近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (6) 足立区の3作業所

今回は足立区の話。

1986年の訪問調査時点で、区内には3つの作業所があった。

 

最初に開設されたのが協立作業所である。

足立保健所で行われていた生活相談教室(精神障害者デイケア)の修了生の受け皿として、作業所の要望が高まっていたのである。

保健所や精神障害者家族会が中心となって、作業所の開設準備がすすめられた。

区内の梅田7丁目の民家を借りて、1979年2月に開所。

通所者4名ではじめられた。

1982年4月からは、東京都および足立区から運営費補助を受けることになった。

この時点で、職員は1名、通所者12名であり、作業所は「あしなみ会(足立区精神障害者の家族会)」の運営となる。

同年10月に梅島2丁目に移転し、3階建ての1階部分が作業場となった(下の写真)。

 

(梅島2丁目の あしなみ会 協立作業所、1986年7月9日撮影。)

 

ところで、「あしなみ会」は、協立作業所開設の数年後に、もうひとつの作業所をつくる。

だが、その前に、区内2番目の作業所として、1980年4月に足立区がスタートさせた足立作業訓練所を紹介しておきたい。

足立作業訓練所の最大の特徴は、当時都内で唯一の公立の精神障害者作業所だったということである。

区内には民間の協立作業所が存在したものの、「区立の作業所がほしい」という強い要望が保健所や家族会からあったようだ。

 

訪問時、作業所は保健所分室(下の写真)のなかにあり、和気あいあいと洗濯ばさみ作りの作業などが行われていた。

当時のメモによると;

 

作業をみていると、50代後半くらいと思われる人が話しかけてくる。何年くらい通っているのかと聞いてみると、「4年になります。なかなか就職はむずかしくてね。だいたい毎日通っています」という。

 

そんな会話もあったようだ。

 

(足立区足立保健所分室。このなかに足立作業訓練所があった。1986年7月2日撮影。)

 

ついでに、保健所でもらったパンフレットが下の写真。

 

(足立保健所でもらったパンフレット)

 

では最後は区内で3番目の精神の作業所として、1985年4月にオープンした江北作業所(下の写真)について。

上述したように、この作業所は「あしなみ会」が開設した。

訪問時のメモには、次のように書かれている。

金額のあたりの記述は、作業所で扱っている製品の作業単価のことである。

 

本当に荒川土手のすぐ下。そしてすぐ上では高速道路を建設中。1階は作業場、2階は休憩所兼物置き。(中略)member のお茶当番の人がお茶を入れてくれる。歌謡曲のカセットを聞きながら、みんな作業を黙々とやっている。スプレー 35銭(だっけ?)、造花 大65銭、小55銭、ふくろ5円。円にならない単位をサラリと言われるとなんだか変な気分。帰りは土手を登って帰る。土手の頂上に達して下を見下ろすと、member の誰かが手を振っている。こっちも手を振る。

 

荒川の土手とは…なんとなく哀愁がただようが、その余韻を残しながら足立区の話はおわり。

 

(あしなみ会 江北作業所、1986年7月3日撮影。)

 

(荒川土手から江北作業所の周辺を見下ろす、1986年7月3日撮影。)

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東京レトロ・1980年代の精神医療史 (5) 大田区の4作業所

1980年代の大田区では、たてつづけに4つの作業所がつくられている。

1982年4月開所の糀谷作業所(本羽田1丁目)、1983年10月の大田若草作業所(東六郷1丁目)、1984年10月のミドリ作業所(西糀谷1丁目)、そして1986年2月の雪谷工房(東雪谷2丁目)である。

大田区における作業所開設は、区内の糀谷保健所で実施していた精神障害者デイケアと深く関わっている。

「大田区における共同作業所づくり」(共作連第9回全国集会第4分科会参加レポート)というタイトルがついた、旧式のワープロから打ち出されたと思われる年代不詳の原稿によれば、

 

昭和57年1月、糀谷保健所ディケァ一期生の終了を目前にして、保健婦4人、家族4人、メンバー8人、区議会議員1人(家族の1人が呼びかけたところ、気軽に参加してくれた。)で、足立区の協立作業所と隅田作業所を見学しました。その帰りの話し合いの中で、「ああいうところなら、働いてみたい。」と、メンバーの意見が出されました。そこで、早速、家族会の例会で作業所づくりの協力を呼びかけ、活動を開始しました。[注:当時の保健所関係の資料などでは、day care を「デイケア」ではなく、「ディケァ」あるいは「ディケア」と表記するものが多く見受けられる。理由は不明。]

 

ということで、1982年4月に区内で最初に開設されたのが、糀谷作業所である。

都内のどこの保健所でも同じだったと思われるが、デイケアに通えるのは一定期間(半年とか、1年とか)だけで、その後に日中通所できる場所が求められていたのである。

民間アパートの6畳と4畳半を借りてはじめられた糀谷作業所の最初のメンバーは、デイケア一期生の男性5人と女性4人だった。

仕事は朝9時から午後4時までで、内容はテレビの配線関係の部品づくり、時給は43円。

当初、東京都からの補助金が出なかったので、患者家族から1人1ヶ月あたり4,500円を維持費として徴収していた。

同年10月には、糀谷第2作業所(民間アパート4畳半)も開設されたが、1983年2月にふたつの作業所を統合して、一戸建ての2階を借りる。

 

私が1986年5月に当作業所を訪れて撮影した下の写真は、統合後の糀谷作業所であろう。

大田区らしい下町工場的な雰囲気と言うべきか。

このころの作業所の仕事は、パソコンなどのキーボードのキーのバリ取りとその箱詰め作業だった。

 

(糀谷作業所、1986年5月8日撮影。)

 

だが、糀谷作業所が開設されたものの、作業所へのニーズは高まる一方だった。

上記の「大田区における共同作業所づくり」には、次のように書かれている。

 

[昭和]58年7月22日:ディケァ四期生の家族に、糀谷作業所の指導員が出席し作業所の説明す。参加者9人、作業現場を見学。この時、指導員より、この作業所には、あと2〜3人入れるのみと言われ、気楽に考えていた家族は、愕然となり、新しい作業所づくりの話し合いを、その場で開きました。以後、家族は度たび集まりをもち、また、区議会議員、区当局に対して、要請活動をしたりしながら58年10月1日、若草作業所を開設しました。

 

上で若草作業所と言われているのが、以下の写真の大田若草作業所である。

作業内容は糀谷作業所と同じ。

 

(大田若草作業所、1986年5月19日撮影。)

 

しかし、またもや作業所が足りなくなったようだ。

ふたたび上記の「大田区における共同作業所づくり」によれば、

 

昭和59年9月、ディ・ケァ終了生が糀谷、若草作業所を見学するが、これ以上は入所は無理と言われ、新しい作業所づくりについて話合う。

 

というわけで、1984年10月にミドリ作業所が開設されたという。

下の2枚の写真が、ミドリ作業所に関わるものである。

 

(ミドリ作業が入っているアパート、1986年6月18日撮影。)

 

(ミドリ作業の入口付近、1986年6月18日撮影。)

 

だが、大田区内の作業所づくりは、これで終らなかった。

1985年7月に糀谷保健所デイケア家族会で、上記の3作業所(糀谷、大田若草、ミドリ)を見学したあと、4番目の作業所づくりが具体的にすすむ。

1986年1月、家族や保健師らを交えて行われた第5回の話し合いで、新作業所の仕事の内容について検討され、ひとまずは区内のほかの作業所と同じ、箱詰め作業に決まった。

しかし、「将来的には創造性のあるものをつくり出す仕事をめざそう」という意見にまとまったという。

その新作業所が、同年2月にオープンした雪谷工房である(下の写真)。

あえて「作業所」と名乗らなかったのは、そのへんに理由があるのだろう。

また、同じ大田区内とはいえ、上記の3作業所の立地とは異なり、田園調布に近いという土地柄も影響したのだろうか。

 

(雪谷工房、1986年6月12日撮影。)

 

(雪谷工房付近か、1986年6月12日撮影。)

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東京レトロ・1980年代の精神医療史 (4) 東中野と中野

2018年11月15日、東京都中野区の野方区民ホールで『夜明け前―呉秀三と無名の精神障害者の100年』の上映会が開催された。

NPO法人すばるの35周年の記念企画だという。

同日の2回目の上映のあと、わたしのトークの時間があって、パワポを使いながら私宅監置の解説などを行った。

その時、法人の方々とお話ししながら、「すばる会」というのは30年以上も前に訪問調査した「すばる作業所」から発展したものだということをはじめて知って、ひとり感慨にふけった。

法人関係者のなかには、すばる作業所時代のことを知る人はほとんどおらず、ちょっと寂しかった。

さらに、中野といえば、「あとりえふぁんとむ」のことも記憶の底からよみがえってきた。

というわけで、今回は中野の話である。

 

JR東中野駅(当時JRではなく国電だったが)から徒歩1分のところにある、あとりえふぁんとむ を訪れたのが1986年5月15日。

あとりえふぁんとむ の設立は1974年4月にまでさかのぼる。

都内の作業所(設立当初は自らを「作業所」と考えてはいなかったと思うが)なかでは、古株のひとつである。

おもに革工芸品を作っていて、デパートなどでも販売していることで知られていた。

 

(居酒屋の2階が あとりえふぁんとむ。1986年5月15日撮影。)

 

あとりえふぁんとむ の設立当時の状況について、代表だった山川京子氏は次のように書いている。

 

私事となりますが S46年頃の息子の発病、それに続く家庭の破綻、悪夢の様な日々、私を支えて下さった 1人にやどかりの里の谷中先生がおります。その先生の要請ならばと息子の小康状態の 49年、やどかりの里へ私の未熟な革工芸を教えに通うことになりました。現在の共同作業所の軸ともなったやどかり爽風会メンバーとの初めての出遇いです。その後私が体調をくずし、やどかりへの通所困難となりました折、メンバーの方から希望されて、私宅でならばとお引受けしました。当初やどかりからは 2名、50年春 1名加わり 53年に更に 1名と、この 4名がその後今日まで続いているのです。やどかりでは短かい期間でしたがその間私なりに、やどかりの志向するものを体得したように思えます。49年私宅での工房は、息子の状態などで無理となりました折、私宅に出入りしており、今のあとりえのスタッフの 1人でもあります小須田(姪)が自宅開放を買って出てくれました。(山川京子「あとりえふぁんとむの歩み」『病院・地域精神医学』79: 126-131 (1985)より)

 

ちなみに文中で言及されている「やどかりの里」は、もともと谷中輝雄が1970年に大宮市(現在は、さいたま市)に創設した「中間宿舎」である。

谷中によれば、精神病院に勤務するかたわら、退院後に引き受け手のない患者たちの住まいとして、ある会社の寮を借り受けて一緒に生活をはじめたのが やどかりの里 だったという。

理論的には、「病棟を一つのスモール・コミュニティとして、その中でスタッフ(職員)もそのコミュニティの一員であると、一員である限りには一緒にミーティングを通して、一緒に物事を決めていく」という Maxwell Jones の治療共同体(therapeutic community)の考え方から強い影響を受けているようである。

また「中間宿舎」としてはじまった やどかりの里 だったが、谷中の勤務する病院で廃止されてしまったデイケアを引き継ぐ形でグループ活動も開始した。

その活動メンバーが、上の引用文にでてくる「やどかり爽風会メンバー」なのである。

このあたりの記述は、谷中輝雄編『仲間づくりの方法と実際―精神科領域における―』(やどかり出版、1980年)に詳しい。

いずれにしても、やどかりの里 はわが国における精神障害者地域支援のパイオニア的存在といえよう。

そして、「やどかりの志向するもの」を受け継いではじめられたのが、あとりえふぁんとむ ということになる。

 

(あとりえふぁんとむ で。1986年5月15日撮影。)

 

さて、もらったパンフレットによれば、当時の「年間予定表」および「週間予定表」、「日課予定表」は以下のとおり。

 

(パンフレット「精神障害回復者共同作業所 ATELIER PHANTOM あとりえ ふぁんとむ ごあんない」より)

 

訪問時のメモには、「「作業所」という形態をとってから、事務的なことに追われ出した」という(たぶん山川氏の)発言が記録されている。

個人的にはじまった あとりえふぁんとむ だったが、1981年に中野区から、1982年に東京都からも運営費助成を受けることになったことと関係があるのだろう。

上で引用した「あとりえふぁんとむの歩み」には、行政の援助によって作業所づくりが活発になったことを歓迎しながら、「私の悩み」として「私的な自由さ、のびやかさが、あとりえの骨子と思っていましたので、今後はさまざまな制約で、これらの気持ちをぎこちなくさせるのではないかとの危惧」が述べられている。

 

(あとりえふぁんとむ のすぐ前を中央線が走る。1986年5月15日撮影。)

 

訪問時のメモにもどると、「各自、特に指導もあまり受けずに黙々とやっている。なかなか気に入ったデザインのくつべらがあったので購入(300円)。ラジオ体操をやり、コーヒーを飲んで帰ってきた」なんてことも書かれている。

その後、「くつべら」はどこにいったのか、記憶にない。

 

次は、冒頭で言及した すばる作業所 である。

訪問したのは1986年6月11日。

この時期の作業所は中野区新井2丁目にあり、中野駅から中野サンプラザ方面に向って歩いた(と思う)。

 

(中野駅前で、1986年6月11日撮影。)

 

手書きの「すばる作業所の設立経過」(日付は1985年4月13日)という資料がファイルに綴じられていた。

それによると、たんぽぽ会(精神障害者をまもる連合会中野家族会)は、もともと「区立区営共同作業所設立」と「民間作業所あとりえふぁんとむへの援助」の要望をもっていたようだ。

1982年に「精神障害回復者共同作業所プロジェクトチーム」ができた。
1983年8月、区立福祉作業所が移転したあとに、「精神」の作業所を設立しようと地元説明会をしたところ、予定していた建物に同居する幼稚園の父母会、地元住民や区議からも反対の声。予定していた第2回の説明会も突然延期に。

1984年1月、中野区の保健衛生部から、あとりえふぁんとむ のほかに民間作業所をはじめるなら(つまり、この段階で「区立区営共同作業所設立」は無理だという行政の判断であろう)、運営費を補正予算に計上できるという提案が(たんぽぽ会に)あった。

1984年2月、たんぽぽ会で作業所設置を決め、あとりえふぁんとむは 女性専用、第2(作業所、この時点では「すばる作業所」の名称はない)は男性専用とすることに。

男性専用が気になるが、確かに「すばる作業所運営規約」(1985年4月1日実施)には「この作業所を利用できるのは、原則として中野区内に住む精神障害者(男性のみ)で、50才未満で日常的な社会生活が営め働く意欲をもち、就労することを目的とする者を対象とする」とある。

当時は、あとりえふぁんとむ との役割分担を考え、中野区内の民間2作業所の連携体制を強固なものにしようとしていたのだろうか。

 

(このビルの1階が、すばる作業所だったのか?確信がない。1986年6月11日撮影。)

 

途中の詳細は省くが、1984年6月1日に作業所開所。

作業所の名称を皆で出し合い、すみれ、くれない、流星などの中から、「大空を駆けめぐる”すばる”と決」まったという。

このころの記述から、作業所でおこなう作業選びに奔走していた様子がうかがわれる。

「すばる作業所の設立経過」には、「仕事を発注してくれそうな区内業者をさがし(…)箱折り業者、包装業者、メール封入業者。自転車ではしりまわり、作業内容、工賃など、実地で教えてもらい(…)」などとあり、その欄外に「藤カゴ事件」と書かれている。

妙に気になる。

自転車のカゴのことだろうか。

何の説明もないので意味不明だが、それぞれの作業所設立には、それぞれの「あー、あんなこともあった」という伝説的な秘話があるのだろう。

 

(すばる作業所から中野駅方面にもどる、あるいは中野駅から作業所への道すがら。中野サンプラザと丸井が見える。1986年6月11日撮影。)

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