(沖縄県嘉手納町の「道の駅かでな」の展望デッキから見える嘉手納空軍基地 2024年3月8日撮影)
ひょんなことから、薬物政策/薬物治療の歴史と現状を調べている。
調べだしたのはいいが、この分野の研究の蓄積は膨大であることがわかり、これはどうしたものかと・・・
とりわけ、薬物をめぐる国際的な議論の高まりを反映してか、近年の国内外の著作や論文は数知れず、また論客も多い。
国内の論調としては、日本の厳罰主義的な薬物政策は国際的な動向に逆行しているというものもあれば、いやいや、そこは慎重に考えないといけないしとして、治療的なアプローチを優先することへの懸念をしめす立場も依然として健在のようだ。
わたしとしては、こうした「現在進行形」の議論も参照しつつも、関心の中心はやはり薬物政策の変遷をさぐる歴史的なものに落ち着くのである。
そんなかんなで、まずは比較的使い慣れている沖縄県公文書館(下の写真)の資料を使って研究を進めることにした。
(沖縄県南風原町にある沖縄県公文書館の「裏庭」にて 2024年3月7日撮影)
沖縄をフィールドに選んでいる理由はほかにもある。
20世紀のグローバルな薬物政策をリードしてきたのはアメリカだった。
1950〜70年代のアメリカは、フランス、トルコ、タイ、メキシコなどで薬物に関する外交政策を積極的に展開している。
このあたりのことは、Helena Barop の Mohnblumenkriege: Die globale Drogenpolitik der USA 1950-1979. Wallstein (2021) などに詳しい。
Barop は触れていないが、戦後日本の薬物政策もアメリカの影響下にあったことは確かだろう。
そして、日本本土をモデルにしながらも、他方でアメリカの影響をより直接的に受けることになったのが占領期沖縄の薬物政策だった(と考えられる)。
ある意味で特殊な状況にあったといえる沖縄は、アメリカや日本の薬物政策を批判的に検討する視角を与えてくれるのではなかろうか。
こうした見通しをたてて、資料を調べはじめたのである。
研究のごく初期段階で、なにもまとまった成果はないのだが、少しだけその内容を記述したい。
沖縄占領初期の薬物関係法規として、米国軍政府布令第1号(1949年)のなかに関連条文がある。
しかし、これはごく簡単なものにとどまる。
1952年に、米国民政府(USCAR)布令第89号として出された「麻薬取締法」(Narcotics Control Law)が最初の本格的な法令といえる。
同年に発足した琉球政府は、日本本土の法律にならった「覚せい剤輸入、製造、使用等禁止法」(1953年)および「麻薬取締法」(1955年)を制定した(「覚せい剤」の「せい」には傍点がつけられている)。
琉球政府は、布令第89号では規制できない「覚せい剤、らん用による中毒者」が、日本本土と同様に沖縄でも蔓延するおそれがあることから「覚せい剤輸入、製造、使用等禁止法」を立法した、という経緯がある。
また、琉球政府の「麻薬取締法」では、日本本土の「麻薬取締法」とは異なり、大麻が麻薬に含まれていた。
1963年、沖縄で「睡眠薬遊び」が社会問題化すると、USCAR は睡眠薬を含む鎮静剤等も麻薬同様に規制する高等弁務官布令第51号を発令した。
しかし、「麻薬類と日常的な医薬品を同一の法で規制することの不自然さ」(『沖縄薬業史』、1972年)から、琉球政府は1964年に鎮静剤等のみを規制する統制薬品取締法を新たに制定した。
この法律は、USCAR の布令第51号の廃止を前提としていた。
ところが、(琉球政府の法律よりも上位の規定と位置づけられる)布令の廃止はすぐには行われず、当面のあいだ統制薬品取締法は施行不能状態に陥った。
その後の同法の一部改正問題を含めて、琉球政府と USCAR との間に軋轢が生じることになる。
1965年5月9日の『琉球新報』は、「統制薬品法 自治議論 再燃しよう」という見出しで、琉球政府の立法院で「自治権問題と関係するものとして(…)新たな角度から検討することになった」と報じている。
さらに、1965年7月27日に開かれた第28回議会の立法院会議録には、「布令 [第51号] は、沖縄の実情にそぐわないものであり、その廃止を望む住民の強い声を反映して、民立法 [統制薬品取締法] が制定されたにもかかわらず、いまなお、布令を廃止することなく、民立法の実施を一方的に排除することは、住民の意思を無視した布令による直接統治であり、これまで要求し続けてきた自治の拡大にももとるものであるとして強い不満の意の表明がありましたことを申し添えまして御説明を終わります。」という議員の発言が記録されている。
そもそも沖縄は「独立国」ではなく、国際条約で規定された麻薬の輸出入の許可監督権もない。
したがって、統制薬品取締法の議論に限らず、琉球政府とUSCARとのあいだには薬物規制をめぐる軋轢の種はころがっていたと考えられる。
公文書を整理しながら思うのは、少なくとも1960年代前半までは、琉球政府と USCAR とが薬物をめぐってあれこれ交渉していた時代だったということである、軋轢があったにせよ。
その後、1969年にニクソン政権が発足し、薬物戦争(war on drugs)が宣言されたあたりから、好むと好まざるとにかかわらず、沖縄はアメリカが推進する薬物政策に巻き込まれる段階に入ったようにみえる。
1969年には「米軍人、軍属による大麻密輸入が急増」(『沖縄薬業史』)したとされ、税関検査の徹底とともに薬物依存症の治療・リハビリ・教育プログラムが軍関係者のあいだで関心を集めていたようだ。
同時に、沖縄の薬物依存を一掃するための USCAR と琉球政府スタッフとの合同ミーティングが何度か開催された。
そこでは、密輸薬物を発見する手法を学ぶ研修なども実施された。
両者の協力による薬物規制の成果なのか、琉球政府の『薬事概況』を参照するかぎり、沖縄の一般市民の「麻薬中毒患者」は1971年まではごく少数である。
しかし、日本政府は復帰直前の沖縄について「麻薬事犯が多発するとともに悪質化しつつあり、強力な麻薬取り締まり体制が要請されている」(第68回国会 衆議院社会労働委員会議事録第7号 1972年3月16日)として、本土復帰にあわせて1972年に九州地区麻薬取締官事務所沖縄支所を設置した。
その当時、沖縄で薬物依存治療を行っていた精神科医の平良寛によれば、「ベトナムから沖縄に引揚げて来た(…)不良外人はストレス解消を求めてコザ市のバー街へと流れこんでヘロインをばらまいた」と復帰後の状況を報告している(平良寛「沖縄の麻薬中毒患者について」『九州神経精神医学』 23 (3·4), 169-171, 1977)。
復帰前後の沖縄における薬物問題拡大の実像はどんなものだったのか、USCAR および日本政府はどのように対応しようとしていたのか、についてはなおも解明すべき点が多い。
といった内容を基盤にして、秋に開催予定の某学会で発表をするつもりである。
(「税関検査、沖縄、嘉手納空軍基地 [Customs Inspection, Okinawa, Kadena Air Force Base] 撮影地: 嘉手納町 撮影日: 1972年2月」 沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真より)
さて、平良寛論文の「ベトナムから沖縄に引揚げて来た(…)不良外人」という言葉からすると、薬物は国外からもたされたもののようだ。
USCAR も、アメリカ兵が東南アジアから沖縄の基地内に薬物をもたらすことを警戒していた。
1970年代はじめには、沖縄の軍関係および一般の空港や港での荷物チェックを強化している。
上の写真は沖縄県公文書館が所蔵する1972年の嘉手納空軍基地における「税関検査」の様子である。
公文書からは、マリファナ探知犬(marihuana detection dog)も投入されていたことがわかる。
そんなことから、文献調査ばかりでは疲れるし、Kadena Air Force Base に行こうと思った。
基地のなかには入れないだろうが、遠巻きに様子をみるだけでもいい。
調べてみると、「道の駅かでな」に行けば、嘉手納の米軍基地を見渡せる場所があるらしい。
ゆいレールの旭橋駅近くの那覇バスターミナルから名護方面の高速バスに乗り、池武当(いけんとう)という沖縄道の停留所で降りる。
そこから一般道を走る別のバスに乗り換え、米軍施設のあいだを縫うようにしばらく走ると、嘉手納町運動公園入口という停留所に着いた。
道の駅は目の前だ。
道の駅には展望デッキがあって、確かに嘉手納空軍基地を見渡すことができる。
冒頭の写真がそれであり、シルエットとして写っているのは高校か中学かの修学旅行の集団である。
巨大な望遠レンズをつけたカメラをかかえて、滑走路での動きを観察し続ける、いわば航空機オタクっぽい人たちも何人か見受けられた。
なお、道の駅のなかには、嘉手納の歴史を紹介する展示コーナーがあって、勉強になる。
修学旅行の集団も、勉強していたようだ。
(左:嘉手納空軍基地との境界フェンスに掲げられた「米国空軍施設」の看板、2024年3月8日撮影、右上:嘉手納空軍基地に降り立つニクソン副大統領夫妻、1953年11月20日、右下:嘉手納空軍基地に着陸するジェット輸送機 C-5ギャラクシー機、1970年7月9日、モノクロ写真はいずれも沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真より)
道の駅から、嘉手納空軍基地沿いの道をトボトボ歩いて、嘉手納の街のほうまで歩く。
道すがら、基地との境界のフェンスに掲げられた「US AIR FORCE FACILITY 米国空軍施設」の看板を写す(上の写真・左)。
おまけとして、沖縄県公文書館所蔵の転載許可不要の写真から、嘉手納空軍基地に降り立つニクソン副大統領夫妻(上の写真・右上)、と、嘉手納空軍基地に着陸するジェット輸送機 C-5ギャラクシー機(上の写真・右下)を載せた。
フェンスに沿って30分くらい歩いて、嘉手納町役場のあたりまでやってきた。
役場のまえには「嘉手納駅跡地」の碑があった(下の写真・左)。
(左:嘉手納町役場の近くに建つ「嘉手納駅跡地」の碑、右:「道の駅かでな」から、嘉手納空軍基地沿いを歩いて嘉手納町役場方面に向かう 2024年3月8日撮影)
かつて、嘉手納は那覇と鉄道で結ばれていたのである。
「嘉手納駅跡地」には修学旅行生は来ないのだろうが、碑に刻まれていることは勉強になりそうだ。
以下はその全文である(読みやすさを考えて、改行の部分で1行あけている)。
沖縄県営鉄道嘉手納線は1922(大正11)年3月28日に営業を開始し、那覇駅から嘉手納駅まで総延長約23.6Km 沖縄県営鉄道の3路線で最も長い路線でした。
嘉手納地域は嘉手納駅を利用して、沖縄本島中北部地域の農産物等を那覇に輸送する中継地として栄え、嘉手納駅を中心として比謝橋近くまで続く嘉手納大通りでは、本屋・文具店・理髪店・食堂・医院などが軒を連ね賑わいました。
また嘉手納駅には、サトウキビを越来・美里・具志川などからトロッコで、読谷山の比謝・伊良皆などからは荷馬車で運び入れ、そこから側線を使用し沖縄県内最大の製糖工場である沖縄製糖株式会社嘉手納工場へと搬入していました。嘉手納駅の開業により、それまで船による海上輸送であった砂糖製品の運搬が鉄道による陸上輸送に変わるなど、沖縄本島中部地域の産業の発展に大きく寄与しました。
しかし、1945(昭和20)年の沖縄戦により鉄道設備が破壊され、戦後は多くの土地が米軍施設として接収されたため、沖縄県営鉄道は廃線となりました。
2011年2月吉日 沖縄県嘉手納町
今回は以上である。