近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (14) これまで言及しなかった作業所

最初に、前回の「東京レトロ・1980年代の精神医療史 (13) 総武線沿線周辺」で、追加しておきたいことがある。

 

墨田区の「ユニーク・クラブ」の設立当時の状況について、そのあと発見された文献を参考にして、補足をしておきたい。

前回は、“この作業所の当初の仕事は「Tシャツの袋詰め」だったようで、それは上記「メンバーの兄」の仕事でもあったらしい(あるいは、兄がその仕事をさがしてきたということだったかもしれない)”と書いた。

 

が、中村正利・窪田彰・吉田克子「利用者の自主運営による作業所の意義と問題点」『病院精神医学』72: 76-81 (1983) )によれば、“近隣のTシャツプリント工場の社長より、私達に「工場の二階を貸与するので、Tシャツの袋詰をやってもらえないか」との提案があった。(・・・)作業所は約10畳位の広さ、場代は無料、Tシャツの袋詰1枚5〜15円、維持運営については私達に一任、患者の自立の為に自由に使用してもよい、ということ。幸い「友の会」のメンバーも約10人位が興味を持ち、参加する意志が表示された”ということだったらしい。

 

また、同じく「ユニーク・クラブ」について、“当時、職員が2人いたが、所内では「秘書」と呼ばれていた。利用者と職員とのあいだに、権力構造をつくらないという意図だったのだろうか”とも書いた。

 

これについては、中村正利・窪田彰・門倉春子ほか「地域活動における病院化傾向を問う―ユニーク・クラブを通してみた共同作業所問題―」『病院・地域精神医学』79: 90-92 (1985) に、“「秘書」とは、ユニークでは、指導員を、利用者の自主性を尊重し秘書という名称にしている”という注がある。

当時、「秘書」概念はこの作業所のキーワードだったようである。

たとえば、「ユニーク・クラブ」の関係者らによる以下の学会発表(抄録集)のタイトルに「秘書」が登場している。

 

・大井徹・柳牧子・関百合子・中村正利・高畠克子・窪田彰「患者クラブによる自主的作業所に職員(秘書)が入って何が変わったか」『病院・地域精神医学』85: 74-79 (1986).

・柳牧子・大井徹・韮沢明・窪田彰・中村正利・田村恵「共同作業所における秘書と利用者の関係」『病院・地域精神医学』92: 121-122 (1988).

 

海のものとも山のものともつかない精神障害者の作業所が次々に開設されるなかで、作業所の職員と利用者との関係は、それまでの専門職と患者という伝統的な精神医療の世界で了解されていた関係を、根底から不気味に揺さぶるものだったのかもしれない。

職員を「秘書」と位置づけることで開かれるかもしれない、精神医療の新たな地平を模索していたということだろうか(昨今の、制度的には「安定した」就労継続支援B型事業所とは、だいぶ雰囲気が異なっていただろう)。

補足は以上である。

 

さて、今回はこれまで言及しなかった作業所をまとめて紹介したい。

まずは、豊島区の「みのりの家」である。

下の写真にある『出会いの輪を広げて 創刊号』(1986年6月23日に「みのりの家」を訪問した際に購入、1,000円也)のなかの記述を参照して、設立の経緯などをまとめたい。

 

 

「みのりの家」は1978年5月22日にオープンした。

この時期の開設は、都内の精神障害者の作業所としては比較的早いほうである。

南大塚診療所の医師・穂積登氏が、診療所の分院として設立したのがはじまり。

当初は、医療施設で行う精神科デイケアの制度を利用することを考えていたようだ。

しかし、精神科デイケアとしての認可を受けるとなると、「医師を含む職員配置、給食、浴室などの設備、規模の大きさなどの設置基準」が「個人が行えるような限界をはるかに超えていた」。

とはいえ、「場を求めて集まった人達の活動は続けなければならない」と、「みのりの家の設立からその後の二年間の経費は穂積医師の個人的な出資」で賄われたという。

 

設立から2年後には診療所から独立し、「みのりの家運営委員会」の運営に移行したが、運営費の見通しは立たない。

その前年(1979年)度の経費は約700万円に及んでいたが、「殆んどの額を個人(注:穂積医師のことだろう)が負担せざるをえなかった」。

その後、バザーを開いて物品販売を行ったり、賛助会への加入を呼びかけてたりして自己資金を増やしていったが、運営費の1/3くらいしか確保できない。

行政に窮状を訴え続けた結果、1980年には豊島区から補助金を受け、さらに1981年からは東京都による「精神障害者共同作業所通所訓練事業運営費補助金」が交付されるようになった。

こうして、財政的には安定してきたということだろう。

 

筆者が訪問したとき(1986年6月23日)には、文京区に新たに開設する(というか、たぶん開設したばかりで、まだ行政からの補助金はもらっていない段階)の「若草の家」のことが話題になっていた。

朝のミーティングで「(きょう)若草の家に行く人いませんか」と、出張できる利用者(と職員)を募る話し合いが行われていた。

行政から補助を得るために、文京区内に開設した作業所でも実績を積む必要があったのだろう。

ひとつの団体が、区をまたいで別の作業所をつくる話はあまり聞いたことがないが(行政の補助金制度上も面倒なのだろう)、もともとこの「若草の家」は1982年(訪問時にもらったチラシには1983年とある)に練馬区内に作られたもののようだが、文京区内に移転することになったようだ。

だが、1993年に豊島区内にまたまた移転。

 

現在は、「ハートランド若草」となり、かつての「みのりの家」も「ハートランドみのり」として、いずれも社会福祉法人 豊芯会 の傘下の事業として継続している(なお、「若草の家」に関する情報の一部は、畠瀬直子「共生社会実現に貢献する臨床心理学を考える: 都心で精神障害者の自立を支える「みのり実践」」『教育科学セミナリー』35: 37-48 (2004) [関西大学学術リポジトリ] を参照した。ただし、この論文のなかで記述されている、「みのりの家」が1980年に「東京都と練馬区から「心身障害者通所訓練事業補助」の助成を受ける」、および1981年に「精神障害者共同作業所通所訓練事業運営費を東京都、練馬区から助成される」の、「練馬区」とあるのはいずれも「豊島区」の誤りではなかろうか。)

 

次は、目黒区内最初の作業所の「わかば作業所」である。

東京都の資料によれば、設立されたのは1985年12月。

筆者が訪れたのが1986年5月で、まだ「急ごしらえ」感が強かった。

下の写真でわかるように、ある患者家族のお宅の座敷が「わかば作業所」だった。

このお宅の患者も含む数人の利用者とその家族(会のメンバー)が、ちゃぶ台を組み合わせて作った作業台で、ネジを加工する作業を黙々と行っていた。

作業を見守るようなオカメインコが飼われていたので、その写真も撮った。

 

 

設立の経緯は以下のとおり。

利用者のひとりが、上記の「みのりの家」に1年くらい通ったこともあったが、その後入院して中断。

退院後、入院した病院のデイケアに参加していたが、遠方で通うのが大変。

それで、区内の保健所のデイケアに通うことになったが、週1回しか開催されていない。

そんな理由から、作業所を開設することにしたのだという。

筆者が「わかば作業所」を訪問してから、すでに三十数年が経過している。

手持ちの資料を見ながら、作業所のその後がとても気になったが、現在は社会福祉法人 みきの会 の事業に引き継がれているようだ。

 

さて、場所は変わって、国立市の「棕櫚亭(しゅろってい)」。

筆者が修士論文作成のために都内の作業所めぐりをしていた1986年には、まだ開設準備段階だったので訪れることはできなかった(東京都の資料によれば、開設は1987年1月)。

当然ながら、建物の写真もない。

だから、ここで対象とする作業所ではないかもしれない。

しかし、どういう経緯で入手したのか思い出せないが、『はれのちくもり』という、この作業所が出していた通信のいくつかの号が手元にあるので、その一部を紹介したい。

 

『はれのちくもり』の No.1(下の写真を参照) の時点では、「くにたち共同作業所」という名称だった。

最初の部分を書きだしてみよう。

 

いま、私たちは、国立市の谷保駅の近くに民家を一軒借りて、「精神障害者」(と社会一般が呼ぶ人々)のための「共同作業所」を作ろうとしています。以前から話はありましたが、今年(1986年)の10月に準備会が発足して、具体的な活動を始めました。幸い適当な家を貸してもらう約束ができました。11月3日の国立市民祭では、資金集めとお知らせのためのバザーを開きました。今現在は、次回バザー(12月4日)の準備と、大家さんの御理解を頂いての「家」の修理改造とが進行中です。

 

ということである。

 

(くにたち共同作業所設置準備委員会通信『はれのちくもり』No.1 1986年11月29日発行)

 

続く『はれのちくもり』No.2 では、「作業所の名前が棕櫚亭(しろってい)に決まりました!!」とあり、それは「大きなしゅろの木が何本も生えているお家」だからだという。

また、「棕櫚亭は始めっから火の車—'86年大晦日のたのしいたのしい財政報告」という記事によれば、

 

無から有を生じることの、しんどさと楽しさは等価だと実感したこの一ヶ月、目に見えないなにかにつき動かされてきたようだ。目に見えない=必要性なし・・・・ある行政man氏のそんな等式を、目に見えない(からこそ)=必要性あり、の等式にもっていくことが当面のわたしたちの課題であろうか。(・・・)自己資金ゼロからスタートしたわたしたちは、資金づくりのバザーや通信発行を通して出会った人々の有形無形の協力で、やっと1月からの試験開所を迎えるに至った。しかし、改築費の一部負担金40万円については、9名の準備委員の共同出資で、年内の支払いをすませてほっとしているが、1月からの運営資金については、まだ目途がたたない。

 

と、厳しい財政状況が語られている。

以下の『はれのちくもり』No.3 (下の写真)では、しゅろの木のイラストが登場。

作業所に期待をよせる利用者や家族の手記が紹介されている。

この段階でも資金難は続いているようだ。

切手に変えられるという、「書き損じの葉書」を募る記事も書かれていた。

 

(棕櫚亭運営委員会通信『はれのちくもり』No.3 1987年2月11日発行)

 

筆者が持ち合わせている「棕櫚亭」の情報は、この程度しかない。

その後は、社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 の事業へと発展して、現在に至っているようである。

協会のホームページは、結構読みごたえがある。

 

またもや場所は変わって、府中市である。

府中市の作業所としては、以前のブログで「わかまつ共同作業所」について述べた。

実は、ここで紹介する「梅の木作業所」と「わかまつ共同作業所」は、ともに精神障害者の家族(会)の作業所設立ニーズと深く関わっていたようだ。

だが、その設立の過程で家族会内の意見が割れたらしく、1986年4月、折り合いが付かないまま市内に2か所の作業所ができあがってしまった、ということらしい(ちなみに「わかまつ共同作業所」は、現在は社会福祉法人 若松福祉会 の運営だが、そのホームページには、同作業所の開所を1985年11月としている)。

「わかまつ」のほうは保健医療関係者が設立に携わり、その運営も手堅いようだったが、「梅の木」のほうは(訪問時点の筆者のメモによれば)「一応4月からやっているようだが、協力者に恵まれず、また家族会の弱体なこともあって、なかなか運営がうまくいかず苦慮している」状況だった。

 

(ゑびす荘の2階に「梅の木作業所」があった。1986年7月ころ撮影。)

 

訪問後、1986年8月7日に「梅の木作業所」の人と電話で話した時のメモによれば、作業所の指導員が決まり、東京都から助成金を受けられることになったが、運営は、保健所の保健師に手伝ってもらいながら、「府中家族会」が主体で行うということだった。

少なくとも発足時はとても不安定に見えたが、現在は社会福祉法人 白梅会 に事業が引き継がれているようだ。

 

最後に、国分寺市の「さつき共同作業所」を紹介したい。

当時、2階建ての共同住宅(共同住居)「はらからの家」の1階部分の一角に、作業所があった。

下の写真では、「恋ヶ窪荘」の入口に「さつき共同作業所」と「はらからの家」の両方の看板がみえる。

 

(「はらからの家」の一角にあった「さつき共同作業所」。1986年5月25日撮影。)

 

1986年5月に訪問した時にもらった作業所の案内には、次のように書かれている。

 

精神障害の回復途上にある人々に働く場を確保し、集団的労働を通して、主体的に社会参加する事を促し、利用者が豊かで人間的な社会生活を得られるよう就労援助活動を中心とした社会復帰支援を目的として、昭和59 [1984] 年8月に開所されました。国分寺精神障害者を守る会(通称「あゆみ会」)と、共同住宅「はらからの家」、地域の保健婦の方や有志の皆様の尽力により発足し、現在運営委員会を組織し、「あゆみ会」の事業部の一つとして運営されています。

 

続けて、作業内容のことが書かれている。

 

作業内容は、なんとか自主製品をという思案の中、石けん作りを中心として、製袋作業、はがき作りなどに取り組んでいます。石けん作りは、家庭の廃油を回収する作業から始まり、スリルと興奮にみちた製造、切り出し、包装、販売と作業工程が多岐にわたり、各人の個性にあった作業を選べるところに、その特質があります。

 

ということで、当時のメインの作業は石けん作りだった。

訪問時に聞いた話では、「内職は納期に追われるし、工賃は安いし」「もっと地域に広がりがもてるような」ものとして、最初から自主製品を考え、それが石けん作りだったそうである。

下の写真は訪問時にもらった「無公害石けん販売中」のチラシである。

「原料は何と てんぷら油!!香料、凝固剤 etc. 害になると言はれる薬品は いっさい使用していません だから安心して使えます 」と。

なつかしい、と感じられる人もいるのではないか。

 

(「無公害石けん販売中」のチラシ)

 

目下、「さつき共同作業所」は、社会福祉法人 はらからの家福祉会 のもとで事業が継続されている。

| 東京レトロ | 14:16 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (13) 総武線沿線周辺

新型コロナの影響で、諸事に忙殺されている人も多いと思うが、息抜きに読んでいただきたい。

今回は東京の東部、総武線沿線周辺の精神障害者作業所にスポットをあてる。

まずは、墨田区から。

 

区内最初の作業所は、「隅田作業所」である。

訪問時のメモによれば、設立のころの様子は次のとおり。

1980年春、墨田区の精神障害者家族会に所属する家族の患者が、病院から退院したものの「行きどころ」がない。

そこで、足立区の協立作業所(まえのブログを参照)を見学するなどしたあと、同年7月に患者本人と家族とでまずは作業所を開いた。

開所後、最初の1、2か月は作業のための内職を探すことに奔走したが、江東区の保健婦さんが墨田区に見学に来た際に、内職を見つけてくれた。

次第に利用者が増えて、手狭になったので、何度か引っ越した。

ここに越してきてからは、家族会の人たちの作業所へのかかわりは少なくなっている。

当初は電気掃除機の部品の組み立てをやっていたが、現在はおもちゃ(飛行機)の組み立て、文房具の組み立て、文房具の箱折りをしている。

ということで、私が訪問した時には納品に追われて忙しそうで、職員も必死で作業をしていた。

 

(写真:上の2枚は隅田作業所の全体。下左は作業風景。下右は作業所で飼われていた犬。)

 

典型的な下町の作業所という感じだったが、現在はどうなっているのだろうか。

ネットで調べてみると、写真の場所からは移転したようだが、「特定非営利活動法人 とらいあんぐる」が運営する「隅田作業所」として継続している。

 

さて、次は「ユニーク・クラブ」である。

資料によれば、開設は1982年6月、東京都からの助成金の開始は1985年度からである。

この作業所の起源は、1978年に東京都立墨東病院でスタートした日本で最初の精神科救急事業に、当院の医師だった窪田彰氏が携わったことにあるようだ(以下の記述は、窪田彰「街を私たちの街に―多機能型精神科コミュニティとしての錦糸町モデル―」第105回日本精神神経学会総会 精神医療奨励賞受賞記念講演、2009年を参照した)。

 

窪田氏によれば、精神科救急病棟では、短期間に「退院したものの仕事はなく、する事もなく過ごしているうちに服薬中断し、再発再入院する患者さん」が絶えないということで、「とにかく何か街の中に通える場がほしい」という思いから、1979年に通院者クラブ「墨東友の会」を立ち上げ、さらに1年後には「墨東病院近くの蕎麦屋の3階に15畳ほどの部屋を借りて、出会いの場・憩いの場「友の会」と名付けたクラブハウスを開設」した。

それから、1年が過ぎて、「今度は退屈だから仕事をしたいというメンバーが現れ、議論の末あるメンバーの兄が経営する工場の一角に、初期の共同作業所が生まれ」たという。

 

この「共同作業所」が、「ユニーク・クラブ」だろう。

1986年5月の訪問時には、作業所設立にまつわる話をあまり聞けなかったが、上記の窪田氏の講演記録からその経緯がよくわかる。

ただ、窪田氏はふれていないが、この作業所の当初の仕事は「Tシャツの袋詰め」だったようで、それは上記「メンバーの兄」の仕事でもあったらしい(あるいは、兄がその仕事をさがしてきたということだったかもしれない)。

下の写真の作業所のパンフレットの表紙にTシャツのイラストがあるのは、そういう理由からと思われる(訪問時にそう説明されたかもしれない)。

また、写っている建物は、初期の「工場の一角」から引っ越してきたあとのものだろう。

当時、職員が2人いたが、所内では「秘書」と呼ばれていた。

利用者と職員とのあいだに、権力構造をつくらないという意図だったのだろうか。

 

(左の写真は、1986年5月22日撮影)

 

現在、「ユニーク・クラブ」は、「社会福祉法人 おいてけ堀協会」が運営するいくつかの事業に引き継がれているようだ。

その事業は、「就労移行支援事業 ユニークジョブサポート」、「就労継続支援B型事業 ユニークジョブサポートビー」、「自立訓練・生活訓練事業 ユニークがらん堂」、「就労継続支援B型事業 ユニーク工芸」というように、「ユニーク」の名前を冠しているものが多い。

1986年に訪問した際に「ユニーク」の由来を聞いたところ、「ユニーク工芸に属しているから」という答えだった(が、それ以上のことは聞きそびれた)。

上記「就労継続支援B型事業 ユニーク工芸」は、「ユニーク・クラブ」よりもあとにできたものだろうから、別物と思う。

今となっては、かつての「ユニーク工芸」が何だったのか確かめようがない(「Tシャツの袋詰め」と関係がある会社かもしれない)。

 

次は江戸川区。

1986年当時、区内の作業所は「小岩作業所」(下の写真)のみ。

おもに小岩保健所のデイケアを終えた精神障害者のために、1983年1月に作業所を開設。

「小岩作業所案内 昭和60年度」には、「小岩作業所は家族会、保健所、江戸川区健康部その他多くの方々の努力と後援によって開所されました」とある。

また、作業所の運営は、「江戸川区内の精神障害者を持つ家族の会 あけぼの会」の理事会が行うと。

 

(ビルの階上、3階?が「小岩作業所」だったと思う。1986年5月10日撮影。)

 

訪問時に職員から聞いた話では、作業におわれて、レクリエーションなどを行う余裕がないようだった。

というわけではないのだが、ハンガーの組み立て作業をやらせてもらった(下の写真)。

手伝うというよりも、足手まといだろうが。

 

それにしても、この時に「小岩作業所」で写した写真はほかにもあったはず。

自然な作業風景で、しかも利用者の顔がちょうど見えない感じだった。

精神の「作業所」というものの様子を伝えるのにいいと考え、ネガ・プリント写真からスライド・フィルムをつくり、当方のはじめての学会発表で投影した(デジカメ、PowerPoint などなかった時代、1980年代後半に長崎で開かれた日本公衆衛生学会での話)。

だが、あの写真はどこにいったのか。

どうしても見つからない。

 

(ハンガーの組み立て作業をやらせてもらった。)

 

現在は「特定非営利活動法人 ワークあけぼの会」の運営する「小岩作業所」として、江戸川区内で事業を継続していると思われる。

 

最後は江東区である。

都内で作業所訪問調査をしていた時点では、江東区内には「のびのび第2作業所」(1983年4月設立)と「のびのび第3作業所」(1986年4月設立)があった。

「第2」、「第3」というからには、「第1」があると考えるのが自然である。

実際、知的・身体障害児/者のための「のびのび作業所」が存在していたようだが、これらの関係がわからなかった。

当時の調査メモによれば、1986年9月10日に江東区の精神障害者家族会の関係者に、電話でこの件について話を聞いており、「のびのび第2・第3作業所 と のびのび作業所 とは直接関係はない。区内で のびのび作業所 が先行してやっていたので、その名称を貸してもらった程度」という返答をもらっている。

「のびのび作業所」のほうは、現在は「社会福祉法人 のびのび福祉会」の事業として続いているようだ。

 

「のびのび第2作業所」と「のびのび第3作業所」に話をもどしたい。

1986年5月に第2作業所を訪れ、設立の経緯などを聞いた。

当初は、区内の精神障害者家族会が作業所の運営に関わっていたが、次第にその活動性が低下してきたため、運営委員会組織を立ち上げて、作業所の存続をはかったという。

その後、「専門的」な運営体制を導入することになったようである。

職員には研修を課し、「ケース担当制」ということで、利用者の担当は各職員に振り分けた。

そして、「研究的な職場にしたい」と語る職員の言葉が印象的だったが、それが果たして作業所の利用者にとってプラスなことなのか、と思った。

 

(「のびのび第2作業所」、1986年5月21日撮影。)

 

「のびのび第3作業所」を訪れたのは、第2作業所の訪問から3か月くらい経過した1986年8月(9月だったかもしれない)のこと。

訪問のアポの前日、念のために確認の電話を入れたら、「明日は人手が足りなくなるので都合が悪い」と、突然キャンセルになった。

そこで後日電話したら、「いま作業所内が、夏休み明けということもあり、ガタガカしているので、見学者の受け入れはできない」と言われた。

訪問者は歓迎しないということなのだろうか。

 

ともかく、第3作業所を訪問して、「研究的な職場にしたい」の意味がよくわかった。

職員から、いろいろな資料を渡されて、「アカデミック」な話を聞いた。

そのひとつに、下の写真のような用紙があった。

利用者ひとりひとりのライフイベントを書きこんで、何やら測定して、計算して、分析して、学会あたりで発表するデータを取っているようだった(おそらく、この時代のデータの一端は、「精神障害者地域ケアにおける共同作業所機能に対する要求水準」というタイトルで発表された、第6回日本社会精神医学会の抄録集(1986年)に反映されているだろう)。

利用者のデータをとって、今後のケアに役立てようという意図はわかるが、地域の作業所がやることなのだろうかという違和感が残った。

 

("Life Event Scale" 用紙の一部。)

 

かつての「のびのび第2作業所」と「のびのび第3作業所」は、現在は「社会福祉法人 おあしす福祉会」の事業として継続していると思われる。

 

| 東京レトロ | 12:03 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (12) 北区、板橋区 および 新宿区補遺

今回は板橋区と北区の作業所である。

また、以前のブログで新宿区については紹介したが、追加したいことがある。

 

最初に北区から。

1986年ころに東京都立精神衛生センターが作成した「共同作業所名簿」では、北区内にある精神障害者の作業所は「あゆみ共同作業所」1ヵ所のみ。

精神の作業所として東京都から認可されたのは1984年だが、知的障害者の作業所としての歴史は古く、1971年にさかのぼる。

訪問時にもらった「あゆみ 福祉 共同作業所」(1985年4月作成)というタイトルがついた手書きの資料によれば、

 

昭和46 [1971] 年6月 在宅精神薄弱者の親が集まり 北区の状況を訴え、広く皆さんと共に作業所の設立、及び会の発足を計り、46年11月 北区愛の会の発足を見ると同時に上記場所 [北区十条仲原] に於いて、作業訓練所を設立し(・・・)

 

と書かれている。

この作業訓練所は、別の資料(たとえば、東京都福祉局心身障害者福祉部福祉課『区市町村における昭和59年度障害者福祉施策の概要』)に出てくる「あゆみ福祉作業所」のことだろう。

ところが、1977年の東京都心身障害者生活実習所条例(条例第15号)にもとづいて、同年4月に北区にも区立の生活実習所が開設された。

生活実習所とは、「障害の程度の重い心身障害者に対して、その心身の発達を促進し、社会生活能力を開発するために必要な訓練を行う」通所施設である。

すると、1978年から1980年にかけて、「あゆみ」の利用者のほとんどが生活実習所に通うことになったという。

 

精神障害者を受け入れはじめたのは、1980年12月だった。

上記の「あゆみ」の資料には、「当時北区には、精神障害者の為の社会復帰訓練施設は全然ありませんでした。(・・・)福祉作業所ではありましたが、精神障害者本人、家族、関係機関からの入所希望は増加する一方でした」とあり、1985年4月時点で、(知的障害者の)福祉作業所の通所者は8名、(精神障害者の)共同作業所の通所者は20名と記述されている。

前回の練馬区の「やまびこ第2作業所」と「大泉学園実習ホーム」の設立初期にみられたような、知的と精神の障害者の「混在」である(もちろん、補助金制度上は分けられていただろうが)。

 

下の写真は1986年当時の「あゆみ共同作業所」の写真だが、入口の看板を目を凝らして見ると(文字ではうまく表記できないが)「あゆみ福祉・共同作業所」となっていて、「福祉」と「共同」とが併記されている。

 

(あゆみ共同作業所、1986年7月撮影。カメラの光漏れでフィルムが感光し、日付の部分が読めない。)

 

ネットで検索してみると、当時の場所からは少し移動しているようだが、「あゆみ共同作業所」は同じ北区十条仲原の「社会福祉法人あゆみ ワーク・スペース・ポピー」として現在も継続してるものと思われる。

 

次は板橋区である。

区内で最初の精神障害者の作業所は、1982年4月に設立された「こもね作業所」である。

筆者が訪問した時の所長は、同じ区内の精神科の病院で医療相談室の室長などを歴任した人で、作業所の創設者でもあったと思う。

創設のころには知的障害者も作業所を利用しており、むしろ知的障害者の作業所としての補助金で運営されていたようだ。

 

やがて区が施設を整備し、知的障害者はそちらに移っていった。

東京都の資料(東京都福祉局障害福祉部『昭和60年度 心身障害者福祉施策の概要』)に掲載されている、1982年に板橋区が設置した「板橋小茂根生活実習所」のことだろうか。

同じく東京都の別の資料(「共同作業所別事業計画概要及び審査結果」)によれば、「こもね作業所」は1984年度から「精神障害者共同作業所」として都から補助金を受けている。

 

(こもね作業所、1986年5月29日撮影。)

 

その後の「こもね作業所」であるが、「NPO法人ベアーフレンズ」が運営する同名の作業所として継続していると思われる。

1986年当時の板橋区小茂根から、区内の別の住所(熊野町、法人名は地名から?)に引っ越しているようだが、グーグルマップのストリートビューで現在の作業所の建物をよく見ると、上の写真とまったく同じような「こもね作業所」の看板がかかっていた。

もし、当時からの看板を使い続けているとしたら、すごい話ではなかろうか。

 

板橋区の精神障害者の作業所として、「こもね」の後に登場したのが「JHC板橋」である。

下のパンフレットにあるように「JHC」とは、Joint、House、Cosmos の頭文字からきている。

1983年に、「精神衛生・医療の現場の社会福祉実践者」が JHC板橋運営委員会を結成し、1984年9月には大山作業所を開いた。

1985年度からは、東京都と板橋区から補助金を交付されている。

1986年3月には、大山作業所が入っている物件の改築工事にともない、一時的に移転していた区内の志村の建物で、志村作業所も設置した。

1986年8月に筆者が大山作業所を訪問したときには(つまり、改築後に再入居した大山作業所を訪れたことになる)、JHC板橋運営委員会が「JHC板橋」を運営し、傘下に大山作業所と志村作業所があるという構造だった。

 

東京都における、少なくとも初期の精神障害者の作業所のでき方は、家族・家族会を母体にしている、あるいは知的障害者の作業所から派生した、というケースが多いなかで、「JHC」のような登場のしかたは新鮮だったのではなかろうか。

その後の「JHC」の活躍はめざましく、検索すればすぐに関連文献などは見つけられるだろう。

なので、これ以上は詳述しない。

現在は、「社会福祉法人JHC板橋会」が、上記作業所を運営している。

 

(JHC板橋・大山作業所でもらったパンフレット)

 

(JHC板橋・大山作業所、1986年8月27日撮影。)

 

最後に、冒頭で述べた新宿区の追加である。

以前の記事で、同区内の「ムツミ作業所の資料がまったく残されていない」と書いたが、いくつか資料が出てきた。

下の写真は、作業所開所(1985年9月)から8か月後くらいに訪問したときのものと思われる。

 

(ムツミ作業所。左の写真の建物2階が作業所で、右の写真が作業所の様子。1986年5月8日撮影。)

 

また、下の写真は「ムツミ第2作業所」が開所した時のお知らせ(一部)である。

 

(1987年2月の「ムツミ第2作業所開所のお知らせ」。このころ、「手書き文字」が「ワープロ文字」に駆逐されていく過渡期だった。)

 

この第2作業所が、現在は「社会福祉法人東京ムツミ会 ファロ」として継続しているようである。

| 東京レトロ | 08:46 | comments(0) | - | pookmark |
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