今回の三聖病院の記事が、アルバム『京都における精神医学的散歩 2』 の最後である。
『精神医学京都学派の100年』(ナカニシヤ出版、2003年) は、三聖病院の開設者の宇佐玄雄(1886-1957)を、一世紀にわたる京都精神医学史の前半において、唯一の精神療法家であると紹介している。
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三聖病院
大正8年(1919)慈恵医専を卒業し、東大精神病学教室で呉秀三教授の指導を受けて研究をつづけていた宇佐玄雄は、大正10年(1921)夏、三重県山渓寺の自坊に帰り、病院設立の準備に取りかかり、仝年11月に、神経科病院・教育治療所設立趣意書をしたため、これを東福寺各寺院をはじめ其の他、主たる寺院に配布し賛同を求めた。
東福寺は、大徳寺の「茶づら」、建仁寺の「学問づら」と竝んで「伽藍づら」と呼ばれる建物の雄大なことで禅刹で、関白道家が、聖一国師(円爾弁円)を招いて嘉禎2年(1236)に開いた [注:円爾が東福寺に招かれたのは1243年] 臨済宗東福寺派大本山で、京都五山の第四位に位し、慧日山東福寺と称し、京都市東山区本町にある。
大正11年(1922)、山内の旧三聖院客殿を利用して「三聖医院」を開設。
大正13年(1924)、山内の竜眠庵を利用して入院治療を実施。
大正14年(1925)、三重県上野市、大正15年(1926)、大阪市東区島町に、それぞれ出張診療所を開設。
昭和2年(1927)、「三聖病院」を開設。
昭和32年(1957)、玄雄死亡(年70才)し、その子、晋一、業を継ぐ。
(以上)
今回の記事は京大精神科の歴史である。
が、小林靖彦の記述は少ない。
精神医療史をかざるエピソードの豊かさという点で、東大精神科に比べて、京大精神科はかなり見劣りし、面白みに欠ける(ように見える)からではないか。
思いつくままに、京大の「劣勢」の理由を考えてみると;
そもそも、京大の創立が、東大よりもかなり遅かったこと。
さらに、東大が中央の政治や行政とかかわりを持つ、広義の「社会精神医学」的な調査・研究も行っており、それにまつわる精神医療史ネタを数多く持っていること。一方、京大は良くも悪くも「(とくに生物学的あるいは精神病理学的な分野での)研究中心主義」(これは、東大を除く他の後発の帝国大学の精神科にもある程度共通かもしれない)だったこともあるだろう。
そして、最も重要なことは、東大精神科の歴史を語る人は多かったが、京大精神科の歴史を語る人がいなかったこと。
しかしながら、『精神医学京都学派の100年』(ナカニシヤ出版、2003年)を見ると、以上の見解の正当性も揺らいでくる。
この本には、京大らしい「個性派」の精神科医と彼らのエピソードが、ぞろぞろ出てくる。
本題に戻って、以下は小林の記述と写真。
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京都帝国大学医科大学精神病学教室
明治30年(1897) 京都帝国大学創立。明治32年(1899) 医科大学設置。
明治35年(1902) 精神病学講座開講。
明治36年(1903)12月、今村新吉教授着任。
大正2年(1913) 病舎新築落成す。
[精神病学講座初代教授・今村新吉]
[旧精神科の建物か]
[上の写真が旧の建物だとすれば、これが1970年代あたりの新しい建物か]
(つづく)
今回は、すでに戦前(太平洋戦争のことだが)に廃院していた二つの精神病院(木瓜原癲狂院と船岡癲狂院)である。
ともに、呉秀三「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」(1912年)で短く紹介されている(木瓜原については pp.116-117、船岡については p.109 に記述あり)。
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木瓜原癲狂院
明治15年(1882)、京都癲狂院の医員たりし三上天民が、京都市木瓜原町に、木瓜原癲狂院を開設したが、明治22年(1889)廃止された。
船岡癲狂院
明治24年(1891)、医師旭恭斉、池田正之助が、京都府愛宕郡大宮村に、船岡癲狂院(60床)を開設した。明治26年(1893)船岡精神病院と改称、明治35年(1902)失火し焼死者17名を出したるも再建され、大正9年(1920)都合により廃院された。
旭 恭斉
[注: この図は上記の1912年の呉秀三論文に掲載されているものである。]
(つづく)
今回は京都癲狂院の記事である。
わが国最初の公立精神病院として、精神医療史に不朽の名をとどめている。
だが、「わが国最初の公立精神病院」以上を記載した文献は極めて少ない。
開院して間もなく閉鎖されたためか、不明な点がとても多いからだろう。
とくに京都・岩倉の茶屋/保養所の盛衰と深い関係にあるようだが、「謎」が残されている。
この「謎解き」に挑んだ好書として、中村治氏の 『洛北岩倉と精神医療』 (世界思想社、2013年)が挙げられよう(とくに「第9章 京都癲狂院設立をめぐる不自然さ」)。
なお、以下の小林靖彦のテキストで、「京都府療病院」、「京都府癲狂院」とあったものは、「京都療病院」、「京都癲狂院」と訂正した。
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京都癲狂院
[注:東山天華は癲狂院創設に功績があった。]
京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山にして、瑞竜山大平興国南禅禅寺と正称する。正応4年(1291)、亀山天皇、その離宮をあらためて寺となし、竜安山禅林寺と称せるも、のち南禅寺と改称さる。その山門は、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名なり。
明治8年(1875)、京都療病院の附属として京都癲狂院が、南禅寺の一塔頭(京都府愛宕郡第一区南禅寺村南禅寺方丈1636番地)[注:この地名表記とは異なる文献もある]に蒼創さる。これ我邦における公立精神病院の嚆矢なり。独人[注:オーストリア人が正しいようである]ユンケル・フォン・ランゲック、神戸文哉治療に当れり。
明治9年(1876)、神戸文哉、英人モーヅレーの小冊を訳し、精神病約説3巻を京都癲狂院蔵書として刊行せり。これ本邦における近代精神医学の専門書の嚆矢なり。
明治15年(1882)、京都癲狂院、廃止さる。
[注:南禅寺山門]
[注:神戸文哉(かんべ・ぶんさい)。「こうべ」「ぶんや」などと誤読されることも多い。]
[注:精神病約説]
[注:Maudsley の"Insanity"]
京都市左京区永観堂は、浄土宗西山禅林寺派の総本山にして、聖衆来迎山禅林寺の別称あり。貞観5年(863)、空海の法孫、真紹僧都を開基とし1200年の歴史を有する京都有数の古刹なり。
明治15年(1882)、京都癲狂院、諸般の事情にて廃止されるや、時の京都府知事北垣国道氏その廃止を甚だ遺憾とし、医師李家隆彦ら協同し民間施設として継承することとなり、永観堂境内に移され、私立京都癲狂院誕生せり。
[注:上の二つの写真は、永観堂か?]
私立京都癲狂院は、明治28年(1895)協同経営者のひとり川越新四郎個人の経営に移り、明治39年(1906)京都市上京区南禅寺町の新築に移転す。
大正2年(1913)、京都市左京区浄土寺馬場町の現在地に新築移転し、川越病院と改称、今日に至る。
[注:川越病院の入口]
(つづく)
粟田口療病院
京都市東山区粟田口三条坊町にある青蓮院は、天台宗に属し、旧号十薬院と称し、俗に粟田口御所と呼ばれる。天養元年(1144)天台座主行玄の創始になり、仁平3年(1153)鳥羽法皇の命により殿舎造営され、皇子覚快法親王を入寺させし天台宗三門跡の一つなり。
明治5年(1872)、永観堂の住職東山天華ら、ここに京都府仮療病院を創設す。現在、境内に「療病院跡」の石碑あり。
明治7年(1874)寺町広小路に移され、病院及び学校設立さる。これ京都府立医科大学の濫觴なり。
明治5年11月1日(陽:12月1日)〜明治13年7月17日までの8年5ヶ月17日存続した。
広小路療病院(明治13年7月18日〜) 京都府医学校
京都府立医学専門学校(明治36年6月20日〜)
京都府立医科大学(大正10年10月〜)
初代精神科教授
第五代校長 島村俊一 東京人 医学士 明治二十年卒業して直に大学院に学び、本邦精神病学の始祖榊教授に師事し、教室に助手たること数年、二十四年十月独逸国に自費留学し、二十七年十一月帰国するや、直に本校教諭となり、神経病学、精神病学、法医学を担当す、二十八年二月療病院に神経精神病科を独立せしめて其部長となる、三十二年九月副院長となり、三十三年五月当時悲運多難の本校に敢て校長となる、三十六年五月病院長をも兼ね、在任中学校と病院の面目を一新せしめて医学専門学校に完成し、進んで院校全部の改築と改良を竣功し、他日医科大学に昇格するの基礎を固め、四十三年三月病気退職せしも、大正五年十二月まで院務顧問と部長と講師を嘱託せらる、大正六年十二月校庭に壽像建つ、同十二年三月逝去、東京谷中墓地に葬る。学位論文は、「一、上行性神経炎に因する脊髄炎 二、橋部及橋脚部特に動脈神経核の血液供給に就て 三、所謂片山地方病の病理解剖、脳動脈ヱンボリー及ヂヤクソン氏癲癇原因の追加」
[注: 文献からのコピーが貼り付けられている、出典は不明]
大正11年(1922)7月、附属分院新築落成し、花園分院と称し、精神病者を収容して開院す。
昭和42年(1967)本院に移転、閉院。
(つづく)