じ込み、それを確認する間もなく下車したというわけである。

実際にはまったく最寄りではなかったが、歩行愛好者としては白山駅から美術館までの30分くらいの道のりは苦痛ではない。

とは言ったものの、連日の長時間歩行で少々足に痛みを覚え、疲労をため込んでいたのは事実。

 

(「インポッシブル・アーキテクチャー」展が開かれていた新潟市美術館)

 

ところが、展示会場入り口のウラジミール・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」の関連映像(長倉威彦、CG映像、1998年)に迎えられて、急に元気になった。

結局ボツになった、ザハ・ハディッド・アーキテクツ+設計JVによる「新国立競技場」は見ごたえがあったし、会田誠の「シン日本橋」「東京都庁はこうだった方が良かったのでは?の図」とか、山口晃の「新東都名所 東海道中 日本橋 改」「都庁本案圖」には笑えた。

| フリートーク | 14:25 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (9) 八王子といえば「わかくさ」

1986年7月24日に八王子の わかくさの家 と わかくさ富士森の家 を訪れたようだが、どこから、どうやって行ったのか、ルートをまったく覚えていない。

まあ、新宿あたりから中央線に乗ったんだろうが、その時はじめて八王子の地に降り立ったはずである。

 

当時のメモによれば、訪問した日、その数日前に開催したバザーの後片付けで職員の人は忙しく、外に出ていたりもして、あまり話を聞くことができなかった。

その代わり、というか、作業所の利用者にあれこれインタビューをした、とある。

どうやら、資料として保存していた下のチラシが、そのバザーのものらしい。

 

(1986年7月20日に わかくさの家 が主催して行われたバザーのチラシ。)

 

わかくさの家 でもらった資料(「わかくさの家の経過と現状について('85.10)」)から、作業所の歴史をたどってみたい。

保健所デイケア→家族会発足→作業所設立、という流れはこの時代の東京の典型的なプロセスだが、八王子も例外ではなかった。

ただし、この資料の冒頭には、”当「わかくさの家」は東京の郊外、八王子という精神病院が21という世界的にも類をみないような地域の中で、運動が始まり、現在に至っています”という、(精神医療関係者のなかではお馴染みのフレーズになっていた、世界的な精神病院過密地域という)「特殊事情」に触れることも忘れてはいない。

 

まず、1980年から八王子保健所ではじめられたデイケア(社会復帰促進事業)の参加者家族を中心に、地域家族会の必要性が話題になる。

その結果、1982年4月に会員数30人ほどで「わかくさの会(八王子市精神障害者家族会)」が発足。

会員は家族だけではなく、市内の医療関係者も多く含まれていたのが特色だという。

家族会が発足すると、「デイケア終了後、行き場がなくて困っている」「退院はできたが、就職はおろか、外へでるきっかけさえ持てず、家に閉じこもっている」という声が家族からあがる。

やがて、医療関係者の協力などもあって、勉強会、他地域の作業所見学、資金作りのためのバザー開催、作業所設立委員会の発足となり、その委員会のなかで、作業所の場所探し、職員の採用、利用者の募集、作業内容の検討などなど作業所開設の具体的な準備が進められていく。

委員会の発足から5ヶ月で集めた約200万円をもとに、元・碁会所であった民家を借り、1983年9月に利用者5人・職員2人でスタートしたのが わかくさの家 である(下の写真)。

 

(八王子市本郷町の わかくさの家。1986年7月24日撮影。)

 

次いで、1985年6月には、2番目の作業所として わかくさ富士森の家 が開所。

こちらの建物は、かつての八王子の地場産業を反映しているというべきなのか、元・機織り工場を改造したものである。

30件以上の不動産業者をたずねあるいて、やっと確保できた物件だという。

 

下の2つの写真が、私が訪れた時の わかくさ富士森の家 である。

確かに工場の趣がある。

特に覚えているのが、作業として自転車のリサイクルを行っていたことである。

これまた、訪問時にもらった別の資料(「シンポジウム資料 わかくさの家 '86.3.1」)には、いくつかの作業活動が紹介されている。

その筆頭にあげられている「自転車リサイクル」については、「一般市民・団地自治会より不用自転車の提供を受け、サビ取り、軽い修理を行っています。本来、リサイクル運動は、物の価値を見直し、人間性回復を目指す市民運動ですが、障害者運動とも一脈通じるものがあり、力を入れたい作業です」と、各種「運動論」の思想的なつながりに言及するほど、作業としては重要な位置にあったようだ。

 

(八王子市台町の わかくさ富士森の家。1986年7月24日撮影。)

 

(わかくさ富士森の家 の中には、自転車リサイクルのための部品があちこちにあった。1986年7月24日撮影。)

 

最後は、1986年当時のパンフレット(下の写真)。

 

(1986年当時のパンフレット。)

 

東京都の資料によれば、「わかくさ」はその後も作業所を新設している。

リサイクルわかくさ(1987年4月、八王子市日吉町)、わかくさ萌(1988年4月、八王子市小門町)がそれである。

途中経過は省略するが、現在は 特定非営利活動法人わかくさ福祉会 に事業が引き継がれているようだ。

| フリートーク | 16:19 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (8) 杉並・世田谷あたりの作業所

はじめに杉並の話から。

訪問調査時点の1986年7月には、区内の精神障害者の作業所は「あおば作業所」(東京都の書類には「すぎなみあおば作業所」という記載もあり)のみだった。

区内の精神障害者家族会が設立母体である。

作業所の会報『GL まんすりぃ』(創刊号、1986年6月)によれば、この作業所が「杉並共同作業の会」の名前で発足したのは1982年8月、高円寺の「心身障害者集会所」を拠点にしてはじめられた。

1984年9月あたりからは、柳窪の「障害者福祉会館」でも作業所活動を開始。

1985年8月には、高円寺と柳窪の2つの作業所を一本化すべく、いったんは家族会の会長宅に集約し、1986年4月からは本天沼に移転した(下の写真)。

1984年には杉並区から、1985年には東京都から助成金を受けている。

 

(杉並区本天沼の あおば作業所 が入っていた建物。学習塾と同居していたようだ。1986年7月30日撮影。)

 

ちなみに、杉並区内の2番目の作業所は1988年1月に永福に設立された「すぎなみ151」である。

調査した時点では、まだ存在していなかった。

 

以下は世田谷の作業所の話。

訪問調査時点に存在していた作業所は、「ちぐさ作業所」「さくら美術工房」「ウッドペッカーの森」の3ヵ所だった。

 

ちぐさ作業所は、昭和大学付属烏山病院の社会復帰後援会、通称「ちぐさ会」が、設立した。

この ちぐさ会 とは、烏山病院のスタッフと あかね会(烏山病院患者家族会)の会員らの賛助会員で構成される組織である。

1985年5月に ちぐさ作業所 の開所式が行われ、実際に作業所がはじまったのは同年7月から。

作業所の土地は烏山病院に隣接しているが、かつてはそこには都営住宅が建っていたという。

その土地が、東京都から昭和大学に返還される交渉のなかで、社会復帰関連の施設を作ることが構想されたようである。

他方、1978年11月に烏山病院にデイケアセンターが設置されており、治療やリハビリの延長に位置づけられるものとして作業所設置の必要性が議論されていたという(以上の記述は、ちぐさ会 が1985年8月に発行した『ちぐさ会会報』の第5号を参照している)。

 

(手前のプレハブの建物が ちぐさ作業所。総予算1,200万円で建設したという。後方の建物は、烏山病院と思われる。1986年6月5日撮影。)

 

なお、開設当時の作業所の様子は以下の写真のとおり。

 

(昭和大学付属烏山病院社会復帰後援会(ちぐさ会)発行『ちぐさ会会報』第5号、1985年より)

 

次は さくら美術工房 である。

この作業所は、世田谷区の精神障害者家族会(さくら会)が1985年9月に開設した。

さくら会が1988年に発行した自身の家族会の『二十年のあゆみ』によれば、家族会活動は1967年にまでさかのぼる。

1969年7月には「さくら会役員紛争」があり、「家族会運動論と診療論で役員分裂」の状態に陥ったものの、同年11月には「さくら会の再建」があり、「第一回家族会」が開催されたと書かれている。

『二十年のあゆみ』に祝辞を寄せている加藤伸勝(当時は東京都立松沢病院・院長)は、「(さくら会の)再建に向けて立ちあがった中村会長や多くの同志の皆さんの例会を通じての勉強会や積極的な行政への働きかけが本会を発展させたものでした」と述べ、「なによりもすばらしいのは、「さくら美術工房」という共同作業所の運営だと思います」と続ける。

 

(さくら美術工房は、このマンションの3階の1室に。1986年6月4日撮影。)

 

加藤が言及している中村会長とは、さくら会のごく初期から会長職にあった中村友保である。

中村は作業所の構想段階で、「部品の組立ても、付録の袋づめも、お金にはなりますが、(中略)欠けているものは創造性ではないですか」、「何か夢のあるものを作ることで、その創造性が少しでも生まれませんか」、「牛乳パックで和紙を作るというのはどうですか」、「あちこち、見学に行っているんです、教えてもらってもいます」と語っていたようだ(『二十年のあゆみ』に寄稿している吉川武彦の「手漉き和紙のはがきと私」より)。

「○○作業所」ではなく、「美術工房」と命名したところに、中村のこだわりが感じられる。

 

さくら会の会報『さくら会だより』(No.197、1986年6月)には、次のような記事がある。

 

牛乳パック廃品利用の、手すきはがきが、テレビで放送されてから各地で制作しておりますが、当工房も昨年9月開設以来、毎日10人位の方が楽しく作業に励んでおります。出来上がった「手すきハガキ」は、ご自分で描かれる方には、「白」を、額装にしてお部屋に掲げられる方には、工房専属の「はがき絵」描きのグループが美しい季節絵を、描いた作品が出来ております。(白・1枚50円、絵・1枚100円)

 

確かに当時は、牛乳パックからの和紙作りが流行っていたと思う。

訪問調査で さくら美術工房 を訪れた際に、わたしも葉書を購入した(以下の写真)。

2枚がセットになっている絵付きの葉書で、200円也。

 

(さくら美術工房で購入した手すき和紙のはがき)

 

最後は、ウッドペッカーの森。

1985年10月、世田谷区の梅丘保健所デイケア利用者の家族宅に開設された。

訪れてみると確かにそこは個人宅で、そのなかの1部屋が作業所のスペースだった。

まだ、はじまったばかり、という雰囲気。

作業所の人に話を聞くと、なにぶん住宅街なので作業所を開くのに適当な場所がみつからないが、いずれ引っ越したい、ということだった。

 

(ウッドペッカーの森は、個人宅の中の1室にあった。写真は、そのお宅の近所の光景。1986年6月19日撮影。)

 

ということで、その後が気になったのでネットで調べたところ、当然ながら個人宅からは引越し、現在は NPO法人ウッドペッカーの森 として継続しているようだ。

| フリートーク | 14:43 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (7) 新宿区の作業所

1986、87年あたりの東京都立精神衛生センターの資料を見ると、新宿区で最初に発足した精神の作業所は「ムツミ作業所」である。

1985年6月に高田馬場の青果店の2階で開所したようだ。

次は、1986年6月に上落合の「火葬場の隣りの古ぼけたアパートの2階、裸電球の4畳半の一室」」(『新宿西番外地―新宿西共同作業所発起人会 通信誌―』No.3, 1986年11月20日発行 より)ではじまった「新宿西共同作業所」である。

さらに、上記のムツミ作業所の利用者が増加したため、1986年11月に「ムツミ第二作業所」が開所している。

これにともない、最初の「ムツミ作業所」は「ムツミ第一作業所」と名称変更されている。

 

わたしが作業所を訪問調査した時点で存在していたのは、ムツミ作業所 と 新宿西共同作業所 のみだった。

これらについて紹介したいが、どういうわけか ムツミ作業所 の資料がまったく残されていないので、新宿西共同作業所の話をしたい。

 

上でも述べられているが、「火葬場の隣り」という、たぶん自虐的な意味を込めた説明は、下に示すように作業所会報の別の箇所でも登場している。

 

(『新宿西番外地―新宿西共同作業所発起人会 通信誌―』第0号, 1986年6月25日発行 より。)

 

訪れてみれば、普通の住宅街にある、確かにあまり新しいとはいえないが、普通のアパートである。

 

(作業所のある一室へと通じるアパートの入口。1986年7月3日撮影。)

 

2階にあがると4畳半の部屋があり、そこが作業所だった。

とても狭い。

これが作業所?

訪問したのは午後3時過ぎで、掃除がはじまっていた。

メンバー(利用者)2人と職員2人がいた。

まだ開所して1ヶ月もたっていなかったので、とりあえず「作業所」の看板をあげて、これから、という模索状態だっただろう。

 

(作業所はアパートの4畳半の部屋。ピンク電話がなつかしい。)

 

作業所の先行きが心配になったので、2,000円を払って「賛同者会」に入れてもらった。

そのためか、作業所会報の『新宿西番外地』をしばらく送ってもらったのだと思う。

第8号までは保存しているのだが、そのあとはどうなったのか自分でもわからない(どうでもいいが、この会報の号数表記は、「第○号」というものと、「No. ○」というものとが混在している)。

 

(「入会のしおり」は、作業所への通所を希望する人に対するものだが、同時に「賛同者会」へのお誘いでもある。)

 

それにしても、新宿区の作業所は、その後どうなったのか気になった。

これまでこのブログで記事にしてきた東京都内の作業所のその後も、ネット検索でだいたい見当をつけることはできる。

多くは法人格を取得して、経営的には安定しているようだが、やはり各作業所の黎明期に活躍した職員の痕跡を探すことは(その世界の「カリスマ」的存在になっている一部の人を除いて)難しい。

 

新宿西共同作業所の後継組織は、「NPO法人新宿西共同作業所ラバンス」ではないかと思われる。

一方、ムツミ作業所については、第二作業所をオリジンとする「社会福祉法人東京ムツミ会 ファロ」が事業を継承しているようである。

| フリートーク | 15:45 | comments(0) | - | pookmark |
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE