近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (1) はじめに そして わかまつ共同作業所

学部生、大学院生、大学助手として、まるまる1980年代を東京で暮らした。

大学院では、学部とはまったく異なる領域を専門にしてしまったので、最初の関門である修士論文のテーマさがしには(もちろん論文の作成にも)苦労した。

テーマとして最終的に選んだのは、精神障害者の作業所である。

 

80年代当時、都内のあちこちで作業所が開所しはじめており、自分自身も院生をしながら練馬区内の某作業所で週3日くらい働いていた。

しかし、研究のために作業所で働いていたわけではない。

たまたま、大学院の先輩の紹介で、作業所に顔を出しはじめただけである。

指導員という立場で、利用者と一緒に袋張りや箱折りの作業を黙々としながら、日々が過ぎていく。

レクで花見や吟行、一泊旅行などがあれば、それにも行く。

こういう作業や活動のなかに、論文のネタがころがっているわけではない。

なので、修士論文のためには、東京都下の40か所以上の作業所を訪ね歩いてデータを収集したりした(なお、このM論を短くまとめて投稿したのが「東京都における精神障害者共同作業所の変遷とそのあり方について」『日本公衆衛生雑誌』35(5): 255-261, 1988 という、いまから見ればとても稚拙なデビュー論文である)。

 

あれから30年以上が経過した。

90年代はじめには東京を離れ、国内外を転々とし、研究の対象も変わった。

もはや東京の作業所のことは記憶の底に沈んでしまった。

ところが、昨年、呉秀三のドキュメンタリー映画(『夜明け前』)に関連して東京で何回かイベントがあった際に、何人かと80年代の東京の話をする機会があり、なつかしい作業所の話も出てきた。

出てはきたが、東京では作業所の歴史を語ることができる人も、あまりいないということであった。

精神障害者の作業所は、民間のイニシアティブで設立・運営されてきたので、ちゃんとした記録も残っていないのではなかろうか。

そんなことを強く思い、修士論文作成で集めた資料をコアにしながら、「東京レトロ・1980年代の精神医療史」というシリーズで、昔話を紹介していきたい。

 

まずは、鈴木芳次さんの話からはじめたい。

鈴木さんはもともと東京都立松沢病院の管理栄養士として活躍し、全国精神科栄養士懇談会の代表をつとめた。

1977年に出版された『精神疾患 付・神経疾患の食事』(第一出版)という自著のはじめに、「一般の疾病に関する治療食の著書は数多くあるが、精神障害に関する著書は今日まで1冊も刊行されたことはなかった」と記している(なお、この本は東京・小平の社会福祉法人ときわ会・地域生活支援センターあさやけの伊藤善尚氏から贈っていただいた)。

そして、この本の巻頭に、呉秀三のあの有名なフレーズ「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」が掲げられている。

実は、この「二重の不幸」のフレーズを復活させ、世に知らしめるきっかけをつくった人物こそが、鈴木さんなのである。

呉秀三研究の第一人者である岡田靖雄氏は、呉の上記フレーズを含む私宅監置論文(1918年)を、鈴木さんを通じてはじめて知った時のことを次のように語っている。

 

松沢病院の栄養科に、鈴木芳次さんという篤学の栄養士がいた。鈴木さんははやくからコツコツと歴史資料をあつめており、そのなかに呉秀三・樫田五郎『精神病者私宅監置ノ実況』(1918年、内務省本)があった。それを1963年春に吉岡さん(注:吉岡眞二、当時は松沢病院の医師)およびかれ(注:岡田氏のこと)にかしてくださった。それをよむことは、かれにとっておおきな衝撃だった。「此邦ニ生レタルノ不幸」といった過激なことばをはく人が、東京帝国大学教授にいたのだ(…)この論文がわすれられていたことに、日本精神医学の正体をみた気がした。(…)呉秀三先生伝をかく先輩はだれだろうか、と当時おもい、自分がその任にあたるとは思いもおよばぬことであった。(引用は岡田靖雄『吹き来る風に』中山書店、2011年、原文の漢数字はアラビア数字に変更している。)

 

鈴木さんは、松沢病院を退職されたあとと思うが、府中市で精神障害者の作業所づくりに奔走する。

そして、1986年4月1日に市内のアパートの一室を借りて、「わかまつ共同作業所」がスタートした(下の写真)。

同日付の「精神障害回復者のための共同作業所設立趣意書」によれば、「私達、わかまつ会々員は、昭和57年(注:1982年)12月より精神障害回復者及びその家族と共に関係機関のご理解、ご支援をいただきながら患者家族の数々の悩みに取り組んできております」とあるので、「わかまつ会」を母体として作業所設置の準備が以前から行われていたようだ。

この時の「わかまつ会」の会長は、元・松沢病院総婦長の浦野シマさん(で、鈴木さんの妻)である。

 

(是政荘アパート時代の「わかまつ共同作業所」。が、どこが作業所として使われていた部屋かを思い出せない。1986年8月6日撮影)

 

(上の写真と同じアパートの一角と思われる。1986年8月6日撮影)

 

修士論文のデータ集めで都内の作業所めぐっていたわたしが、この「わかまつ共同作業所」を訪れたのは1986年8月6日だった。

作業所開設から4か月くらいがたっている。

鈴木さんが対応してくれたと思うが、80年代のわたしは「はやくからコツコツと歴史資料をあつめて」いたという精神医療史研究者としての「顔」などまったく知らず、普通の「ご老体」にしか見えなかった。

当時のメモによると、8月10日に「わかまつ共同作業所」関係の会合(「わかまつ会 文化センター祭り反省会」)に出席するために、ふたたび府中市に出かけている。

会合では、「東京都から作業所としての認可を得るのに困難を極めていること、しかし、府中市は認可していく方向なので、9月中には都からも認可されるのではないか云々」が話題ででていたようだ。

当時、作業所が法人格をもっていることはほとんどなくて、自治体の補助金(東京の場合は、都と区・市)でなんとか運営されていた。

そのため、行政の認可は死活問題だった。

 

(東京都および府中市から作業所として認可されたあとに発行された『わかまつ作業所 NEWS』第1号)

 

次いで8月19日には鈴木さんから電話があり、作業所の認可に関する愚痴を聞いたりしたが、その後連絡は途絶えた。

翌1987年1月25日に出された『わかまつ作業所 NEWS』第1号によれば、東京都および府中市から作業所として認可されたのである。

ということは、鈴木さんから作業所関係の冊子は送ってもらっていたことになる。

 

鈴木さんと「再会」したのは、彼が書いた京都・岩倉の精神病者保養所の論文をとおしてである。

その論文の存在を知ったのは、2000年ころだったと思う。

だが、もう一度お会いしようとしたところ、鈴木さんは亡くなっていた。

お伺いしたいことが、たくさんあったのに。

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那覇での『夜明け前』上映会とトークセッションなど

今回は沖縄の話である。

以前のブログで紹介したように、2018年12月22日から同24日まで、沖縄各地でドキュメンタリー映画『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』の上映会が行われた。

22日の那覇での上映会では、上映後のトークセッションで登壇することになっていた。

 

その前日の午後、沖縄県内の障害者関係(「精神」もふくむ)の2つの事業所を訪れた。

私の大学の院生・学生2人も一緒である。

那覇空港で落ち合った、沖縄在住のフリーTVディレクターの原義和さんが、すべて段取りを考えてくれていた(ただ、当日、原さんの車が突然動かなくなったということで、レンタカーを借りることになったのは想定外だったが)。

訪れた事業所とは、沖縄市にある「ワークプラザユニティー」(就労継続支援B型事業所)と宜野湾市の普天間にある「はぴわん」(地域活動支援センター)である。

 

「ワークプラザユニティー」では、事業所の活動などの簡単な説明を受けたあと、職員や利用者の面々と「まあ、お茶でも飲みながら、ゆんたくでもしましょうか」ということになった。

「ゆんたく」とは沖縄の言葉で、「おしゃべり」くらいの意味らしい。

それなりに真面目なことから、とりとめのないことまで、あれこれ話したあと「はぴわん」に移動した。

ここでも「ゆんたく」がはじまった。

かなり鋭い意見交換もあり、座も盛り上がったが、あっという間に時間が過ぎた。

外も暗くなり、沖縄とはいえ外気も少々冷えてきたころ、退散となった。

宿泊先の那覇への帰り道は、ひどい渋滞。

夕方の時間帯は、いつもこんな感じのようだが。

 

翌日は朝から私宅監置小屋の見学にでかけた。

案内役は「おきふくれん」(沖福連、沖縄県精神保健福祉会連合会)会長の山田圭吾さんである。

途中、地元の大学で看護学を学ぶ学生4人と合流。

目的地までの道すがら、山田さんは車中から見えるさまざまな建物、地形や地名などを指差して、ときにはスマホを取り出して資料画像を引用しながら、沖縄の過去と現在について丁寧に説明してくれた。

 

(私宅監置小屋のまえで説明する山田さん、まわりに学生たちと原さん。)

 

私にとっては、私宅監置小屋見学は3度目となる。

監置小屋とその周辺の環境は以前と変わりないように見えた。

ただし、監置小屋のさびた鉄の扉の劣化が進んでいた。

コンクリートの壁との接合部分が腐食したためか、鉄の扉が小屋本体から脱落してしまっていた。

今年になってマスコミ報道も頻繁にあり、監置小屋保存活動への理解も進んだと考えていたのだが、関係者の話を総合すると保存へのハードルはまだまだ高いということだった。

 

午後3時すこし前、沖縄県立博物館での『夜明け前』の上映開始時間までに間に合うべく、会場入り。

予想を上回る多数の来場者。

会場に入りきれず、一部の人たちには入場をお断りする事態になった。

上映終了後のトークセッションの登壇者は、この映画の企画者で、日本障害者協議会(JD)代表などをつとめる藤井克徳さん、監督の今井友樹さん、沖縄の私宅監置を取材してきた上述の原義和さん、そして私である。

『夜明け前』関連のイベントで、関係者が4人も揃ったことはなかったと思う。

 

ところで、その原さんが今回の沖縄でのイベントにあわせて(というわけでもない?)私宅監置の本を出した(下の写真)。

これまでの沖縄に加えて、台湾と西アフリカで取材した「私宅監置」に関する記述もある。

原さんはやや自嘲気味に「テレビ屋が作った本だから、こういうスタイルになった」と言うのだが、だからこそ研究者とは違う語り口で私宅監置を描くことができた秀作といえるだろう。

 

(編著・原義和/解説・高橋年男『消された精神障害者』高文研、2019年)

 

さて、『夜明け前』イベントはここまでにして、以下は沖縄の戦争遺産の話題である。

22日の夜に関係者の懇親会があり、そこで藤井さんに勧められたのが豊見城にあるという旧海軍司令部壕。

不勉強な私は、そのことを何も知らなかった。

これまで、ドイツの戦争遺産には関心があって、ベルリンなどで旧跡を訪れる機会も何度かあった。

だが、足元の、日本の戦争遺産には向き合ってこなかった。

 

というわけで、23日は夕方まで予定はなかったので、その旧海軍の壕に行くことにした。

ネットでバス路線などを調べたが、結局よくわからない。

ゆいレールに乗って赤嶺駅で降りて、そこから歩くことにした。

 

(ゆいレールの赤嶺駅は「日本最南端の駅」らしい。赤嶺駅の次が那覇空港駅である。)

 

スマホの地図をたよりに30分くらい歩いて、海軍壕公園に到達した。

公園の入口に次のような説明があった。

 

海軍壕公園は、那覇市と豊見城市の境界に位置し、那覇市中心部より南へ約3Kmの閑静な住宅地に囲まれた丘の上にあります。
ここは、太平洋戦争末期に、地下深く縦横に掘り巡らされた防空壕の中に帝国海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれた場所で、激戦の末に数千の将兵が無念の玉砕を遂げたことで知られています。
当公園は、旧海軍壕を核として戦争の悲惨さと平和の大切さを訴えていく平和学習の場として整備が進められています。

 

この公園のなかにビジターセンターがあり、そこに壕に通じる地下への入口があった。

どのくらい深く広いのだろうか。

不安と好奇心の入り混じった気持ちで、階段を下へ下へと降りていく。

 

(壕の入口付近。壁に掛けられた千羽鶴が目を引いた。)

 

階段を降りきったところからは、比較的平らな通路になっていて、信号室、作戦室、司令官室、下士官室などを巡ることができる。

幕僚室の壁には、幕僚が手榴弾で自爆したときの痕跡がなまなましく残る。

自決した司令官の大田實を紹介する短時間のナレーションが、繰り返し、繰り返し・・・壕内中で響いている。

そのナレーションに耳が完全に慣れたころ、突然、英語バージョンになった。

どうやら外国人見学者が入場したためらしい。

 

(司令官室。壁には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田實の辞世の句が掲げられている。)

 

壕内の重々しい空気から解放されて、ビジターセンター近くの見晴らしのいい丘の上で休憩(下の写真)。

園内のスピーカーは、素朴な三線の演奏を流し続けている。

すると、心地よい風が吹きぬけた。

12月の風は、地元の人には寒いと感じるのかもしれないが。

 

(ビジターセンター近くの見晴らしのいい丘の上から南方をのぞむ。)

 

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またもや台湾

12月のはじめ、また台湾に行った。

また、というのは、ブログに記事を書いたように、この9月にも訪問したので。

そういえば、9月の台湾行きの際に、台北市内のある新聞社の会議室で、大学(名誉)教授クラスの専門家たちから台湾の精神医療史をうかがう機会があった。

最近になって知ったのだが、その新聞社の記者がこのときの様子を記事している。

参考までにその記事へのリンクは「發生在20世紀的監禁與棄置 被戒嚴掩蓋的台灣精神醫學史」。

 

さて、今回は、台北の中央研究院(歴史語言研究所)で行われた"「殖民醫學再榷:本質與定義的思考」學術研討會"に招待された。

タイトルが示すように colonial/post-colonial medicine がテーマのとても小さな集まりだったが、中華料理店にあるような、文字通りの円卓を囲んで議論する、濃密な一日だった。

 

(台湾総督府立精神病院・養神院の全景写真 出典: 『台湾総督府立精神病院養神院概況』1938年)

 

ここ数年、いわゆる日本本土の精神医療史から少しはみ出して、沖縄や旧外地の精神医療史を調べているのだが、その流れで声がかかったということか。

わたしは、台湾総督府立精神病院・養神院に絡めた演題(Yōshin’in (Yang-Shen-Yuan) and Psychiatry during the Japanese Rule in Taiwan)を発表した。

養神院自体はわりと陳腐なテーマだが、日本人が台湾でその話題を語ることに一定の意義があると考えた。

また、自分なりに今一度この病院の歴史を、日本やドイツの精神病院史と比較しながら整理したいという気持ちがあった。

 

上の写真は養神院の全景である。

この精神病院については、ブログでも少し前に紹介したが、いまはその敷地にマンションが建ち、周りは繁華街。

しかし、かつては田畑に囲まれた鄙びた土地だったようだ。

 

実質的に2日間の台北滞在のうちの1日は上記の会合、もう1日は国立台湾大学の図書館(下の写真)で資料探しをすることにした。

その日が月曜日で、めぼしい図書館のなかで、ここくらいしか開館していなかった。

が、手続をすれば部外者でも簡単に入館できるのが嬉しい。

 

(国立台湾大学の「総図書館(main library)」のエントランス)

 

ところで、図書館5階の特別閲覧室で「謎の老人」に出会った。

「高齢者」では雰囲気が伝わらないので、あえて「老人」と呼ばせてもらう。

優に80歳は越えているだろう、かっぷくのいい老人。

ただ、足元がふらついて、少々歩くのも大変そうだ。

どっかりと、閲覧申し込みカウンターの椅子に座り込み、若い女性スタッフにあれこれきびしい(?)注文を出し、対応が長引いている。

日ごろからここに通い詰めている台北の地元の人に違いない。

 

カウンターが空いたので、日本で事前に検索してあった資料の閲覧を申し込んだ。

おもに養神院関係の冊子類である。

しばらくして、書庫から資料が運ばれてきた。

その資料に目を通していると、「カウンターの人に聞いたんだけど、あなた、日本から来てるんですってねえ」とそのご老人。

いきなり日本語になったので驚いたが、その人は日本人で、目下、台湾に滞在しているらしい。

中国語が堪能なのは、かつて貿易関係の仕事していて、中国語圏を渡り歩いたからのようだった。

だが、今日は、ギリシア語の聖書を見にきたのだという。

 

資料は全コピーしようと思った。

が、カウンターで依頼した文献複写は、明日にならないとできないという。

明日は帰国しなければならない。

で、結局、そのご老人が、後日わたしの代わりに完成したコピーを図書館で受け取り、日本のわたしの大学に送ってくれるということになった。

ありがたいと同時に、多少不安にもなったが、ここは任せるしかない。

帰り際に、「また、台北にきたら、連絡してください。その時は、ビールでも」といって、紙切れに名前と電話番号を書いて渡してくれた。

 

台北滞在中は、中央研究院のなかにある学術活動中心(下の写真)に宿泊していた。

ゲストハウスのようなものである。

中央研究院に行ったことがある人なら、「あーあそこ」と、うなずくに違いない。

日中の最高気温が30度くらいあったから、全館冷房がガンガンと。

部屋のエアコンを切っても、廊下から冷気が入ってくるのだろうか、わたしには寒すぎる。

夜はフリースの上着を着て寝た。

 

(中央研究院の学術活動中心)

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