近代日本精神医療史研究会

Society for Research on the History of Psychiatry in Modern Japan
第23回日本精神医学史学会開催のお知らせ

大会長:細川 清(原尾島クリニック)
会期:2019年10月26日(土)〜 10月27日(日)
会場:岡山大学 鹿田キャンパス内 地域医療人育成センターおかやま(MUSCAT CUBE)
     〒700-8558 岡山県岡山市北区鹿田町2-5-1
     http://www.okayama-u.ac.jp/tp/access/access_5.html
大会テーマ:「病態変容の歩みを史実に探る」

 

<シンポジウムおよび講演の予定>

 

特別講演:鈴木國文(松蔭病院)「モダンの裂け目から見る精神医学史」(10月27日)
会長講演:細川 清(原尾島クリニック)「てんかんの歴史集成」(10月26日)
会長指定講演: 寺田整司(岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 精神神経病態学)「 大学病院精神科の歴史(1)…岡山大学」(10月26日)
シンポジウム機А崋栖誼碓模 崩壊の歴史」(10月26日)
 松下正明(東京大学名誉教授)
 大前 晋(虎ノ門病院)
 武田俊彦(慈圭病院)
 古茶大樹(聖マリアンナ医科大学 神経精神科学教室)
 宮本聖也(桜ヶ丘記念病院)
シンポジウム供А岼媼云祿欧ら考える意識」(10月27日)
 兼本 浩祐(愛知医科大学医学部精神医学講座)
 深尾憲二朗(帝塚山学院大学人間科学部心理学科)
 酒井 正樹(岡山大学名誉教授)
 宮内  哲(国立研究開発法人情報通信研究機構 未来ICT 研究所)

 

これ以上の詳細は学会のHP:http://jshp.blog20.fc2.com/

| おしらせ | 08:24 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (9) 八王子といえば「わかくさ」

1986年7月24日に八王子の わかくさの家 と わかくさ富士森の家 を訪れたようだが、どこから、どうやって行ったのか、ルートをまったく覚えていない。

まあ、新宿あたりから中央線に乗ったんだろうが、その時はじめて八王子の地に降り立ったはずである。

 

当時のメモによれば、訪問した日、その数日前に開催したバザーの後片付けで職員の人は忙しく、外に出ていたりもして、あまり話を聞くことができなかった。

その代わり、というか、作業所の利用者にあれこれインタビューをした、とある。

どうやら、資料として保存していた下のチラシが、そのバザーのものらしい。

 

(1986年7月20日に わかくさの家 が主催して行われたバザーのチラシ。)

 

わかくさの家 でもらった資料(「わかくさの家の経過と現状について('85.10)」)から、作業所の歴史をたどってみたい。

保健所デイケア→家族会発足→作業所設立、という流れはこの時代の東京の典型的なプロセスだが、八王子も例外ではなかった。

ただし、この資料の冒頭には、”当「わかくさの家」は東京の郊外、八王子という精神病院が21という世界的にも類をみないような地域の中で、運動が始まり、現在に至っています”という、(精神医療関係者のなかではお馴染みのフレーズになっていた、世界的な精神病院過密地域という)「特殊事情」に触れることも忘れてはいない。

 

まず、1980年から八王子保健所ではじめられたデイケア(社会復帰促進事業)の参加者家族を中心に、地域家族会の必要性が話題になる。

その結果、1982年4月に会員数30人ほどで「わかくさの会(八王子市精神障害者家族会)」が発足。

会員は家族だけではなく、市内の医療関係者も多く含まれていたのが特色だという。

家族会が発足すると、「デイケア終了後、行き場がなくて困っている」「退院はできたが、就職はおろか、外へでるきっかけさえ持てず、家に閉じこもっている」という声が家族からあがる。

やがて、医療関係者の協力などもあって、勉強会、他地域の作業所見学、資金作りのためのバザー開催、作業所設立委員会の発足となり、その委員会のなかで、作業所の場所探し、職員の採用、利用者の募集、作業内容の検討などなど作業所開設の具体的な準備が進められていく。

委員会の発足から5ヶ月で集めた約200万円をもとに、元・碁会所であった民家を借り、1983年9月に利用者5人・職員2人でスタートしたのが わかくさの家 である(下の写真)。

 

(八王子市本郷町の わかくさの家。1986年7月24日撮影。)

 

次いで、1985年6月には、2番目の作業所として わかくさ富士森の家 が開所。

こちらの建物は、かつての八王子の地場産業を反映しているというべきなのか、元・機織り工場を改造したものである。

30件以上の不動産業者をたずねあるいて、やっと確保できた物件だという。

 

下の2つの写真が、私が訪れた時の わかくさ富士森の家 である。

確かに工場の趣がある。

特に覚えているのが、作業として自転車のリサイクルを行っていたことである。

これまた、訪問時にもらった別の資料(「シンポジウム資料 わかくさの家 '86.3.1」)には、いくつかの作業活動が紹介されている。

その筆頭にあげられている「自転車リサイクル」については、「一般市民・団地自治会より不用自転車の提供を受け、サビ取り、軽い修理を行っています。本来、リサイクル運動は、物の価値を見直し、人間性回復を目指す市民運動ですが、障害者運動とも一脈通じるものがあり、力を入れたい作業です」と、各種「運動論」の思想的なつながりに言及するほど、作業としては重要な位置にあったようだ。

 

(八王子市台町の わかくさ富士森の家。1986年7月24日撮影。)

 

(わかくさ富士森の家 の中には、自転車リサイクルのための部品があちこちにあった。1986年7月24日撮影。)

 

最後は、1986年当時のパンフレット(下の写真)。

 

(1986年当時のパンフレット。)

 

東京都の資料によれば、「わかくさ」はその後も作業所を新設している。

リサイクルわかくさ(1987年4月、八王子市日吉町)、わかくさ萌(1988年4月、八王子市小門町)がそれである。

途中経過は省略するが、現在は 特定非営利活動法人わかくさ福祉会 に事業が引き継がれているようだ。

| フリートーク | 16:19 | comments(0) | - | pookmark |
東京レトロ・1980年代の精神医療史 (8) 杉並・世田谷あたりの作業所

はじめに杉並の話から。

訪問調査時点の1986年7月には、区内の精神障害者の作業所は「あおば作業所」(東京都の書類には「すぎなみあおば作業所」という記載もあり)のみだった。

区内の精神障害者家族会が設立母体である。

作業所の会報『GL まんすりぃ』(創刊号、1986年6月)によれば、この作業所が「杉並共同作業の会」の名前で発足したのは1982年8月、高円寺の「心身障害者集会所」を拠点にしてはじめられた。

1984年9月あたりからは、柳窪の「障害者福祉会館」でも作業所活動を開始。

1985年8月には、高円寺と柳窪の2つの作業所を一本化すべく、いったんは家族会の会長宅に集約し、1986年4月からは本天沼に移転した(下の写真)。

1984年には杉並区から、1985年には東京都から助成金を受けている。

 

(杉並区本天沼の あおば作業所 が入っていた建物。学習塾と同居していたようだ。1986年7月30日撮影。)

 

ちなみに、杉並区内の2番目の作業所は1988年1月に永福に設立された「すぎなみ151」である。

調査した時点では、まだ存在していなかった。

 

以下は世田谷の作業所の話。

訪問調査時点に存在していた作業所は、「ちぐさ作業所」「さくら美術工房」「ウッドペッカーの森」の3ヵ所だった。

 

ちぐさ作業所は、昭和大学付属烏山病院の社会復帰後援会、通称「ちぐさ会」が、設立した。

この ちぐさ会 とは、烏山病院のスタッフと あかね会(烏山病院患者家族会)の会員らの賛助会員で構成される組織である。

1985年5月に ちぐさ作業所 の開所式が行われ、実際に作業所がはじまったのは同年7月から。

作業所の土地は烏山病院に隣接しているが、かつてはそこには都営住宅が建っていたという。

その土地が、東京都から昭和大学に返還される交渉のなかで、社会復帰関連の施設を作ることが構想されたようである。

他方、1978年11月に烏山病院にデイケアセンターが設置されており、治療やリハビリの延長に位置づけられるものとして作業所設置の必要性が議論されていたという(以上の記述は、ちぐさ会 が1985年8月に発行した『ちぐさ会会報』の第5号を参照している)。

 

(手前のプレハブの建物が ちぐさ作業所。総予算1,200万円で建設したという。後方の建物は、烏山病院と思われる。1986年6月5日撮影。)

 

なお、開設当時の作業所の様子は以下の写真のとおり。

 

(昭和大学付属烏山病院社会復帰後援会(ちぐさ会)発行『ちぐさ会会報』第5号、1985年より)

 

次は さくら美術工房 である。

この作業所は、世田谷区の精神障害者家族会(さくら会)が1985年9月に開設した。

さくら会が1988年に発行した自身の家族会の『二十年のあゆみ』によれば、家族会活動は1967年にまでさかのぼる。

1969年7月には「さくら会役員紛争」があり、「家族会運動論と診療論で役員分裂」の状態に陥ったものの、同年11月には「さくら会の再建」があり、「第一回家族会」が開催されたと書かれている。

『二十年のあゆみ』に祝辞を寄せている加藤伸勝(当時は東京都立松沢病院・院長)は、「(さくら会の)再建に向けて立ちあがった中村会長や多くの同志の皆さんの例会を通じての勉強会や積極的な行政への働きかけが本会を発展させたものでした」と述べ、「なによりもすばらしいのは、「さくら美術工房」という共同作業所の運営だと思います」と続ける。

 

(さくら美術工房は、このマンションの3階の1室に。1986年6月4日撮影。)

 

加藤が言及している中村会長とは、さくら会のごく初期から会長職にあった中村友保である。

中村は作業所の構想段階で、「部品の組立ても、付録の袋づめも、お金にはなりますが、(中略)欠けているものは創造性ではないですか」、「何か夢のあるものを作ることで、その創造性が少しでも生まれませんか」、「牛乳パックで和紙を作るというのはどうですか」、「あちこち、見学に行っているんです、教えてもらってもいます」と語っていたようだ(『二十年のあゆみ』に寄稿している吉川武彦の「手漉き和紙のはがきと私」より)。

「○○作業所」ではなく、「美術工房」と命名したところに、中村のこだわりが感じられる。

 

さくら会の会報『さくら会だより』(No.197、1986年6月)には、次のような記事がある。

 

牛乳パック廃品利用の、手すきはがきが、テレビで放送されてから各地で制作しておりますが、当工房も昨年9月開設以来、毎日10人位の方が楽しく作業に励んでおります。出来上がった「手すきハガキ」は、ご自分で描かれる方には、「白」を、額装にしてお部屋に掲げられる方には、工房専属の「はがき絵」描きのグループが美しい季節絵を、描いた作品が出来ております。(白・1枚50円、絵・1枚100円)

 

確かに当時は、牛乳パックからの和紙作りが流行っていたと思う。

訪問調査で さくら美術工房 を訪れた際に、わたしも葉書を購入した(以下の写真)。

2枚がセットになっている絵付きの葉書で、200円也。

 

(さくら美術工房で購入した手すき和紙のはがき)

 

最後は、ウッドペッカーの森。

1985年10月、世田谷区の梅丘保健所デイケア利用者の家族宅に開設された。

訪れてみると確かにそこは個人宅で、そのなかの1部屋が作業所のスペースだった。

まだ、はじまったばかり、という雰囲気。

作業所の人に話を聞くと、なにぶん住宅街なので作業所を開くのに適当な場所がみつからないが、いずれ引っ越したい、ということだった。

 

(ウッドペッカーの森は、個人宅の中の1室にあった。写真は、そのお宅の近所の光景。1986年6月19日撮影。)

 

ということで、その後が気になったのでネットで調べたところ、当然ながら個人宅からは引越し、現在は NPO法人ウッドペッカーの森 として継続しているようだ。

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