近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
四国と犬神落としと森田正馬

3月末に研究会関係者数人で四国に行った。

名目は「徳島・高知の犬神などに関わる精神医療史調査」というもの。

発端は内務省の『精神病者収容施設調』(昭和6年5月20日現在)である。

その中で「精神病者ヲ主トシテ収容スル神社・寺院・瀑布・温泉其他保養所」として掲載されている、徳島県の2つの神社を訪れることなった。

2つの神社とは、賢見(けんみ)神社(ただし、内務省の調査では「腎覺神社」と大誤植)と山彦神社である。

徳島と言えば犬神憑きということで、これらの神社は犬神落としと関係が深いようだった。

隣県の高知もやはり犬神憑きで知られ、同県出身の精神医学者・森田正馬もその調査をしている(「土佐ニ於ケル犬神ニ就テ」『神経学雑誌』第3巻、1904年)。

犬神そのものとは関わりはないが、高知まで足をのばして森田の生家も訪れることにした。

 

そもそも犬神とは何か?

以下に、桜井図南男の「犬神の精神医学的考察」(『徳島県郷土研究論文集』、1955年)からの説明を引用したい。

 

阿波の犬神は、憑依を主徴候にしている精神異常状態であり、心因反応の範疇に入るべきものであることは疑いない。ただ、特異な点は、その反応の様式が、この土地に広く流れている犬神の伝承によって規定されていることである。犬神の伝承に関して、ここで詳細に触れている余裕はないが、(…中略…)備後、安芸、周防、長門、四国などに流布されている伝説であって、鼠のような小さな動物がその本体であるということになっている。このような犬神という神秘的な動物が、部落の中にある家に、代々継承されていると信ぜられており、この家を犬神すじと名付ける。もしも、部落の他の家の人が、犬神すじの怒りや怨らみを買うようなことをすると、そこの犬神がのりうつって来て、のり移られた人に犬神つきなる症状があらわれる。この犬神つきは、通常、祈祷により犬神を追出すことによって治る。しかし、同一人が何回も、同じような状態に陥ることもある。これが、犬神つきの定型的な様式であり、後に述べるように、心因反応としては、かなり原始的な形態のものであると考えられる。

 

以上が桜井の説明である。

では、「犬神つきなる症状」とは具体的にはどのようなものなのか。

高橋晋一の論文「動物憑依の論理―徳島県の犬神憑き・狸憑きの事例より」(『四国民俗』第36・37合併号、2004年)からいくつを紹介したい(ただし、これらは他の文献からの引用なので、ここでは孫引きということになる)。

 

・犬神が憑くと、気が狂ったようになっていろいろなことを口走り、もだえ苦しんだり、発熱したりした上、食事などいろいろな要求をし、それを叶えてやると正常に帰るという。

・犬神に憑かれた者は(…中略…)狂った犬のように庭や部屋の中をはい回るという。目撃者の言は「みんな犬のまねをする」という点が共通している。ある日突然、このような症状を呈すると家族や近所の者は、犬神に取り憑かれたと言って恐れおののいた。

 

などである。

さて、研究会の話にもどりたい。

1日目、徳島を経由して美馬市脇町にある山彦神社へ。

ただし、ここには専任の宮司さんはいない。

あらかじめアポをとっていた、このあたり一帯の神社の宮司を兼任されている方に、社殿の中でお話をうかがった。

ただ、犬神の話は聞いたことがないという。

もちろん、そんな話は現在はほとんどないだろうが、過去には聞いたことがある、くらいはあってもよさそうなものだが。

内務省の『精神病者収容施設調』に出てくるということは、ある時代までは犬神落としを含む何らかの精神病治療がここで行われていた可能性は高い。

参籠者もあっただろう。

ただ、荒木蒼太郎の論文「徳島県下ノ犬神憑及ヒ狸憑ニ就キテ」(『中外医事新報』第485号、1900年)には、「脇町及び其附近村落には犬神憑甚だ少く主として狸憑を認め得」(原文は漢字カナ文)とあって、少なくとも山彦神社周辺では歴史的には狸憑きがメインだったということはあるかもしれない。

 

しかしながら、宮司さんから興味深い話を聞いた。

かつては、神職に加えて、神社の管理や参詣者の世話を担う「勤番」と言われる人が、病気平癒に重要な役割を果たしていたらしい。

勤番という言葉で、精神病者の「水行」などで知られた鳴門の阿波井神社を思い出した。

阿波井で調査をしたとき、はじめて勤番という言葉を知った。

その時は単なる患者の「世話係」くらいに思っていたが、どうやら病気治療への関与も少なくなかったということか。

 

(山彦神社)

 

その日はJR阿波池田駅周辺のビジネスホテルに宿泊。

夕飯を食べる場所探しに苦労。

「季節料理の店」というところに入ったが、実際にはカラオケがメインで、酒の肴のような一品料理ばかり。

「定食っぽく、適当にみつくろってください」と、お願いする。

 

2日目は朝から三好市山城町の賢見神社へ。

犬神落としの神社として数多くの文献に登場している。

香川雅信の論文「徳島の犬神憑き」(『精神医学』第40巻第11号、1998年)では、以下のように述べられている。

 

徳島県には、「犬神落とし」を標榜する寺社がいくつかあるが、その中で最も名高いのが、三好郡山城町にある賢見(けんみ)神社である。ここには四国ばかりではなく、近畿・九州地方からも多くの人々が憑きもの落としに訪れる。各地に「先達(せんだつ)」と呼ばれる世話人がおり、賢見神社行きのバスツアーも組まれていて、まさに憑きもの落としの一大センターとなっている。賢見神社を訪れる人々が抱える問題は様々である。人間関係がうまくいかない、家族への暴力、夫に虐待された、子供の登校拒否(不登校)・非行、熟睡できない、(…中略…)宗教的な治療儀礼を施す場は、その伝統的・因習的なイメージとは裏腹に、きわめて現代的な状況から発生する問題を扱っていることになる。

 

という。

国道32号線沿いのJR阿波川口駅付近から、山道をかなり登り、賢見神社に到達。

かなり不便な所だが、遠方から人が集まるという人気の神社である。

 

(賢見神社近くからの景色。山肌に張り付いているような人家があちこちに。)

 

まずは、社務所で宮司さんからお話を伺う。

1879(明治12)年にコレラが流行したときには、疫病や犬神落としで知られていた賢見神社には、遠く中国地方からも多くの参詣者が訪れたようである。

このエピソードは、同時期にやはりコレラの流行で参詣者を集めた岡山県の木野山神社とよく似ている(木野山神社については、以前のブログでも紹介した)。

お話を伺っている最中にも、参詣者が次々に社務所を訪れ、お祓いの申し込みをしていく。

宮司さんは参詣者にお祓いをすべく、社務所と本殿とを行ったり来たり、とても忙しい。

やがて、宮司さんに勧められて、われわれも祈祷を受けることになった。

本殿に移動し、楽な姿勢で座りながら簡単な説明を受けた後、祝詞が始まった。

独特の調子である。

聞き覚えがない外国語のようにも聞こえた。

さらに、金幣でひとりひとりの首筋あたりに触れて、厄払いが行われた。

宮司さんに祈祷料を渡そうとしたが、「こちらがお勧めしたことですから」と、受け取ってもらえなかった。

しかも、お札、お守り、その他もろもろをいただいたのに、である。

 

(手前が賢見神社の社務所、奥の階段を登ったところが本殿。)

 

ところで、賢見神社の社務所がある場所に、かつては「通夜堂」と呼ばれる参籠所(宿泊施設)があったという。

ここに寝泊りして、治療の儀式を受けていたのだろう。

現在の社務所のまえに休憩所があって、その中の壁に掛けられた古い写真に通夜堂が写っていた(下のモノクロ写真)。

上記の内務省の『精神病者収容施設調』(昭和6年5月20日現在)では、賢見神社の「収容定員」は10人となっているが、宮司さんからの話などから察するに、実際に参籠可能な人数はそれより多かったのではなろうか。

 

(左が賢見神社の通夜堂、右が本殿。撮影年代は昭和初期か。)

 

境内は広い。

本殿前の崖を下りて行くと、水行場があった。

修験道と深い関わりがあったことの証左である。

 

(賢見神社境内にある水行場)

 

徳島県の賢見神社を後にして、次の目的地である高知県をめざす。

途中、「祖谷(いや)のかずら橋」に立ち寄った。

想像では、秘境にあって、一度に2、3人がやっと渡れる、とても危なっかしい、長い長い吊り橋かと思っていた。

が、実際は違っていた。

確かに素材は天然のものだが、観光客用(?)にかなり頑丈につくられているように感じた。

橋を渡るのにお金がかかるということで、橋のたもとで見学するだけにした。

 

(徳島県三好市にある「祖谷のかずら橋」)

 

2日目は高知市の中心街、はりまや橋近くのホテルに宿泊。

高知に来たら「かつおのたたき」だろうと、ひろめ市場で夕飯。

フードコートのようなスペースは微妙にほぼ満席で、席の確保に苦労した。

 

3日目。

香南市にある森田正馬の生家へ。

最初に、この生家にまつわる近年の動きを、筒井昭子らによる論文「森田正馬生家の現状と保存修復に向けての活動」(『日本森田療法学会雑誌』第25巻、2014年)にもとづいて紹介しておきたい。

 

論文によると、森田邸はもともとは森田家が所有するものだったが、一個人の維持が困難になり、一時地元の建設会社に管理・所有が移された。

1988年の「森田正馬没後50年記念事業」が転機となる。

森田邸が地元の文化教育の発展に有益と認識され、その管理が野市町(香南市への合併前)に移された。

しばらくは、不登校児の学び舎「森田村塾」として使われていたが、耐震性に問題があるということで、管理者である香南市から解体案が浮上。

これに危機感を抱いた日本森田療法学会は、市に対して保存を要望する書類を提出し、さらに研究者や森田家の人、市の教育委員会などとともに現地視察を行う。

文化財としての登録をめざすことが目的だったが、文化財として保存するするためには耐震強化が必要で、市の予算で賄うのは困難だという。

とりあえず解体だけは免れているが、文化財としての価値はあるものの、その登録は実現していない。

2013年に有志が「森田正馬生家保存を願う会」を発足させ、講演会などを開いて保存の必要性を訴え続けている。

 

ということで、現在は香南市の教育委員会が森田邸を管理しているのだが、「森田正馬生家保存を願う会」事務局の森田さんにご尽力いただいて、生家の見学が実現した。

 

(森田正馬生家の一角に建つ「森田正馬先生生誕の地」の石碑)

 

森田正馬の生家に行くと、鍵を管理している教育委員会の人がすでに来ていて、雨戸を開けているところだった。

座敷に上がって、「森田正馬生家保存を願う会」代表の池本さんから会の活動や保存の現状などについてのお話を伺い、さらに家の中を見学した。

 

(森田邸の式台を備えた東玄関。式台の壁の上部はベンガラを混ぜた漆喰。)

 

次いで、森田さんの案内で、家の周りの森田正馬のゆかりの場所を散策した。

歩いて数分のところに、旧・富家(ふけ)小学校がある。

正馬は1879年にこの小学校(当時は富家尋常小学校)に入学した。

奇しくも、中国・四国でコレラが流行した年である。

いまは廃校となった小学校に、正馬が寄付した講堂が残されている(下の写真)。

 

(森田が寄付したという母校の旧・富家小学校の講堂 [森田記念講堂])

 

(上の写真とほぼ同位置、1936年3月撮影。出典:野村章恒『森田正馬評伝』、白揚社、1974年)

 

旧・小学校のすぐ裏に金剛寺がある。

正馬が「九歳から十歳の頃、村の寺で極彩色の地獄絵をみてその恐ろしさにおののき、以来、死のことが念頭から離れなくなり、眠れぬ夜を過ごすことがしばしばだった」(渡辺利夫『神経症の時代』文春学藝ライブラリー、2016年)という、その寺である。

しかし、寺は改築されており、地獄絵もないということだった。

 

(金剛寺)

 

そこから少し歩くと、森田家の墓がある。

比較的最近作られたのか、全体的に新しい墓所である。

田畑を見おろす見晴らしのいい場所。

 

 

そう言えば、「森田正馬生家保存を願う会」も共催している「森田正馬没後80年 墓前祭&記念講演会」が7月15日に開催されるそうで、そのチラシをいただいた(下の写真)。

完全なチラシは www.kkmed.or.jp/file/downfile.php?id=511 からダウンロードできる。

 

(「森田正馬没後80年 墓前祭&記念講演会」のチラシの表)

 

正馬が幼少時に見たという地獄絵の行方は不明だが、それを描いたのは「絵金」ではないかという話を聞いたので、再び、「森田正馬生家保存を願う会」の森田さんに「絵金蔵」の入口まで案内していただいた。

 

そもそも「絵金」とは何か?

「絵金蔵」のパンフレットの説明を引用したい。

 

絵師金蔵、略して絵金。もとは土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師でしたが、贋作事件に巻き込まれ、城下追放となります。野に下った絵金はおばを頼りにこの赤岡の町に定住し、酒蔵をアトリエに絵を描きました。「絵金蔵」では町内に残された二十三枚の屏風絵を収蔵、保存しています。

 

ということで、館内を見学した。

学芸員の方に、正馬が見たという金剛寺の地獄絵と絵金との関係について伺ったが、はっきりとしたことはわからないということだった。

そもそも、その地獄絵の現物や写真がないので、なんとも言えないのだろう。

 

(香南市赤岡町にある「絵金蔵」)

 

昼になったので、「絵金蔵」近くでご飯を食べることになった。

地元のディープな店に入って、「ちりめんおこげ」を注文。

下の写真のとおり、ちりめん+おこげ(焼きおにぎり)であり、おいしくいただいた。

 

(「ちりめんおこげ」)

 

以上、長々と四国紀行を綴ってきたが、最後は大学の研究室である。

賢見神社でいただいたお札のために、本棚の一角に急遽「神棚」を作った。

横に添えられているのは、高知のキャラクター「カツオ人間」のキーホルダー。

カツオのぶつ切り頭が気に入っている。

 

(大学研究室における賢見神社のお札とカツオ人間)

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岡山での研究会をふりかえる

以前このブログで、「ぼっけえ、きょうてえ岡山県の精神医療史―木野山神社調査」という記事をアップした。

そこにも書いたように、内務省衛生局『精神病者収容施設調』(1929年7月末現在)で木野山神社の名前を知り、現地を訪れたのである。

あれから、3年余りが経過した2017年3月22日〜23日、ふたたび木野山を訪れ、その周辺地域も含めた精神医療史調査を行った。

今回は「皇室と福祉事業研究会」の面々とご一緒し、岡山県神社庁関係者の強力なバックアップを得て、短時間に広範囲を渡り歩くことができた。

 

23日の朝、高梁市内の宿泊先ホテルから、車で木野山神社の奥宮まで移動。

奥宮は木野山(標高518m)の山頂付近にある。

南側斜面には登山道もあるが、頂上まで歩くのは相当きつい(前回経験済み)。

今回は少し大回りをして、車道が通じている北側斜面から奥宮へアプローチ。

車道とは言っても、車一台がやっと通れる細い道が続き、脱輪して一同もろとも谷底に落ちはしないかと本気で心配した。

 

(木野山の山頂付近にある木野山神社の奥宮)

 

奥宮で確認したかったのは、かつて精神病者が参籠していたという建物(参籠所)の位置である。

上記の内務省衛生局『精神病者収容施設調』では、「収容定員」は4人となっている。

4人とは、少ないと思われるかもしれない。

が、前回の調査では、参籠所には6畳の部屋が3つあり、十数名が滞在していたと聞いており、その建物は決して小さくはなかったはず。

 

奥宮調査のあと、山のふもとにある木野山神社の里宮を訪れるわけだが、そこで聞いた話などから総合的に考えると、参籠所は上の写真で狛犬が置かれているのと同じレベルに建っていたらしい。

写真からは外れてしまうが、狛犬の左方向の奥(現在は更地)にあったのではなかろうか。

写真にあるように、このレベルからもう一段あがったところが正面の社殿であり(かつて同じレベルに社務所があった。上の写真では社殿の左にあたるが、現在は更地に)、さらに一段上がった石垣の上、つまり最上レベルにご神体が祭られているのである。

このように神社は3つのレベル(,歓逝痢↓⊆凖臓深厂浬蝓↓9犬/参籠所)から成り、一番低いレベルに参籠所が配置されていたというのは、「神聖度」を考慮してということなのかもしれない。

「比較参籠所学」的にいえば、静岡・竜爪山の穂積神社にあった精神病者の参籠所も、同じように神社の3つのレベルの一番下に置かれていたことを思い出させる。

 

(木野山集会所のまえに建つ「地神」)

 

奥宮から車で下山する途中、「地神」(上の写真)を撮影するために木野山集会所あたりで駐車。

このあたりは木野山地区といわれ、奥宮からもっとも近い集落がある。

食料の調達の関係から、参籠所で自炊する人たちとの結びつきが深かったという。

 

さて、木野山から高梁市街にもどり、昼食をとることになった。

車をとめた高梁川沿いの駐車場の一角に、かつて使われていた(復元した?)高瀬舟が野外展示されていた。

下の説明書きにあるように、1928年に現在のJR伯備線が全線開通する以前、このあたりの交通の主役は水運だった。

かつては、木野山神社の参拝客の多くが高梁川の水運に頼っていたと思われる。

 

(駐車場の一角にあった高瀬舟の説明書き)

 

昼食を終え、再び木野山方面へ。

今度は、木野山のふもとにある木野山神社の里宮へ向かった。

宮司さんにお話をうかがうためである。

もともとの神社は、ふもとの里宮から少し離れた場所にあった。

大正時代に木野山の山頂に奥宮が完成すると、メインの神社機能はそちらに移された。

だが、その後、徐々に奥宮の建物がふもとに移築され、現在の里宮の形になったようである。

残念ながら、奥宮にあった参籠所の写真などの資料はないという。

 

(木野山神社の里宮)

 

里宮で1時半近くお話をうかがったあと、「吉岡稲荷」の探索に向かった。

この稲荷に関する別の角度からの予備的調査については、ブログでもすでに紹介している(記事「岡山での私宅監置写真展および精神医療史ミニ探訪」)。

そこでも述べたが、「吉岡稲荷(赤磐郡竹枝村)」が岡山県の精神病に関わる「神社瀑布等ノ保養所」として登場するのは、内務省衛生局『精神病者収容施設調』(1931年5月20日現在)である。

内務省の同様の調査は何回か行われているが、「吉岡稲荷」は1931年の調査でしか出てこない(木野山神社にしても、1929年の調査にしか出てこないが)。

内務省調査で毎回登場する「常連」の京都・岩倉の精神病者保養所とは、かなり事情が違う。

レファレンスが限られているだけに、調査の「難易度」は相当高い。

上記ブログ(記事「岡山での私宅監置写真展および精神医療史ミニ探訪」)では、この稲荷があったとされる旧・竹枝村を、現在の岡山市北区建部町の大田地区とにらみ、天降布勢神社、天津神社、日吉神社という3つの神社が関係していそうだと述べたものの、決め手がないまま話は終わっていた。

 

ところが、今回の研究会を企画するにあたって関係者と打ち合わせをする過程で、「吉岡稲荷」があったのは、旧・竹枝村を構成していた大田地区とは別の、吉田地区にあった経王寺(きょうおうじ)という日蓮宗の寺院ではないか、という説が浮上した。

かつてここには「大上の稲荷さん」と呼ばれる稲荷があり、地元ではよく知られていたという。

が、現在この寺院は廃墟になっているらしい。

稲荷は旧・竹枝村にいくつかあるものの、参籠所があるような大規模なものは「大上の稲荷さん」をおいてほかにはないということ。

だとしても、「吉岡稲荷」の「吉岡」という名称との関連はどうなっているのか?

吉田地区の「吉田」が「吉岡」になってしまったのか。

内務省の調査の単なる誤植かもしれない(よくあることである)。

 

以上のような事情で、ともかく経王寺の跡を訪ねることになった。

木野山神社のある高梁市津川町から、車で小一時間は山道を走っただろうか。

たどりついた岡山市北区建部町の経王寺跡は、国道53号線と崖とに挟まれた細長い荒れ果てた敷地にあった(下の写真)。

ここで、このあたりの事情に詳しい、地元の神社の宮司さんと合流。

 

経王寺の歴史については、『建部町史(地区誌・史料編)』(1991年)に短い記述がある。

それによれば、明治末期に日順上人を迎えて稲荷堂再興が図られ、1916年には本堂建立に至ったが、上人遷化のあとは荒廃したという。

1970年の天災で寺が倒壊し、信徒によって本堂跡に記念碑が建てられている。

だが、現地調査では、参籠所があったかどうかは確かめられなかった。

 

(かつての経王寺入口か)

 

次いで、経王寺跡の裏山に案内してもらった。

そこにもいくつかの祠があるようで、これも経王寺の続きと考えられる。

ただ、裏山といっても簡単には到達できない。

車で大回りして、中腹で駐車して、あとは徒歩で山登り。

 

まずは、「十二本木様」へ。

ここに小さな祠と石碑(下の写真)があった。

『竹枝っ子通信』(No.75、2013年12月20日、「たけえだ水辺の学校」実行委員会発行)によれば、「十二本木様」とは牛と蚕の神様だという。

かつて、ここに農耕牛を集めて、祭礼を行っていたらしい。

 

(経王寺の裏山にある十二本木様)

 

さらに頂上付近の「稲荷奥の院」(下の写真)へ。

周辺には参籠所が存在した雰囲気はなかった。

 

(経王寺の裏山にある「稲荷奥の院」)

 

最後に、竹枝小学校の北側にあったという避病所の跡(下の写真)に行った。

1898年、ここに避病所が移転してきたのだという。

いつまで避病所として存続したのかは不明だが、小学校が他所から移転してきたときに、その建物は取り壊されたらしい。

現在は小学校のプールになっている。

 

そもそも、冒頭で紹介した木野山神社は、精神病および流行病の治癒、とりわけコレラ退散で有名になったという経緯がある。

中山沃『岡山の医学』(岡山文庫、1971年)によれば、1879年には岡山県内でコレラが大流行し、「各地に患者を隔離するため避病院が設けられた」のである。

その意味で、木野山神社とこの竹枝の避病所とは一本の線でつながっている。

 

(竹枝小学校のプールあたりに、かつて避病所があったという。)

 

ところで、コレラの大流行で、人々はなすすべもなく混乱に陥ったことは容易に想像できる。

冒頭でもふれたブログ記事のタイトルは、岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店、1999年)からとったもので、ここに所収されている短編の「密告函」は、人々のコレラに対する恐怖、偏見や無知蒙昧ぶりが前提となっているようにみえる。

だが、『建部町史(通史編)』(1995年)によれば、1879年のコレラ流行の直後から、「人々は科学的治療に専念するよう啓蒙されていった」のだという。

これには、日本で最初に肝吸虫(肝臓ジストマ)を発見した倉敷の医師・石坂堅壮も関与していたようだ。

 

他方、興味深いのは、「神社が正しい情報の発信地として、科学的なコレラの予防方法について、住民の注意を喚起するとともに、啓蒙活動に努め」たことである。

たとえば、志呂神社(建部町下神目)はコレラの予防法に関する文書をつくり、管内の氏子らに配布した。

内容をみると、コレラ患者の家には近寄らないこと、家の掃除を徹底し風通しをよくすること、鮮度の落ちた魚や生魚などは食べないこと、などといった項目が並ぶ。

 

さらに、面白いのは、この予防法を監修しているのが「浜松病院」であること。

この「浜松」とは、静岡県の浜松である。

以前、このブログでも「『静岡』 その4 <新シリーズ・小林靖彦資料 34>」で浜松病院を紹介している。

当時の院長・太田用成は、病院の同僚とともに「七科約説」という医学全書(英語文献からの翻訳)を1878年に出版した。

浜松病院の評判は岡山まで届き、コレラ予防の監修を頼まれたのだろうか。

すでにこの時代に存在しただろう「医療ネットワーク」を想像したくなる。

 

以上が「勉強」部門である。

実はこの調査の前日に、高梁市内の吹屋を訪れた。

まあ、観光である。

高梁市内といっても、JR伯備線の備中高梁駅前からバスで約1時間。

途中には車が一台しか通れないような細い道もあり、対向車が来たら定期路線バスでも戻ることになる。

 

吹屋は、ベンガラ色で外観が統一された町並みで知られている(下の写真)。

国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。

 

(ベンガラ色の吹屋の町並み)

 

吹屋とベンガラとの関係には興味深い歴史がある。

町に立っていた「高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区」という看板の説明から引用したい。

それによると;

 

吹屋は標高約550メートルの山間に位置し、近世以降、銅山で発展し、さらにベンガラで繁栄して財を成した地域です。

この地域一帯は、中世以降、銅の産出で知られ、江戸時代に入ると吉岡銅山と呼ばれるようになり、元禄期には泉屋(住友家)、享保期には地元の大塚家が経営を行っていました。明治時代になると三菱の岩崎弥太郎によって近代的経営が行われ、明治時代末期から大正時代初期には日本三大銅山の一つに数えられていました。

また江戸時代中期からはベンガラの生産が盛んとなり、銅山とともに地域独自の産業として隆盛を極めました。ベンガラは赤色顔料で経年変化に強く、古くから九谷焼、伊万里焼などの陶磁器、輪島塗などの漆器、または衣料の下染め、家屋、船舶の塗料などに使われ、吹屋は昭和40年頃までは日本有数の良質なベンガラの産地として大いに繁栄しました。

 

つまり、銅山からはじまり、次いでベンガラの生産で繁栄したということである。

地元の人の話によると、銅山採掘の副産物として(硫化)鉄鉱石があり、これをを酸化・還元させてベンガラを生産したということらしい。

現在はベンガラの生産は行われていないが、あるお店にかつてのパッケージのままベンガラが置かれていた(下の写真)。

 

(ベンガラ)

 

バスで吹屋に着いたのが午前11時過ぎで、あちころ散策しながら、昼食の店を物色。

結局、時代物の雑貨がところ狭しと置かれている、かやぶき屋根の店に入り、「ベンガラカレー」(下の写真)を食べた。

ベンガラにちなんで、赤(写真ではうまく「赤」が出ていないが、実際にはもう少しピンクがかっている)と黒のルーをかけあわせているのだという。

そのお店の人からも、吹屋の歴史的な事柄をうかがった。

 

(ベンガラカレー)

 

私は人に勧められてはじめて吹屋を訪れたのだが、それまで吹屋という名前すら知らなかった。

朝ドラ(は、よく知らないのだが)や映画などのロケで、しばしば使われる場所だというが、全国的な知名度はあまり高くないだろう。

まだまだ宣伝の余地はありそうだ。

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茨城県・湯の網鉱泉を訪ねて
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今年は4月中旬になっても、まだまだ寒い日が多かった。
湯の網鉱泉に下見に来たのは、ちょうどそのころだ。

私が湯の網と精神病治療との関わりを知ったのは、「日本精神医学風土記」(『臨床精神医学』第19巻第1号、1990年)の「茨城県」からである。
それによると、「家族連れの精神障害者が入浴するようになった云々」とあり、温泉宿の風情のある中庭の写真も掲載されている。
うむ・・・ここに行く価値は十分にありそうだ。

最寄りのJR常磐線・大津港駅は、福島県にほど近い北茨城市にある。
駅前からタクシーに乗ったら、運転手と会話する羽目になるだろう。
どうも、それが煩わしい。
湯の網まで歩くことにした。
ネットからプリント・アウトしたヤフー・マップによれば、せいぜい4、5キロだろう。

地図上のわずかな手掛かりと、直感に頼りながら、歩くこと1時間余り。
「鹿の湯松屋」の看板(上の写真)が見えてきた。
たった3軒からなる集落入り口に立つ桜の見ごろも、これからという感じ。


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それから2カ月が経過。
水戸で日本医史学会があった。
学会に出そうな知り合い数人に声をかけて、学会に出るついでに湯の網の温泉宿に泊まることにした。
だが、ほんとうは「ついで」なのが学会で、本務はあくまで温泉調査なのだ。
「学会にでるようなエライ方々が4、5人も来るんじゃ、緊張するなあ」と、宿の主人からはとんでもない美しい(?)誤解をされた。

湯の網のたった1軒の温泉宿が、「鹿の湯松屋」である。
上記の「日本精神医学風土記」で紹介されている温泉宿は、「松屋」の隣の「小泉屋」である。
だが、「小泉屋」はかなり前から営業を止めている。
「松屋」に着いて、早速、温泉(鉱泉を温めている)に入ることにした。
効能書き(上の写真)にある「脳」「神経衰弱」にまずは注目。

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湯船のお湯は鉄分を多く含み、「むむっ・・・これは効きそうだ」と思えるほど凄い色をしている(上の写真)。
浴場の壁は色ガラスなどが使われていて、明るくなかなかモダンな様式をしている。
夕飯に名物の「キンキの塩焼き」を食べた後、宿の主人の赤津さんに昔の温泉宿のお話を伺った。

翌日は、学会へ(行かない人もいたが・・・)。
松屋の赤津さんに、大津港駅のもう一つ向こうの磯原駅まで送ってもらう。
磯原駅から水戸駅まで各駅停車で1時間。

079日輪兵舎の復元.JPG

実は、水戸駅から学会の会場である茨城大学に直行したわけではない。
2つ先の内原駅で下車し、水戸市内原郷土史義勇軍資料館を訪れた。
戦前の内原は、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所があることで全国的に知られていたのだ。
青少年たちは満蒙開拓に出かける前に、ここでさまざまな訓練を受けた。
かれらはパオに似せた建物(「日輪舎」と呼ばれた)で暮らしていたという。
上の写真は、「日輪舎」を復元したもので、ここに60人が寝泊まりしていたという。
このような「日輪舎」が訓練所に数多く建っていたのである。
かつてここで訓練を受けたという清野さんから、内原訓練所のもろもろについて丁寧な説明を受けた。

実は、戦後になると、この敷地にあった病院を茨城県が買収し、県立内原精神病院(のちに県立内原病院と改称)として発足した(1950年5月)。
現在は廃院し、精神科病院の機能は、県立の第二精神病院として1960年8月に発足した県立友部病院が担っている。
私は内原精神病院の跡を確認したかった。
清野さんに車で案内してもらい、現在は茨城県学校給食会の建物が建っていることがわかった。

駆け足の内原訪問であったが、清野さんの案内のおかげで充実した気分で内原駅にもどり、常磐線の水戸行の列車に乗る。
水戸駅から学会会場の茨城大学までバス。
結構、遠かった。

103小泉屋.JPG

翌朝、松屋の隣でかつては温泉宿(小泉屋)をやっていた神永さんのお宅を訪ねた。
まだ宿の建物が残っているので、それを見学させてもらった。
いまでも温泉宿の雰囲気を伝えているが、「日本精神医学風土記」にその写真が載っている中庭は荒れていた(上の写真)。

110湯泉様.JPG

ひととおり見学したあと、裏山にある小さな神社を訪ねた。
湯八幡あるいは湯泉様と呼ばれているようだ(上の写真)。
この集落を構成している3軒の家が維持している社である。
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身延での研究会(その12)
向昌院で伺った話では、滝を浴びに来る客を見込んだ宿屋があったという。早速、滝の周辺の家で聞き込みを開始。ある農家の玄関先で「ごめんください」。我々の前に現れた家の主人の口から、「確かに以前は宿屋があって、患者がよく来ていた、無理やり滝に連れられていく患者もいた」といった話が次々に出てきた。宿屋は2軒あって(「瀧の庵」と「泉屋」)、「瀧の庵」の建っていた敷地の石垣がまだ残っているという(写真)。いまは果樹園になっている。
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身延での研究会(その11)
藤岱の滝のすぐ近くにある向昌院を訪ねた。「日本精神医学風土記・山梨県」(1998年)によれば、「県内はもとより近県からも大勢(患者が)押し寄せて、本堂、坊には収容しきれず、近くの民家を借りて、自炊しながら観滝の療法受けたという。寺の本堂の柱には刃物をふりまわして暴れたときの跡が刻まれて」いるのだと。突然の訪問だったが、住職(は留守)の奥さんは本堂(写真)に案内してくれた。しかし、刃物の跡は見当たらず、奥さんも初めて聞いた話だという。
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